それはもう、文句の付けようがないくらいの晴天だった。
自室のカーテンを全開にして気持ちの良い朝の日射しを浴びながら、百合音は昨夜の諸々によって沈みそうになる気分を引き上げる。昨夜は、ホテルの屋上から飛び降りるという少々アクロバティックな演出を終えて久々の家に戻ったーーーーその後が散々だったのだ。
何が大変だったかというと、冷優からの非常に長々としたお説教である。
以下に一部を抜粋するが、勿論読み飛ばしてもらっても構わない。
『ーーーー大体、今回は事前に八番目のお兄様についての注意換気はしていたはずよね。それなのに
……と、まぁこんな感じが延々と続いた。
合間合間に反論出来る部分もあるにはあったものの、口を挟めば更に長引くだけなので百合音は黙って耐えた。正直心の中では「(え、今回のこれって私が悪いの……?)」と不服を抱えていたが。
予め用意されていた原稿を読み上げているような平淡な口調で語られるお説教に瞼が重くなってきた頃、最初から横であわあわしていた有紗が必死で切り上げに入ってくれたことが、せめてもの救いだった。
因みにホテルの部屋の前に放置したはずのスーツケースはしっかり回収されていた。結局どうやったのかは不明である。表舞台の裏側をこっそり覗きでもしなければ、知ることは不可能だろう。
さて、と百合音は心中の声を敢えて口に出す。
柔らかく朝日を通すレースカーテンだけを閉めて、分厚いドレープカーテンは両サイドに引いてタッセルで束ねる。こんなにも晴れた日に鬱々とした記憶に気分を害されたままでいるなど勿体ないことだ。
そう思って実際にさっさと学校へ行く準備を始めてしまう切り換えの速さは、あまり見せない彼女本来の性格に因るものだったりする。
きっかり一時間後、常人なりに朝は眠たげな有紗と低血圧で朝に弱い冷優に一声掛け、いつ寝ていつ起きているのか分からない風谷に見送られて百合音は家を出た。
その後、無事に登校した彼女が学校での日常を取り戻すには、朝の
百合音は長所の一つと自負する程度には顔が広い人間だが、彼女を知る全員が昨日の彼女の欠席を知っているわけではない。同じクラスの生徒たちに“少し体調が悪かっただけ”と伝えればそれで終了だった。ついでに心配してくれたことへの感謝を付け加えれば、誰しもが満足して席へ戻るか、別の何でもない話題へと移っていった。
誰も、体調不良そのものの理由について尋ねる者などいない。
そんなことは知らなくても、彼らの日常は
だからその日、百合音が校内で気に掛けたことといえば隣のクラスの或る生徒に会わないようにすることだけだった。
(流石に昨日の今日で普通に椿さんの
二日連続のお説教は嫌だ。良くも悪くもその一心で百合音は綿貫桜哉との接触を避けた。元々校内では彼に関わるつもりがなかったが、万が一にも顔を会わせないよういつも以上に気を回した。
ここで一つ留意すべき点がある。
前述の通り、百合音が桜哉を避けた理由は冷優のお説教を免れるためである。
…それが綿貫桜哉の視点から見ればどうなるかは、この時の彼女の頭にはなかった。
放課後にお化け屋敷のスタッフ役のメンバーで文化祭の打ち合わせがあり、百合音が家に帰り着いた時刻はいつもよりやや遅かった。
外から帰ったら手洗いうがい、と洗面所に向かう。そんな彼女に、リビングから顔を出した有紗がこんな事を言ってきた。
「おかえり百合音。ね、これからカラオケに行かない?」
見た目通りに内気な彼女からの外出提案は珍しいことだ。勿論、と二つ返事で百合音は頷く。先週から心労の続く彼女のことを慮っての提案だろう。有紗の透き通ったソプラノの歌声が聴けるのなら百合音としては大歓迎である。
因みに大抵は百合音が、自分が歌いたい+有紗の歌を聴きたいという理由で有紗(とついでに冷優)を引っ張って行く。冷優も音楽自体は好むため、満更でもない様子で着いてくることが多い。
風谷は何やら自室に籠って調べ事をしていたので外出の旨だけを伝え、三人は早速家を出た。百合音は財布などを詰めた小さなボディバッグを身に付け、冷優は白地に金色の文字が刻まれた装丁の一冊の本を胸に抱え、有紗は貴重品の類いを持たせるとよく落とすのでほぼ手ぶらの状態である。
元々百合音の帰宅が遅くなったため、外は既に暗くなり始めていた。街灯や店の明かりがその本分を発揮している。
「いつもの駅前の所でいいわよね?」
「うん。この前もらった割引券も持ってきたよ」
「長居は出来ないわ。吸血鬼が本格的に動く時間までには出るから、二人ともそのつもりでいること」
「分かった」
「はいはい」
「百合音、“はい”は一回」
会話内容はともかく、高校生程度の女子が三人和気
そんなことはさておいて。
それは、他愛もない会話をしながら、雑貨店に洋服屋に食事処などが建ち並ぶ商店街に差しかかったときだった。
「……? あれ、なんだろう、凄く人が集まってるけど…」
「ショーか何かでもやってるのかしら」
「………………」
ざわざわと落ち着かない人々の群れを目の前にして三人は足を止めた。有紗と百合音の二人が、興味本位で集団の視線の先にあるものを覗こうと試みる。
直後、「ひっ⁉」と有紗が引き
「有紗? 何が見えーーーーっ!」
悲鳴に驚きつつも、百合音は有紗が覗いている場所から割り込むようにして人だかりの先を見る。
そこには、血溜まりに倒れている少年と、その傍らで必死に呼び掛けている少年が居た。しかも片方は名前すら分かるほど見覚えのある人物だ。
(まさかあれ、虎雪くん……っ?)
隣のクラスに所属する温厚な性格の同級生である。そんな彼が、何故あんな状況下に取り残されているのか。
百合音が息を呑んでいる間にも状況は動く。ガラスの破片を踏み締める音と共に人々のざわめきが大きくなった。ウィンドウの破られた洋服店から、誰かが歩み出て来たのだ。
白基調のスーツとピンクのポニーテール。
手品師
見馴れたその格好に頭の中で瞬時に該当する人物が浮かび上がり、百合音は目を見開く。
(ーーーーベルキアさん!?)
見るからに不機嫌そうなオーラを出しながら、シルクハットをかぶり直したベルキアが未だに道路に倒れている少年と虎雪にゆっくりと近付いていく。
そのシルクハットから
考えるよりも先に、彼女はベルキアを止めるために人だかりの先へ向けて足を踏み出す。
その彼女の襟首を掴んで、冷優が群衆の外へ引き戻した。
「んぐっ⁉」
問答無用で首が締まり、呼吸のリズムが狂って百合音は咳き込む。彼女を尻目に、人々のざわめきにまた波が立った。
ーーーー龍征連れて逃げろぉっ!!
生理的な涙で滲んだ視界の中で百合音は、ベルキアの頭に飛び付いている別の少年の姿を見た。意表を突いたはいいが、吸血鬼相手にあの捨て身はいただけない。あのままでは彼もベルキアに殺される。
だから百合音は、冷たい視線を送ってくる冷優を無視してもう一度渦中へ飛び込もうと人の壁を見据えた。
しかし。
「有紗、撤収」
「えっ」
「帰るわよ」
無情な声と一緒に再び襟首を掴まれた。
今度は困惑した様子の有紗も加わって、背中を押される。
「待ちなさいよ、吸血鬼が暴れてるなら止めないと! 帰るなんて正気!?」
「色欲のお兄様の幻術に巻き込まれるのは御免だわ」
「は? 色欲って、確か七番目の…? いや違う今はそんな場合じゃないでしょ‼ ちょっ、有紗まで押さないで‼」
「ご、ごめんね? でもなんか、もう別の真祖も飛び出してきてるみたいだし…」
冷優に襟元を捕まれ背中を有紗に押され、大人しくとは言い難いまま、百合音は強制送還されていった。
家に帰り着くや否や、百合音はやや乱暴に冷優の手を振り払った。何も言わずとも玄関を上がった時点で襟首から手を離していた冷優に対しては全く意味のない動作だったが。
そう広くもない廊下で数歩距離を空けて振り返った冷優は、氷のように冷たい瞳を百合音に向けた。彼女が食って掛かるより先に、冷優の方から言葉の槍が放たれる。
「いい加減にして。昨日あれだけ言ったのにまだ理解していないの? 吸血鬼絡みの事にこれ以上首を突っ込むのは止めなさいと言っているのよ」
言葉も瞳も凍えるような温度の低さを伴っているにも関わらず、その中には明確な怒りの色が感じ取れた。
だが勿論、百合音の方も怒っているわけで。
「同級生が襲われてたのに黙って見ていられるわけないでしょ⁉」
彼女は感情を露にすることを
青の瞳がいっそう温度を下げていく。
「姿は見えなかったけれど、あの場には怠惰のお兄様も色欲のお兄様も居た。貴女が飛び出さなくとも勝手に事態は収束すると、どうしてそのくらいの推測が出来ないの?」
「他の真祖の気配なんて読めるわけないでしょうが! それにその推測が必ず当たるなんて保証はないわ。もしも何かあった時にその場に居なくて、何が出来るのよ!」
「何も出来ないわ」
あまりにも迷いのない首肯を受けて、百合音は言葉に詰まった。
次の台詞を考える間もなく、形良い唇が動く。
「だから最初から、何もするなと言っているでしょう」
「………………」
にべもなく吐き捨てられたその台詞に百合音は完全に言葉を失う。元々この二人は正反対なものの見方をする性格で、見解の相違によって衝突することは珍しくもない。だが、これほど一方的に、相手の考えを端から潰すような意見の押し付けをされることは滅多になかった。
絶句する彼女に冷優は青い瞳を
「……とにかく、もう吸血鬼の揉め事に関与するのはやめて。私はお兄様たちと関わりたくないの。これ以上面倒な真似をしないでちょうだい」
言い捨てるように、冷優は踵を返して自室へ戻って行った。くるりと舞った白いワンピースの裾だけが、軽い調子で揺れていた。
冷優の足音が聞こえなくなった頃、口を引き結んで
「あのね、冷優は……何かを怖がってたんじゃないかな。何をかまでは、分からないけど…」
「……分かってるわよ、それくらい」
身長差の関係で上目遣いに見詰めてくる有紗に対し、不貞腐れたような素っ気ない口調で百合音は答えた。言われなくともそれくらいは分かっている。さっきの冷優はまるで毛を逆立てて威嚇する猫のようだったのだから。
「分かってるけど……だから何だって言うのよ」
悔しそうな響きを乗せた呟きが、暗い廊下にただ反響する。
「閉じ籠って関わらなければ勝手に解決するものでも、ないでしょうに」
ーーーーこうして、始まりの一日が終わった。
歯車は回る。
避けようとも、見ぬ振りをしようとも、既に組み込まれてしまった歯車は逃れられない。
物語の主軸となる歯車は、少女たちの運命をも噛み合わせながら、今この時も回り続けている。
原作のイベントに必ずしも関わらなくていいのが二次創作主人公の特権()。