あれは、事故だ。あえて事故と言おう。
決して他意があったわけじゃないし、下心があったわけでもない。
事故だ、そう自分で割り切る。割り切ったはずだ。
だが時折、オレは遠くからレティを見つめて、無意識に自分の唇に手で触れることがある。
忘れろと言われても、忘れることができない事実があった。
柔らかい唇が自分の唇と触れ合ったことを。
心地よいと感じてしまったオレは。
※
イグニスside
オレの意思とは無関係に水面下で決められた婚約。勿論、レティとて直前まで知らなかった事実だ。ノクトの結婚と同時に進められる予定だった。降嫁するにしても家柄が相応しくないと王女としての今後にも影響が出ると考えられたらしく、選ばれたのがスキエンティア家。将来王となるノクトを支える役目を頂いたオレならレティの相手にも申し分ないとの理由。他にもあったらしいがオレには寝耳に水の話だった。幼馴染として接してきたが、オレはレティの全てを知っているわけじゃなかった。なんせ陛下の愛娘。幼い頃はノクトがレティに会いに行くというのにくっ付いて部屋を訪問していたに過ぎない。
普段は許可がある人物でなければレティに会うことなど許されなかったのだ。
一人と一匹(クペ)と過ごすことが多かったレティは、驚くほど博識で英才教育を受けてきたオレでさえ舌を巻くこともあった。ただ色々と予想外の行動を起こすことでトラブルメーカーではあったが、それでもレティは城の使用人たちに慕われていた。
それは彼女の人柄にもよるのだろうが、オレにもその理由はわかる。憎めないのだ。彼女の起こす問題がたとえ酷いものだったとしても、それは必ずちゃんとした理由がある。だが最初の時点でそれは分からず叱られるというパターンから始まってしまう。それでもレティは自分から理由を打ち明けようとしない。だから対外説教が終わった後でクペがこっそりと理由を打ち明けにくるのだ。レティは悪くない、と。
ますますオレには理解しがたい存在だった。
どうして大人たちに理由を放さないんだとオレは尋ねたことがある。
するとレティはケロッとした顔でこういった。
上手く世の中を渡るための処世術を学んでいる途中だからその実験だよ。
いろんなパターンの大人がいるってことを知るためでもあるしね。
同年代とは思えない口ぶりにオレはますますレティーシア・ルシス・チェラムという少女がわからなくなった。
見た目は可憐で儚げな印象でありながら内面は大人顔負けの知識と吸収力そして影響力を兼ね備えた、王女という身分には収まり切れない彼女。オレはますます彼女を敬遠しがちになった。自分が理解しがたい相手だからだろうか、それとも別の理由だったのか今でもわからないが。年頃になった頃、レティはますます書物室に篭り勝ちになったと人づてで聞いた。何か夢中で読み漁るうちに夜が明けてしまうことも多々あったとか。
王女という身分を嫌がりそれから逃げようと必死にもがくようにもオレには感じたが、どうせオレには関係ないと高を括っていた。だがその矢先、あの婚約話。
まさか、あのレティとの婚約を決められ、オレは反対の意思を示すこともできずに重い足取りで挨拶の為に城にある一室へと案内され向かった。だがそこにレティの姿はなく、顔合わせのために赴かれてきた陛下は重くため息つかれ、オレに「アレを迎えにいってくれ」とレティがいるであろう部屋と鍵を手渡して教えてくださった。そこはレティ専用にと作られた世界中の本がそろえられたという書物室。普段はレティがこのドアにカギをかけて閉じこもるらしいが、陛下からそのスペアキーを預かったオレはその鍵でドアを開錠した。
ガチャリとドアをゆっくりと開けるとオレは思わず息をのんだ。
そこは、まるで知識の宝庫と言ってもおかしくないほど本の山だった。円を描くように広がる室内に沿うように本棚が並べられそこに所狭しと本が並べられている。二階建て仕様となっていて二階の部分にも下と同じように本棚が設置されていた。しかも驚くべきはそこだけではなかった。開いた途端に足元の床にたくさんの本が無造作に山積みにされているのだ。少し接触しただけでも崩れてしまいそうなほどに絶妙なバランスの中それらは均衡を保っていた。オレはなんとか一歩一歩本が崩れないように慎重に足場を探して室内を進んだ。
すると、
『……誰が勝手に入っていいって許可したの』
招かれざる客を拒む、声がした。オレの目線よりも高い木製の脚立の上部に腰かける美しい銀髪を持つ少女。膝上よりも短い白のノースリーブドレスを着て、露わになる太ももを隠すこともせずにプラプラと素足を揺らせて、レティは興味なさげにオレを見ずに膝上に置いた重厚な本へと視線をやり続ける。オレはレティの無防備な太ももに視線をやらないようにし、わざとコホンと咳をたてた。
『……レティ……汚すぎだぞ、この部屋は』
『イグニス……、何しに来たの?文句でも言いに来たわけ。暇人ね、今私読書中。邪魔しないで』
辛辣ないい方に彼女の機嫌の悪さが窺い知れた。だが陛下にレティを連れて来いと命を受けたオレには何とかしてその命を遂行しなければならなかった。
『今日は君に挨拶しにきた。これが理由にならないか?』
レティはほっそりとした女性らしい指先でぺらりとページをめくる。
『……あの与太話ね、本気で信じてたの?イグニスが?……ほかにまともな婚約者捕まえてきなさい。断っておいてあげるから。はい用事は終わったわさようなら』
『本はいつでも読めるだろう。まずはこちらを向いてくれないか』
そう頼むも、レティはわれ関せずの態度を変えようとはしなかった。
あくまで彼女のペース。オレは邪魔者扱いという状態。
『やだ。どうせ父上が私を連れて来いとかって鍵渡したんでしょうけど。今大事なとこだから後で。そうねぇ……一昨日きやがれ』
淡々とそういうと後はもう終わりだと言わんばかりに意識を本へと向けたレティ。
『レティ』
『レティ、少しはオレの話を聞いてくれ』
まったくオレの声は届いていなかった。
『……………』
『……はぁ……』
『なるほど、こうやって、魔法が組み込まれるわけね。……少し試してみるか…』
レティはうんうんと納得したように頷いて本を開いたまま、上に両手を少し掲げて顔を上げ瞼を閉じて意識を集中し始めた。まもなくして、小さな魔法陣が現れる。
『レビテト』
魔力ある言葉に反応してある現象が起こった。レティの周辺にある本がゆっくりと浮き上がるではないか。しかもそれは一冊だけではない。数冊、数十冊。次から次へと浮遊しはじめそれはレティ自身に同じようにふわり、ふわりと浮き上がる。普通なら対象をひとつに絞ってやるこの魔法をレティはオリジナルを加えて範囲内のものを浮遊させるという魔法を試した。しかもレティが座っていた脚立だけは浮くことはなかったことから、周囲の全てではなく、細かく対象を選んだうえで発動していることを表していた。オレは唖然とするしかなかった。彼女の卓越した才能をまざまざと見せつけられたのだから。
同時に、本当に惜しい存在だと強く感じたものだ。もし、レティが王女ではなく一般人の身であったならその天賦の才を飽きるほど発揮できたはずだろうに。
だがそれは叶わないとレティ自身も痛いほどわかっているはずだ。
いくら足掻こうと彼女はレティーシア・ルシス・チェラム。
その背にはいつでも王族としての責務が付きまわることに。
自分とは違う、籠に囚われ、籠の中で唄う鳥。
レビテトの効果により、ふわふわと元いた脚立から離れ宙に浮いて動く彼女の姿にオレは自然と魅入っていた。
まるでそのさま、翼を折られた白銀の天使のよう。
天上を懐かしむように手を掲げ、少しでも地上の痛みから身を守るためにその身を逃がそうとする。
儚いほどに綺麗でありながら、どこか哀れさを思わせるその細く弱った体。
オレはいつの間にかレティの元へ近づいていた。
手を差し出さずにはいられなかったんだ。……救いを求めているように見えてしまったから。
だが、これが間違いだったんだ。
彼女に触れるか触れないか、のぎりぎりの所でオレが間近にいたことに気がつかなかったらしく目を見開いて驚いたことで集中が途切れてしまった。
『………え、うわっ!?』
『っ!レティ!』
レビテトの効果が薄まり途端に浮いていた本やレティの体が重力を取り戻し床に落ちようとする。オレは落ちるレティの体を受け止めようと両腕を突き出して彼女を受け止めようとした。だが咄嗟の判断で頭が回らなかった。まさかのレティが真正面からオレの上に降ってくるなど誰がわかるだろうか。
受け止めようとしたはずが失敗し、レティはオレの上に覆いかぶさるように落下する。はずみで眼鏡が吹き飛んたのがわかった。
ダンッ!と背中に強い痛みが走ったと同時に、視界一杯にレティの顔が広がった。そして
ちゅうぅ。
『んぅ!?』
『………!?』
唇に伝わる柔らかな感触。閉じられていた瞼が持ち上がり、互いの瞳に移り込む姿がはっきりとわかった。自分だということを。視力の弱いオレでもそれはわかった。
レティがすぐ目の前に、いる。
それも、非常にまずい展開で。
『!???』
レティはすぐにバッと起き上がってオレの上から猫のように飛びのいて口元を両手で覆って信じられない顔をしていた。それはオレも同じだった。ゆっくりと体を起こし、今の出来事が夢ではない事実に、驚くことしかできなかった。
互いに気まずい雰囲気が流れる中、レティはわなわなと肩を震わせて、地を這うような声に射殺すような目でオレを睨みながら、
『忘れなさい。今のはお互いに何もなかった。いいわね』
『……………』
『忘れて』
『………わかった…』
オレはレティの雰囲気におされるまま頷くしかなかった。
それからレティは何事もなかったかのように立ち上がると、
『行くんでしょ。出るわよ』
とオレに促してドアへと向かう。
『………ああ…』
オレも何もなかったと自分に言い聞かせて立ち上がり、レティの後に続いてドアへと向かい部屋を出た。それからのことは記憶に残っていない。とにかく無事に互いの挨拶は済んだのだけは確かだった。
そして一週間後、レティとの婚約は突然白紙に戻された。
詳細は、公にされなかったがこちらに不手際は一切ないと陛下に言われた父はほっと胸を撫で下ろしていた。
父は一応、オレに何か王女とあったのかとそれとなく探りを入れてきたが、オレは何もありませんとしらを切った。
オレとレティの間には、何もなかったのだから。
※
オレとレティの関係はただの幼馴染に戻りまた普段の日常へと戻っていった。だが少し変わったことがある。オレは前よりもレティを気にすることが増えた。
向こうは鬱陶しいがっていたが、どうにも放っておけなくなった。きっとノクトの所為もあるんだろう。毎度毎度のことながらレティがどうたらとかレティが何をしたとか耳にタコで、ノクトの口からレティの話題が途切れることはなかった。そのうちオレの成果(レティの世話)が陛下の耳に入り、レティのことも任せられるようになった。少しは王女らしく振舞わせようとの陛下の御心だと思うが。
レティはオレと話す時も平然と振舞っていた。元婚約者という間柄で、ノクトにも秘密な関係であることも悟らせずに。オレも、平然とつとめた。
だが、思い出してしまうときもある。その時に終わった感情もまた鮮明に思い出す。
たとえば、レティと二人っきりの時。今がまさにその時だった。
気まずさからテントから逃げてきたオレは、ぱちぱちと燃えるたき火の前に設置したチェアに腰かけていると誰かの気配に気づいた。
「………げっ…」
「……その嫌そうな顔はやめてくれないか」
「それをいうならイグニスだって私と似たような表情してるわよ」
オレだって今ノクトたちの話題に上がっている人物がくるなど思わなかったさ。
「そうか」
「うん」
「座ればいいだろう」
レティは遠慮がちにこういった。
「……一人で考え事してたんじゃないの?」
「いや、そうでもない。君こそどうした。一人で出てくるなんて珍しい」
「そうかしら。…ちょっと考え事よ」
レティは言葉を選びながら隣のチェアに腰かけた。
じっとたき火を見つめるレティの横顔をオレは見つめながら、
「君もか」
と言った。レティはクスッと可笑しそうに口元に手をあてがいながら小さく微笑んだ。
「………フフッ、なんだか私達って似た者同士ね」
「ん?」
「ここ」
ふいに伸ばされるレティの指。とんとんと軽く指先で示されたのは眉間。
「さっきイグニスの眉間、皺寄ってた。私もクペに言われるの。悩んでたりもやっとしてると『眉間に皺寄ってるクポ!』ってね」
彼女が触れてる箇所が熱い。そして自分を見て微笑む彼女が、どうしてだか、恋しくて、愛しい。しきりに君を気にしていたのは、君がトラブルメーカーだったからじゃない。
君がオレ以外の男と接触することを好まなかったからだ。どうにもオレは嫉妬深いらしい。
ルシス国の王女。ノクトの双子の妹。
陛下の愛娘。クリスタルに愛されし娘。色々と肩書があるが実際の性格に幾分も反映されていない真逆な人。オレの、元婚約者であり、初恋の女性だった。いや、違うな。
「レティ」
オレはレティの手を取った。目を瞬かせてきょとんとした彼女に猶更愛しさがこみ上げる。
「オレは、やっぱり忘れられないようだ」
「なにを?」
終わったはずだと勝手に思い込もうとした恋は、
終わっていなかったようだ。
オレはレティの前に膝をつき、その手の甲にそっと唇を落として顔を上げて視線を合わせた。
「もう一度、オレと婚約をしてくれないか?」
親に言われるままではなく、自分の言葉として伝えたい。
「…は?…」
「君が、好きだ」
懇願するように、オレは今まで誤魔化してきた想いを彼女に告げた。