今日も静かだわ。
ぼんやりと座り込んでは何もない世界だと改めて思う。
私がいる世界は喧騒とは無縁の音のない世界。息遣いも心臓の音も聞こえないくらいに遮断されている。天井は真っ白、私が着ているドレスも真っ白。穢れなき世界ってこうなのかしら。
「レティ」
まるで硝子のように自分の姿が写り込む水場。
透き通るような水辺が足元に漂い、一歩進むごとに丸く波紋を描いていく。
輝きの内側では時が止まったまま静寂に包まれていて時折自分という存在が一体なんであるか忘れてしまいそうになることがある。視界に靄がかかったみたいに、何も見えなくてふっと消えちゃいそうになるの。
そんな時は彼女が私の名前を呼んでくれる。
「レティ」
と。そこで私はああ、自分がレティという名前であることを思い出すんだ。
私に寄り添ってくれる彼女、召喚獣の中でつまはじきにされていたクペだけど、胸を張って言える。最高な私の召喚獣だって。クペが私の肩に乗って何度も呼んでくれる。
「クペはずっとレティと一緒クポ」
彼女がいてくれるからこそ私は今のレティでいられる。もし、彼女がいなかったら、私は完璧な――になる。それは拒みようのないもので確定された未来だ。だから諦めているといえば諦めている。なるべくしてなるのならそれも受け入れよう。
――に近づきつつある証に私の髪は成長し続けてもはやどこが毛先だか分からないくらに伸びている。歩くには引きずらなきゃいけないけど重くはないから不思議。これも――効果なのかしら。
「レティ」
ああ、大丈夫よ。
私はクペの柔らかな毛並みを手の甲で撫でて安心させる。
「レティ、ずっと、待っているクポ?」
待っている。
待っている、か。待つのは退屈だわ。……?なぜ退屈なのかしら。っていうか私って何をしていたっけ?私がすることって……何かあったけ?
「浄化クポ」
ああ、そうだった!彼の浄化だったわ。そろそろいい感じに綺麗になってそうね。
私は右手を少し上げて手を広げて、彼を呼び出す。
ほどなくして丸くて白いふよふよとした球体が私の掌に現れる。
「どう、真っ白な感じになったかしら」
『うーん、どうだろうねぇ。なんせ永年の汚れだから』
何とも暢気ないい方に片眉がピクリと少し上がるのが自分でも分かる。彼は球体から光を帯びて元の体になり、ぐーんと伸びをしたりして軽い運動をする。なんだか今の方が生き生きしてるわ。
「根性で綺麗にしなさいよ。私、そこまで暇じゃないわ」
『無理だね。大体君は暇そうにぼけっとしているじゃないか』
やだストーカーよ。どうりで視線を感じているわけだわ。
大体失礼よね、人を暇人扱いするなんて。
「無理だったら尚更根性で何とかしなさい」
『もうオレにそんな力はないよ。すっからかんさ』
「……そういえばそうだった」
……ド忘れもいいところね。指摘されて気づくなんて。
蟀谷に手を当てがって軽く目を瞑り頭を振る。少し落ち込む私に彼は容赦なく追い打ちをかけてくる。
『おいおい、君もどんどん記憶が欠落していってないかい?以前よりも酷いようだ。まるで汚染されているようみたいだよ。昔のオレみたいに』
そんなこと言われなくても一番私が自覚しているわ。大体いつもいつも一言余計なのよ。人の神経を逆なでることばかり言って。彼は、えせ紳士らしく私に手を差し出してきた。その手を一瞥して、仕方なく自分の手を乗せて立たせてもらう。「君、太った?」とか女性に対して失礼ないい方をしたので、アッパーカットくらわしてあげた。でも空振りに終わってしまって私ははしたなく舌打ちする。だけど、彼は私の手を離さずに「真面目な話だよ」と真剣な表情で見つめてくるから私は気まずくて視線を逸らすしかない。
「……時間がないのかもね。」
そう、言い返せば彼は繋いでいる手をぎゅっと握りしめて
『……早く目覚めた方がいい』
と私にあちらに戻れと言うじゃない。でも私は静かに顔を横に振った。
「それはできないわ。貴方を浄化させると約束したんだから。……たとえ忘れていてもね」
そう、一度した約束は破らない。それが、私、だったような気がするんだ。
はっきりとそう言い返せば、彼は破顔してこう言った。
『……君は、最後まで責任感が強いお姫様だなぁ』
以前の彼と違い、つきものが落ちた顔をしている。今の彼が本来の彼だったのかもしれない。人に裏切られたからこそ、歪められた姿だったのかも。そこに奴らは付け入った。いわば彼は被害者だ。ここで傷を癒したら彼の地へ向かう権利が発生する。それまでは共に過ごさねば。それが、私の『使命』だもの。
ところで、今サラッと私を御姫様とか言ってた?私はその言葉でハッと思い出した。
「ああ!そういえば、私王女だったのよね。てっきり一般人だとばかり思ってたわ」
『……』
その痛い者を見るような視線は何かしら。
じろりとねめつけると彼は、降参と言わんばかりに私から手を離して少し後ろに下がった。
「何か言いたそうね。スイマセンね、ド忘ればっかりで」
『いやいや。……君も物好きだと思ってねぇ。オレの我儘に付き合わなくても君なら幸せになれただろうに』
労わりが籠められている言葉に私は、仕方ないと肩をすくめた。
「……幸せなんて人それぞれよ。私も、彼らも一つの個であるならそれが同じ幸せとは限らないわ」
『だが、繋がっているかもしれない』
「……そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。結局のところ私が貴方を見捨てることはないということよ。安心して、傷を癒して」
『……オレが王様に殺されそうだよ』
珍しく困った顔をする彼。珍しいものを見せてもらった。
私はもう行くわと、彼に背を向けて手をひらひらさせて別れた。彼は、追ってくることはなかった。
クペに少し散歩してくるわと一言断って、彼女と別れると私は長い髪を引きずりながら、世界の端っこを目指す。どうやらこの世界は私の意識一つで姿を変えるらしい。
今は私の望みがないから無機質な硝子細工のような世界になっているけど、意識の一つで世界は様変わり。この前、あれ?昨日、一昨日?思い出せないわ……まぁいいか。
クペが私が好んで乗っていたモンスターたちを思い出してみたらと言ってくれたので、朧気な記憶から何とか引っ張り出したら強烈な悪臭を漂わせるくっさいモンスターが出てきちゃって全力でフレアを唱えて滅却しちゃった。
その際、見物してた彼がちょっとこんばりしちゃったけど仕方ないわね。アレには全力で拒否反応出ちゃったもの。アレがトラウマでモンスターを思い出すのはやめにしている。
せっかくの退屈凌ぎだったけど他の方法を見つけるしかないみたい。
苦肉の策として、この散歩。
ああ、……鬱陶しい、この髪。ただ長いだけでウザったいわ。結ぼうにもあんまりにもさらさらだからすぐにほどけてしまうし。機能性という言葉からかけ離れている。
切りたいけど切ってもさらに伸びるだけらしい。オーディンから斬鉄剣を借りようとしたけど珍しくオーディンは慌てて止めようとした。眷属である自分たちに主の一部を傷つけるような真似はできないって。
難しく考えすぎだわ。ただ髪切るだけなのに。
シヴァに知られたらダイヤモンドダストだけじゃすまないって戦々恐々として面白いったらなくて、はしたなくもお腹抱えて笑ってしまった。オーディンにも恐れる者がいるのね。
「ふぅ」
ずっと変わらぬ風景に飽きて私はその場に腰を下ろす。素足で歩いているけどまったく痛いということはない。足元には自分が写り込むくらいに鏡のような水辺が何処までも際限なく広がっている。少し顔を下げて下を覗き込めば、同じように私が映る。
緑色の瞳に目鼻整った容姿に銀色の長く這うような髪。
スラリと伸びる四肢に日焼けなど無縁な肌。
これが私。こうやって情報としてとらえてもいまいち実感がわかない。
ここにいる人物は本当にクペがいうレティなのか。それともすでに違う人格が出来上がっているのか。私に知る術はない。ただ、言われるがままそうだと頷けば私はレティになる。――になれば、このド忘れからも解放されるのかな、とほんの少しの期待が膨らんだ。でもそれもあっという間にしぼむ。
私にはもっとも願ったことがあるような――。
そう、
誰かを、立派な王とさせることを。何よりも彼が命を落とすことないよう願った。
いや、そうならせようと運命を捻じ曲げたかも。
でもそうまでして焦がれた相手を私は忘れてしまっている。身を捨ててでも大切な人だったはずなのに。
彼は来なかった。次の日も、次の日の朝も。
薄情な人、とは思ってないわ。きっと忙しいのだろう。仕事とか仕事とか恋人との逢瀬とか。……やだ、なんだかムカムカしてきたわ。
私はムカムカを追い払うように頭をブンブンと横に振った。
……オッケー、余計なことは吹っ飛んで行ったわ。でも代わりに私の右手の薬指に収まっている指輪が目に入る。この、指輪は確か、彼からの贈り物だったような、気がする。
約束の、証。
見たことがない花をモデルに銀で加工したシンプルな造り。これと言って目を引くような派手さはない。けれど、これを見ると心がほっとする。見えない糸で繋がっている絆のようなものを感じ取れるんだ。召喚獣たちが私の元を訪れては退屈を紛らわせようとしてくれているしクペもいる。約束の時まで、ずっとここにいるのも悪くない。
けどね。
…時折、無性に会いたくなる時がある。寂しいとかそういうんじゃなくてただ、会いたい。声も名前もどんな姿なのかも思い出せないけど、会いたいの。
ただ彼の職業は分かっている。立派な王様。
きっと有能な部下たちに囲まれて、美しい王妃も傍にいるのでしょう。民に慕われて国は後世に伝わるほど繁栄を極めるはず。
「……」
貴方の名を、私は忘れました。
でも会いたいのです。
輝きの内側はいつもと変わらず時から切り離されています。
きっと、貴方は私のことを忘れているかもしれません。貴方の隣に立つ人は、もう私ではないのでしょうね。
でも、それでもいい。
名も知らぬ君よ、もう一度その顔(かんばせ)を拝めるのならもう未練はない。
喜んで――となり、彼の地へ赴きましょう。
「愛してるわ」
口から零れた言葉に偽りはない。ならば、これが私の気持ち?
貴方の名は、なんだったかしら。頭で思い出そうとするからいけないのね。
……指輪をちらりと見下ろして、……数秒、数十分?数時間?
なんでもいい。井戸の底から水が沸き上がるように、……思い出した。貴方の名を。『夜』の意味するその名は……、こういった。
――ノクティス。
そう、思い出した。ノクティス、ノクティス!
この波打つ歓喜をどう表現していいのか分からない。ただ、あふれ出る涙を留めおくことができないの。輝きの内側では貴方にこの想いを告げることは叶わない。だから、ここから言わせて。
「ノクティス、愛してるわ」
【どうか、幸せな人生を】