昨日から厚く空を覆っていた雲が、とうとう雨を降らせ始めた今日この頃。
リビングで暇をもて余していた椿は、休日にも関わらず朝から部屋に籠っていた百合音の登場と開口一番に言われた次の台詞に素で戸惑った。
「ブラッシングしましょう、椿さん!」
「………………えっ」
ふわっふわにしますから‼ と目を輝かせて意気込みを語る百合音の手には、薄茶色のブラシが握られている。随分と言葉が足りていないが、要は狐姿の椿をブラッシングしたいと言っているのだろう。
そういえば猫を飼っているような発言をしていたことがあったなと思い出しつつ、椿は一つの疑問を口にする。
「まずそのブラシはどこから持ってきたの?」
「スーツケースに入ってました」
「何で⁉」
「……さぁ?」
小首を傾げる彼女の手にあるブラシは、果たして何の目的で荷物に加えられたのか。謎過ぎて椿は若干の寒気を覚えた。
そして、膝に乗っててくれるだけで大丈夫ですから、と流されてぐいぐいと引っ張られるままに百合音の部屋まで来たところでやっと椿ははたと気付く。
「ねぇ君って女の子だよねだから流石に僕が部屋に入るのは色々と駄目な気がするんだけど、ってちょっと⁉」
「聞いてません聞こえません。そしてそこを気にするなら早く狐になってください」
ばたん、と無情にもドアが閉まる。
勿論既に椿と百合音が入室した状態で、だ。
「あのねぇ君……もうちょっと危機感を持ちなよ」
前々から思ってはいたが、彼女は他人との距離感において無防備過ぎるところがある。年頃の少女だという自覚がないのだろうかと思うほどに。大事な娘と豪語するならそこら辺もしっかりと教育しておくべきだろう、と椿は心の中で
「大丈夫です。人を見る目には自信があるので」
明るい調子でそう返されても全く説得力がない。
駄目だこの子早く何とかしないと、と思っている椿に構わず彼女はてきぱきと準備を進めていく。掛け布団を脇へ押しやったベッドの上に腰掛け、膝にタオルを敷いてブラシを構える。
さぁどうぞ! と笑顔で椿が狐に変身するのを待ち構える百合音。
もうここまでセッティングされては仕方がないと、椿は溜め息と共に狐姿になり彼女の膝に飛び乗った。
「ふふふ……気位の高いうちの猫に鍛えられたブラッシング技術、とくと体感してください!」
ころりと寝転んだ椿の頭上から、自信に満ち溢れた台詞が降ってくる。普段の彼女はここまでテンションの高い性格ではなかったような気がするが、これは恐らく気にした方が負けというものなのだろう。
背中をブラシで撫でられる、その慣れない感覚から気を逸らすように、椿は
「君の飼ってる猫ってどんな猫なの? 色は?」
「ぱっと見は白猫ですね。よく見ると薄いクリーム色なんですけど」
ふぅん、と椿は相槌を打って、それから彼女のお人好し加減を憂慮して釘を刺す。
「白ならいいけど、黒猫なんか見掛けても拾っちゃ駄目だからね?」
「どうしてですか?」
怠惰の兄かもしれないから、などと言う訳にもいかず、椿は黒猫は不吉だからと答えて誤魔化した。拾っちゃいましたとか言いながら怠惰の黒猫を腕に抱えている彼女が簡単に想像できてしまうあたり、本当に洒落にならない。
「でも、黒猫も可愛いですよ?」
「駄目なものは駄目」
少し不満げに抵抗の意を見せる百合音にぴしゃりと言い放ち、椿はそれこそ不吉な未来を回避しようと何度も言い含める。
やがて根負けしたのか、分かりましたという言葉が百合音の口から出たところで漸く椿は一安心した。
安心と、毛並みを撫でる優しい手付きに
ばさばさばさっ、と積まれた本か何かが崩れ落ちる音が室内に響いた。
そしてその物音に、黒い毛並みに覆われた狐の耳がぴくりと動く。
「…………………………あれ?」
覚醒してまず、自分が狐姿のままであることに驚く椿。
(あ、そうだ。百合音にブラッシングされてる途中で寝ちゃったんだ……)
続いて自分の居る場所がベッドの上で、小さなタオルが身体に掛けられていたことを知る。
狐姿でいること自体少ない上に、その状態で眠りこけてしまうなど予想外もいいところだった。絡み付くタオルからもぞもぞと脱出し、椿はベッドから跳んでくるりと人の姿へ戻る。ベッドサイドに備え付けのデジタル時計を見やれば、時刻はもう夕方だった。
「あ、起こしちゃいました?」
声のする方を振り向けば、テーブルの下に落ちてしまった教科書を拾っている百合音がいた。学校の宿題でもしていたのだろうか、その手には小花柄のシャーペンが握られている。
「終わったときに起こしてくれれば良かったのに」
「ぐっすり寝てたので、つい」
可愛かったです、と百合音はいつにも増して緩んだ笑顔を見せた。彼女はそのままぱたんぱたんと教科書とノートを互い違いに挟んで閉じると、すっと表情を整えて椿の側へ。
「ちょっとお話しましょう? 椿さん」
そう言ってベッドに座る彼女に、隣に腰を下ろして椿は顔を向けた。
何となく胸がざわつくような嫌な予感を感じていたが、黙って百合音の切り出しを待つ。
そして。
「椿さんって、人間が嫌いなんですか?」
その、オブラートの欠片もない質問に、椿は時間が止まったような錯覚を受けた。
実際に止まっていたのは椿の思考だけであり、視線の先の少女は真っ直ぐに椿を見つめ返したまま回答を待っている。
「……どうして、そんなことを聞くの?」
その部分に触れて欲しくなくて、椿はわざと質問に質問で返した。
いつもなら、百合音は少しでも相手がその話題に拒絶を示せば決して深入りすることはしない。居たたまれない沈黙すら作らず器用に別の話へ持っていくだけの話術がある。その距離感の心地好さが、ひいては彼女と接することの楽しさに繋がっているのだから。
しかし隣に座る彼女は、何かを思案するように一瞬だけ視線をずらして、それからまた、
「じゃあ、私のことは、嫌いですか?」
それは、先程の質問と何も変わらなかった。
寧ろ、より悪質だとすら思った。
ーーーー
どう転がっても、彼女はこの話題を続けるつもりなのだと椿は悟る。そしてその瞬間から、彼自身と少女との間に一本の線が引かれていくのが分かった。
木の棒で砂の地面を抉るように。
ザリザリザリザリと耳障りな音を立てて。
曖昧だった境界線が、明確に、引かれていく。
くっきりと脳裏に刻まれていくそのイメージに目眩を覚えながら、椿は百合音へ、答えを返す。
「……嫌いじゃ、ないよ」
常のように回ってくれない思考回路でも、その答えだけは明白だった。嫌いなら、大事な家族の居るこの場所に連れてくる訳がない。
絞り出すような声で答えた椿を、彼女はどう思ったのだろうか。
心臓の鼓動が、やけに頭に響く。どくり、どくりと血を送り出す音が耳に反響する。
彼女との線引きがはっきりするにつれて、感情の制御が利かなくなっているのが椿には自覚できていた。本来の彼が“人間”へ向ける、少女には隠していた筈のどろどろとした内側が、意思に反して流れ出ようとしている。
(違う、この子は、他の“人間”とは、違うーーーー!)
それを抑え込もうと始めた自問自答の解は、残酷なまでに椿自身に対して容赦がなかった。
返ってきた“何か”からの、ただ一言で、椿の思考は真っ白になった。
遠く遠く、手を伸ばせない場所まで、直ぐ隣に居るはずの少女の存在が離れていく。
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がしゃん、とどこかで。
天秤の壊れる音がした。
ゆっくり、瞬きを一つ。それだけで、椿の赤い瞳に映るものは変わっていた。
“何か”との自問自答は続く。
スズシロユリネという名前の少女。
誰とでも仲良くなれる明るい子で、いつでも笑顔を絶やさないーーーー孤独も闇も血も悪意も敵意も知らない、恵まれた……“人間”。
椿の様子に気付かないのか、黒髪の少女は、先程椿の口にした答えを引き継いで、会話を続けていく。
「なら大丈夫ですよ、椿さん」
本人が安心したというよりは、椿を安心させようとするような笑顔で、少女は笑う。
「……何が?」
「何かを嫌うとか憎むとかって、本人はあまり気付かないけど凄くエネルギーがいることなんですよ。まして“人間”全体を嫌うなんて大きすぎる負担になります」
「………………」
「でも、椿さんは“人間”の一人である私を嫌いじゃなくなったんですよね? だったらもう、“人間”なんて大きな一
だから、大丈夫なんですよ。
そう言って微笑む彼女は、椿の目には見惚れるほど純粋で綺麗で無垢で真っ白に見えて。
身の内側に黒を宿した椿には、触れることの出来ない存在に見えて。
(……あぁ、届かない)
そう思った瞬間、どろりとした黒色が溢れた。
黒い“何か”は狐と成って、椿に囁く。
そうして、椿の口元が。
綺麗な綺麗な三日月を、描いた。
原作漫画様での精神世界みたいな心理描写を文字で表現しようとしたら死ぬほど難しかったです。雰囲気だけでも味わっていただければ……。