連れ去られた火曜日。
親睦を深めた水曜日。
同盟を結んだ木曜日。
色々とバレた金曜日。
地雷を踏んだ土曜日。
仲直りをした日曜日。
そして今日、すなわち月曜日。
健全で真面目な女学生である鈴白百合音はいつも通りに登校しようとして、椿と
他人の機微に聡いわりに天然な部分を併せ持つ彼女は、同じ学生である綿貫桜哉に向かって端的に一言問う。
「何で?」
「丸一日意識不明だった奴が次の日平然と学校行く方がおかしいだろ」
リビングのソファに座らされた百合音の前に立つ彼が真顔で吐いた言葉に周りの
では状況を説明しよう。朝食後、一度自室へ戻ってからスクールバッグと共に廊下へ出た彼女が桜哉によって確保されたのがおよそ五分前。そこからリビングに連行され、居合わせた椿とその他数名から
「意識不明っていっても、実質寝てただけみたいなものなのだけど……」
「点滴の世話になった時点でアウト」
「えー……」
実は桜哉含む
回想開始。
『……おい、なんだよその怪我』
『あぁこれ? 椿さんと喧嘩して噛まれたの』
『待って百合音それ間違ってないけどなんか違うよ!?』
『喧嘩して噛み付くとか犬かアンタは!?』
『まぁまぁ桜哉くん。その件は昨日の夜にダッツ買いに走ってもらって円満解決してるから』
『確かに昨日なんか遅くに飛び出してったなと思ってたけどそれか!?』
『てゆーか二人とも昨日ずっと見かけなかったけど、まさかつばきゅんコイツの血ィ吸ったのォ~?★☆★』
『ぎくっ』
『“ぎくっ”じゃねぇよ! 預かりものだから手ぇ出すなとか言っといて何やってんだよ‼』
『ちょっと貧血になって点滴してもらったくらいだから大丈夫よ?』
『百合音、困ります……出血多量の意識不明は、貧血とは言いません』
『はぁ!?』
強制終了。
そういう訳で、
しかし、吸血鬼として人間の左側の首筋に牙を立てるとどうなるかを身近な事象として知っている彼らにとっては洒落では済まなかったようだ。
……それ以前に、自らが瀕死にまで追い込まれた事案をギャグに変換しようとするのは普通の人間の感性からは逸脱した行為のはずなのだが。小さく紛れたその異常が浮き彫りにされることはなかった。
「とにかく、今日は大人しくしてろ」
結局、その一言が全体の総意だった。
この状況ならば椿とシャムロックは押し切る自信があったのだが、桜哉とオトギリにまでストップを掛けられれば流石に百合音も首を縦に振るしかなかった。
そこまでは、良かったのだが。
残念ながら、根っからのアウトドア派な彼女が丸々一日大人しくしていられる訳もなかった。
昼を過ぎたあたりで本日の夕食に話が飛んだとき、材料の買い出しに行くと名乗りをあげて引かなかったのである。
結果、妥協案として百合音と椿の二人で買い物に行くことが決定した。
ーーーーそしてこれは、その道中の出来事だ。
椿と歩く大通り。そこで百合音は、どんっと横合いから出てきた白い影とぶつかった。
「おっと、失礼」
「あ、すいませっ………………」
咄嗟に謝罪を口にして、そのまま百合音は固まった。紳士的な謝辞を残して去っていく後ろ姿を凝視する。
「百合音? 大丈夫かい?」
「……はい、大丈夫です」
動かない彼女を気に掛けた椿の声に、生返事しか返せない。そのくらいに衝撃的だった。
(なに考えてるのよーーーー風谷っ‼)
そう。
ぶつかってきた人物は、普段通りの白衣を纏った風谷巽その人だったのだ。
(椿さんたちに顔がバレてないからって直接会いに来ることないでしょ⁉)
前々から頭のネジが数本飛んでいると知ってはいたが、変装も何もなく素のままで平然と接触してくる辺り、大胆不敵にも程がある。
直ぐに雑踏に紛れてしまった白衣に心の中で文句をぶちまけながら、百合音は動揺を隠すように踵を返して椿の隣に並んだ。
大通りで一週間ぶりに娘の顔を見た後、風谷は白衣のポケットに手を突っ込んだまま迷いなく路地の一つに身を滑り込ませた。
さほど複雑ではない道順を抜け、別の通りに顔を出す。そこに、彼女の目的の人物が、測ったようなタイミングで通り掛かった。
「君、ちょっと」
「…………?」
「君だよ。少しだけ立ち話に付き合ってくれないかな?」
風谷が呼び止めたのは、一人の少年。
色素の薄い髪にどこか怯えたような暗い表情、そして細い手首に巻かれた包帯が印象的な、椿の
側近として椿の近くに居ることの多い面子との夕食を済ませた後、自室に戻った百合音はおもむろに外出時から履いていたジーンズのポケットを探った。
「…………やっぱり」
何も入れた覚えのない左ポケットから、折り畳まれた一枚のメモが出てきた。
犯人は言うまでもなく白衣の彼女だ。椿と共に買い出しに出掛けた時の衝突の際にでも捩じ込まれたのだろう。
『20時に屋上。荷物は纏めて部屋の外へ』
見慣れた筆跡で書かれていたのは、必要最低限の内容だった。
それでも、省略された部分をきちんと補完できる程度には、百合音はこういった指示に慣れている。
(……潮時、って意味かしらね)
ぐしゃりと手の中でメモを丸めながら彼女は、ぐるりと室内を見渡した。取り出しやすいようにとクローゼットに掛けた数着の衣服以外、特に片付けなければならない私物はない。畳んでスーツケースに仕舞うにしても、十分も掛からないだろう。となると、指定の時間まではまだ自由時間がある。
もう一度、
微かな溜め息と共に、華奢な指先が前髪を雑に掻き上げる。指の隙間から落ちた黒髪の間から覗く顔は、どこか不貞腐れたような無表情だった。
さて。
残り時間、というのはあっという間に過ぎ去るものだ。
何をするでもなくごろりとベッドに身を委ねていた百合音がふとベッドサイドの時計を確認したときには、既に20時まで五分ほどしか残されていなかった。
起き上がる、髪を整える、靴を履く、それぞれの動作を淡々と済ませ、彼女は忘れ物がないかを再度視覚と記憶で確かめてから、部屋を出る。
指示通り、青いスーツケースは部屋の外に横付けしておく。ここから風谷がどのようにしてこの荷物を回収するつもりなのかは謎だが、それは百合音の知ったことではない。
誰とも会うことなくエレベーターに乗り屋上へ出れば、心地好い夜風が黒髪をさらった。複雑な鉄骨に支えられて屋根のように屋上に被さっているヘリポートを見上げながら、百合音は端の方に設置されている室外機に歩み寄る。僅かにヘリポートの屋根からはみ出した屋上の縁にずらりと並んだその一つに腰掛ければ、何の障害もなく夜空を展望することが出来た。昼間には分厚く空を覆っていた雲は薄れ、空には満月に近い形の月が黄金に輝いている。
それから何か“動き”があるまで待つこと、夜風に吹かれて十五分、といったところだろうか。
この屋上に通じる扉が開閉される音が、微かに聞こえてきた。百合音は座ったまま上体を捻って振り返る。
「ーーーーこんばんは、椿さん。綺麗な月夜ですよ」
彼女の視線の先では、夜闇の黒に映える白い羽織が揺れていた。来ると予想していた椿の後ろに更に二つの人影があるのを見留めて、百合音は目を細める。からころ響く下駄の音がそれ以上近づく前に、彼女は室外機から下りた。
「シャムロックさんにライラックまで、どうしたんですか?」
ライラックが居る時点で、椿が何のために来たのかは予想がついていた。だが百合音はあえて何も分かっていないような素振りで尋ねる。
「それは、君ならもう分かってるんじゃない?」
コン、と足を止めて、椿がそう切り返してきた。
どうやら予想通りライラックが、百合音が
(絶対、風谷が何かしたわね)
それは確定事項だった。あの優しいライラックが、自分から百合音との約束を
もう一歩、椿が下駄を鳴らして近付く。
「百合音、君は、何番目の兄さんと契約してるの?」
「ーーーーふふっ、」
その、余りにもあからさまな椿の質問に、百合音は思わず笑ってしまった。
この場合、「何番目」から「契約」まで全てに首を傾げるのが“正しく何も知らない人間”の反応だ。質問の内容を一つでも“理解”しようものなら、即座に嘘を看破されるだろう。
だから、少女は笑って、
「その聞き方じゃダメですよ、椿さん」
そして流れを奪うために、一つ斬り込む。
「だって、“兄さん”じゃない可能性だってあるんですから、ね?」
「……………………」
沈黙を受けて百合音は、満足げに微笑んだ。
恐らく今、椿が頭に浮かべているのは上から四番目の紅一点だ。兄ではなく姉の可能性もあるだろうと、そう百合音が言いたいのだと“誤解している”。
これは風谷がよく使う、情報量の差から生まれる認識のズレを利用するやり方だ。嘘でもハッタリでもない、けれど確実に相手の認識をねじ曲げる一手。“
(さてと、これで椿さんたちは“私が
契約のことを否定せず、あまつさえ椿の問いを完全に理解してみせた。ここまですれば、ライラックの密告が間違っていたとは思わないだろう。
(椿さんが家族を疑うことはないとは思うけど……一応証明しておかないとね、ライラックは嘘つきじゃないって)
強引な彼女の頼み事に付き合ってくれた優しい彼が責められる要因など、残しておくわけにはいかなかったのだ。
彼女が内心でそっと息を吐いた時。
不意に、彼女の視界に赤い月が過った。
(ーーーーあぁ、なんだ、)
少女の口角が、緩やかに上がる。
(もう、とっくに、
やるべきことを終えたことを確認した百合音は、椿たちから視線を外さないようにしながら軽く体に弾みをつけて室外機の上に乗った。さほど広くないそこに立ち、夜に似つかわしくない明るい笑顔で笑う。
「さ、それでは椿さん。潮時みたいなので、私はそろそろおいとましますね」
彼女の行動と台詞に、まさかと瞠目する椿たちが反応するよりも速く。
口許に笑みを湛えたまま、百合音は室外機の固い感触をつま先で蹴った。
少女の体が、室外機の向こう側へ落ちていく。
「っ、」
「シャムロック」
咄嗟に後を追おうとしたシャムロックを、椿が制した。
「若……良いのですか?」
「うん。あの子が誰かの
言いながら椿は、屋上の縁に立つ。
彼女が消えた夜の街を、凪いだ赤い瞳が見下ろしていた。
誘拐編(仮)、完結です。
静かで緩やかで唐突な幕切れを目指しました。