寝耳に水な話だった。
文化祭前日で、浮き足立った教室内。皆が各々に準備の最終段階に取り掛かる中、飾り付け用の画用紙にハサミを入れていた百合音は一緒に作業をしていたクラスメイトの口から零れた噂話に、目を見開いて固まった。
教室の窓に貼る予定のデフォルメされたおばけの切り紙が、ひらりと彼女の手から滑り落ちる。
「ーーーー桜哉くんが、転校した…?」
そんな話は、一昨日まではどこにも無かったはずだ。
話を聞くに、桜哉が転校したのは先週のことらしい。だがそんなことはあり得ない。百合音は校内では顔が広く、それ故に耳も早い方だ。特に人の噂には常にアンテナを張っている。もし本当に彼が先週転校していったのなら、彼女ならばとっくに聞き及んでいたはずだ。
(……なのに今いきなりこんな話が飛び込んでくるってことは、文字通り、転校の話が皆の記憶に“差し込まれた”から……)
動揺して落としてしまった切り紙を、クラスメイトが拾ってくれた。それに反射的に礼を言いながらも、疑問は止めどなく溢れ出す。
(まさか昨日、私の知らないところで、何か起こってた? 冷優のことを暴きに来た椿さんたちの中に桜哉くんがいなかったのは、関係がある? それとも、もっと他に……)
思考が意味もなく空回る。
一度に大量に情報を与えられると整理しようとして逆に全ての思考をストップさせてしまうというのは、彼女の悪い癖だった。落ち着いて考えれば良いだけの話なのだが、どうにも思考の制御という点には普段の器用さが発揮できないのだ。
(……今は、とりあえずこの作業を終わらせなきゃ)
考えずとも色ペンの縁取りに沿ってハサミを進めることくらいは出来る。使い物にならない思考が落ち着くまで、百合音はしばらく何も考えないことにした。
昨夜の騒動で怪我を負った御園の入院に際する手続きや必需品の持ち込みが粗方終わった頃合いだった。
小さめの冷蔵庫に食後用の林檎を忍ばせていたリリイは、ぱたぱたと駆けてくる控えめな足音を耳にしてドアへ顔を向ける。
「リリイー」
「リリイ!」
すると双子の
「おや、二人とも、病院の中で走ってはいけませんよ」
「ごめんなさい…」
「でもお話があるの」
昨夜は無理をしたせいか、御園は未だに眠っている。怪我は深くはなかったため、昏睡という訳ではなくあくまで正常な睡眠である。個室にも関わらず広いこの病室でなら、静かな声で会話をすれば御園が起きることはないだろう。
そう判断したリリイは、双子を部屋の隅に招いて視線を合わせるために膝を折った。
「それで、どうしたのですか?」
「「
問い掛けたのはこちらのはずだが逆に質問をされ、リリイは首を傾げながらもそれに答える。
「そうですねぇ……私が末っ子で七人だと思っていましたが、八番目が出てきましたからね。今は八人兄弟でしょうか」
「「本当に?」」
間髪入れずにそう返され、リリイは戸惑った。
双子の吸血鬼は一度顔を見合わせ、また声を揃えて。
「「
学校内で彼の姿を見つけられたのは、本当に幸運な偶然だった。
「真昼くん!」
「っ、鈴白さん…⁉」
百合音でさえ異変に気付いているのだから、桜哉と同じクラスの真昼ならばもっと詳しい話を知っているかもしれない。
そんな期待を抱え、百合音は何故か私服姿の彼に問う。
「桜哉くんが転校したって話、聞いた? 何が起こってるか知らない?」
「えっ……」
早まったことをしたと気付いたのは、真昼の表情が驚愕のそれに染まってからだった。
「鈴白さん、桜哉と知り合いだっけ…?」
「っ、!」
返された、その率直な疑問に百合音は息を詰まらせる。取り返しのつかない類いの失敗をしたと直感的に悟った。この状況からは巻き返せないものだと彼女は知っている。
いや、考えてみればそもそも昨日の椿たちの襲撃と、冷優の存在についても話さなければならないのだろう。色欲の主従には話すまでもなくもう双子の証言から伝わっているかもしれない。だとすれば目の前の彼にも既に連絡がいっている? それはないと思いたい。百合音が九番目の
直ぐに処理限界に達する思考能力の不出来さに更に百合音は苛立ちを募らせる。
だが真昼の方は別の結論に至ったようで。
「…もしかして、
「えっ…?」
今度は百合音が戸惑う番だった。話が思わぬ方向へずれて行っている。
「たしか鈴白さんには、桜哉のこと、少しだけ話してたよな。俺の幼馴染って」
「えぇ、」
「だから、桜哉が転校したって話を聞いて俺に知らせに来てくれたってこと……じゃない、のか?」
「………………」
どうやら真昼の目線から見れば、百合音は真昼の幼馴染だと聞いていた桜哉が転校したという噂を突然聞いて、記憶の改竄がなかったためそれに違和感を感じ、心配して真昼に声を掛けにきた、と思われているらしい。
事実とは違う。……違うのだが、そしてこれ以上嘘を重ねる気もないのだが、それでも百合音は真実の方を脇に置いておくことにした。
「……真昼くん、本当は私から色々と話さなきゃいけないことがあるんだけど、でも今は桜哉くんと何があったのか、聞かせてくれる?」
どのみち、椿に関することは色欲組も交えて話した方が都合がいい。それにしても誠実とは言いがたい切り返しだが、それよりも先に桜哉のことを聞きたいという思いが百合音の中では勝っていた。
今まで百合音は、桜哉は椿の『計画』とは関係なく、ただ学校生活を楽しみたいがためにこの高校に通っているのだと思っていた。学校でのことを語る彼の言葉は全て本心からのものに聞こえたし、何かの計画に沿った打算など微塵も感じられなかった。事実、時系列で言えば椿は随分前から動き出していたはずだが、この時まで桜哉は普通に学生生活を続けていたのだから。
それが何故、こんなにも唐突に記憶の改竄までして去っていったのか。
「実はあいつ……桜哉は、椿の
「!」
その一言で、疑問は解消された。
単純な話だ。真昼に正体を明かしてしまったから、もう学校には居られないと判断しただけのことだ。
そしてそれから、真昼の口からは昨晩起こった憂鬱組からの襲撃、御園の負傷、嫉妬の主従の介入などが語られた。勿論、桜哉の嘘についても。
「俺、桜哉のこと何も分かってやれてなかったんだ。あいつのこと、もっとちゃんと知ろうとしなきゃいけなかったのに…!」
そう、後悔を吐露する真昼の姿に、百合音は掛けるべき言葉を見失っていた。
今、百合音は城田真昼に同情を抱くことは出来ない。何故なら彼女は綿貫桜哉の立場の方がより身近であり、どう足掻いても真昼と同じ心境にはなれなかったからだ。
ただ一つ、言えることがあるならば。
「……真昼くんは、悪くないわ」
慰めではない。
だって、真昼が嘘を吐いてしまうまで、桜哉はこう思っていたはずだ。吸血鬼だとバレることなくずっと真昼と友達でいたいと。そのために自分が吐いている嘘にどうか気付かないでくれと。非日常などなく、ただ平穏な学校生活が送りたいだけだからと。
つられるようにして思考が椿を含む憂鬱組全員を
その偽りが暴かれないように細心の注意を払って隠していたのは桜哉であり百合音なのだから、欺かれた側が心を痛める必要などどこにもないのだ。
拳を握り締めて俯く真昼とは反対に、百合音は色褪せていく空に視線を逃がした。
ただ、純粋に後悔だけを抱えることの出来る彼のことが、少しだけ羨ましく思えた。
スッ、と滑らかにドアが開く。
相変わらず照明の点けられていない部屋には、パソコンの画面だけが光源として光を放っていた。
部屋の主に声を掛けることもせず足を踏み入れた百合音は、そのままパソコンに向かっている人物の後ろまで歩みを進める。
パソコンには、中サイズに縮小されたウィンドウが幾重にも画面を覆っており、一番上に引き出されたウィンドウには学生証のようなものが表示されていた。ありふれた青い背景の証明写真には眼鏡を掛けた男子学生が映っており、写真の横には細かい文字で個人情報らしきものが掲載されている。内容までは読み取れないが、学年や生年月日あたりが書かれているのだろうと予想がついた。
何故か学生証のウィンドウはパソコン画面の右上に揃えて表示されており、風谷の背後に立つ百合音にも見える位置にあった。
行儀悪く机に肘を突いて手の甲に顎を乗せ、画面に映る写真の人物を見詰めながら、彼女ーーーー風谷が呟く。
「私と同い年で高校に潜れるあたり、やはりかなりの童顔だよなぁ…」
君もそう思わないかい? と振り返らずに同意を求められたが、百合音は応えなかった。
「……風谷、」
彼女は今、願いを叶えてもらうためだけにここに居るのだから。
「教えて、桜哉くんのこと」
真昼からは昨晩の話を聞いたのみだ。綿貫桜哉が記憶操作をして彼の幼馴染を装っていたこと、椿の
しかし百合音にはまだ飲み込めない点がある。たとえ真昼が嘘を吐いてしまったにしても、桜哉がそこまで城田真昼との関係に執着していたのなら、わざわざ昨日真昼の前に敵として対峙する必要はなかったのではないかと思うのだ。真祖と
どうして桜哉がそこまで椿に従うのか、真昼と敵対することを選ぶのか。その行動に至る桜哉の考えが、百合音には分からない。
だからこそ。
「ちゃんと、知らないと」
付け加えるように発した声は、普段の彼女のものとは比べ物にならないほど覇気の欠けたものだった。
くるりとワークスチェアが回る。
振り向いた彼女の呂色と視線を合わせて、百合音は
風谷から語られた綿貫桜哉の過去を聞き終えた後、百合音はふらふらと自室へ戻りそのままベッドへ身を投げ出した。
衝撃や動揺を通り越して、最早彼女の心は波立たず茫然としていた。
(なによ、本当に……どこまで重ねれば気が済むわけ……?)
人の心を利用して嘘を吐き、欺きながら人の輪の中にいる。今までは、そんな彼に対する感情はもう同族嫌悪だけしかないと思っていた。
けれど、確かに厭う感情はあるけれど、心から共感せざるをえないこともあると知った。
(真昼くんが嘘を吐いたから椿さんの側に立つ……なんて、ただの結果論じゃない)
桜哉の過去を知った百合音には、断言できる。
城田真昼の嘘がなかったとしてもきっと、桜哉は椿の元を離れなかっただろう、と。
だって、裏切れるはずがない。
(…………真昼くんは悪くない。けど、桜哉くんのことも、間違ってるなんて言えない……)
もし自分が桜哉の立場だったらと、彼女本来の共感性の高さも相まって容易に想像と同調が出来るからこそ、引き絞られるように胸が
ーーーー誰も悪くないのなら、どうして悲劇が起こるのだろう?
遠い昔にも抱いた疑問に、未だ答えは出せぬまま。
心に渦巻く過去を抱えながら、少女は目を閉じた。
百合音の過去をだいぶぼかした感じにしたのでイメージが掴みにくかったかと思いますが、たぶん近いうちにしっかりお話するので今はなんとなくの把握で大丈夫です。あと風谷が百合音に話した内容は椿が真昼に話した桜哉の過去とほぼ一緒と思ってもらっていいです。
また、残念なお知らせですが、これから先は私事により更新ペースが落ちると考えられます。読者様には申し訳ありませんが、今まで通り気長にお付き合い頂ければ幸いです。