SERVAMP -知られざる九番目-   作:カランコエ

37 / 45
今回の幕間はいつもの番外編ではなく、初の「過去編」となります。

遡ること五年、風谷が九番目の真祖と共にC3を脱走した時のお話です。
当時17歳の風谷巽が何を思い、どんな経緯で“未完成の真祖”を解き放ったのか。その一部始終を風谷自身の視点から綴りました。

それでは、彼女たちの前日譚の一つを覗く旅へ。
どうぞお気をつけて、行ってらっしゃいませ。



※長いです。いつもの倍以上の量があります。
※名目上は「風谷と冷優の過去」ですが、八割方「風谷巽の過去編」です。


幕間5 『箱庭世界の青い薔薇』

 与えてくれる人がいなかったから、少女は自分で探しに行った。

 守ってくれる人がいなかったから、少女は自力で身を守った。

 

 そして。

 

 誰にも手を差し伸べてもらえない子供がいたから、少女は自分の手を差し出した。

 

 ーーーーそれが、別離の一歩だと知りながら。

 

 

『 箱庭世界の青い薔薇 』

 

 

 1

 

 風谷巽がその噂を耳にしたのは、偶然のことだった。

 

 ーーーー“()()()()の廃棄処分が決まったらしい”。

 

 ある日、C3内部で広まった出所不明の噂。

 その詳細を調べ、彼女は“未完成の真祖”の存在を知ることとなる。

 

 

 

 

 

 2

 

 季節は秋。冬の訪れを間近に控えた時期だ。やや日の陰ってきた時分、現役女子高校生かつ人外の脅威から人々を守る中立機関に所属するちょっと訳アリな少女・風谷巽は、ファストフード店の二人席に着いていた。

 向かい側に座っているのは同じ高校の制服を着た同級生の友人、露木修平。放課後に昇降口でばったり会った彼を近場の店に引っ張り込むのは、わりとよくある彼女の日常の一コマである。

 さて、二人が視線を落としているのは、学生には逃れられない宿題という名のプリント。因みに教科は化学だ。勉強のお供として注文したホットコーヒーをちびちび啜りながら、風谷はぱったりと止まった手を誤魔化すようにシャーペンをくるくると回す。

 視線こそ化学式に向けられているものの、彼女の思考は噂の“未完成の真祖”という存在に傾注していた。近々処分される予定らしい、都市伝説めいたその存在に。

 と、何やら悩んでいる様子の風谷に気が付いたのか、露木がプリントを覗き込んでくる。

 

「あ、そこの化学反応式の計算間違ってますよ。二酸化炭素の係数は2になるはずです」

「?」

「三問目の方は反応式の立て方が違いますね。その化合物の化学式なら教科書に載っていますよ」

 

 さらさらと投下される指摘に従い、風谷は素直に間違った式を消しゴムで消した。やはり考え事をしていると思考力が落ちるらしい。決して苦手科目だからという訳ではないとここに明記しておく。

 風谷の集中力が切れていることを察したのか、露木が雑談を振る。

 

「そういえば、一人暮らしは順調ですか?」

「うん。まぁ、特に問題はないかな。もう二年目だから」

 

 曖昧な相槌を打ちながらやや視線を逸らしつつ、風谷は当たり障りのない回答を選んだ。下手な返しをするとこの学友の心配性に火を付けてしまいかねない。

 元々地下組織であるC3に住み込んでいた彼女だが、中学を卒業すると同時に地上に居住を移したという過去がある。女子高生の一人暮らし、というと少し危なっかしく感じるが、こと自衛に関して風谷巽という少女にはそれなりの心得がある為そう心配する事柄ではない。

 …去年の冬と今年の初夏に“拾い者”をしてしまったため、実は既に一人暮らしではなくなっていたりする、というのは秘密である。

 

「夕方以降に一人で出歩くことはなるべく控えてくださいね? ただでさえあなたは狙われやすい体質なんですから」

「分かっているよ。危険なことはしないさ」

「あなたの危機管理能力は信用できません」

「これでも自衛能力はある方だと思うんだが…」

「そうやって何かあっても自分でなんとか出来ると思い込んでいるから、危険に対して鈍感なんですよあなたは」

 

 一理ある、どころではなく的を射た指摘だ。友人として、露木修平は本当に風谷巽をよく理解している。

 苦い笑いと共に、風谷は話題を逸らそうとして趣味の話を持ち出した。

 

「あぁそうだ露木、借りていた本、実はまだ読みきれてないんだ。返すのは二冊とも読み終わってからでも大丈夫かな?」

「構いませんよ。結構オススメなのでじっくり読んでみてください」

「うん、ありがとう」

 

 読書を共通の趣味とする二人の間では本の貸し借りは珍しくもない。クラスが別とは言え同じ高校に通っているのだ、返すタイミングには事欠かない。

 上手く話題を逸らすことが出来たと内心安堵していたからなのか、風谷は不用意にぽろっと()()()()()思い付きを口にした。

 

「…ところで露木、“未完成の真祖”って知っているかい?」

「未完成の真祖?」

 

 聞き返した彼を見て風谷は悟る。あぁ、知らないんだな、と。

 所詮は都市伝説並みの知名度である。魔術師の家系で親がC3勤務だったとは言え、正規職員でもない露木がその存在を知っている筈もない。つまらない事を口にしてしまったな、と独りごちながら、風谷はつらつらと全く脈絡のない話を語ることにした。

 

「いや、やっぱり何でもない。気にしないでくれ。あ、そうそう未完成といえば私たちも成人まであと三年ほどかかる未成年者なわけだが、君は将来の夢とかあるのかい?」

「“未完成といえば”の後がものすごく強引な繋げ方ですけど。自分から話し始めてそれはどうかと思います」

「気にしない気にしない。それで、高校を卒業した後はどうするかとか考えてるのかい?」

 

 今までの雑談と変わりないノリを意識しながら風谷は強引に答えを促す。現在C3内で()()(まつ)わる噂こそ流行っているものの、本来“未完成の真祖”の話はそこそこの機密事項である。知らないのであれば彼を巻き込むこともない。適当な話で流してしまうのが吉だ。

 そんな彼女の心の内を知る由もない友人は、真面目な顔で進路を語り始める。

 

「卒業した後は、そのままC3に就職しようと思っています」

「希望の部署は?」

「勿論、戦闘班です。父さんの仇を討つには前線に出る必要がありますから」

「………………」

 

 露木の言葉に、風谷はあからさまに眉間に皺を寄せた。彼が吸血鬼に父親を殺されたということは知っていたし、それ故に彼が吸血鬼を憎んでいることも理解している。が、その為だけに戦闘班に入るというのはリスクが高過ぎるのではないかと、彼女は前々から思っていた。

 もう何年も前からアルバイト感覚で戦闘班の任務に潜り込んでいる経歴を持つ風谷は、前線の危険性を肌身に染みて理解している。

 

「君の性格なら、開発班あたりが一番向いていると思うけど」

「それはあなたも同じでは? 既に戦闘班として活躍しているとは聞いてますけど」

「………いや、私は別に戦闘班に所属してるわけじゃない。経験を積むために顔を出していたらいつの間にか助っ人扱いされるようになってしまっただけだよ」

「職員の方たちの認識は完全に戦闘班所属だと思いますよ」

「開発班にも顔は出しているよ」

「戦闘を有利に運ぶための魔術道具を見繕うために、ですよね?」

「………………」

 

 やんわりと別部署を勧めたら話が別方向に行って、しかも何故か言い負かされた。二の句が継げずに渋い顔をする風谷を見て、思わずといった調子で露木が笑う。

 

「ーーーーそれで、風谷はどうするんですか? 卒業後は」

 

 一頻(ひとしき)り笑って、当然の様に露木が聞き返してきた。話の流れを考えれば至極自然なことだが、風谷は一瞬言葉に詰まった。

 

「…このままなら、君と同じようにC3に所属し続けることになるだろうね」

 

 歯切れの悪い返答に露木が首を傾げる。

 

「何か他にやりたいことでも?」

「うーん………」

 

 思い浮かぶ言葉がなく、風谷も首を捻る。

 化学のプリントを前にして悩む二人の高校生の図(但し化学のプリントで悩んでいるとは言っていない)が完成した。

 と、茶番は置いておいて。

 

「…頭の中に漠然とした、理想像みたいなものはあるんだ。でも、C3に所属したところで()()()()()かどうかが分からない。だから、迷っている」

「あなたにしては優柔不断ですね。一体どんな理想を思い浮かべているんですか」

「それを言葉にできたらここまで悩んでいない」

「方向性だけでも」

「そうだなぁ……」

 

 たった数年後、されど十代の少年少女にとっては遠い未来の先で、どんな姿になっていたいか。輪郭を伴わないそのビジョンが、せめて何色なのかだけでも分からなければ議論のしようがない。

 だから、とりあえずは。

 

「ーーーー守れたら、それでいいかな」

「?」

「誰かを守れる人間になりたいと、そう言ったんだよ」

「それなら寧ろC3は適切な職場では?」

 

 確かに、一般人の守護はC3にとって重要な使命の一つだ。人外と人間なら力関係はどうしても人外の方に傾いてしまうことが多い。無差別に一般人を襲う吸血鬼の討伐などは戦闘班の任務としてよく舞い込んでくる案件だ。

 それはそうなのだが。

 

「何か、しっくりこないんだよなぁ…」

 

 結局は、その一言に尽きた。

 全く相談に乗り甲斐がない友人に呆れた様子の露木がコーヒーに手を伸ばす。…その横で、通りすがった別の客が鞄の端をテーブルにぶつけた。

 ガタンと机が揺れる。

 

「あっ」

 

 短く叫んだのは露木だった。

 注文してからそれなりに時間が経っているとはいえホットで頼んだコーヒーが、伸ばした露木の手にぶちまけられるーーーーことはなかった。

 友人の不幸体質に慣れた風谷が、客が通路を歩いて来ていたのが見えた時点で(より正確には客が肩下げにしている鞄が丁度テーブルに引っ掛かりそうな位置で揺れているのが見えた時から)自分のカップ共々ひょいっと持ち上げて避難させていたからだ。

 一瞬の静寂を挟んで、鞄をぶつけた客が慌てて謝ってきた。それに軽い調子で大丈夫ですよと返して、風谷が一滴も零れず無事なコーヒーを掲げて見せる。客はほっとした様子で会釈しながら通り過ぎて行った。

 

「…すみません、助かりました」

「いいよ。君の()()のおかげで私の予測能力もかなり鍛えられたからね」

 

 コーヒーは無事だったが、風谷のその返答を聞いた露木の「やっぱり戦闘班向きなのでは?」という一言によって先程までの議論はそっくり引っくり返されて振り出しに戻ることとなった。

 

 再び二人の高校生が将来についてああだこうだと語り合い始める傍らで。

 空が濃い藍色に染まり始めた窓の外では、黄色くなった一枚の木の葉が枝から離れてひらりと舞い、反対側の歩道へ目掛けて落ちていった。

 

 

 

 

 

 3

 

 明くる日、夕刻。

 学校帰りの寄り道と同じようなノリで、風谷はC3の地下深くに足を運んでいた。

 

(アクセス権の取得自体は簡単だったな。既に処分が決まっているからか…?)

 

 最近、C3の職員たちの間でまことしやかに囁かれ始めた噂。それは、C3最深部に眠っていると云われる“未完成の真祖”が、遂に処分されることになったらしいというもの。

 正規の職員ではない風谷は今まで知らなかったのだが、元々この噂が流れるよりもずっと前から、“未完成の真祖”の存在は眉唾物とはいえC3内部で語り継がれていたらしい。

 彼女が好奇心からC3のデータベースを漁ってみたところ、確かに“未完成の真祖”は存在し、しかも今になって廃棄が決定されたとのこと。

 この動きに対して風谷は、過去に憂鬱の真祖がC3から脱走した事が今回の処分の要因の一つなのではないかと考えている。憂鬱という前例を踏まえ、災いの種は管理下にある内にさっさと潰しておくべきだと判断されたのではないか、と。

 

(まぁそれはどうでもいいか。問題はーーーー)

 

 考えている内に、彼女一人を乗せていたエレベーターが目的の階層に止まる。

 開かれたドアを(くぐ)り、頭の中に刻み付けた地図を頼りに通路を行く。その足取りには初めての場所を歩く時特有の慎重さはあるものの、緊張や挙動の不審さは微塵もなかった。何故ならば、そもそも風谷巽がこの場所を訪れた事に、気負うほどの理由がないからだ。漠然としたその動機に名前を付けるならば、云わば“興味本位”。

 この世界に一つしかないものが、もう直ぐ無くなるらしい。そんな噂を聞いたから、では無くなる前に一目見ておこうと思っただけのこと。

 

 そこに在ったのは、白い施術用ベッドに横たえられた、人形のような少女だった。

 

 薄い青色の手術衣から伸びる肢体は白く細い。シーツに散らばる癖の無い髪は烏の濡れ羽色。形良い唇の赤だけが、鮮やかな色味を放っている。

 精巧に作られた人形に対して「まるで生きているようだ」と表現することがあるが、それはあくまで比喩だからこそ用いられるもの。目の前の少女は吸血鬼だとしても血の通った生命体であり、生きていることが当たり前だ。それなのに、風谷は少女を見て反射的にこう思った。「まるで生きているようだ」、と。

 自身が無意識に浮かべた比喩の、ぞっとするような矛盾。心の深層の部分で、風谷はこの少女を人形だと認識していた。

 

(…………………………………………、)

 

 恐る恐る、しかし見えない引力に吸い寄せられるように、風谷は手を伸ばす。作り物めいた陶器のように白い少女の頬に、触れる。

 

 触れた指先には、確かに無機物などではない温度があった。

 

 じんわりと感じられる温かさに、風谷は無意識に詰めていた息をそっと吐き出した。

 

(…………違う。人形なんかじゃない。未完成なんだとしても、この子は確かに此処に生きている)

 

 そう知覚した瞬間、激しい感情の波が押し寄せた。

 呼吸が浅くなる。どくん、どくん、と心臓の拍動が頭にまで響いてくる。そして思考を脳髄ごと掻き回すように襲ってくる、強烈な()()()

 

(なん、だ……なにが、こんなに…)

 

 自分自身が一体何に衝撃を受け、何故ここまで動揺しているのか。それが、分からなかった。

 

 ゆるゆると顔を上げ、白い部屋を見回す。地下であるが故に窓もない、人間の気配も温度もない部屋を。

 その無機質さに段々と頭が冷え、徐々に平静となった思考でーーーー明確に言語化できずともただ()()()()、彼女は理解した。

 

 そうだ。

 此処には、()()()()()()()

 

 足(しげ)く通う人間も、様子を見に来る人間も、誰も。同じ地下施設の中で、天井や床のタイルを隔てた場所には何人もの職員が歩いている筈なのに。この少女に積極的な関心のある人間は、ただの一人もいない。

 

 その現実に。

 冷えて、冷めて、波紋の一つもない水面のようになった心で。

 

「……君も、そうなのか」

 

 呟いて、風谷は少女の纏う薄青の手術衣の袖に軽く触れた。

 

「……周囲にたくさん人間はいるのに、君を守ってくれる人は、誰もいないんだね」

 

 凪いだ感情のまま、彼女の口からはそんな言葉が(こぼ)れていた。無意識な、あるいは極めて自然体の、思考の介入で取り繕った箇所など一つもない純粋な言葉。

 

 呂色の瞳が、何かに耐えるように閉じられる。

 

 そして、次に開かれた時。

 彼女の瞳には、剣呑(けんのん)とさえ感じられるほどの、強い意思を秘めた光が灯っていた。

 

「……それなら、話がしてみたいな、君と」

 

 紡がれた言葉は、数秒前とは打って変わって白々しく表面的な響きを伴う。

 

「私は()()興味を持った。近い内に必ず会いに行くよ」

 

 聞く者のいない空間で、風谷は滔々(とうとう)と少女に語り掛ける。眼前の存在が確かに生きていると認識した時から、風谷の価値観の中で彼女と少女は対等な位置に落とし込まれていた。最早彼女の目に映っているのは未完成の真祖という無機質な何かではない。

 廃棄予定の遺物を見学する目的は既に過去のもの。彼女は新しい目的を手に入れた。

 ただ、今は。その目的に至った“意味”に拘泥して解釈することはしない。そんなものは大抵、後から勝手に付いてくる。だから彼女は新たに獲得した目的を達成するために先ず歩き出す。考えるより行動を。どうしても行動の意味に名前を付けたいのなら、“()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「私は君を知りたい。だから少しだけ待っていてくれ。必ずまた、ここに来るから」

 

 ふわりと白衣を翻して、風谷巽は踵を返す。

 思えば此処が、彼女にとっての運命の分岐点(ターニングポイント)と言える場所だったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 4

 

 幼い頃の記憶で風谷巽の頭に鮮烈に残っているのは、吸血鬼から必死に逃げていた時のものだ。

 

 その頃、彼女には追っ手の正体も追われる理由も分かってはいなかった。ただ、何も分からなくても、捕まれば恐ろしい目に遭うことくらいは直感できた。

 夕闇の中を何度、命辛々に逃げ回ったか。数え切れないくらい追われて、同じ数だけ彼女は逃げた。

 

 そうして少女はある日、保護された。中立機関であるC3の手によって。

 

 運が良かった、と。

 大人たちがその言葉を使っているのを彼女はよく耳にした。

 吸血鬼に対して何の対抗手段も知識もない少女が生き残ったのだから、なるほど確かに運は味方していたのだろう。

 だけどそれは裏を返せば、運という曖昧な不確定要素に少しでも嫌われたその時には、何の不思議もなく少女の命は吸血鬼に喰らわれていたということで。

 聡明な少女はそれを正しく理解した。自身にとって、外は外敵に溢れた危険な世界であるということを。不用意に踏み出せば最後、再び戻って来られるかは“運”次第でしかないのだと。怖い目に遭いたくないのなら、最低限の自由の中で身を潜めて生きるしかないのだと。

 

(…………………………………、)

 

 地下深く、生活のために宛がわれたC3東京支部の一室でーーーー()()()()()()()()()()()()()()()()()

 それは渇望に近いものだった。知らない場所、知らない物、知らない人、知らない景色、知らない空気。未だ見ぬそれらを目に出来なければ、触れられなければ、感じ取れなければ、少女はきっと渇ききってしまう。

 

 知りたい、知らなくてはならない。

 尽きぬ未知への好奇心。それだけが、少女を突き動かす全てだった。

 

 …あるいは、それだけしか、彼女には残されていなかったのかもしれないが。

 

 

 

 

 

 5

 

 餅は餅屋、だ。

 未完成の真祖が処分されるまでの猶予はきっかり一週間。期限付きである以上、彼女は素直に、吸血鬼に関して己より知識のある者に頼ることを決めた。

 

 ヨハネス・ミーミル・ファウストゥス。

 

 時折、臨時の研究員としてC3に呼び出されている男だ。風谷は直接彼と言葉を交わしたことはないものの、開発班に入り浸っていた時期もあった為に人伝(ひとづて)には知っている。

 

真祖(サーヴァンプ)の意識に直接アクセスする方法ぉー?」

 

 よくパソコンの前に設置されているタイプの回転椅子に全体重を預けて軋ませながら、シャツを裏表に着た男が間延びした口調で風谷からの要求を鸚鵡返しにした。

 

「そう。近い方法でもいい、何か知っていることはありませんか?」

「そンなこと知ってどーすンの?」

「“未完成の真祖”と直接会うために必要なだけです」

 

 きっぱりと、風谷は言い放った。

 口に咥えたストローをぶらぶらさせていた男がぴたりとその動きを止める。

 目的を隠す必要はない…寧ろ本当のことを言った方が喰い付くだろうと思ってのことだが、予想以上に効果があったようだ。へらへらとしていた男の表情が一瞬で切り替わった。

 

「…あの真祖はまだまだ利用価値(研究課題)がある。それをむざむざ破棄しようとする上は俺以上にイカれてると思ってたけど……真っ向から歯向かうヤツがいるとは思わなかった」

 

 背(もた)れに預けていた体を起こし、吸血鬼専門の研究者はデスクに散乱した書類とメモ書きの海をがさがさと漁る。

 

「えーっと確かここら辺に……あったあった」

 

 無造作に引っ張り出した数枚の資料を手に彼は立ち上がり、何処にどんな危険物が入っているのか予測もつかない棚の一つへ歩み寄った。スーっと開けられたガラス戸の中には、不気味な色の液体を湛えた試験管がいくつか並べられている。隣の棚から空のビーカーを出し、ヨハネスは一度資料に目を落としてから迷いなく試験管の液体を混ぜ合わせ始めた。

 ごぽごぽごぽ、とビーカーから液体が沸騰したような音が響く。中身の得たいの知れなさに風谷は無言で視線を逸らした。

 

「ンーこンなところかな。臨床試験に出すにはまだ早い代物だけど」

「構いません。時間もないので」

 

 試験管に注がれた謎の液体…もとい、真祖と接触するための試薬を受け取る。中身がごぽごぽ言っていた割りに当の試験管は冷たかった。

 

「…行って帰って来られたら、試薬の効果についてはレポートに纏めてメールします。二週間以上音沙汰がない場合は、まぁ、察してください」

 

 真祖内部に取り込まれたまま出て来れなくなった人間とかそれはそれで面白い研究対象になる気もするが、と他人事のように考えつつ、風谷は試験管を白衣のポケットに納めた。

 これで最初の一歩は確保した。白い壁とタイルで構成された保管庫の、更に深淵を覗くための一歩は。

 

「…もう一回聞くけど、その試薬で真祖の中に入れたとして、どうすンの?」

「知りたいだけです。未完成と呼ばれる彼女の、外からでは分からない部分を」

「なンでそンなこと知りたいの?」

 

 胡乱(うろん)な瞳で研究者は言う。ただの人間になど一片の興味も持たなさそうな彼にしては稀有な問い掛けなのではないだろうか。

 対して、軽い口調で。

 

「何かを知りたいと思うことに、理由なんて必要ですか?」

 

 本心から、風谷巽はそう言った。

 それは彼女の根元たるもの。幼い頃から唯一彼女を突き動かしてきた、ある種、異常なまでの知的好奇心。

 その興味を刺激されたからこそ、風谷はこうして行動を起こしているだけだ。少なくとも現段階では、その程度の理由付けで構わないと彼女は考えている。

 

「知りたいことがあって、知るための方法を見付けた。であれば、試してみない方がどうかしている。違いますか?」

「……いいや? 違わないねぇ。全くもッてその通りだよ。どうかしてる。君も、モチロン、俺も」

 

 ヨハネスの視線が、恐らくこの時()()()風谷巽という人間に向けられた。

 

 …どうやらこの研究者とは本質的な部分で気が合いそうだが、こんな風に一目見て変人だと分かるような大人にはなりたくないな、と少女は密かに独白した。

 

 

 

 

 

 6

 

 決行前日。

 風谷はC3施設内を、ある人物を探して歩き回っていた。

 

(…なんでこういう時に限って見付からないんだ、あの人)

 

 微妙に理不尽な怒りを溜め込みながら、彼女は裾の長い白衣を(なび)かせて歩を進める。既に三十分ほどかけて捜索しているが、目的の人物は見当たらない。

 心当たりを大体回って全て空振った風谷は、次の捜索候補に行き詰まって廊下の途中で足を止めた。

 そこに。

 

「あっれーそこにいるのって巽ちゃん? ひっさしぶりー!」

 

 と、予想外に後ろから声が掛かった。待ち人(きた)る、である。

 振り返れば、C3戦闘班の制服ーーーー()の場合は規定のものから少し外れているがーーーーを着込んだ、痩身の青年の姿。第一印象だけならばそこそこ人当たりの良さそうな、自称“クズ”の狼谷吊戯だ。

 

「…探していました。貴方に一つ、仕事を頼みたいのですが」

 

 やや()()()()()口調で風谷はそう切り出すが、

 

「わぁ。巽ちゃんって敬語使えたんだ」

 

 あの狼谷吊戯が常の笑顔を硬直させてそんなことを言ったので、被るつもりだったネコを早々に投げ捨てた。嫌味ですらない台詞を引き出してまでキャラを変えようとは思わない。

 さて、姿を見掛けただけで親しげに寄ってきた吊戯の行動から分かるように、風谷と彼はそれなりに気心知れた仲だ。かつて風谷がC3施設内に住み込んでいた頃、彼女の部屋はこの男の部屋の三つ隣だった。脚色込みで夢のある言い方をすれば“近所のお兄ちゃん”的な感覚で交流があったのだ。中学卒業と共に風谷がC3を出て地上で暮らし始めてからは、めっきり会うことが減っていたが。

 

「にしてもホントに久しぶりだね~! そういえば国ちゃんが来たの巽ちゃんが出てって直ぐだし入れ替わりで惜しかったなぁ。国ちゃんが年下の女の子にどんな対応してるのかとか見てみたかったのに」

「年下の女の子というより寧ろ同じ学校の後輩なんだが。それより仕事の話だ。引き受けてくれるのかどうか、答えてくれ」

「あ、敬語やめたんだ。仕事は内容と金額によるかな?」

「仕事内容は簡単だよ。これを一週間後……いや、余裕をもって十日にしておこうか。十日後に、この荷物を露木修平に渡してほしい」

「?」

 

 彼女が吊戯に渡したのは、茶色の小包だ。大きさは手のひらサイズ、厚みは文庫本二冊程度。いや、この際はっきり言おう。中身は見た目通り文庫本×2と一枚のメッセージカードである。

 

(…本当なら直接渡すべきだが、万が一ということがあるから、ね)

 

 心の中で呟き、風谷は小包を受け取って不思議そうな顔をしている彼を僅かに見上げた。女子の方が成長期が早いと言うからか、吊戯が大柄ではないからか、二人の目線はそう違わない。

 

「自分で渡さないの?」

「ちょっとしたサプライズのようなものだから。もしかしたら中止になるかもしれないけど」

 

 その時は回収しにまた会いに来るよ、と付け加える。これはあくまで保険だ。不要になるに越したことはないもの。

 …“未完成の真祖”との接触に成功したとして、その後に自分がどんな行動に出るのか、風谷には分からない。予測できる範囲で幾つかの選択肢を想定し、そこから行動のフローチャートを組んで用意しておくにしても、どの選択肢を選ぶのかはまだ断定することが出来ていない。

 

 迷っているのではない。

 ただ、今は決断の時ではないだけ。

 

(ーーーー願わくば、迷いなど感じないくらいに明快で鮮烈な『理由』が得られるようにーーーー)

 

 二十四時間後、彼女が立っているのは地下か、地上か。

 それとも誰かの悪夢の中か。

 

 

 

 

 

 7

 

 ゴウン、と重い響きと共にエレベーターが目的地に止まる。

 人気のないその階層に降り立ち、風谷は“未完成の真祖”が眠る保管庫へと歩き出した。既に一度通っているからか、彼女の足取りには一切の迷いがない。

 

 辿り着いた真っ白な部屋には、前回来た時と全く変わらない美しい少女の寝姿があった。

 

 寝台に歩み寄り、少女を見下ろす。

 白衣のポケットから試薬の入った試験管を取り出して、風谷は一つ息を吐いた。

 

 引き返すというのなら、今が最後。

 

 ここより先に進めば、()()()()()()()()()()()()()。恐らくヨハネスの試薬は九割以上の確率で風谷の望む効果を発揮してくれるだろう。試薬であろうとも、半端に研究をして、あまつさえそれを何時でも出せる段階で保管しておくなどあの研究者ならば有り得ない。

 

(………まぁ、引き返すつもりなんて元々ないが)

 

 一つ、大きく深呼吸をして。

 ゴム製のキャップを外し、唇に寄せた試験管を一息に傾ける。

 

「ーーーーーーっ!?」

 

 味わうつもりなどなく、流れるままに飲み干したが……形容しがたい風味が舌の上に残った。一言で言えば不味い。

 

(いや、そもそも吸血鬼の中に入るためのトリガーなんていう得体の知れないものなんだから美味しくないのは当たり前だが……)

 

 一口で飲みきってしまったのは幸いだった。味を認識してから飲み下すには少々ハードルが高い代物だ。喉の奥から上がってくる後味に顔を顰めながら、風谷は空になった試験管をポケットに戻した。

 

 そのまま数秒。変化はない。

 しかし。

 

(…何だ? なにか、視界がぶれる、ような。違う、焦点が、合わない? 違う、たぶん、違う。これ、は、もっと、根本的な、部分が)

 

 変な感じがする。じわじわと、まるで思考が何かに侵食されて、書き換えられていくような。

 

(試薬の効果が出てきたのか? いや、これでは螟ア謨励→縺励°諤昴∴縺ェ縺)

 

 …今一瞬、何かが混線した気がする。

 

 ぞぞぞぞっ、と。得体の知れない感覚が背筋を這い上がってきた。試作品だけに効果の保証がないことは覚悟の上だったものの、こんなに訳の分からない現象に見舞われるとは聞いていない。

 経験のない感覚に冷や汗が止まらない。寝台に手を掛けて寄り掛かろうとしたが、ふらりと足の力が抜けてそのまま白いタイルに膝を突いた。痛い。どうして自分はこんな場所で座り込んでいるのか、とふと疑問が浮かぶ。そもそも縺薙%縺ッ何処だ?何故蠎翫b螢√b全てが白い?遘√?隱ー縺?縺」縺溘▲縺托シ?

 

(あ……れ………?)

 

 そして、気絶するように。

 風谷の意識は遠退いていった。

 

 

 

 

 

 8

 

 ーーーー鳥の声が聞こえる。

 

 見上げれば、綺麗な青い鳥が一匹、木の枝に留まって鳴いていた。

 

「…………ここ、は」

 

 声を出して漸く風谷は、自分が見知らぬ場所に立っている、という事実を認識した。

 一際高い木の影の中、敷き詰められた芝の上。真っ先に視界に入るのは格調高い洋風の館。そんな場所に、彼女は立ち尽くしていた。

 咄嗟に風谷は自身の状況把握を始めた。手足は普通に動かすことができる。思考にも先程の混線(?)の名残りはない。視界や聴覚にも不明瞭さは感じられない。服装も、保管庫に入った時と変わりはない。

 

(……だけど、ここは現実じゃない。感覚がどれだけ現実的であっても、実際には存在するはずのない世界だ。復路の切符を持たずに入ってきた以上、心だけでも『帰るべき場所』を意識しておかなければ、)

 

 どうなるか、分かったものではない。

 …取り敢えずは探索に支障がない状態であることを確認し、風谷は改めてぐるりと周囲を見回した。

 

 そこは、“箱庭”という言葉を具体化したような風景だった。

 

 落ち着いたブラウンの壁を基調とした洋風の屋敷を、白く高い塀がぐるりと囲んでいる。上から俯瞰(ふかん)できたなら正に箱庭だろう。洋館の周囲は綺麗に芝が敷き詰められ、塀に沿うように煉瓦で仕切られた花壇がある。草花には手入れが行き届いており、塀のせいで全く外の様子が窺えない空間であるにも関わらず閉塞感を感じさせない。ミニチュアの世界に放り込まれたような錯覚を抱くほどだ。

 

 もう一度、鳥の声が聞こえた。

 

 ばさばさと羽ばたく音がして視線を動かせば、彼女の頭上を先程の青い鳥が飛び回っていた。ぐるぐると旋回し、高く鳴くと同時に館の脇を通って裏へと飛んで行く。まるで、彼女を先導するように。

 

「…裏に、何かあるのか…?」

 

 どのみち立ち止まっていても始まらない。風谷は青い鳥の後を追って、館の裏手へ回った。

 すると聞こえてきたのは、平淡ながらも耳に心地好い透き通った声。

 

「ーーーーごきげんよう、招かざるお客様」

「!」

 

 裏庭には黒いカフェテーブルと白い二脚の椅子、そしてその椅子の一方に優雅に腰掛ける少女がいた。

 華奢なチェアに座り白い表紙の本を膝の上で開いている白いワンピース姿の少女は、紛れもなく現実世界で見た、あの美しい少女だった。

 …しかし、心なしか見た目が幼くなっている気がする。具体的に言うと現実世界の彼女が風谷と同世代くらいの外見だったのに対し、こちらは三、四歳下の中学生のような幼い顔立ちだ。心象世界であることが影響しているのだろうか、と風谷は内心で首を傾げた。

 

「どうぞお掛けになって。丁度紅茶が入ったところだから」

 

 幼さの残る声と大人びた仕草で、少女が向かい側の席を勧めてきた。テーブルには瀟洒(しょうしゃ)な金細工の施されたティーセットが一式。言葉通り、風谷の席には既に美しい緋色の紅茶を湛えたティーカップが用意されていた。

 促されるまま、一先ず風谷は席に着く。

 

「それで、貴女は誰? どうして此処にいるの? 歩いていて自然と迷い込めるような場所ではないはずだけれど」

 

 機械のように単調な声色と、単刀直入な少女の言葉に風谷は苦笑した。確かに、夢中でウサギを追い掛けたってこんな箱庭世界には辿り着かないだろう。

 

「私は風谷巽。正規職員ではないが、C3の関係者だよ」

「中立機関の人間が何故今更私に接触を?」

 

 外見の幼さにそぐわない切り返しは、現実世界で謂われる“可愛くない子供”の典型だった。過去の自分も同じような印象を周囲に与えていたのか、などと風谷は頭の片隅で考える。

 そこで、はたと違和感を見付けて真顔になる。

 

「…君、C3と言って、()()()()()()?」

 

 未完成ということは、彼女は現実で覚醒したことが一度もないということだ。にも関わらず、何故外の世界の知識である筈のC3という名を聞いて即座に“中立機関”というワードが出てきたのか。

 風谷の疑問に、人形のような少女は臆面もなく首肯した。

 

「えぇ。ここには、たくさん本があるから」

「まさかその本に書いてあるとでも?」

「この本ではないけれど……」

 

 少女は記憶を手繰るように視線をさ迷わせるという人間らしい動作を見せた後。

 

「地上二階の書庫の、奥から数えて三つ目の書架の、上から四段目の左から数えて17冊目、管理番号20407の本の98頁目から始まる章と、地下の書庫の、中央の書架の、下から二段目の左から2冊目、管理番号00517の本の15頁目に、分かりやすく噛み砕かれた内容での記載があったわ。少し難解だけれどより専門的に中立機関に関する内容が書かれていたのは、地上書庫で52冊、地下書庫で23冊。名称や存在が載っているだけなら他にも、5000冊くらい該当書籍があるけれど」

 

 可憐な唇から淀みなく検索エンジンのように正確な書籍情報を提示して見せた。しかもご丁寧に初心者向けと関係者向けとに分類までしてくれている。

 これには流石に風谷も呆気にとられた。人は見た目によらないとは云うが、中学生程度の少女の口から空港のアナウンスじみた案内が出てくるなどギャップどころの話ではない。ここに学友がいれば「あなたも人のこと言えないと思いますよ」と辛辣なコメントが貰えたかもしれないが。

 

「…どうして、そんな」

「私が“知欲の真祖(サーヴァンプ)”だから」

 

 風谷の言葉をどう受け取ったのか、少女は簡潔にそう答えた。

 

 ちよく、チヨク、知欲ーーーー知識欲。

 

 頭の中でそう変換して、風谷は他人に心の内に触れられるような、ひやりとした錯覚を覚えた。

 

(…知識によって栄えた人間の業、それがこの子の冠する大罪ということ、か。そして彼女は“知欲の真祖”に相応しいように、膨大な知識をあらかじめ埋め込まれている…?)

 

 細く息を吐き、思考を冷やしていく。

 そんな空想のような設定が可能なのか否かは、今ここではどうでも良いことだ。問題なのは、それを少女が本当に受け入れているのかどうか。

 もしかすると、だが。

 未完成と呼ばれる彼女に欠けているのは、自身の境遇に対する受容や納得、許諾といった精神的なものなのかもしれない。

 元々過去の資料において、真祖と呼ばれる吸血鬼たちに関しては不可思議な事象が幾つも見られたと云う。もしもそれが、彼等の精神状態に起因するものだったとしたら?いや、全てがそうでなくとも、精神状態という要素が一つのトリガーであるとすれば?望まぬ知識を知らぬ間に植え付けられた少女が、そのまま知欲の真祖として覚醒することを頑なに拒んだ結果が“未完成(あの状態)”だとするならばーーーー?

 瞬く間に頭の中で組上がっていく仮説に、そこで一度ブレーキを掛けて、風谷は前提を整理するように口に出した。

 

「つまり君は……理解、しているんだね。自分が何者であるのか、此処がどういう場所なのか、そういったことを、君は明確に把握している」

 

 言いながら無意識に、あるいは直感に従って、風谷は目の前の少女を探るように目を細めた。思い付きの仮説ではあるが、投げ掛けてみるだけの価値はある。

 

「だとしたら、君ーーーー君には一体、何が欠けているのかな? どうして君は、そこまで完璧に自己を把握していながら、あんな状態で眠っている?」

 

 膨大な量の知識を一方的に押し付けられて、いや、()()()()()、少女は混乱を極めていたのかもしれない。今は驚くほど落ち着いて見えても、その理不尽さに必死で抵抗し続けていたのかもしれない。仮に風谷の考えが正しかったとすれば、彼女はーーーー。

 

 しかし、少女は風谷の問い掛けには答えなかった。

 

「…その前に、私の質問に答えていただけるかしら。貴女はどうしてこんな場所に来たの?」

 

 静かな湖畔のような瞳が、真っ直ぐに風谷を見返していた。今更に気付くが、少女の瞳は吸血鬼であるにも関わらず真っ青だ。それこそ未完成であるから、なのだろうか。

 気を取り直して、風谷は少女の質問に答える。

 

「…私はただ、君に会ってみたかった。興味が湧いたんだ。C3地下に眠り続ける、“未完成の真祖”という名のお姫様にね」

 

 風谷がそう言った瞬間、微かに少女の瞳が揺らいだように見えた。

 しかし揺らぎは一瞬。瞬きの間に青は元の静寂を取り戻していた。気のせいだったのだろうかと思うほどに。

 

「…そう。貴女が物好きにもほどがあるということだけは理解したわ」

 

 憂うような、幼い姿には不釣り合いに大人びた表情で、溜め息と共に少女はそう呟いた。

 少し逡巡して、紅茶のカップを指先に引っ掛けて持ち上げつつ、風谷は自身の仮説に対する考察を確かなものにするために再度、別の角度から切り込むことにした。

 

「一つ、聞きたいことがある」

「何かしら」

「今のこの状況は、この世界は、君が望んでいるものなのかい?」

「…ここは私の世界。全てが私の望みのままなのだけれど?」

「いや、私が言いたいのは……この世界にいて、君に不満はないのかという事だよ」

 

 やや回りくどかったか、と眉根を寄せつつ、風谷は言い直した。

 少女は膝の上の本をぱたんと閉じ、手慰みにその背表紙を指先でなぞりながら……ぽつりと。

 

「ーーーーひとつだけ」

 

 そこだけ切り取れば何故か酷く拙い口調で(寧ろこちらの方が見た目に相応しい口調と言っても差し支えないが)、蒼眼の少女は呟いた。

 

「ここには、たくさん本があるの」

 

 波一つない池に小石を放り込むように、少女は少し前にも言っていた言葉を繰り返す。

 

「お兄様たちのこと、吸血鬼(サーヴァンプ)のこと、人為らざる種族のこと、それらと人との均衡を守る組織のこと。色んなことが書いてあった」

 

 やはり、と。風谷は嘆息する。

 一般人にはまず受け入れられない、おとぎ話のような内容の知識。しかも本数冊分なら楽しめるかもしれないが、先程彼女が口にしていた“管理番号”とやらの桁数から推測するに、読書家であっても辟易する量。それを勝手に頭の中に書き込まれるなどと、只の少女であれば正気ではいられないだろう。

 

 しかし、続いた言葉に。

 

「でも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()5()7()2()3()()()

「ーーーーっ、」

 

 ひゅっ、と。

 垣間見たその“異常性”に風谷は息を呑んだ。

 

 少女の言葉は続く。

 

「ここにある本に書かれているのは、過去のことだけ。未来(さき)も、現在(いま)も、ここには無いの」

 

 まるで、好きなお菓子がもう無いのだとむくれる子供のように無垢に。

 

「それが……そのことを考えるたびに、息苦しくなる。それだけが、不満と言えば不満かしら」

 

 その言葉の意味を、込められた感情を、正確に読み取ってーーーー風谷は数秒前までの少女に対する認識を思考から掻き消した。検討外れの数式を書いてしまった回答用紙に消しゴムを押し付けるように、乱雑に。そうでもしなければいてもたってもいられなかったのだから。

 じわり、じわりと、少女へ抱くべき正しい認識が、氷解して(あらわ)になっていく。

 それを感じながら、溜め息を()くように風谷は心の中で独白する。

 

(あぁ……なるほど、私は勘違いをしていた)

 

 彼女は、望まぬ知識を押し付けられたのではない。

 多分、いや、確実にーーーー埋め込まれた知識の全てを嬉々として取り込み、咀嚼し、飲み干す貪欲さを秘めた人間だった。()()()()()()()()()()()

 先程まで立てていた仮説を撤回する。この少女ほど“知欲”を冠するに相応しい者はいない。

 

 だって。

 この少女は、自分と同類だ。

 

 ただひたすらに知識を求めてやまない、好奇心の権化。満たされることのない知的好奇心を満たそうと、その思いだけで息をしている。既知に埋め尽くされた世界に閉じ籠るなど死んでいるも同然だと、奥底から心が駆り立てる。生まれつき、そういう衝動を胸の内に住まわせている者。

 …突然意識世界に介入してきた風谷を、主たる少女がすんなりと許容した理由が分かった。

 図書館の検索機の真似事が出来るほどに見飽きた知識で埋め尽くされた世界に居て、未知を抱えた存在が勝手にやって来たのだ。迷わず迎え入れるに決まっている。風谷が彼女でも同じ全く同じ選択をするだろうから。

 

 一口、優雅な所作で少女が紅茶を嗜む。

 

 やはり、よく出来た人形のようだった。人形のように美しく、愛らしく、人の目を楽しませる為に作られたような完璧な外見(そとみ)

 しかしその内側に秘められた渇望を、知った。

 既に膨大な知識を有していながら、尚も貪欲に溢れる、形のない知欲(ソレ)がもたらす餓えに似た感覚を、風谷は知りすぎるほどに知っている。

 目の前に居るのは最早、見知らぬ少女でも、未完成の真祖でもないーーーー己の同類。その事実に。

 

(……………………………………………、)

 

 ざわりと吹いた一陣の風に、芝が舞った。

 

 

 

 

 

 9

 

 風が吹く。

 箱庭の世界は、静かに二人を閉じ込めている。

 

 戯れに指を引っ掛けて浮かばせていた紅茶のカップをソーサーに戻し、風谷は真剣な眼差しで少女を見遣った。

 

「………それなら君は、ここから出るべきだ。今すぐに」

「どうしてかしら」

「このままだと君は殺されてしまうから」

 

 敢えて、風谷はその表現を選んだ。

 C3が具体的にどうやって真祖たるこの少女を“処分”しようとしていたのかは分からない。しかし要はそういうことなのだろうから。

 風谷の言葉を受け、人形のような少女はこてんと首を傾けて。

 

「……鳥籠の中の鳥が、突然外の世界へ飛び出して、生きていけると思うの?」

 

 やや幼げな仕草とは裏腹に核心を貫く一言。

 確かに、もしも彼女が現実世界で覚醒したとしてーーーーその未来は開けたものではないだろう。何しろ彼女は九番目の真祖だ。しかも現時点で処分対象とされていたくらいなのだから、C3は間違いなく即座にこの少女を捕らえようと動くだろう。八番目という前例の存在もある。少女の真祖としての戦闘能力がどの程度かは知らないが、ここは対人外の戦闘班職員(スペシャリスト)たちが常駐する場所だ。いや、そもそも支部とはいえ地下迷宮のようになっているこのC3東京支部からは、地上まで出ることが一番難しいかもしれない。

 対してこの箱庭は少女そのもの。世界の何処よりも安全で平穏な庭。どちらが茨の道かなど、比べるべくもない。

 

「さっき貴女は私のことを、“C3地下に眠るお姫様”と言ったわね? 外の世界は此処よりも息がしやすいかもしれないけれど、目を覚ましても地下から出ることすら叶わずに(つい)えるよりはまだ、此処に居る方がマシだわ」

「………………」

 

 その時、少女のその言葉に。

 やっと風谷は、初めて保管庫を訪れた時に感じた既視感の正体を理解した。

 

(ーーーーーーーーーー、あぁ、そうか。この子は、()()()()()()()()()()())

 

 窓のない、地下の一室で。

 外の世界の危険を理解しながらも、知らない世界を望み続けた子供と、同じなのだと。

 

 そして理解した瞬間、彼女の内に蘇ったのは、泣き出したくなる程の()()()()だった。

 

 それらは吸血鬼から逃げ惑うしかなかった過去においても、魔術を磨いた今であってもずっと、風谷が無意識下に沈ませて抑え込んでいた感情。寄る辺のない少女が不必要さ故に無視し続けてきた、どうしようもない“無い物ねだり”。

 彼女にだって恩人はいる。友人もいる。けれど彼女のことを()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。彼女はあくまで、組織の制度の下で守られていただけ。C3内部の人間たちはどこまでも他人であり、一枚壁を隔てた関係に過ぎなかった。

 

 頼れるのは自分だけ。

 それが、少女にとっての現実だった。

 

 だから風谷巽は現在まで、その現実に一人で立ち向かって生きてきた。外の世界の自由を欲するならば徹底的に自分の身は自分で守らなければならないと、強迫観念にも近い意志を抱えながら。

 鳥籠の鳥は、籠の外では生きていけない。その現実に真っ向から逆らって生き延びてきた人間、それが風谷巽という名の少女だ。

 

 けれど、望まなかった訳ではない。

 無条件に守ってくれて、無条件に与えてくれる存在がーーーーそんな、親のような存在が居てくれればいいのにと、願わなかった訳ではないのだ。

 

 ぎり、と。膝の上に置いていた左手を強く握り締める。その動作で、彼女は己の感傷も憧憬も、全てを封じ込めた。それらは今この場には必要のないものだから。

 過去に庇護者を願った少女はもう救えない。その少女は既に、飛び方も生き方も独力で身に付けたからだ。鳥籠を飛び出しても運良く生き延び、飛び立った。

 

(だから私にはもう必要ない。だけどもし、今それをこの子が必要としているのなら)

 

 ()()は、彼女には与えられなかったけれど。

 

(今の私が()()()()()()()ことで、この子を連れ出すことが叶うのなら)

 

 箱庭の外にいる全ての外敵から少女を守り、庇い、匿ってみせる。彼女に羽根を広げることを教え、飛び方を指南し、羽根を休める場所を確保する。彼女が伸び伸びと外の世界を飛び回り、見て聞いて感じて知れるように、導いてみせる。

 そして、少女に知ってほしい。この箱庭の外の世界にどれだけの未知が溢れているのかを。一つ知る度に色を変えるこの世界が、どれほど美しいかを。

 彼女が思うままにその知識欲を満たすための導きや後押しならば幾らでもしようと、風谷は何の掛け値もなくそう思った。だってそれはそのまま、過去の風谷巽が“誰か”にして欲しかったことなのだから。

 あぁ、でも、そうだというのなら。

 

(ーーーー私は、()()()()()()()()。差し伸べたいと思った時に、差し出せる手があるのだから)

 

 最早一つも迷いはない。取るべき行動も、選ぶべき道も決まっていた。

 静かに席を立ち、風谷は少女の隣へ回り込む。

 

「…そうだね。でも、生きていく力を身に付けるまで守ってくれる庇護者がいるなら、話は変わると思うよ」

 

 これはあくまでも風谷のエゴで、我が儘だ。

 だからこそ半端な遠慮などしない。

 

 ーーーー少女が秘めている未知への渇望を引きずり出して、彼女をこの箱庭から連れ出す。

 

 誘い文句、否、殺し文句は容易に浮かんだ。

 息を吸い込み、青い瞳と対峙して口を開く。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そう言った瞬間、初めて人形のような少女は明確に表情を変えた。水晶のように無機質だった青い瞳が、その冷たさを忘れた。

 じわりと滲んだそれは酷く人間らしく。澄んだ宝石は熱を孕み煌々と輝いてすら見えた。

 

 恍惚とした熱を湛えたまま、少女は。

 ゆっくりと、けれど確かに。

 

 風谷巽の手を取ったのだ。

 

 

 

 

 

 10

 

 ーーーー白む視界が、徐々に色味を取り戻す。

 

「ーーーーーーーーーーーー…………、っ!?」

 

 何がどうなったのか、風谷自身にも理解が追い付いてはいなかった。ただ、箱庭の風景は消え去り、今自分が倒れ込んでいるのは紛れもなく“保管庫”の白い床だと、知覚する。

 気絶するように倒れたせいで床に打ったのだろうか、鈍痛のする頭を片手で押さえながら、風谷は身を起こした。何故か、今になって試薬の不味さが口の中にぶり返してくる。この分だとヨハネスに送る試薬のレポートの八割は不満と改善要求点の羅列になりそうである。

 

(…ただ、肝心の効能自体は、完璧の一言だが)

 

 くらりとした酩酊感を覚えつつ見上げた無機質なベッドの上には、最初に見た美しい少女が半身を起こし、宝石のような青い瞳を確かに開けて、風谷巽を見下ろしていた。

 その瞳を見た瞬間、未だにやや霞がかっていた彼女の思考が一気に覚醒する。

 箱庭世界で抱いた感情が、再び強く湧き上がる。守らなければ、彼女を。その手を引いて、この地下迷宮から抜け出さなくては。

 友人の影響か、此処に来る前に、こんな事態に備えた準備はしてあった。あとはそれらを(つつが)無く実行に移し、速やかにC3を脱出するだけ。

 立ち上がり、風谷は少女へ手を伸べた。

 

「行こう。必ず君を守るから」

 

 さぁ、既知の箱庭を抜け出して。

 未知の世界へ、逃げ出そう。

 

 

 

 

 

 11

 

 誤作動させた警報が五月蝿い。

 

 現在絶賛逃走中の風谷巽の内心はその一言に尽きた。

 保管庫から出て、手始めに風谷は()()()()としてあらかじめハッキングしていたC3の警備システムに自前の端末から介入し、逃走予定の経路とは全く関係のない場所を指定して警報を鳴らした。同時に監視カメラの映像をランダムに映させたり色々と小細工も図っている。

 当然、未完成だった筈の真祖が脱走した時のセキュリティマニュアルなんてピンポイントなものがある訳がないので、C3の対応は一歩遅れるだろう。普通ならば気付かれない内にさっさと退散してしまうだろうが風谷は()えて脱走開始時に警備システムを作動させた。どうせ(けむ)に巻くのなら最初から相手の行動まで掌握してしまえばいい。一々相手の出方を窺うのが面倒、とも言うが。

 何はともあれC3職員と警備に見付からずにこの地下施設から脱出できれば彼女の勝ちだ。警備に捕まらずに、ではなく見付からずに、であるところが最大のポイント。悲しい(かな)、風谷巽は所詮女子高生なので大人に見付かればその時点で捕まったも同然、つまりゲームオーバーなのである。

 警備システムにより厳戒区域に指定されたエリアから全く外れた場所をひた走る。無論、風谷の後ろからは薄青の手術衣を纏った少女が付いてきている。ここが病院であったならば、医者と患者の逃亡劇に見えなくもない。

 

「………………」

「………………」

 

 二人の間に会話はない。表面上は焦りなど見せていない風谷も雑談をするほどの余裕はないからだ。一切口を挟まずただ追随する少女の方は、寧ろそれが素のようだが。

 逃亡序盤の調子は上々。端末に映し出されている正常な監視カメラの映像を頼りに、風谷は角を曲がって少し開けた空間に走り出た。

 

 そこに、人影があった。

 

「ーーーー風谷ッッッ!!」

 

 切羽詰まったような表情で名を呼ぶ友人ーーーー露木修平、だ。

 

「何をしているんですかあなたはっ!?」

 

 第一声がそれということは、どうやら彼は完全に状況を把握している訳ではないらしい。どこかで何かしらの情報ーーーー恐らくは“未完成の真祖”に関する噂ーーーーを耳にして、持ち前の察しの良さで現在のC3の警戒状況と結び付けたのだろう。そもそもあの日のファストフード店で未完成の真祖というワードを彼に聞かせてしまったのは風谷だ。最後の最後に学友が目の前に立ちはだかるなどというこの展開は、明らかに彼女自身が招いてしまった失敗。

 

 それでも、自然と口角が上がったことを風谷は感じていた。

 

 何故ならば、気付いたからだ。

 露木が立っていたのは、監視カメラの僅かな死角。昔、二人でC3施設内を探検した時に、面白半分で風谷が彼に教えた位置だった。

 そもそも風谷が今回逃亡経路に選んだのは出来る限り歩き馴れた、目隠ししてでも歩けるようなルートだ。そしてそれは、C3という繋がりを持つ中では唯一と呼べる露木(友人)と何度も通った道でもある。露木は、もしこの騒ぎの主犯が風谷ならば、必ず此処を通ると踏んで待ち伏せていたのだろう。

 何年も前の些細な思い出を、彼はきちんと憶えている。共に過ごした時間が独り善がりのものではなく確かに二人の共通の記憶であるのだという証明が成されたようで、喜ばしかった。

 もしくは、ただ単純に、会えて嬉しかっただけかもしれない。

 どう足掻いてもこれから先、おいそれと会えなくなるだろう学友に、最後の最後で顔を合わせることが出来たという奇跡が。

 

 だから風谷巽は笑って言った。

 

「やぁ露木、突然だがここでお別れだ! 私は()()()()()()()()()よ」

「何を言って……っ、その、子は……!」

 

 風谷の背後に立つ少女を見た露木が、言葉を途切れさせて固まる。鳶色の瞳が大きく見開かれていた。

 愕然とする学友に対し、風谷は白衣のポケットから黒いシャーペン程の長さの棒状の魔術道具を取り出す。そしていっそ慈愛すら見て取れるような表情で学友に柔らかに笑い掛けた。

 

「ねぇ露木、前に、卒業後はどうするかって話をしたのを覚えているかい?」

「っ、は…!?」

 

 いきなりの話題転換だ。彼が更に混乱することも分かった上で、独り言にも近しい口調で、風谷は箱庭世界で得た答えを紡いでいく。

 

「ようやく分かったよ。私は不特定多数の一般人を守りたかったわけじゃない。誰かを守れるようになりたいと言ったけれど、誰でも良かったわけじゃないんだ」

 

 彼女は自分の力の限界を、どう足掻いても及ばない範囲というものを、明確に知っている。だから目に入る全てを救おうとは思わない。

 けれど。

 

「私はーーーー子供を守れる大人になりたい」

 

 無力で、非力で、暗闇の中で蹲るしかない子供を。誰かの手が必要で、でも誰にも手を差し伸べてもらえない子供を。

 

「だから私は()()()()()()。たとえ君とは(たが)えても、これが私の進むべき道だから!!」

 

 風谷の張り上げた声に呼応するようにその手の中で、シャーペンくらいの小さな棒だったものがリレーのバトン程の大きさに変わる。

 これは開発班の研究室から借りパクしてきた代物だ。戦闘任務に参加していた時に頻繁に使用していた武器であるため、使い方は彼女の身に染み込んでいる。

 何度も吸血鬼相手に繰り返した動作で、彼女は学友へ向けてバトンを振るった。

 

「ーーーーっっっ!?」

 

 バトンの動きに応じるように虚空から放たれたのは、六本の黒い矢。

 漆黒のそれらは露木の着ていた服の端を噛んで壁に刺さり、彼を縫い止めた。

 寸分(たが)わず狙い通りに矢が打ち込まれた事だけを視認し、直ぐ様風谷は踵を返した。別ルートから脱出するために走り出す。

 

「待ってくださいっーーーー風谷!!」

 

 背後から響く学友の叫びを、振り切って。

 

 

 

 

 

 12

 

 こうして、17歳の少女による前代未聞の真祖脱走事件は幕を閉じた。

 

 彼女はその後、C3の捜索を見事に振り切って逃亡を完遂した。事態が終息の兆しを見せたのは脱走から五日後。少女がC3上層部と“九番目の真祖”に関する『協定』を結んだと云う噂が流れると共に、彼女への捜索指令は取り下げられた。

 事件から十日も過ぎる頃にはC3東京支部内の混乱や情報の錯綜も収まり、一先ずの平穏が取り戻された。

 

 

 

 少女の選んだその道が、廻り出した歯車が、物語の中枢へと重なるまでーーーーあと、五年。

 

 




まずは、ご閲覧ありがとうございました。

ここまで当連載を読んでくださった方なら多少は拙宅のオリキャラたちにも免疫がついたかと思い、今回は思いきってオリジナル要素満載な過去編を出させて頂きました。根気よく最後まで読みきって下さった読者様には心から感謝申し上げます。


さて、この下には、今回のお話に深く関わったメンバー(風谷・冷優・露木・吊戯・ヨハネス)について、作者からちょっとしたコメントを載せています。お時間がある人は暇潰しにでも読んでいってくださいませ。



《風谷について》

書き始めた当初はここまでしっかりした過去を持つことになるとは思っていませんでしたが、露木を筆頭に原作キャラとの関わりを考える中でどんどん味が出てきたので遠慮せず詰めこんだらこんなボリュームに。

主役を引き立てる役として舞台に送り出したら知らない間に舞台の主役を乗っ取っているーーーー彼女はそんなキャラクターです。今回も見事に乗っ取られました。

余談ですが、今回の話において、風谷巽の精神が非常に成熟・安定して見えるのは単に『この話の時点で既に有紗と百合音に出逢っているから』です。2章でちらっと地の文に入れた『冬に一人、初夏に一人拾った』というのがそのまま二人のこと。
つまりぶっちゃけ風谷の過去はこれだけじゃありません。あくまで今回は「冷優との出逢い」を切り取ったのでこれより前の時間軸に「有紗との出逢い」「百合音との出逢い」があります。
もう少し過去に遡ったお話でなら、思春期らしく情緒不安定な風谷巽とかも出てくるかもしれませんね。



《冷優について》

今回は八割風谷の過去編でしたが、タイトルにねじこんだ『青い薔薇』というのは冷優のことです。

元々、自然界の薔薇は青い色素を持たず、どれだけ交配を重ねても青い薔薇が出来ることはありませんでした。このことから青い薔薇は『不可能』『存在しないもの』『有り得ないもの』の象徴として語られていたそうです。
しかし科学技術の発展により、2000年代に入ってから青い薔薇を作ることが可能になりました。それを祝して付け加えられた花言葉が『夢叶う』、それから『奇跡』と『神の祝福』。

また、幕間4の独白で出てきた『不可能の花』も青い薔薇を指して表現していました。
「吸血鬼の瞳といえば赤」が普遍的事実な世界における『青い瞳の吸血鬼(有り得ないもの)』、それが冷優です。



《露木について》

今後、展開によっては彼視点の過去編を上げる予定があるのであまり深く語るつもりはありませんが……とりあえず拙宅のオリキャラ(風谷)のせいで結構な精神的ダメージを負わせてしまった自覚はあります。桜哉の時といい、気が付いたら原作キャラの精神に重い一撃を入れている癖は早急に(新たな被害者が出る前に)改善しなくては。

しかし今回、彼と風谷との決別もテーマの一つだったことは事実です。

学友との避けられない別離、その一部始終。それがこの話の基本骨格となっています。
過去編がこんなボリュームになったのはこのテーマを基盤にしてしまったせい、とも言います。



《吊戯について》

百合音たちにすら「風谷」と名字呼びされている彼女のことを名前で呼ぶ稀有な人物。

あとこの人、風谷巽の過去に(まつ)わる人物の中では露木と同格に重要人物だったりします(小声)。ですが彼と風谷のお話はまた今度、機会があれば。



《ヨハネス・ミーミル・ファウストゥスについて》

台詞のサンプルが少なくて今回一番書くのに気を使ったキャラクターです。「知的好奇心の権化」あるいは「生粋の探究者」という意味では風谷と本質的に似通った人物。

原作の五年前に彼が何をしていたかが定かではないので、第5章の風谷との会話シーンではあえて情景描写を最小限に。二人が居た場所はヨハネスの研究室ではありますが、御国のお店の鏡の裏とは限りません。というかこの時まだ御国は18歳の筈なのでThe Land of Nodはオープンしていない可能性の方が高いかと。そんなわけで第5章の舞台は、風谷が入室する描写もなければ出て行く描写もない不思議空間となっております。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。