朝日が昇る。水平ではなく地平の果てから。ここから海は見えないが、その輝きだけは幼いころから見続けてきたそれと全く変わらない。目を細めて、ローマ市街ではご無沙汰だった朝一番の曙光を全身に浴び、大きく伸びをした。
目を焼く朝陽をためらいなく受け入れ、頭の中に渦巻く雑念全てを溶かして流し去る。何も考えず、何も感じず。ひたすらに暁光を受け入れ、己の内に火を灯し、その日一日を生きる活力を燃え上がらせる。今まで生きてきた中で、この瞬間が俺にとって一番好きな時間だった。
「いい朝だ。今日も一日、気張っていこう」
澄んだ空気を目いっぱい吸い込みながら、ぽつりとこぼした。早朝、小金色の閃光と共に抜けるような蒼を示す空は、今日も一日良く晴れることを教えてくれている。
ここはローマから馬で二日ほど内陸側に進んだ地域。街道沿いに建設された簡単な砦の物見台の上だ。
騎士叙任式典より、三か月ほど。新しい鎧にも、武装を身に着けたまま過ごすことにもようやく慣れてきたころ。俺たち新兵は遠征訓練として、こうやってローマを離れた砦に詰めて日々の鍛錬を行っていた。
今のところ、一日の大まかな流れはこうだ。
日の出数十分前に起床。朝の身支度を整えるとともに軽い朝食を食べ、日の出と共に訓練開始。まず十人一組の部隊をいくつか編成し、周辺地域を全組が五時間ほどで帰還するように巡回する。十人組は当番制になっており、残された者たちは基礎体力の向上訓練に励んだ。巡回部隊が帰還すると昼食の準備に入り、二時間ほどの昼休憩が行われる。午後に入ると午前とは別の十人組が巡回に向かい、残りはやはり基礎的な訓練を繰り返す。
これらを二週間ほど一つの砦で行い、期間が過ぎると次の砦へと行軍する。そしてまた二週間ほど砦に滞在しながら訓練を行うのだ。
また、時々ではあるが砦に駐留する軍団内でトーナメントが開かれることもあった。個人の技量を計るためと、隊員たちのストレス発散のためだという。優勝者にはいくばくかの賞金と休暇が与えられた。
「父さんも、元気だといいが」
ここ一か月、父とは会っていない。ローマを発つときにはいくらか容体の改善が見られ、寝台から体を起こす姿をよく見せていたが、今ではどうなっているやら。新しい薬の効果だったのか、慣れない軍務に疲労困憊だった俺を気遣ったのか、それは定かではない。気がかりではあったが、父が強く言うので今回の遠征訓練に参加はしたものの、若干の後悔が心の奥底にこびりついていた。
とはいえ、先週ローマから届いた物資の中に父からの手紙があり、力強い自筆の書で容体は安定していると伝えられたので、多少は心の荷が下りたのだが。それでも心配なのは変わらない。早くこの訓練も終わればいいと毎日のように思う。
「おーい、トゥニカの。朝飯はいいのかー? それともなんか見えるのかー?」
「ああ、今行く! 篝火も燃えてないから大丈夫だ! ……さて。今日も、平和に終わってくれよ」
茫洋と物思いにふけっていたところ、階下から響いた同期の騎士の声に現実へ引き戻された。いかんな、と軽く頬を張って自戒する。どうにも、朝焼けの光に包まれていると時がたつのを忘れがちになる。自分がここに居るのは日の出を見るため以外に、ほかの砦からの緊急連絡が来ていないか確認するためでもあったのだ。それを忘れて時を無為に過ごすのは褒められたことではない。
最後にもう一度、近辺の砦方面に目を凝らす。緊急事態を告げる篝火の赤光は確認できない。安堵の息をついて、見張り台を後にした。
現状、おおむね平和な状態ではあると言えるだろう。わが父の偉業によって防衛線は再構築され、軍備も拡張された。おかげで異民族の侵攻も鳴りを潜め、大規模な戦闘行為もしばらく起こっていない。
とは言え二度三度と、異民族や犯罪者集団との軽い小競り合いはあった。訓練団全体で見れば取り立てて騒ぐほどの被害は受けなかったが――個人的な戦績として、都合四回、敵と真正面から対峙した。内三人を斬り捨て、一人は片腕を切り落として捕虜とした。どれも記憶はしっかりとあり、思い出したところで気分が悪くなりはしない。さすがに殺した直後は恐怖やら興奮やらでいくらか荒れていたが――今ではこの通り、平常運転だ。
……その事実自体に思うことが無いわけではないが、今は置いておく。せっかく頭の中をまっさらにしたのだ。今だけは陰鬱な想像を切り離すことを許してほしい。
「また日の出をみてたのか」
「ホント、好きだよな。太陽」
「好きだとも。お前らも一緒に見に来いよ。世界が変わって見えるぞ」
物見台から滑り降りると、既に武装が終わった同期の連中が取り囲むようにはしご下に集まっていた。皆がそれぞれ俺の装備を持っていて、身支度を手伝ってくれるつもりなのだと見て悟る。一つ感謝の言葉を零し、差し出される装備を受け取った。
彼らとは、この数年間共に勉学に励み、厳しい訓練を潜り抜けてきた。明言するのは少し恥ずかしいが、親友といっていい連中だ。こんな名無しの権兵衛に良くしてくれる、気のいい連中ばかりだった。
そういえば、今日は俺達の部隊が巡回の当番だった。皆がそわそわしているのものそのせいだろう。当然だが巡回は一番接敵の可能性が高いのだから。
「遠慮しとくよ。お前みたいに朝パッと目が覚めるわけでもないんだ」
「何も日の出を見にこいってわけじゃない。朝焼けだっていいもんさ、それに――」
「あー、また始まったぞ太陽賛歌が」
「悪いか」
「悪いな。さっさと鎧を着ろよ。上官殿の目線がだんだんすごいことになってきてるぞ」
「お、おう。すまん」
ちらと視線を飛ばせば、ぎろりと凄みのある三白眼で睨む上官と目が合った。あと五分だ、遅刻は許さん――物理的圧さえ伴っていそうな視線と共に、上官の心の声まで叩きつけられるようだ。
う、うむ。物見台の上で想像以上に時間を浪費したか。いよいよもってこれからは気をつけねばならない。
「ま、昼日中でお前に勝てる奴なんかいないんだから、ありがたがって拝むのも仕方ないんだけど」
「ずるいよな、ソレ。正午と日没前だけって言ってもさ」
「っても、その時間過ぎてようが俺達じゃトゥニカのには勝てないんだけどな!」
俺が装備を身に着けていく間、たわいない会話で時間をつぶす友人たち。まずいと考えつつも漏れ聞こえるその会話から、自身の特異性に思考が飛ぶのを止められなかった。
幼少の折には無尽蔵に供給されていると思っていた日輪からの加護だが、どうやらあれはタイムリミット付きのブースト能力だったらしい。ローマで時刻を気にするようになってから気づいた。
正午までの三時間、日没までの三時間――その間、俺の身体能力は飛躍的に跳ね上がる。自慢じゃないが、この駐留部隊中に、単純な力勝負で俺に勝てる相手は存在しない。無論戦闘ともなれば技量や経験も入るのでその限りではないが、それでも戦力的には上から数えた方が早いだろう。
無論、加護にばかり甘えているわけではない。自分の特異な能力は強力だが、それを過信していては何れしっぺ返しを食らうだろう。それに、強化能力自体はすでに知れ渡っているので、どうしてもその部分に目が行き、平時とは比較されやすいのだ。日の出からの数時間、正午からの数時間、その間は無力などと笑われるのは癪だし、無様にもほどがあるので、人一倍自分の体は鍛えた。おかげで同期の中ではトップの戦闘力で、それは周囲も認めてくれている。
若干気分がいいのは秘密だ。
といっても、それが人殺しの技術であると思えば冷水を浴びせられたような気分に早変わりするのだが――
はっとした。さっきの今で、思考があらぬ方向へ流れている。呆れてしまうが、どうにも朝の時間帯は茫洋とした気分になりやすい。世界を黄金に染め上げる朝日に連れられて、俺の意識まで地平の果てまで流されていくようだ。
「いいや、今日の訓練では必ず勝つ! それで同じトゥニカを作るんだ!」
「作りたければ、好きにしていいと言ったはずだ。気にするようなことじゃないだろう」
最後に例のトゥニカを着込み、身支度を終えたころ。友人の一人がびしっと指をさしながら興奮気味に宣言した。
今俺が着ているこのトゥニカ……いや、正確にはもはや別物になっているこの『外套』は、今のところ俺専用の衣装であるとの認識がなされていた。個人的にはそんな特別な衣服ではないと思っているので気恥ずかしい限りであるが、どうにも周囲の認識は覆りそうにない。
この外套、見た目としては丈の長いトゥニカに見えなくもないが、腰あたりからざっくりと大きくスリットが入っているのが一番の違いだ。このスリットを入れる提案はあの服飾屋がしてくれた。乗馬や戦闘など、動きが激しくなるのは当然のことだったのでどうするかと頭を悩ませていたところ、翌日彼がやってきて熱心に助言をくれたのだ。
自分の落ち度を思わぬ形で救っていただいたお礼です……そういって彼は無償で丈やスリット長などを調整してくれたのだ。
「いやいや。あの『外套の騎士』殿と同じ格好なんて、そう簡単にはできないって」
「同格にもならない限りはな! いつか絶対追いついてやるから、待ってろよ!」
「そういうもんかな」
鼻息荒く告げた友人の姿に、思わず苦笑を零す。純粋な憧憬の目を向けられて、何ともこそばゆい気分になった。
外套の騎士――それは、三か月前の騎士叙任式より広まった、俺の新しい通り名だ。この全く新しい外套状のトゥニカを指して、人々は俺をそう呼んだ。加えて、前述の理由で体を鍛えに鍛えていたので、その強さの評判も相まって瞬く間にこの通り名はローマ中に広まっていった。
悪くない、なんて独り言ちる。何かと暗い気分になりがちな昨今ではあるが、それ故にこうして暖かな気分を齎してくれる友人たちとの会話は俺にとって無くてはならないものだった。
「いつか俺達で、『外套の騎士団』を結成するのも悪くないかもな」
唐突に、黙りこくっていた一人がぽつりと漏らした。その一言を火種に、わっと皆の意識が白熱する。
「いいじゃないか! その時はもちろん、よろしく頼みますよ、騎士団長殿?」
「え、俺が団長なのか」
「あったりまえだろ。初めて鎧の上に外套を身に纏った、始まりの騎士。俺達にとって、最高の友人で、最強の騎士。お前以外に相応しい奴なんていないさ」
「それに、あのウィアムンドゥスさんの息子なんだ。身分だって十分」
「個人の器量については俺たちが保証してやる。お前が一番だよ、大将」
「お前が居て、俺たちがいるなら、どこまでだっていける。な?」
「ああ」
「その通り!」
「…………」
「どうした?」
「いや、なんでもない。さ、行こうか。今日も今日とて、訓練の始まりだ」
不意打ちだった。
言葉にできないけれど、今、とても眩いものを見た気がした。
転生、憑依、その一点を以て俺は皆を欺いているが、自己の質をひた隠しにしてきたわけではない。あの父の息子として恥ずかしい真似はできないと、若干気負っていた部分はあるが。それでも、彼らと勉学の合間に培った絆に嘘はない。一緒に呆れるほど馬鹿なこともやったし、訓練ではライバルとしてしのぎを削りあった。休みにはローマを散策し、露店を冷かしたり、盗人を追いかけて市街で大立ち回りを繰り広げたことだってあった。
父とは別の意味で、彼らはかけがえのない存在だ。決して無くすことのできないつながりだ。
彼らと一緒なら、近頃の悩みの種ともうまく付き合える。確信というにはほど遠い漠然とした思いだったが、あながち的外れな物では無いように思えた。
「さて……それじゃ、未来の『外套の騎士団』、出発!」
「「おう!」」
――ああ、だけど。
世界は都合よく回らない。特別だなんだといっても、俺はただの人間で、世界から見ればあまりにも小さい。
俺一人の感傷に付き合ってくれるほど、現実は優しくない。父と、自分の名の一件で、そんなことは身に沁みていたはずなのに、愚かな俺はそれを忘れていた。
剣を振るう理由。剣を振るえる理由。
答えを出す瞬間は、知らぬ内に目前に迫っていた。
評価、お気に入り登録ありがとうございます。
今作中の『外套の騎士』の『外套』はサーコート、と呼ばれる衣類を参考にしています。主に金属鎧が日光にさらされて熱を持つことを避ける、防暑の意味合いで着られたそうです。