朝。
まだ半分寝ている眼をぎゅっと閉じたり開いたりして起こしながら自室から出てきたのは、九番目の真祖・冷優の
チェック柄の寝巻き姿のまま、窓から取り入れられている朝日で照らされた廊下を、よたよたとした足取りで歩きながら洗面所に向かう。
朝日、つまりは日の光は吸血鬼である彼女には大敵だが、そこは勝手知ったる我が家。廊下のどこらへんに窓からの日差しが射し込むかくらいは把握している。もっとも本日の空はあいにくの曇りで、注意しなければならない程の強い太陽光は降り注いでいないが。
洗面所にて歯磨き洗顔を済ませ、幾分かすっきりとして眠気の覚めた有紗は、今度はリビングへ足を向ける。
と、そこでようやく気が付いた。
(あれ……?)
やけに家の中が静かで、いつもの朝と違っていることに。
リビングの扉を開けてみても、いつもなら確実に居るはずの人物の姿が、ないことに。
(……もしかして百合音、まだ起きてない…?)
そう、この家で一番早起きな彼女の姿がどこにもなかった。
寝坊だろうか。だがそもそも百合音の起床時間は一般的な高校生のそれよりかなり早い。少し寝過ごした程度では学校に遅刻するほどの時間にはならないが……と有紗はリビングの掛け時計を見上げる。短針は7を僅かに過ぎた場所を指していた。
通学に時間が掛かるほど学校が遠いわけでもない。今起こせばそれほど慌てることもなく準備が出来るだろうと、有紗は百合音の部屋へ足を運んだ。
シックな茶色のドアを、ノックをする。
「百合音、そろそろ起きないと学校に遅れちゃうよ?」
……返事がない。
「百合音? 入るよ?」
ノブを下げ、ドアを押す。
静かにスライドしていくドアと共に足を踏み入れれば、ベッドにはまだ眠っているのだろう百合音の姿がちらりと見えた。ドレープカーテンが引かれたままの室内は、朝日もろくに入らず薄暗い。
ベッドまで近付き、壁側を向いて眠っている百合音にもう一度声を掛けようとした瞬間、彼女の体がびくりと揺れた。
有紗が近付いたことに反応して起きてしまったのだろう。相変わらず人の気配には敏感である。
「だ、大丈夫? 百合音…」
「っ…………ぁ、ありさ……?」
寝起き特有の、力の抜けた声が聞こえた。緩慢な動きで百合音がこちらへ寝返りを打つ。少し癖のある長い黒髪が緩やかに曲線を描いて散らばっていた。
朝型体質で寝起きの良い彼女にしては珍しく、ぱちぱちと眠気を振り払うように何度か瞬きが繰り返される。
「……あ、今、何時?」
「7時ちょっと過ぎ」
「!」
有紗の返答を聞いて思考が覚醒したのか、慌てて百合音が上体を起こした。
「あ、待って!」
そしてそのままベッドから下りようとするその動きを、寸前で有紗は押し止める。ただの寝坊なら止めたりはしなかったが、彼女には今の百合音の反応や顔色には嫌な心当たりがあった。
「ねぇ百合音、もしかして昨日、あんまり眠れなかった…?」
「………………」
そこで視線を逸らして黙り込むのは図星であると、有紗は知っている。
あれは、もうかなり前のことだ。風谷が百合音を拾ってきて直ぐの頃、彼女は慣れない場所でほとんど眠れずにいたことがあった。しかも本人がそれを隠して振る舞うため、まだ幼かった有紗は違和感を垣間見つつも見過ごしてしまった。その件はその後色々あって解決したが、有紗の記憶には後悔と共に強く焼き付けられている。だからこそ今、日増しに顔色の悪くなる彼女を間近で見た経験のある身としては、二度と同じことをさせるわけにはいかない。
「とりあえず、風谷呼んでくるねっ」
「えっ、ちょっと有紗⁉」
ベッドの上に百合音を座らせたまま、有紗は部屋から飛び出した。
後ろから大丈夫だからと聞こえた気がしたが、この世で百合音の言う「大丈夫」ほど信用してはいけない言葉など中々ないと思っている有紗はスルーした。ついでに風谷の部屋に行くと彼女も書類を読んでいる途中で寝落ちたようで机に突っ伏していたが、こちらにも容赦なく有紗は引っ張り起こした。
ぐいぐいと服の裾を引っ張りながら部屋から出ると、往生際悪く風谷が言う。
「ねぇちょっと有紗、眼鏡が机に置き去りなんだが…」
「なくても見えるよね?」
「うっ」
振り返りもせず言われた有紗からの一言で図星を突かれた風谷は
ぶっちゃけ彼女は、電子機器の普及で視力をガリガリ削られているそこいらの現代人たちより余程目が良い。いつも掛けている銀縁の眼鏡はいわゆる伊達眼鏡だ。寧ろブルーライトカットとか、視力を矯正するのではなく目を守るための意図を持って掛けている眼鏡である。故に掛けていなくても実は大して問題ない。
そのまま階段を下り、百合音の部屋に到着。中へ突入すると数分前と変わらず髪を下ろしたままの彼女が居た。軽く俯いているせいで長髪が表情を隠している。
そしてここでようやく有紗は、風谷を連れて来たは良いが百合音の状態の説明をすっかり忘れていたことに気付いた。が、観念したのか自主的に部屋に入っていった風谷が既にベッドの横に勉強机の椅子を持ってきて診察体勢に入っていたため、こっそりその隣に立つ。
「顔色が良くないね。昨日の夜からそんなに悩んだのかい?」
「………………」
「悩み事?」
風谷の台詞に有紗は首を傾げる。
あの百合音を不眠に追い込むほどの悩み事など、有紗には
「まぁ、今の君がそこまで悩む事柄なんて私には一つしか思い当たらないが」
「………………」
また、百合音が返したのは沈黙だった。
どうも、有紗の知らない何かがあるらしい。
「彼ーーーー綿貫桜哉について、知ってしまったのかい?」
ワタヌキサクヤ。
有紗の知らない人物の名だった。
風谷に促されるように、百合音は視線を下に向けたまま呟く。
「……真昼くんが、知らなかったの。それに、知らないことに、気づいていなかったの」
ぽつりと
「桜哉くんはたぶん、真昼くんと友達でいるために嘘を吐いてる…。それに、誰も気づいてない」
嘘。それは一つのキーワードだ。
恐らくサクヤくんとマヒルくんは、百合音の口振りからして同級生あたりだろう。
「どうしよう、私、桜哉くんは友達だって言ったのに。でも、今の桜哉くんがやってることは、私と……私と、同じにしか、見えないの」
普段よりずっと
あぁ、とやっと有紗も理解が追い付いた。
百合音は嘘が嫌いだ。けれど、彼女は誰よりも嘘を吐く。
その場を丸く収めるため、対立をなくすため、誰かを安心させるため、他人を庇うため。そういう理由がある状況になれば、鈴白百合音は躊躇なく嘘を吐く。誰にも見抜けない上手な嘘を、吐いてしまえる。
そこに悪意や保身は欠片もなく、ただ笑顔でいられる人が一人でも増えるなら、その方が良いというだけの理由だ。嘘はいけないものだと、分かっているのに。
だから彼女は、そんな自分自身をこの世で一番嫌っている。
嘘が嫌いで、けれど誰かのために嘘を吐いて、嘘に塗れた自分が嫌い。それが鈴白百合音という少女だ。
因みにそれを冷優に言わせると、「他人への優しさで自分を傷付ける死ぬほど面倒くさい馬鹿」となるのだが。
……だからこそ、“自分が嫌い”な彼女は、どう頑張ろうとも“自分と似た”人物を肯定することが出来ない。
きっと、友達だと言った彼に対して嫌悪感を抱く自分と、そのことに罪悪感を抱く自分との狭間で今、百合音は苦しんでいるのだろう。
未だ俯く彼女の頭を、風谷がそっと撫でた。
「焦る必要はない。その言葉を忘れていないなら問題ないさ。大丈夫、君は乗り越え方を知っているはずだよ」
優しく、慈愛に溢れた声色だった。
“家族”しか知らない、風谷巽の一番穏やかな声。
「少し寝なさい。学校には連絡しておくから」
撫でられるままだった百合音が、少し顔を上げた。
「でも、この前も休んだところ…」
「おや、何のために普段真面目に通っていると思ってるんだい? こういう時にずる休みだと疑われないためだよ」
「「それは違うと思うけど」」
思わず有紗と百合音が声を揃えると、風谷は可笑しそうに笑った。
百合音をベッドに押し込み、風谷と共に有紗は部屋を出る。百合音を一人にするのは心配でもあったが、風谷がこれで良いと判断したのなら大丈夫だろうとも思えるのだから、不思議なものである。
そしてその、四時間後。
風谷はまた部屋に戻っていたが、有紗はリビングに残っていた。更に何故か冷優が、起きてきてからずっと珍しくもリビングで読書をしていた。
そんな状態で、もうすぐお昼時に差し掛かりそうな時間帯になったところで、である。
「ーーーー買い物行くわよ!!」
「!?」
バンッ!と効果音が付きそうな勢いでリビングの扉を開けて現れた百合音に、有紗は驚きで小動物のように身を震わせた。
「ゆ、百合音? もう大丈夫なの?」
「大丈夫じゃないわ」
「えっ」
「けどここから先はもう、次に桜哉くんに会ったときに考えることにした」
だから今は休日を有意義に使う! と宣言して彼女はキッチンの棚に入っているエコバッグを取り出した。ついでに、いつの間にかリビングから出ていこうとしていた冷優の首根っこを捕まえて。
「なに戻ろうとしてるのよ。当然貴女も連行するわよ?」
「私に行くメリットがないわ」
「帰りに本屋さん寄ってあげる」
「………………」
沈黙とはこうも雄弁に肯定を語るものだっただろうか。冷優の同行が決まり、上機嫌で百合音は買い物の準備を進めていく。
……強いなぁ、と有紗は呟いた。自分には無いものを持つ者に対する
鈴白百合音は強くて、明るくて、どんな困難にも立ち向かっていける人間だ。
決してそれが彼女の全てではないと知っているけれど、どうしようもなく憧れてしまう。
「ーーーーほら有紗も行きましょ! 今日かなり曇ってるし、大丈夫よね?」
数時間前までの落ちこみ様など全く見せない、屈託のない笑顔を浮かべた彼女が手を差し伸べていた。
(同じにはなれないけど、私もいつか百合音みたいに、自分で乗り越えられるようになれたらいいな)
……流石に数時間で立ち直るのは無理そうだけど、と心の中で苦笑しつつ、有紗もまた笑顔でその手を取ったのだった。
丁度良いことに特売をしていたスーパーで色々と買い込み、エコバッグを抱えながら百合音たちは冷優お気に入りの書店へ向かっていた。
空は朝と変わらずものの見事に真っ白で、しかし雨を降らせそうな黒雲は見当たらないという、有紗を連れ回すには格好の日和だった。隣でスーパーの袋を
(朝はちょっと心配かけちゃったみたいだし、これで不安が晴れてくれたらいいんだけど…)
綿貫桜哉の件がこれほどまでに心に重くくるとは、彼女自身も計算外だった。やはり風谷の予測は侮れない。
エコバッグを抱え直しながら、いつかの帰り道のように公園に差し掛かったとき。ふと百合音の目に綺麗なピンク色の髪が留まった。
「あの子たち、たしかリリイさんの
「!」
幼い双子の姿をした吸血鬼が、公園の向こう側にいた。
そしてまさか百合音の声が聞こえたのかは分からないが、双子がぱっと振り向く。その直前、百合音の呟きを聞いた冷優が一瞬にして猫の姿になり公園の周りを囲っている花壇に逃げ込んだ。
「百合音!」
「百合音ー」
ぱたぱたと揃って駆けてくる二人に、百合音と有紗も迎えるように公園の中へ足を踏み入れた。
「二人とも、こんなところで何してるの?」
「「リリイのおつかい」」
声を揃えて二人が答える。
椿の
その時。
「ーーーーひっ‼」
どさり、と買い物袋が取り落とされる音。
それに
「有紗……?」
それらを発した少女へ、百合音と双子の視線が動く。
コンッ、と。
その音が耳に入った瞬間、ぞわりと背筋に悪寒が走った。
ゆっくりと、百合音は振り返る。
同じ公園の花壇の囲いの中で、
からころと鳴る下駄、目を引くシルクハット、鈍く光るアタッシュケース、見慣れたナース服。
鮮やかな緑の髪だけが見えなかったのは、まだ幸いだったかもしれない。
先頭を歩く
「やぁ百合音、久しぶり」
ーーーーそれは、新たに立ち塞がる壁だった。
しかし今度は、百合音が乗り越えるべきものではない。
風の所為かはたまた別の要因か、花壇の茂みが
毎度ご閲覧ありがとうございます。
さて、今年はこれで更新納めとさせて頂きます。
今年、一年に満たない間ではありますが、私の拙作に目を留めてくださった方々には心より感謝申し上げます。
来年からも引き続き連載していきますので、どうぞよろしくお願いします。
それでは皆様、よいお年を☺。