切り裂かれたのは、絆でも友情でもない。
在ったかもしれない未来の、一枚の青写真だ。
その日、桜哉は朝から
昨日一日姿を見せなかった少女が首に大きな医療ガーゼを貼り付けてリビングに現れるわ、大量出血で意識不明の重体に陥っていたと聞かされるわ、そもそもの原因となったのが椿という名のアホギツネだと発覚するわ、彼の心情的にはもはや修羅場と呼んで差し支えないほどだった。
そして何より、どう考えてもまだ体調が整っているはずのない彼女が当たり前のように学校へ行こうとするのを止めるのに、かなり苦労した。
彼女、鈴白百合音は吸血鬼などではなくただの人間だ。無理をして倒れてからでは遅い。そんな当たり前のことを、引き留められてきょとんとしている少女に延々と言い聞かせること十分ほど。それでもそこで彼女が折れたのは恐らく、納得したからではなく桜哉が学校に遅刻する可能性がちらついたからだろう。
ここ一週間で、桜哉にはよく分かっていた。
鈴白百合音は、他人の世話と自分の世話の比率が破綻している。
他人への気配りが出来るのは美点だが、それにしても彼女のそれは“異常”の域だと桜哉は思う。寧ろ彼女の方をきちんと見ておかないと危なっかしいと感じるほどに。
一人登校した後も、桜哉の思考は彼女についてフォーカスしたままだった。
中でも彼女と同じくお人好しな親友と言葉を交わす度にその影がちらつく。
そうしている内に、彼はふと気付いたことがある。
桜哉は、学校での鈴白百合音という存在を知らないのだ。
恐らくは彼女が意図して、校内では桜哉と関わらないように努めている。突然の関わりで桜哉の“日常”が壊れかねないという懸念を
だから桜哉は、直ぐ隣のクラスだというのに未だ彼女と校内で顔を会わせたことはない。彼女が誰と仲良くしているのか、どれくらいの人数で固まっているのか、そういうことを何も知らない。
知る必要があるのかと問われれば首を傾げることになるが、放っておくと直ぐ
(帰ったら……いや、明日学校で探すか)
それは単なる直感だった。
本人に直接尋ねても、空振りに終わるような気がしたから。
……その直感が正しかったことを彼が知るのは、まだ先の話だが。
帰宅後。
部屋に仕掛けた狐避けの罠が不発に終わっていたことを含めて、概ねいつも通りに時間が流れていった。
明日は、先週の
前回で話が纏まらなかったのは時間的に余裕がなかったのもあるが、不人気な係を決めるのにもたついたというのが大きい。この分だとまた、お人好しで面倒事が嫌いな“彼”が引き受けることになるかもしれない。
そこまで考えたところで不意に桜哉の記憶の中から、すっかり忘れていたことがぽんと浮かび上がってきた。
(あ、英語の宿題)
確か先週の授業で出されていた分があったはずだが、そういえばやった覚えがない。逆に、教科書ごと学校の机の中に置いてきた覚えならある。
……仕方がない、これはもう明日の朝に写させてくれと、親友に前もって嘆願しておくしかない。
桜哉はそう結論付けると慣れた手付きでメールを起動させ、送信相手を選んで本文を作成する。その文面自体は学校での彼のお調子者キャラそのままの口調でエクスクラメーションマークが並んでいたりするものの、書いている本人が至って真顔なあたりが顔の見えないコミュニケーションの怖いところだ。
丁度その時、バタンと盛大な開閉音と共に派手好きな手品師が飛び込んできて「つばきゅんただいまァ~‼☆ゴメェ~~ン‼ 例の黒猫見失っちゃったァ~!★☆★」とか何とか叫んでいたが、桜哉はスルーした。
出来上がったメールを一度だけ見直してからワンタップ。そして送信完了という文字が表示されたのを見てから、桜哉の口から小さく「あっ」と声が漏れた。
教科書は学年共通なのだから、それこそ隣のクラスだろうが関係はない。明日の朝まで待たずとも、彼女に言えば簡単に見せてもらえたはずではないか。
(……まぁ、もう真昼にメールしたし、いいか)
気付かなかったことにしよう、と桜哉は気を紛らわすようにヘッドフォンを耳に当てた。視界の端でちらりと珍しい人物ーーーーライラックが部屋に入って来る姿が見えたが、彼は特に気を向けることなくスピーカーから流れ始めた音楽に目を閉じた。
それから、二十分ほど音楽の世界に身を委ねていただろうか。
いつの間にか出て行っていた椿が、戻って来た。そこまでなら桜哉が気にすることはなかったのだが、その後に少し遅れて入って来たシャムロックの表情が余りに険しかったため、桜哉はヘッドフォンの片方をずらして意識を傾けた。
「若、部屋はもぬけの殻となっておりました…」
「そう」
聞こえてきたのはそんな会話だった。
たったそれだけだったのだが、桜哉はとてつもなく嫌な予感を覚えた。思わず、椿に向かって声を掛ける。
「……なんか、あったんすか」
椿とシャムロックの視線が、同時に桜哉へ向いた。
いつも以上に底の見えない瞳をした椿が、整った顔立ちに影を落として呟くように答える。
「百合音が、帰ったんだよ」
告げられた事実に、桜哉は瞠目した。
有り得ない、と思ったのだ。あれほど彼女に固執していた椿が、呆気なく手放したりするものか、と。
「なん、でっ……!」
思考を埋め尽くす衝動のまま途切れながらも放たれた桜哉の声に、一瞬、椿は躊躇ったように見えた。
しかし硬直は本当に瞬きの内で、細身のサングラス越しの赤い瞳が桜哉をしっかりと見詰める。その瞳には先程までの
それでも、桜哉の問いに正直に答えるために椿は口を開く。
「………………百合音は、
「は……?」
言われた瞬間、言葉の意味が分からず桜哉は戸惑った。
そして、その単語が真祖と契約した人間のことを指すものだと遅れて理解して、彼は。
(なんだよ、それ……じゃあ、アイツは、今まで、ずっと、ずっと………………)
ずっと、嘘を吐いていたのか。
「……………………………………………………」
握り込まれた指の爪が掌の皮膚を裂く音が、桜哉の耳には聞こえた気がした。拳からぬるりとした感触が溢れ出す。
桜哉が彼女と時間を共有したのはたったの七日、一週間だ。その短い記憶の中にある彼女の表情はいつも、一点の曇りもない笑顔だった。
その笑顔全てに
だったら。
彼女がこの場所で見せていた姿が嘘なのだとしたら、もしかしたら。
『お友達になりましょう、桜哉くん』
あの言葉、もーーーー。
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
きっとまだ、綿貫桜哉と鈴白百合音の間には、絆や友情なんてものは結ばれてはいなかった。
けれど、遠くない未来で、そうなることが出来たかもしれないのに。
偽りの記憶で偽のスタートを切った関係ではなく、本当に一から積み上げていけるかもしれないと、思っていたのに。
……いや、それだけならまだ救い様があった。彼女が
しかしこの時桜哉は、絶対に気付きたくなかったことに、気付いてしまっていた。
そもそも彼女は最初から最後までずっと、吸血鬼のことを知らない普通の人間として振る舞っていた。椿に連れられてこのホテルに足を踏み入れたその瞬間から、ずっとだ。
椿や
(つまりーーーーアイツもオレと同じような、大嘘吐きだったって、ことかよ)
何のことはない。桜哉が学校でやっていることを、彼女はここでやっていた、というだけのことだ。
「……椿さん、オレ、やっぱ嘘つきは嫌いです」
その言葉で、たったの一言で、桜哉は“全て”に蓋をした。もう、彼にはそうするしかなかった。
「……そっか」
変わらず心配の色を滲ませながらも、椿はそう頷いて、後は何も言わなかった。
それだけが、桜哉にとっては救いだった。
そして。
桜哉が、親友が一匹の黒猫を拾ったことを知ることになるのは、この翌日のことーーーー。
…桜哉の精神的ダメージが思った以上に酷かった件について。作者も