窓の外に広がる、晴天の空。
それとは裏腹に荒れ模様の心を抱えて、椿は本日幾度目かの溜め息を吐いた。
(本当に最悪だよ。やっぱりC3とあの黒い獅子は何回潰しても潰し足りないだろうなぁ)
物騒なことを胸中で呟く。
普段は別の人物が陣取っていることの多い窓際に腰掛けている彼の心を荒らしているのは、勿論九番目のあの少女の存在だ。鈴白百合音と契約を結ぶ、知欲を名乗る真祖。目にするまでは考えすぎという思いもあったが……白い猫の姿から人へ変じ、血を
美しい少女だった。
その美しさに見合うドレスを着せてガラスケースの中に座らせておけば、人形と見紛うのではと思うほどに。
見た目は百合音と同い年くらいであるのに、纏う雰囲気は不自然なほど大人びたものだった。終始口許を緩ませることすらなかったが、その無表情さえ凛とした佇まいを際立たせる要素となっているのだから、相当なものである。
また、
九番目の真祖がC3から解き放たれたのは、五年前であると百合音は言っていた。
何故気付かなかったのだろう、と椿は既に何度も己に問うた疑問を繰り返す。
百合音によれば、今までずっと、真祖たる少女の方が椿や兄たちを避けていたらしい。
しかし、肝心の避けていた理由までは依然として分かってはいない。いや、先ずもって椿は彼女のことをほとんど何も知らないのだ。そしてそうなった
(あの子は先生が殺された後、未完成のままC3に回収されたって言ってた……先生があの黒い獅子に殺されなければ、僕はいずれ完成したあの子と逢えていたはずなのに…!)
募るのは、これまで九番目の真祖ーーーー唯一の妹と呼べる存在と出逢う機会を消されていたのだということに対する、憎悪。
無論、椿自身が彼女の存在を見付けてあげることが出来なかったことに対する懺悔の心はある。だが元を辿れば、きちんと“先生”の手で彼女が完成させられていれば何の障害もなく椿は妹を得ることが出来ていたはずなのだ。その未来を踏みにじられていたという事実が、椿の心を黒一色に染め上げる。
ザァザァと、憂鬱な雨の音が椿の耳には響いていた。
獅子の咆哮と自分自身の叫び声。“先生”を喪ったあの日の記憶は、脳裏に焼き付いて離れることはない。
そのまま数分。
知らずの内に自分でも引くほどの不機嫌オーラを出してしまっていたことに気付いて、駄目だ駄目だと軽く首を振って椿は淀んだ気持ちを散らした。九番目の彼女に会って以降、思考が度々前述のような憎悪のループに入ってしまい、家族まで怯えさせていることは自覚があった。現に、大抵は椿の側にいるベルキアが今は居ない。何気に空気の読める彼だから、不機嫌を撒き散らす椿を一先ずそっとしておこうと身を引いたのだろう。
このままではいけないと分かっていてもままならない心にまた溜め息を吐き出して、椿は徐に着物の袖から携帯を取り出した。
(こうなったら…)
黒い獅子やC3に対する憎悪はもう拭いようがないが、九番目の真祖に対する感情に折り合いをつけるための策は一つだけあった。正直、あまり取りたくはなかった手法だが。
意を決して椿は、電話帳からある人物の名前をタップした。
プルルルル、プルルルルとコール音が響く。
そして3コール目で出た人物の第一声は、常套句の「はい」でも「もしもし」でもなかった。
『やぁ、意外と粘ったじゃないか。どう足掻いても私に聞くのが一番手っ取り早いと知っているくせに』
「五月蝿いよ。僕が掛けてくるのが分かってたならワンコールで出てよねーーーー風谷巽」
そう、知らないなら知ればいい。ただそれだけのことである。
『不機嫌そうで安心したよ。あの子の存在を知ってもなお気にも留めていないようだったら、今度こそ君の皮を剥ぎに行くところだった』
「ねぇ、君って実は人間じゃないとか言わないよね? その発言は明らかに人間捨ててる気がするんだけど」
『何を言っているのか少し理解しがたいね。あ、皮というのは勿論狐の方の毛皮だよ? 流石に人間の状態の君の皮膚を剥ぐようなつもりはないさ。売りにくいし』
「最後の一言のせいで弁明が弁明じゃなくなってるけど」
『まぁ、こうして君が私に電話してきたということはさ、あの子のことをきちんと知りたくなったからなんだろう? それならとりあえずは合格だ。さっさと本題に入ろう』
逸らしたのはそっちでしょ、と椿は思ったが口には出さない。突っ掛かる方が面倒なことに発展する可能性が高いからだ。
『先ずはそうだな、名前からいこうか。大事なものだからね』
情報屋は至極楽しそうに、勝手に話を進め始める。
『あの子の名前は冷優。“冷たいほどに優れる”と書いて、冷優だよ』
「………………」
ふと、己を見詰めていた青い瞳を思い出す。宝石のように美しく、無機質な光を宿していた瞳を。それだけではない。容姿、仕草、作法、どれをとっても理想や手本のように美しく体現していた彼女。一目で教養と気品の高さを知らしめる振る舞いは確かに、氷のような冷たさを感じるほどに優れたものだった。
『司る大罪は知欲。彼女は“未完成の真祖”としてC3に保管されていたが、五年前に私が解放した。その後、紆余曲折あって同じく私に拾われた百合音と契約。現在有する
「…そんなことは聞いてないよ」
要らない情報を押し付けられても困る、と返せば、おやそうかい、とそこで漸く風谷の口上が止まった。
『では、どんな情報をご所望かな?』
「…冷優は、君の元に居るんだよね?」
『あぁ』
さて、どんな言葉がいいだろうか、と椿は思案する。
音にはせず幾つかの言葉を舌の上で転がして、ともすれば慈愛の情にも聴こえる“口実”を吐き出した。
「なら質問。ーーーーあの子は今、幸せ?」
『…お前、それは分かってやっているのか?』
一段と低い声が電話越しに響く。それに「勿論」と答れば電話口から舌打ちが聞こえた。隠そうとする気配もない苛立ちがひしひしと伝わってくる。だが椿に引くつもりはない。
『相も変わらず小賢しい。懇願でもしてみせてくれるのを期待していたんだがな』
風谷が一気に不機嫌になった理由は明白だ。椿の言った質問に“偽りのない”回答を用意しようとするなら、手段は一つしかないのだから。
「君に懇願する必要はないでしょ? 幸せかどうかなんて本人にしか分からないことなんだから、さ」
また舌打ちが聞こえた。
つまりは、冷優が幸せかどうかと問うことで椿は今、電話口に彼女を出すことを要求している。ことこういった類いの質問に関しては本人の言葉でなければその回答は意味を持たないからだ。
無論、椿の要求を理解したからこそ風谷は隠すこともなく不快さを露にしている。流石にその程度で椿が怯むとは思っていないだろうが。
返答には数十秒掛かった。
『……分かった。曲がりなりにも仕掛けたのはこっちだからな』
苦渋の決断、という風を隠しもしない。
だが、要求を呑ませることには成功した。一つ難所を潜り抜けた感覚に椿は気付かれぬよう息を吐く。
『代わりに条件がある』
「…………」
そう切り返されるだろうとは思っていた。
しかし提示されたのは条件の内容については、椿の予測を越えていた。
『私が冷優を電話に出す代わりに、君は綿貫桜哉を連れてこい』
「!」
全く油断も隙もない、と椿は唇を噛む。
「何を話すつもり?」
『君に言う必要はないだろう』
今度は風谷の方が突っぱねた。
「僕は彼女に何を聞くかもう言ってる。君の方の用件も開示してもらわないと、公平じゃない」
『誰がいつこれがフェアな取引だと言った?』
「その発言は君の情報屋としての理念に反していると思うけど?」
『私は思わないね。君に対してフェアな提案をしてやるつもりはこれっぽっちもないよ。私の可愛い娘
「……………」
文字通り吐き捨てるような口調だった。どうやら冷優もまた風谷にとっては百合音と同じように、“娘”扱いらしい。そういう意味で風谷から見れば、椿はどちらにも手を伸ばそうとしている本当に目障りな存在だろう。警戒心MAXなのも仕方ないのかもしれない。
(一つ要求を呑ませた、ここが限界かな…)
交渉とは引き際も重要である。
桜哉へ話す内容によっては最悪電話を切ることも念頭に置きながら、椿は了承の言葉を告げた。
異色の
スピーカー状態の携帯を挟んで、椿と桜哉はベッドの上に腰掛けていた。
ここは桜哉の自室だ。いつもそうすれば良いのに、こういう時ばかり椿はきちんとノックをして部屋の主の許可を取ってから入って来る。そのため追い返せなかった次第である。
彼と椿、携帯越しに風谷と冷優。前者二人と後者二人ならまだ分かる。だが四人がセットになる共通項は浮かばない。恐らく同じ部屋に置かれても普通なら会話すら始まらないような面子だ。
『さて、では始めようか。先行は君でいいよ』
拡声された声が促す。しかし椿が発言するよりも先に、割り込むようにスピーカーから凛とした女声が響いた。
『ーーーーごきげんよう、憂鬱のお兄様』
優しい声、ではない。
かと言って、敵意や負の感情が込められているようにも感じない。
(これが、アイツの真祖…)
桜哉は、今正に電話の向こう側にいるだろう知欲の真祖と直接相対したことはない。だからこそ彼の頭に浮かぶのは真祖ではなくその
今頃はまだ学校に居る時間帯だろう。文化祭の日には、気付かれない程度に顔を見るつもりはあったのだが、五組の教室に辿り着く前に真昼に見付かり屋上からダイブしたりしたため結局は会っていない。
『それで、どのようなご用向きでしょうか?』
はきはきとした発音。だが百合音のような相手と関わろうとする積極性が滲む明るい声色とは対照的に、真祖の方はフレンドリーさの欠片もない平淡な声だった。
椿の応答を待っているのだろう、携帯からは沈黙のみが聞こえてくる。ちらりと隣へ視線を投げれば、眉尻を下げて途方に暮れたような顔をしている椿がいた。
「…なんか言わないんすか?」
「………うん、言いたいことはあるんだ、沢山。でも、言葉にならなくて」
『あ、因みにさっきのふざけた“口実”をそのまま尋ねてきたら問答無用で切るからな。少なくとも君と一緒に居させるよりは幸せにしているくらいの自負はある』
「ちょっと、君は黙っててよ。僕は彼女と話したいんだから」
『ならさっさと話せよ。というか私に電話する前にそれくらい考えておけ』
『風谷、五月蝿い』
椿に対する風谷の
こほん、と儀礼的な咳払いが一つ、ノイズのように響いた。
『具体的なご用件がないのでしたら、お兄様、私の方から一つ確認したい事がございます』
「え、何?」
『お兄様のもとに百合音が居た時、あの子の血を吸ったのはお兄様で間違いございませんね?』
「…………」
絶対零度、という表現が桜哉の頭には浮かんでいた。それほどまでに冷たい声色だった。
隣の椿が目に見えて冷や汗をかいている。しかしこの件に関しては桜哉は椿を擁護する気が微塵もなかったので、一先ず背中を撃つことにした。
「椿さんで間違いない。なんなら証人もいる」
「桜哉!?」
『成る程。では謝罪はしたのですか?』
「う、うん。謝ったし許してくれたけど…」
『あの子が許したかどうかなど関係ありません』
「えっと……でもね、怒ってないって」
『あの子が怒るわけがないでしょう』
ぴしゃりと言われて椿が肩を跳ねさせた。口調が荒いわけでも語気が強いわけでもないが、確実に相手を糾弾する言い方だった。
同時に心の中で、桜哉は真祖の台詞に同意していた。アイツならそうだろうな、と。
いつもいつも他人のために駆けずり回って、余計なことに首を突っ込んで、関わるべきではない人物にすら目を掛けてーーーーたとえそれで傷付けられても、笑って許してしまう。それが鈴白百合音という人間だ。“自分”と“他人”の優先度合いが、その天秤が、明らかに狂っている。椿も含めてほとんどが気付かない彼女の危うさを、桜哉は知っていた。
何故気付いたのが桜哉だけなのかは、彼自身にも分からない。だが柄にもなく『同盟』なんてものを組んだ相手だから、よく見ていたのだということは否定できないだろう。もしくは、同族だからこそ違いには敏感だったのかもしれない。
いずれにせよ、百合音が許したかどうかは関係ないと言う真祖は正しいと、桜哉は思った。椿と九番目の真祖とが対面した日の話を聞いていた限りでは主従の仲が良さそうだったとは誰も言っていなかったが、主人のことを理解はしているようだ。
「ご、ごめんなさい…」
『前科は前科です。猛省なさって下さいませ』
椿が既に若干涙目である。妹に
『さて、お兄様の容疑、もとい罪状に関する確認も取れましたので、これにて私の用事は済みました。他にお兄様から何かご用件はございますか?』
促され、少しの沈黙を挟んで、椿がようやく口を開いた。
「ねぇ……一度、もう一回、どこかで会えないかな?」
椿の提案に、桜哉は内心で驚いていた。
初対面時、椿は彼女にも等しく戦争を突き付けたと聞いていたからだ。迷いが見えるとはいえ、椿の方から直接会いたいと言うとは思っていなかった。
「やっぱり、ちゃんと会いたいよ。電話だと余計な邪魔が入るし、ね?」
探るように、窺うように、椿は誘い文句を並べる。まだ距離感が掴めていないが故の行動だろう。
「その時までに話したいことはちゃんと考えておくから。会うのはやっぱり夜中が良いよね? なるべく静かに話ができるくらいの時間帯が」
さて、妹の方はどう出るか。桜哉の考えが及ぶ限りは別段不都合なことはないはずだか。
しかし、暫くの沈黙の後で、今までとは打って変わって感情の全く読めない声色がスピーカーから返ってきた。
『…お兄様は、何か、勘違いをなさっていらっしゃるのですね』
「え…、?」
『いえ、その余地を残したのは私の落ち度でございます。ですのでこの場を借りて、訂正させていただきましょう』
嫌な予感がして、桜哉は適当に流していた視線を携帯へ落とした。続く言葉を、椿に聞かせてはならない気がした。
しかし桜哉が具体的な行動を起こす前に、余りにも簡単に真祖は言葉を紡いだ。
『お兄様、私は貴方の敵です』
「ーーーーーッ!」
その一言で、椿が凍り付いたのが分かった。
ひゅっ、と絞られた喉の奥で空気が吸い込まれる音が聞こえる。音源は無論、椿だ。
(チッ…いっそ切った方が良かったか)
咄嗟にそこまでの判断が出来なかったことを桜哉は悔やんだ。こういう時の勘ほど当たるというのに。
椿は今の今まで、少なからずの希望を持って彼女と話していたはずだ。兄弟たちから知られることのなかった、似た境遇の存在として、協力は不可能でも明確な敵意は向けずに済むと。離れ離れであっても、兄妹として互いに想える存在だと。…それを根底から、否定された。
それでなくとも最近、
息を詰まらせている椿に、スピーカー越しの声は続く。
『あの日…“先生”が殺されたあの日。憂鬱のお兄様は、何処にいらっしゃったのですか? どうして、“先生”の傍にはいらっしゃらなかったのですか?』
(………?)
その台詞に、桜哉はふと違和感を覚えた。
文字に起こせば紛れもなく椿へ追い討ちをかけているような台詞になるだろうが、一つ不可解な点があった。
声が、小さかったのだ。
今までが聞き取りやすい声だっただけに、その差は分かりやすかった。スピーカーフォン状態で通話しているせいでたまたまマイクが拾ってしまっただけで、本当は独り言のような呟きだったのではないかと、桜哉は考える。
そこから導かれる仮説は。
(今のは、椿さんに聞かせるつもりで言った言葉じゃ、ない…?)
だが、当の椿はどう受け取ったのだろうか。そのような分析が出来るような状態であるとは到底思えない。ただストレートに、椿が“先生”と呼ぶあの人間が命の危機に遭っていた時に、どうして近くに居なかったのかと責める台詞に聞こえただろう。
違和を感じた先程の台詞とは異なり、今度はまた平淡な、しかしはっきりとした口調で、真祖が冷淡な言葉を紡ぐ。
『私には、お兄様が何をなさろうとしているのかまでは分かりません。しかしその目的もしくは過程において、”お兄様にしか出来ないこと”をなさるおつもりならーーーー
「…それは、どういう意味?」
『解釈はご随意に。ただ、私がお兄様よりも後に作られた存在であるということを、
私からは以上です、と言葉が切れた。
ゆっくりと、桜哉は椿の方へ顔を向ける。さらりと落ちた黒髪が、俯く彼の表情を隠していた。いつもの椿ならばここで笑い出しそうなものだが、数秒待っても狂気的な笑声が響き渡ることはなかった。最早、笑いで誤魔化すことも出来ないほどなのかもしれない。
『だ、そうだ、椿。もういいだろう?』
「……………」
『沈黙は肯定とみなすよ。では私の方の本題に入らせてもらおう。心の準備はいいかな? 綿貫桜哉君』
椿の沈黙に全く気遣う素振りなく話の先が桜哉へ向けられた。
正直、情報屋から話があると言われても桜哉の心当たりはさっぱり無い。心構えも何もあったものではないのだが。
「…何の用だよ」
『警戒は必要ない。一つ、昔話を聞いてほしいだけだからね』
「昔話?」
『そう。このままでは少し不公平かなと思ったから』
話が読めない、と桜哉は眉をひそめる。
そんな彼を
『君も知ってるある女の子のお話だよ』
ーーーー鈴白百合音という名の、ね。
更新遅くなるっていっても放置しすぎですねすいません。
独り言(おかしい…書き始めた時は椿と冷優の会話はもっとほのぼのする予定だったのに…いつの間にやらシリアスに…)