ここでは、本編ストーリーすなわち表舞台の、裏側で起こっていた事を綴ります。読まなくても本編に支障はありませんので、お好きなときにご閲覧ください。原作様の単行本のカバー下にある四コマのような感覚で読んでいただければよろしいかと思います。
《注意点》
・本編で既出の事柄が再度掘り下げられたり、後出予定のネタに軽く触れたりすることがございます。ネタバレというほどではありませんが、ご留意ください。
・この『舞台裏』のお話は時系列に沿い、関連のある表舞台の話の次話として、随時割り込み投稿していく形になります。ご了承下さい。
今回は、百合音が意識を落とした直後の椿のお話です。
全く予期していなかった痛みによる反射で薄らと張った涙の膜が乾いた時には、椿の中で渦巻いていた黒い“何か”はすっかり晴れていた。
見下ろせば、目を閉じてベッドに横たわる少女の姿が視界に現れる。
(……………………………………)
微動だにせず眠る少女は、吐息さえ感じられないほど静かだ。
椿はほとんど無意識に、彼女の顔に掛かってしまっている一房の髪を払おうと、おもむろに手を伸ばした。その時。
ぽたり、と。
椿の人差し指から垂れた赤色が、少女の首筋に落ちて彼女の赤と混ざり合った。
「……………………………………ぁ、」
その一滴から、じわりと椿の視界に色が戻る。
白いシーツを染め上げる
(ーーーーゆ、りね……)
そこで漸く、意識を落としてぐったりと横たわる彼女の姿に現実味が追い付いた。
『…………死ぬよ? このままだと』
たった数分前に自分で吐いた言葉が甦り、跳ね返って来て椿の背筋を冷やした。死ぬ。このままだと、この少女は死んでしまう。
咄嗟に血を与えようと、椿はもう傷口が塞がりかけている左手の人差し指に牙を立てる。そうした後で、また一つの台詞が甦る。
『わたしは、吸血鬼には、なれません』
確かに彼女はそう言った。“なりたくない”ではなく、“なれない”と言ったのだ。
それがどういう意味を含んでいたのか、椿には分からない。けれど、彼女にとってはそう答えるだけの理由があったはずなのだ。
だとすれば今、椿が取るべき行動は何か。
(…………オトギリ、)
椿の頭に浮かんだのは、口数が少なく冷静な、ナース姿の
窓の外は暗くなり、白い電灯の光に満たされた部屋の中で。
椿は点滴に繋がれてベッドに寝かされている百合音の近くに
あの後、思考の纏まらないまま廊下へと飛び出した椿は、偶然にも百合音の部屋を訪れようとしていたオトギリと鉢合わせになった。
少しだけ迷って、しかし直ぐに彼女を部屋に呼び込んで状況を見せると、その後は情けないが彼女の迅速な対応を見ているしかなかった。
オトギリは、最後まで何も
あの惨状を見れば何があったかは容易に察せられただろうに、椿に対して彼女は何も問わず、すべきことをこなしていった。動揺も困惑もなく、ただ淡々と。
……聡明な彼女だから、椿と百合音を見ていていつかこうなるかもしれないことくらい、想定していたのかもしれない。
ふぅ、と溜め息を一つ吐き出して、椿はゆっくりと室内に視線を巡らせた。
「…………?」
その時、微かな違和感が椿の胸中を掠めた。
何か気になる物でも視界に入ったのかと、赤い瞳をさ迷わせる。目につくものといえば、壁際のクローゼットとその隣に置かれた青いスーツケース、机の上には簡単に片付けられたノートと筆記用具ーーーー
ぞく、と。その異常の正体に辿り着いた椿は悪寒のようなものを覚えた。
(何で、何も変わってないの…?)
例えばリモコンやゴミ箱の位置、例えば椅子の角度、例えばアメニティの数や並び方。そういう、生活していれば意識せずとも変化を受ける物が、一切動いていなかった。一言で言えば、生活感がない。壁際のスーツケースがなければ、この部屋を誰かが使用しているという事実に気付かないのではないかと思うほどに。写真に撮ってそのままホテルの紹介ページに貼り付けても構わないのではないかと感じるほどに。
勉強道具が置いてある机も、教科書とノートのワンセットに黄色いシャーペンとカバーの無い消しゴムがあるだけだ。コップやペットボトルなどの飲料の類いも、小物の一つすら置かれていない。
もし今、彼女が姿を消したとして。
彼女が確かにここに居たと証明できる痕跡が、この部屋には何処にも存在していなかった。
それは単に彼女の性格に
それとも、椿の元に長く留まるつもりはないという意識の表れなのか。
前者であっても後者であっても、あれほど周囲に溶け込み交遊関係を築くのが得意にも関わらず、彼女は実は非常に淡泊な人間なのではないだろうかと、椿は思った。いつか、あっさりと椿の前から消えてしまいそうな予感すらした。
(…あぁでも、今はそれ以前の問題だ……)
目を覚ました時、彼女は椿を見てどんな顔をするだろう?
怖がられて嫌われても仕方のないことをした自覚はある。あの時、椿は些細なーーーー後から考えてみれば本当に些細な引っ掛かりから、彼女を殺してしまうところだったのだから。身の危険を感じるのも、危険の元から離れようとするのも当然の反応だ。
そこに加えてこの部屋の異常を知ってしまった椿は、もう正直なところ気が気ではなくなってしまっていた。“僕が居ないときに目を覚まして何も言わずにどっか行っちゃったらどうしよう”という不安がぐるぐると渦を巻く。
無意識に口許に当てていた右手を下ろし、椿は点滴スタンドの反対側にそそくさと椅子を運んだ。少なくともこの場所を陣取っていれば、彼女が起きた時に逸早く気付けるはずである。嫌われても仕方ないのかもしれないが、せめて意識が戻った時にはきちんと会話をして、謝りたい。そのために、彼女が覚醒する瞬間を逃してはならない。
……結局、いざ少女が目覚めた時に気まずさに抗えず寝たふりをしてしまったのは、ご愛敬。