――あの肝が冷えるような日から八年。今や俺は十五となり、見てくれだけは大人のそれになりつつあった。
今生で一番の冷や汗をかいたあの日。一時はどうなることかと思ったが、父の話術……いや、決め手はやはり父の財力か。ともかく、皇帝との直談判の結果、俺達一族はローマに住まう権利を勝ち取ることに成功した。それも、皇帝が住む宮殿の目の前、ローマでも数えるほどしかない大豪邸を与えられて、だ。
生まれ育った海沿いの我が家とは比べるべくもない。これを『家』の基準とするなら、あちらは小屋とかあばら家とさえも呼べないだろう。そのうえ聞くところによれば、この無駄に広い邸宅にはとある英雄がかつて住んでいたとのこと。そりゃあ豪勢にもなろうというものだ。
おそらく皇帝としては、国民的英雄の邸宅を使わせることで間接的にこちらを拘束するのが目的だったのだろう。父の話が丸ごと真実なら万々歳、もろ手を挙げて歓迎すべきことなのは確かだが、必ずしもそうでないと皇帝は思っているだろうし、事実それがすべてではない。そこで、過去の英雄の再来のように扱って国民からの羨望と期待を集めさせることで、こちらの動きを制限しようというのだ。
英雄らしからぬ行動をとればこれを咎め、民衆からの圧力も煽って弾劾する。大衆意識の暴走ほど恐ろしいものはない。英雄の名を汚し、ローマの民を欺いたなどと流言が興れば、良くて財産没収からの国外追放、下手をすれば極刑さえあるかもしれない。そんなのはまっぴらごめんだ。堅苦しいのは苦手だが、一挙手一投足には気を遣わねばなるまい。
そんな懸念が父にもあったかどうかは不明だが、ローマで暮らし始めてからそれほど経っていないころ、父から相談を受けた。
曰く、ローマ復興のためにあの資産をつぎ込みたいとのこと。印象操作の一環か、あるいは事あるごとに『お前のため』と口にしていた父に何か心変わりがあったのか。俺としては家長である父に意見などするつもりは毛頭なかったが、一個人として俺を立ててくれている以上、こちらからも率直な意見を言わねばなるまい。
ということで、かねてから遭難死した連中の祟りが怖かった俺は、この資産ばら撒き計画への賛成を表明した。別に悪事で手に入れた財宝ではないのだが、いかんせん経緯が経緯である。この世界観的にファンタジックな現象がないとは言い切れないのが恐ろしいので、使えるときに使ってしまうのが吉だと俺は考えた。
まあ、本当に祟りがあるのなら、ばら撒かれた先で祟られる連中が出ることになるのだが。さすがにそこまで面倒は見切れないので見逃してほしい。
それに、俺としても当時のローマは無視しがたい状態だった。その中でただ一人優雅な生活を甘受するのは、さすがに居心地が悪すぎたのだ。
そして父の試みは大成功した。まさしく大盤振る舞い、あのアンティーク調の大箱の底が見えるほどに散財して見せた俺達は、見事に皇帝と民衆からの信頼を勝ち取り、名実ともにローマ随一の貴族として認められたのだ。無論その陰には父の血のにじむ様な努力と綿密な計画があったのは言うまでもない。散財などと言ったが、無駄に財をばらまく程度ではローマ全てからの信頼を勝ち取るなど不可能なのだから。
三年も経ったころには貴族ウィアムンドゥスの名を知らないローマ市民はいない程で、既に父の名声は揺るぎないものとなっている。父の努力が報われたので俺としてもうれしい限りだった。
そして、今。
『光陰矢の如し』とはよく言ったもので、ローマに流れ着いた折には七歳だった俺もついに十五歳だ。小姓としての修業期間を終え――いよいよ俺も、正式に騎士としてローマ軍に編成されることになる。
……正直に言えば気が重い。何度か訓練で人と打ち合ったことはあるが、結局いつまで経ってもその感覚に慣れることはなかった。加えて、これから先待っているのは正真正銘の殺し合いだ。木で作られた模造品ではなく、鍛えられた鋼によって作られた真剣を手に、ローマを襲う異民族と戦わねばならないのである。平和というぬるま湯に頭まで使っていた前世も併せて、待ち受ける未来に暗澹たる思いを馳せずにはいられなかった。
そしてもう二つ。俺の心に重く影を落とす事実がある。
一つは――
「若様、服飾屋が参りました。明後日の儀礼における正装が出来上がったとのことです」
「ああ、わかった。今行く」
――これだ。若様、青年様、青年殿、ウィアムンドゥスのご子息……まあ、いろいろあるがどれもさほど変わりない。子どもから若人といったニュアンスの言葉に変わっただけだ。
八年。八年だ。この八年の間、ついぞ俺の名を呼んでくれる人物が現れることはなかった。未だに俺は名無しの少年……いや、もう青年になるのか。どっちだっていいが、とにかく俺は未だに名無しの権兵衛状態だった。
西ローマ皇帝を始め、父のコネで俺が小姓として仕えていたローマ教皇でさえ俺に名付けるようなことはしなかった。他にも各方面のお偉方と何人も顔を合わせたが、誰一人として俺の名前を知る人間はいない。
神託、という余計な一言が彼らの前に高くそびえたっているのだ。ファンタジー世界における神の絶対性を侮っていたと言うほかない。
毎晩嫌な未来予想図が頭の端をかすめるのを抑えきれない。
生涯無名などそれこそ御免被る。今でも友人関係の構築にさえ苦労しているのだ。このまま名無し状態が続けば人脈の維持にも致命的だろうし、そうなればいずれ孤立してローマを去らねばならなくなる日が来るかもしれない。お先真っ暗にもほどがある。
……そして、もう一つ。こちらはもっと深刻な案件だった。
「じゃあ父さん、行ってくる。戸の外にいつもの使用人を待たせておくから、何かあればすぐ呼んでくれよ」
「……ああ……」
――奴隷の解放に始まり、市街の修復、防壁の建築、軍人の養成、市民への手厚い保障。財宝を湯水のように使い、次々とローマ復興のための事業に手を貸した。三年も経てば、ローマでウィアムンドゥスの名を知らない人間はいないほど、その高名は高く響くようになっていた。
誠実な人。寛大な人。ローマに続く街道の如く、広く遍くその愛と誠意を敷いた男。市民はおろか、元老院議員や皇帝、教皇からも友として敬われた男。父ほどローマを愛し、ローマに愛された男はそうは居なかっただろう。
……そんな父の末路が、これだった。
かつて邸宅に、皇帝の宮殿に、ローマの広場に響いた、低く心地よい声音は聞くに堪えないほど枯れてひび割れたものになった。自身、そして将来のローマの栄光を見据えていた瞳は光を失って落ちくぼみ、うずくまる人々を力強く抱き上げた丸太のようだった両腕は、その肉を刃物でごっそりとそぎ落としたようやせ細っている。
まごうことなき死病だった。唯一の救いは伝染性がないことか。父に疫病を持ち込んだなどという汚名が付くのは許せなかったが、その心配だけは杞憂に終わった。
「……」
泣きそうになるのをこらえて、寝室を後にする。発症はおおよそ一年前か。方々手を尽くしたが、結局この時代の医学では治療できないという事実を浮き彫りにしただけだった。始めはふらつく程度だった父の病態は、今では寝台から起き上がれないまでに悪化した。
じわじわと死んでいく父に何もしてやれない自分に腹が立つ。
俺に名を与えようとしない……いや、俺から名を奪っただけでは飽き足らず、ローマに尽くした父にこんな仕打ちまでする神とやらを憎悪する。
きっと未来は光あるものだと思っていた。父の人気が絶頂であった三年前には、こんなことになるとは思ってもみなかった。
ああ、本当に、気が重い。
「…………で? これは?」
思わず眉間を抑え、天を仰いだ。頭はずきずき、胃はキリキリ。唐突に痛み始めたようにさえ感じる。
厄介ごとというのは、こうも重なって起きるものなのか。やはり神とかいうのはろくでもないやつに違いない。
「は、はいっ……その……」
目の前には平身低頭する服飾屋。その周りを如何にも激怒していますというオーラを全身から吹き上げる使用人連中が取り囲んでいる。
断言してもいい。こいつら、俺が居なかったらこの服飾屋を袋叩きにしていたな。
「ふざけたやつめ、こんな不格好なものを若様にお着せしようと?! これでローマ一の服飾屋など笑わせる!」
そう怒鳴って、使用人の一人が茜色に染められた
ほんの少し前のことだ。正式に騎士位を授けられる騎士叙勲式典が明後日に迫り、俺は式典のために軍装一式を新しく発注していた。その一式が届いたとのことなので、試着して寸法直しを行うために使用人と共にそれを受け取ったのだが……
まあ、うん。
「何とか言えんのか!」
「いえ、その、あのっ……」
服飾屋の頭はもうパンクしているようで、まともな単語一つとして出てこない。そのせいで周りの連中は余計にヒートアップして、さらなる罵詈雑言を浴びせるせいで服飾屋がまた委縮するという負のループが起きていた。
さっき使用人の一人が口走ったが、この服飾屋はローマで一番の人気店だ。おそらく多数の注文に忙殺される中で、別の人間の寸法で作ってしまったか、他人の注文品を持ち込んでしまったかのどちらかだろう。
いつもなら笑って流してしまうような些細なミスだ。しかし今はあまりに間が悪い。父が快復する兆しが見えないことに気を揉んでいるのはなにも俺ばかりではない。ローマの人々、父の友人達、なによりも傍に仕えている使用人のみんなだって心を痛めていた。そこへきてこれだ。俺も内心かっと来たが、周りでこれだけ騒がれると逆に冷静にもなる。
とりあえずは火消し作業が必要だろう。悪評が広まるのが早いのは今も昔も同じ事、こんなくだらないことで名工をつぶしてはたまっては父に合わせる顔がない。
しかし、どういったものか。この手の作業は得意じゃないんだが……
思わずこみ上げるため息を飲み下して、俺はこの場を切り抜けるために無い知恵を振り絞るのだった――
「それで、どうしたのだ?」
その日の夜。珍しく体調が落ち着いた父に今日一日のことを語って聞かせる。少なくとも今だけは、父の顔に苦悶の色は見えなかった。
「放っておいたらその服飾屋がつぶされると思ってさ、思わず言ったんだ。『私がそのように注文したのだ』って」
「ほう?」
穏やかにほほ笑む父はこちらの言葉を心待ちにしている。久しく外に出ることもなかった父にとって、今日の一件はそれなりに刺激的なものに映ったらしい。であれば、さして上手くもないを口を回して悪戦苦闘した甲斐があったというものだ。
「みんな驚いてたよ、当たり前だけど。誰もそんなサイズを頼んでないことは知ってるから」
「だろうな。あの服飾屋を呼びつけて採寸したのはつい先週だ。その場には皆もいたことだろう」
「そうそう。でも、それ以外に上手く事を治める方法が思いつかなくて。……父さんなら、もっと上手にやれたろうけど」
「いいや、私でもその状況は切り抜け難い。誰の目にも明らかな失態を、そうでないと思わせるのは並大抵のことではないからな」
「そうかな……ああ、それでさ。続けていったんだよ。『そのトゥニカは鎧の上から着るために頼んだのだ』って」
「鎧の上から?」
「そう。そしたら服飾屋のおじさんまでヘンな顔してたよ」
何とか場を丸く収めようと思った俺は、とりあえずそのトゥニカを俺が発注したものであることにしようとした。それ以外に方法が思いつかなかったのだ。
俺だって自分で言ってることの無茶苦茶加減はよくわかっている。トゥニカは遠い現代で言うところのTシャツのようなものだ。それを鎧の上から着るということは、ジャケットの上からシャツを着ているようなもの、とでもいえばいいのか。
とにかくかなり奇抜なことであり、そんなことをした人間は今までにいない。だが、事を丸く収め、かつ大きなサイズのトゥニカを無駄にしない方法などそれしかないように思われた。
なので――
『新しい鎧が汚れないように、大きめのトゥニカを上から着ることにしたのだ』
「ふむ。外套代わりに用いることにしたのか」
「うん。おかげで明後日の騎士叙勲式はその格好で行かなきゃならなくなったよ。まあ、思っていた以上に普通に見えるからいいんだけど」
普通に見えるのは当たり前だ。トゥニカはローマの普段着、それを着ているからといって周囲から浮くようなことはない。
その上から兜やら剣やらを装備していなければ、だが。
「その件に関しては、私から聖下に話しておこう。しかし、うむ、うむ。そうか」
何やら父は満足げな様子で顎を撫でていた。父の体調がよく機嫌がいいのは喜ばしいことだが、理由がわからないと少し居心地が悪い。
「……なに?」
「いやな。私がこんな様子で、皆に心の余裕がないのは薄々察していた。何か悪いことが起こらなければよいがと、寝台で横になりながら常々思っていたのだ」
……またこの人はそんなことを。今は自分のことだけを考えていればいいというのに。
「そこへきてこれだ。しかし、お前がうまく丸め込んでくれたと聞けてな。安心したよ。私が思っていた以上に、お前は賢く立派に成長したな」
「や、やめてくれよ、そんな。まだまだ父さんには及ばないし、うまく丸め込めたかどうかなんて……」
「内容ではない。うまくいったかどうかでもない。自分の窮地に相手を思いやれる、そんな人間に育ってくれたのが私は何よりもうれしいのだ。うむ、これでまた一つ、思い残すことも減ったというもの」
「…………やめて、くれよ。……俺の名前を呼ぶまで、絶対に死なせないからな」
「ああ、そうだな。それが一番の思い残しだ」
「じゃあ、しばらく俺は名無しのままだ」
「なんてこった。これは私も寝台に寝そべってばかりもいられないな。早くお前に名付けてくれる人を探さねば。お前もいい年なんだから、お嫁さんも、探してやらないと……」
「だからって無理したらダメだからな。さ、今日はもう寝よう」
「あ、ああ……まだまだ、死ねないさ。お前の名を、呼ぶまでは…………」
……虚勢、だったのだろうか。最後の最後、父は気絶するように意識を手放して眠りについた。
それでも、眠りに入った父に苦悶の色はない。この笑い話にもならない日常の一幕が、少しでも父の癒しになったのならそれでいい。
久々に見た、儚くもしっかりとした父の微笑みを思い浮かべながら、俺もすぐに床に就いた。
その日はいつもより、ぐっすりと眠れたような気がした。
後日、騎士叙勲式に現れた青年は、確かに鎧の上から茜色のトゥニカを羽織って現れた。その丈の長いトゥニカは動きやすいように腰あたりから幾つかスリットが入っており、青年のためだけに作られた特別なトゥニカであった。
以来、彼はこう呼ばれることになる。
『
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