暗い。真っ暗闇だ。茫漠とした暗黒が眼前に横たわっている。
光源なんて何一つなく、一筋の光明も差し込まない。だっていうのに視界は広く、闇に潜んだモノは明瞭にこの目に映る。
骸。折り重なって倒れこんだ死体の丘の上に、俺は立っていた。
山とは言わない。まだそれほど
そうだ。ここにいる連中は、みんな俺が殺した奴らだ。ほんの一週間前、集落を襲っていたならず者ども。折よく滞在中の砦のすぐそばのことだったため、俺たちは急遽その集落の救援に向かい、こいつらと殺しあったのだ。
中でも目立つ連中が三人――どいつもこいつもくたばってぶっ倒れている中、両の足でしっかりと足元の死体を踏みしめ、光を失った虚ろな目玉で俺をにらんでいる連中が三人いる。
一人は頭から胸まで縦一直線にぱっくりと大口を開けて、紅い液体をだくだくと零し続けていた。
一人は右肩口から腰までを斜めにさばかれて、かろうじて繋がっている右腕をプラプラと揺らしていた。
一人は心臓のある場所に穴を穿たれて、そこを風が通り過ぎるたびに体の芯から凍える様に震えていた。
一人目の男は、粗野でいかにも悪辣といった風情だ。
二人目の男は、鍛え上げられた筋肉が目に付く。
三人目の男は、一見弱々しい痩せ型だが一番目つきが鋭い。
よく覚えているとも、よく――――ああ、だけど……俺は、何をしていたのだったか。
意識がはっきりとしない。頭の中に朝もやが満ちたように、思考が空回りして確かなものを思い描けない。
ただ、わかるのは。
こんな場所で、こんな奴らを相手にしている暇はなかった気がする、ということだけ――
いや、もう一つ。分かっていることがある。
違う、きっと違うな。よくわからないけれど、そんな穏やかな状態では無いと思う。まあいい、こうして考えることはできているのだ。どんな経緯だろうと、そのうち目は覚めるだろうよ。
さて――何度目だろうか、この夢を見るのは。
一週間前。己がこの手で初めて人を斬り殺したあの日以来、心の底に澱のようにしてとどまる怨嗟の呼び声。
眠るたびに、この手で殺めた彼らの姿を借りて繰り返される、身勝手で醜い自責自傷の儀式――
望まれるがままに生き、命ぜられるがままに殺した。
初めて相対した『人』という敵だった。
彼らは罪人だった。いくつもの村を襲って悪逆の限りを尽くした凶悪犯だった。殺さねば殺されるのは自分たちの方で、逃がせばどこかで誰かが虐げられるのは明白だった。
故に殺した。躊躇なく剣を振るった。誰一人の例外もなく葬った。
今でも脳裏に焼き付いている。相手の顔も、声も、死に方も。
一人目は唐竹。共に参陣した友人の右腕を弓で射貫いた男を、激情に駆られるまま一刀両断にした。差し込んでいた斜陽に押し出されるように加速した俺は、射手の男が腰に下げた剣に手を伸ばす暇も与えることなく脳天をかち割った。
二人目は袈裟。仲間の死に狼狽えることなく、俺が一人目を斬り捨てた直後の硬直を狙って斬りつけてきた男だった。外套に惑わされたか、馬鹿正直に心臓を狙って突き込まれた相手の剣を手甲で弾き、がら空きになった胴を蹴り飛ばして剣を振るうだけのスペースを作って真正面から斬り捨てた。
その二人を殺してすぐ乱戦状態になり、互いに援護しあいながらもまた何人か殺した。そうしてしばらく後に再び単独で相対した三人目の男は槍と盾を構えていた。気弱そうな面構えのくせして、目だけが爛々と光ってこちらの様子をうかがっている。やりにくいな、とは思ったが、所詮は地方の村を襲う程度のならず者。毎日を訓練に費やす騎士連中と比べればその練度は遥かに劣る。数合打ち合った末に槍の穂先を切り落として、構えた盾ごとタックルで押し倒したのち、盾を蹴り飛ばして心臓を潰してやった。
それからもまた幾度か、同期の連中や上官たちと連携してならず者連中を殺害あるいは捕虜とした。
――――その果てに。手を、身体を、魂を朱く緋く染めたその果てに、何か得られたものがあったなら。ここまで囚われることもなかったのだろうか。
なにもなかった。
惰性で戦場に立ち、覚悟もなく剣を振るって命を奪った果てにあったのは、虚無だった。
生死を懸けた狂騒の中、暴れまわった無数の情動……生存への渇望、仲間を傷つけられた憤怒、迫る凶刃に抱いた恐怖、敵を打倒した歓喜、戦い切ったことへの達成感、生き残ったことへの安堵、自身が人命を奪ったという事実に対する自失。
全ては一瞬のことだった。
最後には自己嫌悪の末に剣さえ取り落として――この手にはただ赤黒い染みだけが残った、心には仄暗い洞が空いた。
分かっている。分かっているとも。奴らは死んで当然の連中だった。見逃せばまた誰かがどこかで殺されていただろう。俺が手を下さなくても他の連中があの世送りにしていただろう。
だけど……結局最後まで、その戦いに俺の『意思』は介在しなかった。ただ命じられるがままに戦い、反射的に機械的に殺した。
殺人に意義など見出したくはない。
だが――意義のない殺人ほどおぞましい物はないとも痛感した。
他人の望みで容易く人殺しを実行できる自分は、きっと人間ではない。しかして無感動に殺し続けられるような機械でもない。
どっちつかずの酷く醜いイキモノだ。
こんな奴は生かしてはおけない。生きていてはいけない。そも、前世だか何だか知らないが、そんなものを持って生まれてきた時点であってはならない存在だったのだ。
俺みたいなイキモノは、遠の昔に――
『有難うな、坊主』
――声が、聞こえた。
『本当にありがとうございました』
『怪我はないかぇ。ああ、震えているねぇ。こっちにおいで、身を清めてあげようねぇ』
『あんたらのおかげで、誰一人死なずに済んだ。この恩は一生忘れないぜ』
『良かったら何か食べてってくれ。あんだけ動けば、腹が減ったろう?』
――涙を流して感謝する人がいた。
――真っ赤に濡れた体を拭いて清めてくれる人がいた。
――にかっと笑って乱暴に頭を撫でてくれる人がいた。
――こちらを労って出来立てのスープを差し出してくれた人がいた。
『いつかは俺達で、騎士団を結成するのも悪くないな』
『その時は頼みますよ、団長殿?』
『お前が居て、俺たちがいるならどこまでも行ける』
『よくここまで、立派に育ってくれた。お前は私の誇りだよ』
――素性を欺き続ける名無しを友人と言ってくれた人達がいた。
――――こんな歪な俺を、息子と呼んで抱きしめてくれた人がいた。
……ああ、そうだ。
戦った理由ならあった。戦うための理由なら、確かにあった。
護ろうとしたもの、護りきれたもの。
それはあまりにも当たり前の衝動すぎて。それはあまりにも当たり前のモノすぎて。
俺はそれが、剣を振るうに足る理由であると認識できなかった。認識しようともしなかった。
けれど、そう――きっと、そんなささやかな当たり前を護るために、人は今を
そのことに、気づけたのなら。
もう、立ち止まってなど居られない。
思い出せ。
俺は、今の今まで、何をしていた。
一歩踏み出し、そらを見上げる。暗黒の天に、僅かに閃光が瞬いた。
声なき声を上げて、骸どもががなり立てる。怨嗟と憎悪の合唱が響き、血まみれの手が足を、腕を、体を掴む。
これから先、彼らが消えることはないのだろう。吹っ切れようがそうでなかろうが、彼らは心の奥底に居座り続け、俺が一人また一人と殺めるたびにその数を増やしていく。
けれど――
「……悪いな。今は、お前らに付き合ってる暇はないんだ」
「――守らなきゃいけない奴らがいる。だから、もう、立ち止まってはいられない」
――朧に開いた瞼。今にも中天に上りきろうとする太陽が、刺すような日差しを投げかけているのが見えた。
「…………ぁ」
声が出ない。体が動かない。何故。
かろうじて動いた首を傾げて、全身を確認してみた。成程。浮かんだ疑問は秒で氷解する。
ずたぼろだった。襤褸雑巾だった。全身これ塵屑のようになっていた。
道理で息をするだけで死にそうになるわけだ。指先を動かそうとするだけで激痛が体中を掻きむしるのに、酸欠気味な体は新鮮な空気を求めて喘ぎ、そうして更なる激痛が駆けまわる無限ループ。
激痛と共に思い出す。流星のように振り下ろされた軍神の剣と、俺の構えた双剣がぶつかった後のこと。瞬間的に砕け散った鉄剣から噴き出した魔力の奔流でからくも直撃は避けられたが、ぶつかり合った魔力の余波で吹き飛ばされた俺は、足場にしていた岩塊ごと大地に叩きつけられたのだ。
現状、瓦礫に半身を覆われ所々から四肢が飛び出している状態だ。何も知らなければ落盤で生き埋めになったと言われても信じてしまいそうな有様だった。
「……っぅ」
帰ってきた。
奈落の底から、この現実に。
ならば、為すべきは一つだけ。
「……奴は、どこだ」
あの破壊の大王に見つかる前に、態勢を立て直さなければ。
朦朧とする意識を繋ぎ留めながら、ぎくしゃくとした動きで瓦礫から四肢を引きずりだす。あの勢いで墜落しながら身体の欠損どころか骨折も無いようだった。あるいは気づいていないだけなのかもしれないが、歩く分には問題ない。
「ぬ、くぅ……」
腕が動く、足が動く。今すぐバラバラになってしまいそうな激痛が体中を満たしているが、それさえ堪えれば戦えないことはない。
あとは――
「――――カぁッ!!」
「――――――っ?」
声が、聞こえる。
あれは、誰の声だ。
「――二カのっ!! 何―だ?!」
「く―――くそっ!! 何――こっ―んだ畜――ッ!!」
「―事しろトゥ――ぁーッ!!」
知っている。
この、声を。この声の、持ち主たちを。
何故だ。どうして此処に。
何処だ。何処にいる。
今更気づいたが、あたりにはもうもうと土ぼこりが立ち込めて、ひどく視界が悪い。そのうえ耳がダメになっているようで、声の出所がはっきりとしない。
「お前――は」
冷たい声が響く。
この声も知っている。
「な―――イツ、どっか―出――た」
「おい、――つだぞ。トゥ―カのがカチコミ――た異――のやつ」
「女じゃ――か。ふざけ――よ、アイツ―――な華奢な奴に――――ってのか」
「馬鹿か。
ダメだダメだダメだダメだダメだ――ッ!!
そいつに、そいつにだけはかかわるな!
「私は、破―――る」
「あぁ? 訳わ―――ぇ事いっ―ん――」
「俺達――チをどこへ―――がった」
「―問だ―。我が前―――ふさがるもの――者であろうとも破壊する。例――無い」
「……まさ、か」
「……――たのか。あい――、お前がッ!!」
「貴、様――アアァ!!」
一瞬で脳が白熱する。俄かに拍動が加速する。
僅かに漏れ聞こえる声だけでも痛いほどわかった。激昂する友人たちは、アルテラに俺が殺されたと思い込んでいるのだ。きっとすでに剣も抜いてしまっているに違いない。
そして、あの大王は、敵対者には絶対に容赦などしない。
それは、つまり――
「やめろ、待て」
声は、届いているか。そも、発声できているのか。
止めなければならない。護らなければならない。
彼らでは束になってもアルテラは止められない。それこそ抗う真似さえできず消し飛ばされるのが関の山だ。
ああ、だから、だから。
例え血に塗れ、怨嗟に捲かれ、その果てにこの身が崩れ去る日が来ようとも。
彼らを護る、そのためだけに我が身を費やす。費やしてみせる。
だから、どうか――
「剣――」
腰に手をやる。無い。背中に手をやる。無い。
ぐるりとあたりを見渡す。
無い。
「剣、剣、剣剣剣ッ!!」
この際鈍だろうが折れてようが構わない! 木でも石でも鉄でもいい!
なんだったら剣じゃなくたっていいさ! 今すぐこの手に取って、奴の気を引ければなんだって構うものか!
「ああ、だから……だからっ!!」
どうか、俺に、あいつらを護れるだけの――――!!
――それは、柄だった。唐突に、眼前に現れたそれは、どう見たって剣の柄だった。
――その先、本来刀身があるべき場所からは、太陽のような目を灼く光輝が溢れ出していた。
――刹那、心を奪われる。見誤るはずもない。誰よりも憧れ、敬愛してきた輝きだ。ならば、眼前の空間に突き立つこれは、正しく『陽光を束ねた剣』なのだろう。
――……幻覚か。狂おしいまでに力を求めたがゆえに、限界に達した脳が見せた都合の良い幻なのか。
――なんだっていい。仲間を、友を、父を、護るべき物すべてを護るため。
――――どんな手段も使う。その覚悟は疾うに決めた。故に――躊躇は、しない。
柄に手を添える。途端に襲う灼熱。体中に流れ込む極大の火焔。されど恐怖はなく、全身を満たすそれに、何処か欠けていたピースが揃ったような気さえして。
『それを手に取る前に、よく考えた方がいい』
何処か、遠くで、少女の声がした。
『それを手にしたが最後、君は人ではいられないよ』
「――そうか」
きっとこれは、俺にあてられた言葉ではないだろう。ここにいるのは俺一人。見届け人などいない。
けれども、この言葉が意味するところは同じだ。
ここが分水嶺。この剣を引き抜けば、泣こうが喚こうが後戻りはできなくなる。
「――構わない」
護るべきを、護るために
「――この身全てを費やすと決めた」
そう、だから
「――護るべきを、護るために」
力を、貸してくれ
「――――――ッ!!」
一息に、光輝の具現を引き抜く。
――――――太陽が、落ちてきた。
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