帰り道のことだった。
軽やかな下駄の音が響いたかと思えば、視線の先で歩いていた一人の学生が、消えた。
「…………え…?」
丁度、その学生に追い着いて声を掛けようとしていた百合音は、足を踏み出しかけた状態で立ち止まった。道行く人々が急に動きを止めた彼女に一瞬だけ視線を投げてくるが、当の本人はそれどころではない。
(あれ、昨日ベルキアさんに飛びかかってた男子だったわよね? 今、いきなり、消えた……?)
商店街の一本道でのことである。前方を歩いている少年が、昨晩の事件でベルキアを止めていた彼だと気付いた。それなりに距離があったので軽く走って追い着こうとした矢先に、少年の姿が消えたのだ。
学生が昨日の彼だと認識してから、百合音は目を離してはいない。周りの人間に姿が紛れるほど混雑はしていないし、彼が走り去るような素振りもなかった。本当に
手掛かりは一つ、聞き慣れた下駄の音。
そこから連想できる人物は、今の所ただ一人。
考えが行き着いた瞬間、百合音は自宅に向かって全力で駆け出していた。肩に掛けたスクールバッグの中身がガサガサと音を立てて揺れているが、気にしている場合ではない。
(さっきのあれはたぶん椿さんの幻術。冷優なら何か手掛かりが掴めるかもしれないっ!)
百合音と契約している九番目の真祖は、幻術を操ることが出来る。色欲の兄には敵わない、と本人は言っていたことがあるが、彼女の性格を鑑みるに恐らく“勝てないだけ”であって、“負けない”程度の力量はある。
乱雑に玄関のドアを解錠し、冷優の私室に駆け込む。
「足音が
「時間がないの! さっさと来て‼」
相変わらず読書に
道路に出た所で陽の光に当たって猫姿になった冷優を腕に抱え込みながら、百合音は元の商店街を目指して再び走る。
少年が消えた場所まで来て、そこでようやく百合音は足を止めた。そこそこの距離を全力疾走したせいで上がった息に邪魔されながらも、腕の中の白猫へ要件を話す。
「ここでっ、昨日商店街にいた男子が、消えたの! 椿さんの、幻術だったとしてっ、どこに行ったか分からない⁉」
「……………………」
どうして椿の仕業だと仮定するのかについて何の説明もしていないが、相手は“一を聞いて十を知る”を地で行く聡明な少女だ。証拠に冷優は、要点しかない百合音の言葉に疑問は挟まずじっとコバルトブルーの瞳を商店街の一点に向けていた。
そして、唐突に百合音の腕から抜け出そうと暴れだす。
「えっ、ちょっと!」
腕の中でもがく冷優との攻防がしばらく続き、一瞬の隙を突いて猫の肢体が伸び上がるように飛び出した。
「あっーーーー!」
捕まえ直そうと伸ばされた百合音の手をしなやかな動きで
そしてその途中、後ろ足で思い切り百合音の背中を蹴り飛ばした。
「うわっ⁉」
猫の脚力を甘く見てはならない。自分の身長の何倍もの高さへと軽く跳んでみせることからもそれは分かるだろう。
前に倒れることを予測した身体が咄嗟に手を突く準備をしようと腕を前に出す。その動作と同時に、ざわりと周囲の空気が変わったのを百合音は感じ取った。
ーーーーて欲しいだけなんだっ!!
「ーーーーっい、たぁ……」
後ろから押されて倒れ込んだせいで体の下敷きになった腕の痛みに小さく呻き声が漏れる。その時、俯せの状態の彼女に見えたのはアスファルトではなく、霧に
サァサァと雨の音が耳につく。
聴覚からの情報と体感が合わない。ずっと降り続く小雨の音が聞こえているのに、肌に雨粒の感触はない。
顔を上げて見渡せばそこは商店街ではなく、赤い霧の立ち込める空間だった。
次いで、突然現れた彼女に驚愕している三人の人物が視界に入る。昨日の少年と椿、そして椿の持つ刀を服の裾(?)で受け止めている薄い水色の髪の青年。
だが、辺りを見回しても白い猫の姿が見えないことに気付いて百合音は心の中で舌を打つ。
(あの子、私を放り込むだけ放り込んで一人で帰ったわね……!)
仮にも主人を置き去りにする下僕とは
直後、また高い金属音が響いて椿と水色の青年が距離を取った。左手に黒い刀を構えた椿が、雨の音を掻き消すように笑う。
それから、ゆったりとした挙動で彼は百合音の方へ身体を向けた。
「やぁ、百合音。まさかこんなに早く再会できるなんて思わなかったよ」
「私もです。けど同級生が巻き込まれてたら見過ごすわけにいかないじゃないですか」
同級生、という単語に少年が驚いた顔をしていた。立ち上がりながら、同じオレンジ色のブレザーに身を包んだ彼を改めて正面から見て、百合音は彼の特徴と頭の中に入れてある名前とを照らし合わせる。
「貴方、城田真昼くんであってるかしら?」
「え、なんで、俺の名前……」
「私は隣のクラスの五組の、鈴白百合音。貴方の名前は虎雪くんから聞いたことがあるわ」
虎雪の知り合い……⁉ と目を見開く城田真昼に詳しい解説は付け加えることなく、油断せず百合音は椿に向き直る。
すぅ、と息を吸い込んで、左足首に意識を集中させる。
すると白い光が螺旋を描いて飛び出し、黒い大鎌を
輪郭だけが白く輝くそれの柄を両手で掴み、彼女は自然な持ち方で構え直す。その大きな見た目に反して軽く振るえる程度の重さしか感じない。手に馴染んだそれを握れば、神経が研ぎ澄まされる感覚があった。
「へぇ、それが君の
興味深そうに呟きながら、椿は百合音ではなくその周辺に視線を配っている。恐らく、彼女の真祖の姿を探しているのだろう。見付かるわけがないのだが。
案の定、不満げな顔で「ねぇ、君の真祖はどこ?」と問い掛けられた。仕方がないので百合音は素直に答える。
「帰りました」
「は?
「はい」
「……仲悪いの?」
何故か、若干憐れむような視線が椿から送られてくる。
「別に悪くはないですよ? あの子と仲良しこよしになるのは寒気がしますけど」
「いや完全に仲悪いだろそれは……」
成り行きを見守っていた真昼からもツッコミが入った。
その時。
「ねェねェつばきゅん~☆結局コイツどーするのォ?★☆★」
「!!!?」
突然足元から聞こえてきた声に百合音はその場から飛び退いた。
二歩分ほど離れ、元の位置を見下ろせばいつの間にかそこには既視感のあるフォルムの人形が座っていた。
「ぇ…………ベルキアさん?」
「他のナニに見えるのサァ~?★☆★」
「本人⁉」
近付きしゃがみ込んでまじまじと観察すれば、見慣れた手品師の服装に白いシルクハット。眼はボタンで口は縫い目。袖は何故か萌え袖状態になっている。
(可愛い……)
物へのこだわりが薄い彼女だが、可愛いものは素直に好きである。おもむろに鎌を地面に置き、しゃがんだまま百合音はベルキア(人形)に手を伸ばし腕に抱え込んだ。手足をだらんとしてされるがままなところがまたあざとい。
人形フォルムのベルキアを抱っこした後、少し遅れて百合音は首を傾げた。ベルキアが言った、どうする?、とはどういう意味なのか。既に彼女は風谷の元に戻った、自由の身なはずなのだが。
疑問符を浮かべた百合音が椿の方へ視線を投げれば彼は彼で、んー、と右袖で口許を隠しながら悩む素振りを見せている。一体憂鬱の彼らの間では鈴白百合音に関してどんな議論があったというのだろうか。
「迷うくらいならさァ~、とりあえず連れて帰っちゃえばァ?★どうするかは後でも考えられるしィ☆★☆」
いつものノリでさらっととんでもないことを提案したベルキア(人形)を百合音は反射的に放り投げた。ぺしゃっ、と軽い音を立ててベルキアが顔面から地面に落ちる。
「イッた~い! ナニすんだヨ~!!★☆★」
俯せでジタバタしている様子は絵面だけなら可愛らしいのだが、
「あはっ……そうだね。そうしようか」
椿が乗り気になってしまっているからだ。
「お断りします。前みたいにやすやすと
大鎌を両手で掴み直して立ち上がり、百合音は椿と対峙する。
と、その前に。
「椿さん、一つ聞きたいことがあります」
「なぁに?」
「貴方は何をしようとしてるんですか?」
「君さっきの僕の話聞いてな……あ、聞いてなかったね」
「どんな話か知りませんけど、聞いてないですね」
え、さっきのくだりもう一回やらなきゃダメ?と引き気味に少し後退る椿。どうも、百合音がこの空間に割り込む前に城田真昼に対して似たようなことを話してしまったようだ。
「別に長々と語ってもらうつもりはありません。私はただ、どうして一般人を襲ってるのかの根本的な理由が聞きたいだけです」
「……僕は“戦争”がしたいんだよ。僕と、僕を知らない兄さんたちとの“兄弟戦争”が」
「
「そうだよ。だから君の真祖が誰なのか、早く知りたいんだけど」
「……近いうちに分かると思いますよ、きっと」
「へぇ…」
ゆら、と白い羽織が揺れる。それは彼が動き出す前の、僅かな予備動作。
「それは楽しみだねっーーーー!!」
「!」
ガキンッ‼と鋭い金属音が響いた。一瞬で距離を詰めて襲い掛かってきた椿の刀を、寸前で百合音は鎌の柄で受け止める。
しかし当たり前だが、吸血鬼と張り合えるような腕力は彼女にはない。このままでは数秒ともたずに押し切られるだろう。
「クロッ!!」
「めんどくせーのが増えた……」
怠そうな低い声とは裏腹に機敏な動きで水色の青年が百合音と椿との間に割り込んできた。状況から察するに、彼は城田真昼と契約した
キンッ!と硬質な音が響き、一度距離を取るために後ろに跳んだ真祖に対し、追った椿の飛び蹴りがその胴に入った。仰向けに地面に叩き付けられた彼の胸部を、潰す勢いで椿の下駄が踏む。
内臓が破裂でもしたのか血を吐いた真祖を、更に椿は蹴り飛ばした。
「クロッ⁉」
「ーーーーはぁっ‼」
血を流す真祖に駆け寄ろうとした少年を庇う形で椿の前に飛び出し、百合音は横凪ぎに鎌を振るう。が、椿は身軽な跳躍一つでそれを避け、宙でくるりと身を翻して上から百合音へと斬りかかる。
「っ!」
刃を受け止め、直ぐに重点をずらして受け流したところまでは良かった。
しかし今度は着地した椿が水平に刀を振るう。柄で刃は防いだものの横合いからの強烈な衝撃に堪らず百合音はバランスを崩してしまった。片足が地面から離れ、危険を感じた瞬間にはもう、更に重い打撃を鎌の柄に叩き込まれて百合音の身体は吹き飛ばされていた。
「……っ、……!」
赤い霧に覆われた地面に転がった彼女に慌てて駆け寄ろうとした真昼が、首元に刀の切っ先を向けられて否応なく立ち止まる。
動くことを禁じられたからか、収まりきらない感情と思考が彼の口から溢れだしていた。
「分っかんねぇ……戦争ってなんだよ…何でそんなこと……!」
混乱を如実に表している城田真昼の胸ぐらを、椿が掴んで持ち上げた。そして端的に答えを放つ。
「面白いからだよ」
聞き慣れたそのフレーズに、思わず百合音は体の痛みを無視して顔を上げた。椿の横顔を食い入るように見詰める。
“面白いから”。それは、彼女の保護者である風谷巽がよく口にする台詞だった。
だが違和感がある。同じ理由なのに、全く違うように聞こえる。
「誰が死んだって関係ない。僕が面白いなら他のことはどうでもいい」
続いて放たれた台詞を耳にして、百合音はその“ずれ”の正体に気付く。
(……あぁ、道理で…)
二人の違いが、分かった。
風谷もまた自分が面白ければ他のことはどうでもいいと豪語する人間だが、彼女の根幹を成すのは意外にもまともな道徳心だ。だから風谷は常に、一つでも多くの命が守られるようにと、無意識下でそういう方針に従った行動を取っている。要は彼女にとっては、
(それに、風谷はあんな顔はしない……)
無表情の上に狂気を塗りたくって笑みを貼り付けたような椿の表情は、同じように“面白い”という理由を口にする時の風谷とは全く異なる。風谷ならばもっと、心の底から愉快そうで、子供のように純粋な笑みを浮かべて言う。両者は同じ理由を掲げていても、そこに込められた感情に明確な差があるのだ。
そして、普通に考えて言葉と表情が噛み合っていないのは、椿の方である。
(……いつもは笑いながら面白くないって言うくせに、面白いからって言ってるときの顔がそんなんじゃ、いつまでたっても笑えませんよ)
一つ、確かに見付けた椿の“歪み”。
人は簡単に矛盾や歪みを抱えるものだが、それらが深く心に根を張ってしまうと非常に生き辛くなる。その苦しみは、百合音もよく知っている。
「君に僕の気持ちは分からないし、どうせ誰も僕を知らない。どうせ世界の誰も僕を理解しない」
不自然に感情の削がれた声だった。
まるで何度も口にしたせいで、乗せていたはずの感情が擦りきれて
一体何度、彼はその言葉を口にしてきたというのだろう。言葉はある種、呪いだ。自分自身を圧迫し、歪めていく呪いだ。椿の心は、どれほどその歪みに蝕まれているのか。しかしそれを知る術は、今の百合音にはない。
「……何も面白くないのは、お前が自分の気持ちと向き合えてないからだっ…!」
その時、苦しい体勢のまま、それでも絞り出すように言葉を紡がれた真昼の台詞に百合音ははっとした。
強い意志を込めて放たれる言葉は、ただの一般論から組み上げられた正論とはどこか違う。
「お前が、誰も自分を知らないって感じるのはっ……、お前自身が誰とも向き合ってないからだ……!」
真昼の言葉に椿はきょとんとした顔で瞳を瞬かせた後、理解不能だという意思表示をしてから彼の身体を放り出した。
そして、嗤う。
「そうかもねぇ!? だから“戦争しよう”って言ってるんだ! コミュニケーションの手段だよ! ポジティブでしょ!?」
「違ぇよ‼ お前がどうしても戦争するっていうなら、俺が止める! 俺にだって、お前と向き合う手段があるんだ‼」
少年が、立ち上がる。
「
強い決意を秘めた真昼の表情に百合音は息を呑んだ。椿と過ごした時間の中で彼女の手が届かなかった部分に、彼は一気に踏み込もうとしている。
……ぶわり、と百合音の周囲に
「俺と向き合えって言ってんだ!! ーーーー名前を付けてやる!」
椿に正面からぶつかっていく城田真昼の姿が、青い霧に邪魔されて見えなくなっていくーーーー。
ーーーーはた、と気が付けば、百合音は薄暗い路地に座り込んでいた。
「……気は、済んだかしら?」
「っ!」
振ってきた声に対し反射的に見上げれば、彼女の傍らには不機嫌そうな冷優が立っている。どうやら帰ったわけではなかったらしい。彼女によって、あの空間から強制的に引きずり出されたようだ。
「……城田くんたちは?」
「色欲のお兄様が助けたわ」
簡潔な答えだった。それ以上のことは、話したくないというように。
しかし百合音には、聞いておかなければならないと思う疑問があった。
「ねぇ、どうして椿さんは貴女のことを知らないの?」
「………………」
百合音が
吸血鬼の真祖は七人兄弟。上から怠惰、傲慢、嫉妬、憤怒、強欲、暴食、色欲。そのことは大分前に冷優から聞かされたことがあった。
ならば、八番目と九番目は共に“番外”の存在であるといえる。しかも、椿も冷優も過去にC3に居たと聞いている。こうも境遇が同じであるのに、何故椿は冷優の存在を欠片も知らないのか。
百合音の問いに、彼女は一瞬だけ眉を動かし、それでも無表情を貫いた。
「お兄様たちは誰一人も私の存在を知らない。それでいいの。……そうでなければならないの」
最後に付け加えられた言葉はどういう意味かと百合音が尋ねるより先に、冷優は
(……兄弟の誰からも存在を認知されてない状況に、悲しんだり憤ったりするならまだ分かるわ。けど、“そうでなければ”なんて台詞が出てくるのには絶対に何か、別の理由が挟まっているはず。……それに、)
先程、冷優の顔を見たときに百合音は幻術空間で椿に対して感じたものと同じ“ずれ”を感じた。
(どう見ても、“それでいい”って顔してなかったわよ……)
真祖たちのことを“お兄様”と呼んでいることから考えても、冷優は決して兄たちに悪感情を抱いているわけではないように思う。寧ろ、感情表現に
それでも今は何も言わず、百合音は既に帰路を歩み始めている冷優の背中を追った。
だが、路地から商店街へ戻る直前で、ふと足を止めた冷優に阻まれる。
ーーーー僕の名前は“椿”だ。…ねぇ? 先生……。
コン、という下駄の音と一緒にどこからか聞こえた椿の呟き。
「……………………“先生”、」
その名を、冷優は噛み締めるように繰り返していた。
それは、普段の淀みない彼女の口調とは違う、酷く頼りなさげなものだった。
色々と盛り込んだら長くなってしまった…。シリアスの中に不用意にギャグを挟むと、シリアスに戻すのに時間掛かりますね…。