荒波をかき分けて船が行く。空は生憎の曇天で、雨こそ降りそうにないものの、暗んだ視界は否応なくこちらの気分まで落ち込ませた。加えて、海上を吹き荒ぶ潮風は強い冷気を抱え、直に触れた素肌をこそぎ取っていくようだ。やはりというべきか、後世で言うイタリア半島より北方にあるブリタニア周辺は、すでに帝国北方以上の冬の気配に包まれていた。
しかし、それよりもまずいのは――
「あー……」
「くそっ……船酔い、じゃねぇな、なんだこりゃ……」
個人差こそあれど船員たちは一様に顔色が悪く、気分の悪さを訴えている。中には何でもないような顔をして船の操舵や荷の具合を調べている者もいるが、ひどいものでは著しい体調不良のために寝込んでいる者たちだって居た。航海が始まってから一週間半ほど。ようやくグレートブリテン島の影が見え隠れし始めたところで、俺たちは思わぬ危機に襲われていた。
「皆、無理をしないように。いざとなれば引き返すのも――」
「そこまでだ、騎士殿。俺たちにも意地がある。この程度で音を上げてなんかいられんよ」
「船長。ですがこれは精神論でどうにかなるものではありません」
船員を蝕んでいるもの。それは病魔でもなければ長旅からくるストレスや栄養失調でもない。
魔力だ。
話は西暦以前に遡る。古代、この星を取り巻く環境は今のそれとは比べ物にならないほど異なっていた。星の息吹たる大気中に含まれる魔力、『マナ』は今の人間からして致死レベルなまでに濃く、これらを糧として存在を保つ魔性のモノども――妖精や精霊、幻獣などが我が物顔で闊歩していたという。加えて、そのような環境に適応していた人間たちも現在と比べればはるかに強壮で、今でこそ一騎当千などと称される自分でも、おそらくその時代では少し強い一般兵程度の扱いとなるだろう。そのうえでまだ一騎当千、天下無敵と謳われる大英雄がごろごろしているのだから、過去……『神代』というのは恐ろしい。
しかしそれも、今から五百年程前までの話だ。つまりは西暦が始まろうとするころに、その『神代』は終わりを迎えてしまった。大陸のマナは枯渇しつつあり、山野や海洋に蔓延っていた魔性の存在は大半がその姿を消してしまった。
だが、ブリテン島周辺は大陸とは事情が少々異なる。この島が神秘の地とされるのは、何も海峡を隔てて大陸と切り離された辺境の地であるということだけではない。大陸と切り離されている、というのは地理的な意味だけではない。時代の変遷、世界法則の変革。星全体に齎された世界秩序の変化による影響からも断絶しているのだ。
故にこそ神秘の地、この星に唯一残された神代の残滓。それこそがブリテンであり、辺境に取り残された小世界である。
――とまあ、これらは
ブリテン周辺の海域へ入ったのが約半日前。その直後から、大気中の魔力が段違いに跳ね上がった。船員たちは一呼吸ごとに体内へ紛れ込む魔力にあてられ、中毒症状を起こしているのだ。
「このままでは皆の命が」
「そうは言うがね。話に聞いた限りじゃあ、あちらも相当参ってんだろう? だからこそこの――山盛りの食糧や武装を一刻も早く届けなけりゃならん。そして何より、あんたを届けなけりゃならん」
「船長……」
積み荷の木箱をなでながら、強い意志を宿した声で船長が答えた。思わずほかの船員たちにも目を向けるが――全員、なけなしの気力を振り絞って強気に微笑んで見せている。
「……では、これ以上は何も言いません。焼け石に水でしょうが、私もあなた方の思いに応えましょう」
鞘から聖剣を引き抜く。曇天に不服そうなガラティーンが薄明りの下で鈍く光を反射した。
妙なものを引き寄せる可能性もあるが、背に腹は代えられない。今は船員たちの命のほうが大事だ。
「――午前の光よ、善き営みを守りたまえ」
祈りをささげると、ガラティーンがそれまでとはまた異なる淡い輝きを放った。分厚い雲の向こうに隠された、太陽の如き暖かな輝きが船を包む。
やっていることは単純だ。ガラティーンを介して、大気中に満ちるマナを吸い上げているのである。拙い我流の技であるが、これで多少は魔力中毒もましになることだろう。現に寒風と魔力中毒で顔色の悪かった皆の頬に、徐々に赤みがさしている。
とは言え、これは例えるなら海の水をバケツでくみ上げているようなものだ。やらないよりはましなので、やらないという選択肢はないのだが。
もう少し、神秘、魔術に関する知識が大陸で学べればよかったのだが、今はちょうど基督教が社会に浸透し始めた時期。奇跡は主の手によるもの、それ以外は異端、魔性の業であるとの見識が広まり、魔術師達にとって大陸は住みよい場所ではなくなった。そこに加えてマナの枯渇もある。魔術師たちは僅かに残された神秘を求めて、それこそブリテンのような辺境の地へと安住の地を見出すようになり、一朝一夕に出会える存在ではなくなってしまったのだ。
そのせいで、こういった神秘への対抗措置は最低限かつ我流のものしか覚えられなかった。
「すまん、騎士殿。――野郎ども、気を張れよォ! 島はもう見えてんだ、ここまで来たら行くとこまで行ってやろうじゃねぇか!!」
『『おおおおー!!』』
気炎を上げて船が行く。
目指すはブリテン島、コーンウォールだ。
――アーサー王伝説には、次のような一節がある。
『白き竜と赤き竜は、それぞれ異民族とブリテン人を示します。これらの戦いは、コーンウォールの猪が現れ、白き竜を踏み潰すまで終わりません』
これは島を陥れる暴君に対して、暴君に呼び出されたとある魔術師が言い放った預言だ。
暴君はとある砦を建設する際にどうやっても上手くいかないので、この魔術師を呼びつけて生贄にしようとした。魔術師は砦の建設がうまくいかない理由――建設予定地の地下に巨大な水たまりがあることを見事に暴き、次いでさらなる予言の下この水をすっかり取り除かせた。この水たまりの底に眠っていたのが先の言に挙げた二匹の竜である。この竜は夜間にかけて争い続け、朝になると眠るということを繰り返し、恐怖にかられた暴君は魔術師にこれが何を示すのかを尋ねた。
それに応えたのが先ほどの一節だ。
さて、預言の中で白き竜と赤き竜はそれぞれ異民族とブリトン人を示すと明言されている。
では――コーンウォールの猪とは、誰のことだろうか。
「……ここが、ブリタニアか」
あれからさらに一日と少し。ついに俺たちローマ遠征部隊は、グレートブリテン島はコーンウォールの地に足を踏み入れた。
先の予言の話に戻るが、竜がそれぞれ人種を示しているのだから、コーンウォールの猪も特定の人種ないしは人物を示すとみるのが自然だ。
そしてこの時代、コーンウォールから起った英雄といえばたった一人。
「ここがアーサー王の生まれた地かぁ……の割には、殺風景な土地だ。人も見当たらん」
そう。アーサー王伝説の主人公、アーサー王その人が身を起こしたのがこの土地。つまりコーンウォールの猪とは、アーサー王のことを示していたのである。伝説においてはその予言通り、アーサーが軍勢を率いて異民族――ゲルマン系民族、サクソン人を打ち破ることになっているのだが……
「戦乱が続いていますから、人気が無いのは致し方ないかと」
「うぅむ、それにしてもこれは……」
今はまだその伝説の『で』の字もできていない時代だ。アーサーが王の資格を示したのが五年前。それから五年にわたって密かに彼は諸国をめぐり、部族単位で協力を取り付けながら暴君――卑王ヴォーティガーンへの反攻の機会を窺い続けていた。
そして、今。ついにアーサーはその素性を明かし、前王ウーサーの後継者としてヴォーティガーンへ反旗を翻した。ブリテン人たちの手に、あるべきものを取り返すために。終わりの見えない戦乱の世を終わらせるために。
「……近くを探ってきます。聖剣をここに置いていきますので、皆はここを離れぬよう」
「なっ、それじゃああんたが危ねぇ! ここはブリタニアだ、向こうとはわけが違うのは分かってんだろ?!」
「逆もまたしかり。聖剣を置いていけば、邪なものもおいそれとは近づけないでしょう。なに、まだ日は高い。私は日輪の祝福を授かった身、聖剣がなかろうと容易く斃れることはありませんとも」
浜に聖剣を突き立て、輸送してきた武器から手ごろな長剣を手に取る。淡い輝きは船の周囲一帯を取り囲み、島を満たす濃密なマナから船員たちを守っている。これを取り去るわけにもいかないが、かといってこのまま手をこまねいているわけにもいかない。アーサーに取り次いでもらえるよう、何とかこの島の人間と接触しなければならないのだ。
「では」
「……ああ。日暮れまでには戻るよう、頼むぜ」
軽く手を振り、浜辺を後にする。とは言え、あてがあるわけでもない。現在、凡そ分かっているのは――
一つ、件の卑王は城塞都市ロンディニウムを根城にして君臨していること。
一つ、北方、特に古代ローマ軍が建設したハドリアヌスの長城という国境線以北には、サクソン人らともまた違う民族が自治する領域があること。
一つ、アーサーはこれらに対抗し、ブリテン島西部、
今回俺たちがコーンウォールを訪れたのは、ローマから最も近く、アーサーとのつながりも深い土地だからだ。それに、突然彼らの本拠地をローマ軍の人間が尋ねたところで、要らぬ混乱を招くだけだろうと考えたというのもある。
しかし……若干、その考えが裏目に出た。まさかこれほどに地方が閑散としていようとは。
「とりあえず、人がいる場所を目指さないと」
幸いにして、苦労なく道を見つけることができた。これをいけば、町か村にたどり着けるだろう。
その村か何かが、ここから半日以内の場所にあれば、だが――
「…………参ったね、どうも」
船を降りて早一時間か。ひたすら歩けど歩けど、それらしいものどころか人っ子一人は見えてこない。空を振り仰げば、中天に差し掛かりつつあった太陽はすでに過ぎさり、午後の日差しを投げかけていた。
「食事にするか」
腹が減っては戦はできぬ。ここらでいったん小休止とし、道端に生えていた木の陰に腰を下ろして背嚢から干し肉と水筒を引っ張り出した。
もそもそと干し肉をかじりながら、改めて周囲を見渡す。目立ったもののないなだらかな丘が続き、冷たい潮風がさえぎるもののないそこを縦横無尽に駆け回っていく。季節が冬であることも相まって緑も少なく、あまりにも物寂しい光景だ。しかし、だからと言って即座に戦乱の気配を嗅ぎ取れるほど荒れた様子も見受けられない。このまま春になれば、広い土地を活かした農作業に励む人々の姿がそこかしこにありそうなものだと思いをはせる。
きっと、戦さえなければその通りになっていたはずだ。だから早く、こんな戦いを終わらせて次の時代を目指さなければ――
「……む」
……不意に、視界がゆがむ。瞼が、重い。腹が膨れたせいか、なんだか、眠くなってきたような。
いかん、俺の帰りを待っている連中がいるのに。はやく、あーさーおうに、あわなければ――
「………………まず、ぃ」
……これは、さすがに、おかしい。
なにか、みょうな――――
「――ああ、お帰りなさい」
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