今まで騙し騙しに進軍していたことの
子供の膝丈よりもなお小さな研師が駆け回り、障子を足で開けた男から長い鋼の塊を受け取る。横並びに二組並んだ大きな布団の片方には金の髪の少年が俯せになっていた。もう一方に片腕を大仰に包帯と添木で固めた、栃色の髪の大男が入る。彼が渡した鋼の塊にはそのものより長い柄がついており、異形と言うに相応しい風態ながらどうやら槍であるらしかった。
「六時間……」
表示された手入れ時間を見て沈んだ声をあげたのはこの本丸に二つきりの長柄の片割れ、御手杵だ。榛色の垂れ目を一層へにょりと曲げている。寝てる間に終わるのならまだしも、よく晴れた真昼間に四半日以上部屋に籠りきりになるのは苦痛に違いない。
「俺よりましだろー?」
そう言って金色の髪の少年が指差す先の札は彼の修復時間を示す。12:37:47。手入れ部屋の彼がいる方の床が空いたのは御手杵の手入れが始まるよりも幾分か前のことで、つまるところ獅子王の手入れには御手杵の倍近い時を要するのだった。
「あ、いいもん見っけ」
「ん、どうかしたのか?」
修復を待つ間の暇つぶしにと、手入れ部屋に書籍やらゲーム機やらを持ち込む男士は少なくない。けれど時間のかかる太刀や長物の手入れは夜に回されるか手伝い札を用いられるのが常であり、手入れの間は大抵眠っている。そのため太刀以上の刀剣が手入れ部屋に私物を持ち込むことはまれであり、獅子王もご多分に漏れず手入れ中の昼はいつも短刀や脇差の持ち込んだ物で暇を潰した。
「いや、漫画。浦島のかな。見たことないやつだし暇潰しに読もうかと。お前も読むか?」
「んー。いいや。この腕だと面倒だし寝とく」
布の巻かれた木枕に横たえた、先だって脇差の蜘蛛じみた脚に叩かれ千切れかけた男の左腕を、獅子王が一瞬だけ見遣って得心したように頷く。
天井を向いて枕に頭を委ねた御手杵が瞼を閉じる。それでも光が眩しいのか、右手で掛布団を頭上へ引っ張り上げた。泥濘のような暗闇が御手杵の眼前に広がる。300と数えない内に意識もその暗闇に落ちていった。
うつらうつらと
「また変な夢かあ……」
一度目覚めたことを自覚してしまうとどうにも寝付けなくて身を起こした。御手杵は左腕の肉がもうしっかりとくっついて、砕けた骨も元の通り真っ直ぐになっていることを確かめてからくるくると包帯を外していく。
思い返す限り、傷が深い時ほど御手杵の夢は奇妙なものになった。今日のような脈絡のない欠片のこともあれば、捩じくれた景色のこともあった。あるいは単に道理の通らないこともあって、中でも本丸の門から六振りと刀装兵で列をなして参勤交代の旅路に出る夢は何度も見た。
夢なんてものは大概が道理が引き込むほどに無理を通し徹したものだが、同時に骨喰の言うところに拠れば記憶を整理するためのものらしい。炎に呑まれた記憶の破片を、そうしてどうにか繋ぎとめられはしないだろうかとかの長脇差は思ったのだろうか。御手杵にはわからなかった。
その姿だけで敵の方から、争いごとの方から逃げていくような非戦の象徴として求められ造られたことを、なぜだか当の戦よりも鮮明に覚えている。手杵の槍は一度燃えて、そして写しや複製が幾振りも造られた。山姥切国広の例を見るにそれらは東の槍とは違うものなのだろうと思われた。けれど同時に、今こうしてここにある鋼はそれらと何が違うのだろうとも思える。はじめから非戦の象徴として求められたのは複製の方だ。けれど自分は結城晴朝が五条の義助に打たせたものだったという自意識も確かに在るのだ。
「昼は夢、夜ぞ
「うん、まあでも胡蝶の夢なんて柄じゃないよな」
同じ考えても詮無いことなら、実在性よりも在りようについての方が幾分かましだ。
今も審神者の側に控えているのだろう黒鞘に丸鍔の打刀は、しきりに自分を武器だと言った。御手杵もそれに否やはない。もはや刀槍ではなく、さりとて一度たりとも人であったことのない、自分達は刀剣男士という種別の武器であると御手杵は自負している。
自分が松平の御手杵であること、この鋼に鍔のあること。そしてなによりこの腕が、この肉がこんなにも痛むこと。それらを全て総括して成立する在り方があるなら、きっとそれこそが刀剣男士というもの。そういう風につくられたのだろう。自分も、蜻蛉切も、まだ見ぬ日本号も。鋼だけでは終わらないひとがたの兵器として、この御手杵は何度目か造られた。
ちらりと横を見やれば、獅子王は顔の上に漫画本を広げて寝こけていた。その向こうでは研師らが大身槍と細身の太刀とを研いでは鋼を足して霊力を込めて、元の通りに馴染ませている。
まだこの器に慣れたとは言い難い。肉だけでなく鋼の身も、こうして誰とも話さずにいると今までとの違いばかりが浮き彫りになる。刀剣男士の依代を打つのに使われる玉鋼が本当に御手杵の知る
日が傾いたと言うにはまだまだ空は青い。遠征に出ているのは本丸の二割というところで、手入れ部屋が満杯な以上戦に出た部隊もいない。けれど手入れ部屋は静かに身体を休められるようにと屋敷の中心からはずっと離れたところにあって、男士らの話し声も洗濯機の回る音も包丁を俎板に下ろす音も御手杵の耳には届かない。
じぃじぃという現世よりはずっと音の小さいらしい虫の声。ざぁっという風の木立を吹き抜ける音。研師の作業音。獅子王の寝息。それらのどれもが、御手杵が思考に沈むにつれてどんどん遠くなっていく。
掌を額に当てて撫でるように動かし、こうしてもの思う脳髄に思いを巡らす。もうすっかりよくなった左腕を見てかつて傷や錆がついた時の感覚を思い出そうと試みる。何百年か前、とそれから百余年前にも出雲に顔を出したことを思い起こす。普段現実に在る槍のほかは姿を持たない御手杵にも、その時はそれなりに神らしい器があったような気がするのだ。
思考の中心はこの頭にある。痛みの中心はこの手足にある。誰も彼も、特段の理由がなければ肉持つこの体に呼びかける。こうしてみると、まるきりこの肉の器こそが御手杵というものの本質であるかのようだった。
けれど命の中心だけは、鋼の依代にある。
どれほど肉の器に傷を負ったとしても依代さえ無事で帰せばこの部屋で傷痕すら残さず元に戻る。一度、後代の方の兼定が自らの刀を相棒に託してただ一振りで殿を務めたことがあった。肉体は一片たりとも戦場から戻らなかったが、それでも審神者と研師らはどうやったのか彼に元の通りのひとがたを与えてみせた。
だからきっと、腹の皮に焼け溶けて跡形なくなった槍の爛れた名残を持つひとがたと、この地の炉で打たれた鋼、その双方を合わせてようやっと御手杵なのだ。いつも大きな鞘と合わせて語られたように、今度は鋼とこのひとがたを合わせて御手杵というものは語られる。
手入れ時間中は長々と布団から出ていると研師に聞こえない声で散々に叱られてしまう。寝直すには時間が遅いなあ、と御手杵は斜めに突き刺さる障子越しの陽光に目を細める。枕を腰元に寄せて前に身体を倒して座り込むと、目を閉じて一人今日の戦の反省会を始めることにした。手入れが終わるまではまだ一時間以上残っていた。