その部屋は、ドアの部分以外の壁を隠すように隙間なく背の高い本棚が並べられていた。そして、小さな図書館のようなその空間の中央に置かれたオフホワイトのソファに座り、読書に耽る少女が一人。
胸元辺りまで真っ直ぐに下ろされた黒髪に、作り物のように整った顔立ち。病的なほど白い首にはベロア地の赤いリボンチョーカーが結ばれている。
「………………………………」
少女は、一時間ほど前に買い物に行った家族の帰りを待っていた。今日の夕食当番は彼女自身なのだが、
背表紙に傷みのある分厚い本に書かれた文字の羅列を、
本棚のせいで窓からの日射しもほとんど入らないその部屋で、少女は黙々と傍らに積まれた本を読破していた。
「電気くらい点けなさいよ」
ぱちん、と電灯のスイッチを切り換える音が響き、一気に明るくなった視界に目を細めながら少女は本から顔を上げた。開かれたドアと、長い黒髪をハーフアップにした少女の姿が目に映る。
「……おかえりなさい」
「ただいま。妙に静かだけど、あの子は?」
「血を貰う代わりに、あの人に付き合わされて外出しているわ。日が沈む頃には帰ると言っていたけど」
「そう」
固有名詞の無い会話をしながら、青の瞳を持つ少女は本に視線を落とす。
「そういえば、帰る途中に変な人に会ったの」
「変な人?」
ソファに山積みになっている本を勝手に本棚に戻しながら主人が言った言葉に、少女は本を読み進めながら続きを促した。
「和装なのにサングラス掛けてて、お蕎麦屋さんがどこにあるか聞かれたから答えたら、爆笑された後に「面白くない」って言われたわ」
「……………………………………」
変な人とやらの詳細を耳にした少女は、少しの沈黙の後で静かに本を閉じ傍らに置いた。
次の瞬間、ソファに少女の姿はなく、クリーム色の毛並みにサファイアのような美しい瞳をした猫が居た。
猫はソファを下りると、本棚の段を足場に素早く少女の肩に降り立つ。
「どうしたの?」
背を向けていたため猫の行動に気付くのが遅れた少女の声を無視して、クリーム色の猫は少女の黒髪を分けて首筋に鼻を押し付ける。そして実に不機嫌そうな声で呟いた。
「………“香りの無い花”の香りがする。不愉快だわ」
「香りの無い花の香り? それ矛盾してな、痛っ⁉」
がぶっ、と効果音が付きそうな具合に猫が少女の首に牙を立てた。薄い皮膚を傷付けられて溢れた血をざらりとした舌が舐めとる。
黒い瞳の少女は最初こそ声を上げたものの、振り払うこともなく大人しくその行為を受け入れる。代わりに呆れたような声で。
「吸いたいなら先に言いなさいよ……。それに首は痕が隠しにくいからやめてって言ってるじゃない」
猫は取り合わず、少女の肩から跳ぶとくるりと一回転して少女の姿に戻った。真っ白なワンピースの裾がふわりと揺れる。
「頼んだものは全て揃ったの?」
「えぇ、買ってきたわ。……って、」
主人の返答を聞き終わるまでもなく、少女は部屋を出ていった。
「……お礼の一つくらい言いなさいよね」
猫の気まぐれさに眉根を寄せつつも、主人たる少女は本の回収を再開した。
夕食後。
数時間前と変わらない体勢で読書をしていた少女は、ドアが開く音を耳にして顔を上げた。
「……
ぽつり、と少女が名を呟く。部屋に入って来たのは、ゆるくウェーブの掛かった長い黒髪に白衣の女性。
「やぁ、今日はずっとこの部屋に居たと聞いたけど。面白い本でも見つけたのかい?」
女性にしては低く、男性にしては高い中性的な声。話し方も相まって電話越しでは性別を勘違いされることも多いらしいが、本人に改めるつもりはないようだ。
少女は問い掛けには答えず本に視線を戻す。元より挨拶代わりの質問なので答える義務はない。
風谷と呼ばれた女性もまた気にした様子はなく本棚の一つへ向かい、数冊の本を選び抜くと少女の隣に座った。
沈黙がおりる。
しかしそれは長くは続かず、本から顔を上げないまま少女が口を開いた。
「あの子が、変な人に会ったと言っていたわ」
「へぇ……それで?」
全く脈絡も前振りもない状態での言葉にも特に動じず、風谷の方も本から顔を上げずに続きを促す。
「あの子から、香りの無い花の香りがした」
「………………………………」
少女が口にした言葉に、白衣の彼女は
そしてゆっくりと少女へ顔を向ける。
「それ、確かかい?」
「えぇ」
「……嫌だな。これだから“偶然”というものは嫌いなんだ」
「“偶然”、なの?」
「偶然だろうね。今のところ、彼が私たちに接触する動きも理由もない」
そもそも君は存在すら知られていないわけだし、と風谷は愚痴をこぼすように呟いた。
対して、相変わらず本を読みながら少女は更に質問を重ねる。
「“中立機関”の方は?」
「一応備えはしているようだけど目立った動きはない。先に動くとすればその“変な人”の方だと思うよ」
「目的は?」
「それは分からない。ただ、『戦争』をするそうだ」
「『戦争』?」
「あぁ。自分よりも先に生まれ、あの“会議”に参加した兄姉たちに喧嘩を売るそうだ」
「……………………………………」
少女がそこで口を噤んだのは、この風谷という人間が何故それほど詳しい情報を掴んでいるのか疑問に思ったとか、戦争や会議などの言葉に含まれた意味が理解できなかったとか、そういうことが理由ではない。
ただ純粋に、そこでこの話題に対する彼女の興味が潰えたからだ。
「君は参戦しないのかい?」
新しい本を膝に乗せる少女に、風谷は銀縁眼鏡の奥の瞳を細めつつ尋ねる。
「会ったこともない兄たちの為に戦えと?」
「別に末の兄の側に付いたっていい。この機会を逃せば君の存在はずっと、兄姉たちの誰にも知られることがなくなるかもしれないよ?」
「知られなくていいわ。そもそも、私は兄妹とは呼べないほどに彼らと“似ていない”」
冷たく、平淡な声だった。
悲しむわけでも拒絶するわけでもなく、ただ事実を事実として述べている、酷く無機質な声色。
「だから、存在ごと隠し通せるのなら、その方がいいわ」
「まぁ確かに。君が真祖らしいのなんて、主従契約で血を飲むところと日の下で動物化するところくらいだしね」
そう。本来真祖が共通して持っている特徴の幾つかを、少女は欠いている。それはつまり、吸血鬼であると看破される可能性が格段に低いということ。それこそ、黙っていれば分からないだろう。
そして勿論、彼女が真祖であると知られなければ、彼女に紐づく
「存在を認知されなければ、敵にも味方にも振り分けられることはない。それが一番の『安全策』よ」
「成る程。それが君のスタンスなら尊重しよう」
そこで議論は終結した。
風谷は先ほど選んだ数冊の本を抱えて立ち上がる。見送る気はないのか、少女は本に視線を落としたままだ。
そしてドアノブに手を掛けた風谷は、ふと何かを思い出したように小さく声を上げ、首を捻って少女の方を振り返った。
「そういえば、あの子が首に噛み痕を付けられたことを愚痴っていたけど」
「…………………………」
「まぁそれも仕方のないことだよね? 猫というのは存外、しっかり縄張り意識を持つ動物なのだから」
からかいを含んだ口調でそう言い残し、白衣の彼女は部屋を出ていった。
残された少女は、数時間前の彼女の主人と同じような表情で暫くの間、扉を睨んでいたとか。
名前こそ分かったがそれ以外が謎しかない風谷と、正体は明らかだが結局名前が出てこなかった真祖。
そして風谷と椿(下駄無し)の身長が同じであるという需要のない偶然。