――――全ての道はローマに通ず
この時代、それは比喩でも格言でもない。純然且つ厳然たる事実だった。
ローマ帝国。イタリア半島にて興り、瞬く間に地中海沿岸の諸国を制した時代の覇者。同じ時期に他所では未だ石器を使った狩が行われていたような有様だったのに対し、既にローマでは厳格な法が敷かれ、派手な祭典が執り行われていたのだからその発展が桁違いであったことがよくわかる。分散して村に住むのではなく集合して整然とした街を創って住み、帝国滅亡後でも千年単位で残る街道、水道さえもが各地に施設されていた。罪を犯せば法の下に裁判で裁かれ、元老院と皇帝が君臨し政を取り仕切っていた。
世界とはローマであり、ローマとは世界の中心である――ああ、まさしくその通り
今ではほとんどが過去形だ。『猛き者もついには滅びぬ』というが、隆盛を誇っていたローマ帝国にも衰退の影が忍び寄りつつある。度重なる異民族の侵攻――西ゴート人、ヴァンダル人、ゲルマン人、そしてフン族。世にいう『ゲルマン民族の大移動』のあおりをリアルタイムで受けているのが今の東西ローマ帝国だった。
東はまだいい。侵入、移住、移動を繰り返す異民族ともうまく付き合い、経済の要所を抑えていたためにさほど打撃を受けてはいない。加えて、伝え聞くところによれば、東の皇帝はすさまじい実力を持つ戦士でもあるとのこと。戦ともなれば
翻って西はどうかというと……まずい、の一言だろう。東から突っ切ってきたゴート人や、それを追うようにやってくるフン族、そしてそれらに触発されてガリア方面から迫るゲルマン系民族から絶えず侵攻を受け、ついには帝国アフリカ領をゲルマン系民族のヴァンダル族が完全に占領してしまった。食糧生産の要だった土地を奪われ、しかも半島の農地は戦乱で荒れに荒れている――どう見ても、西ローマ帝国の命は風前の灯だ。この国はあと百年も持たないだろう。
だというのに、父はかつての帝都ローマへ向かうと言う。生来あまり考え事が得意ではないので、俺には父の考えがいまいち読めない。
確かに、ローマは現在最も発展している都市の一つだ。腐っても鯛、廃れようともローマはローマ。世界の中心なんて呼ばれていたのだ。居住環境は段違いであったし、いずれ政情が落ち着けばかつての栄華を取り戻すことも不可能ではないだろう。
この辺りもだいぶ危ないが、あちらも大概だ。むしろ、襲ってもうまみの少ない辺境の村より、ああいった大都市の方が危険度は高いのではなかろうか。いつ戦火が降りかかるかわからないような場所に、好き好んでいく必要はないと思うのだが……
一人でうんうんと唸っているうちに、黙々と父は準備を整え始めた。と、思ったら、これまた様子がおかしい。自分が横になっていたベッドからマットの類を引っぺがしていくのだ。まあ、旅先で野営でもするときには必要かもしれない。地面にじかに横になるよりはましだろうし。
それに、ローマへ行くというからにはここに戻ってくるつもりはない……と、思われるので、置き去りにしたところで家財は朽ちるか奪われるだけだろう。なら、売り払って少しでも路銀の足しにするなり、持ち去って使いつぶすなりしてしまった方が良いだろう。
「ふんっ」
「えっ」
……なんて、俺の底の浅い予測は軽い掛け声とともに父に粉砕された。
べきんばきんと、父は木組みのベッドを容赦なく叩き壊していく。いくら何でも、ベッドの基礎をたたき割って薪にしようとしているわけでもないだろう。となれば……もしかして中に何か隠してある、のだろうか。
そう思ってしばらく様子を見ていると、今度ばかりは俺の予測が当たったようで父はベッド下に隠していた重厚な木箱を苦労しながら引っ張り出してきた。
見た目からしてすでに高価そうな箱だ。オークだとか、オリーブだとか、見ただけでわかるほど木に詳しくはないが、白木にはないシックな色合いと各部装飾からして、箱単体でも骨とう品としての価値は高そうだ。床下にある秘密倉庫は知っていたが、まさか父のベッドの下にこんなものが隠してあるとは知らなかった。
「それは?」
「……お前が生まれる少し前に、難破した船を見つけてな。残念なことに乗組員は全員死んでいたようで、骨とこの箱――そしてその中身だけが残っていた」
「……う、わ」
――朝日がわずかに差し込む中、そのかすかな光の下でさえきらきらと輝くそれは、目玉の飛び出るような財宝の数々だった。ぴかぴかの貨幣があった。貴金属で飾り付けられた短剣があった。見事な大粒の宝石がはめ込まれた指輪があった……金銀珊瑚綾錦、口に出せばもうキリがない。博物館や美術館でしかお目にかかれないような宝の山が、今、目の前にある。
そこから父は無造作に銀貨を一掴み懐に入れると、再度蓋を閉めて立ち上がる。
「使えそうなものをまとめておいてくれ。私は村で保存食などを買い込んでくる」
父はいつもと変わらぬ足取りで村を目指して出ていった。その足取りに迷いはない。
……しかし、うむ。難破船から。財宝を。あの父が。
常識人というか、温厚な人というか。荒事には一切手を染めないようなイメージの父だったが、やるときはやる男だったらしい。まあ、やると言っても無人の難破船から財宝が詰まった箱を運び出しただけだが。この場合は窃盗に当たるのだろうか。
今の時代なら、ありかもしれない。ありかもしれないが……いや、うん……ファンタジー、呪い、亡霊…………ローマにたどり着いたら、さっさと使い切るように言っておこう……
そうこうしているうちに、父は俺を急かしてローマへと出立した。初めての旅、右も左もわからない中で、俺と父は死に物狂いでローマを目指した。……必死な父には申し訳なかったが、実のところ俺はこの旅路をひどく気に入っていた。
野獣や野盗に遭遇して命からがら逃げだすのも、
加護を齎してくれる太陽の下で汗みどろになりながら次の街を目指すのも、
日々の糧を得るために息をひそめて狩を行うのも、
親切な商人連中と和気藹々としながら夜営の火を囲んで歓談するのも、
どれもこれも新鮮で、長い旅の日々は日毎に新たな刺激を鮮明に俺の脳裏に刻んでくれた。
そして今までの生活も、こういうのは悪いが単調な毎日の繰り返しで、日々のルーチンワークが違えども前の人生とさほど変わり映えしない日常だった。
そんな穏便な日々にはなかった波乱万丈な出来事を、この旅が教えてくれた。世界には無数の人、事情、出来事が絶え間なく存在していて、それらには自分で会いに、体験しに行けるのだ――そんな当然のことを、俺は事ここに至ってようやく悟ったのだ。幼い俺は、その事実に例えようのない感動を覚えた。
もしローマに受け入れられずとも、このまま旅を続けてもいい。そう思えるほどに。
そうして、数週間が過ぎたころ。途中に何度か危ない場面もあったが、何とか無事ローマまでたどり着くことができた。いや、最後の最後に異民族の一団に追いかけられたときは本気で死を覚悟したが。真昼だったので、持ち前の腕力にものを言わせて足元の石畳を引っぺがしてぶん投げてやったら何とか引きはがすことができた。昼間じゃなかったら死んでいたな、あれは。
ローマ。かつて世界そのものであり、世界の中心だった都。これから先続いていく人類史を見渡しても、ここまで燦然と輝く栄華を示した都市は数えるほどもないだろう。そんな大都市に、今、俺たちはたどり着いたのだ。
しかし――こうして目出度くローマにたどり着いた訳だが、村を出発した時と比べて大きく変わったことがいくつかある。
ああもちろん、見識が広がったとか、心身の成長という意味ももちろんあるのだが……うむ、父が何かしでかす度に、俺は頭が良くないということを再三認識させられる。だが、一体どうしたらこんな事態を想像できるというのか。
本当に上手くいくのだろうか、
「良いか。私の言うとおりに動くんだ。これもすべてお前のため。いずれ、すべての罪は私が償おう。その時まで、このことは黙っておくんだぞ。いいな」
父は厳しい顔で何度も俺に言い含め、その度に俺はおとなしくコクコクとうなずくままにした。
大丈夫です父よ。このポンコツ息子はそもそも状況の把握さえできていないので、何を話していいのかすらわかりません。
「さて――では行こうか、諸君。馬車を進めよ」
「は、旦那様のおっしゃる通りに」
父の言葉と共に、周囲が一斉に動き出す。
そう、今や俺たち親子には、周囲を取り囲んで侍る幾人もの従者や奴隷達がいた。更にそれらは大量の物資を積み込んだ豪奢な荷馬車を曳いて、ローマ市街の中央を堂々と進んでいるのだ。めぼしい娯楽も豊かな物資も途絶えて久しいローマ市民は、その車列に驚きと羨望の眼差しを無遠慮に突き立てているようだった。
目指す先は皇帝の宮殿。この時代には珍しく、当代の皇帝は手ずからローマを復興させるため現地に居を構えていた。進むほどに周囲を囲む衛兵が増え、周囲を取り囲む建築物も格式高いものになっていく。
そして俺たちは車列のど真ん中で堂々と歩を進めていた。華美な服装に身を包み、派手過ぎない程度に装飾品を身に着けた父の自信に満ち溢れた姿はまさしく貴族然としていて、以前父が口にした元貴族という言葉が嘘ではなかったことを証明している。そして俺も、貴族の子息に相応しい上等な衣服を着込んで、父に手を引かれながら歩いていた。……わざわざ数日間もローマ近郊の町に留まって、貴人のマナーを叩き込まれた後に、だ。
宮殿に向かう理由はただ一つ。言うまでもなく、俺たちはこれから件の皇帝陛下に謁見しに行くのだ。ローマを復興し、定住する……つまり皇帝と志を共にする同志となる許可を得るために。
――ああ、それはいい。ローマ復興、まことに結構。荒れ放題の廃墟で暮らすより、かつての華を取り戻した都に住む方が何倍もいい。皇帝に会うために身なりを整える、それも当然だ。皇帝のみならず、他人と出会って歓談するなら、可能な限り身だしなみを整えるのは人としての責務だろう。
「皇帝陛下、この度は寛大な処置を執っていただき、誠に感謝いたします」
俺が気づかないうちに、俺たち親子は謁見の間へと案内されていた。まずい、思考がうまく働かない。そのうえ緊張で吐きそうだ。感じたことのない圧迫感。生まれながらの天上人としての気品。一目としてみていなかったというのに、それが伏せた頭上より重石のようにのしかかっているのが煩わしくて仕方がない。
「面をあげよ。して、その方らが?」
重々しい声音と共に、拝謁の許可を得た。
俯せていた顔を上げると、驚くことに父のそれとさほど変わらない格好の男が玉座に腰かけているのが見えた。私財を擲って奴隷となった民衆の身請けやローマ復興に尽力していると聞いてはいたが、まさかそこらの貴族と変わらないような様相であるとは。皇帝としての象徴は頭に戴いた月桂冠くらいのものだ。
皇帝はこちらの言葉を待っている。父はすかさず、今回ローマを訪れた理由を厳かに語り始めた。
「はい。我々は先々代の皇帝陛下のころよりガリアに赴任し、長らく蛮族よりローマの地を護ってきた一族です。ですがこの度、かつての帝都ローマの栄光が異民族に侵され、そして陛下がその事実を前に酷く心を痛めておられると伝え聞き、矢も楯もたまらず駆け戻った次第でございます。……ガリアを臣下に預け、自分勝手に舞い戻ったことの罪は、いずれ我が身を持って清算いたします。ですがどうか! どうか我らを迎え入れ、そのお力となることをお許しくださいませぬか、陛下!」
「……ふむ」
皇帝は悩まし気に顎を撫でながらこちらを睥睨していた。それに父は覚悟を秘めた眼差しで応え、あらん限りの言の葉で信を得ようと躍起になっている。それを俺は、いつこの嘘がバレて衛兵に引っ立てられてしまうのかと、顔が引きつりそうになるのを必死にこらえながら成り行きを見守っていた。
――ああ、まったく。まったく! いったい! 何が! どう転べば!! 僻地の漁師一家でしかない