珍しく、休日だった。
正確に言うなら、露木修平はその日珍しくも、休日を休日として過ごしていた。
ここの所どこかの和風吸血鬼だの闇夜を駆ける三馬鹿だのの所為でまともに休めていなかったが、久しぶりに丸一日を自分の時間として確保出来たのだ。
朝は遅めに起き、気に入りのブックカフェで時間を過ごして、既に日の傾きかけた刻限。
普段は仕事柄、地下に篭もりきりの生活である為に縁遠かった人々の喧騒。それを肌で感じ、新鮮さを味わう。魔術師の家系の血が濃い影響で吸血鬼に襲われやすいという理由からも、人通りの多い道を選んで歩くのは昔からの癖だった。
なので、同じような理由で同じような癖を持つ人間と鉢合わせる確率は、どうしても高くなる訳で。
「ーーーーっ、」
ぱちりと、黒い瞳と目が合って、露木は足を止めた。
行き交う人々の流れの中で、何十メートルも離れてはいたけれど、それでも確実に視線が交わったのが分かる。
今までも、あったのだ。似た生活区域を共有していてなおかつ同じような道を選ぶのであれば、思いがけず見掛けたり顔を合わせてしまう事は、避けようも無い。だからその度に、お互いに踵を返して通り過ぎてきた。今回も同じく、視線の先の彼女ーーーー風谷は、ぱっと目を逸らして全く別の方向へ足を向けている。
今までなら、露木も同様に別の道を選んでやりすごしただろう。
しかし今は、“今まで”とは状況が違う。
露木は、信号を渡って向かいの歩道の路地に姿を消した彼女を追い掛けた。
既に七月も半ば、気温は高い。太陽は陰っている時間帯とはいえ、走れば途端に体は熱を上げた。人にぶつからないように気を付けながらも、横断歩道の人並みを駆け抜ける。
路地に入れば一転、人々の喧騒は嘘のように遠のいた。幸いにも道は枝分かれしておらず、早足のまま歩を進めれば直ぐにその背中が見えた。
「ーーーー風谷っ!」
「…………、」
見慣れた白衣とは違い、黒のパンツスーツ姿の彼女。この暑さでもきっちり羽織られたジャケットの後ろ姿が、露木の声にぴたりと停止する。
ややあって、振り向かずに返答があった。
「個人的に情報屋と会うなんて、君の立場に関わるんじゃないのかい?」
「…今は、プライベートです。それに危ない綱渡りをしているのはあなたの方でしょう」
口調だけは、いつものシニカルな語り口と変わらない。だが振り向こうとしない様子からは、彼女なりに動揺している事が窺えた。
少し上がった息を整えつつ、露木はこの機会を逃さない為に本題を口にする。
「風谷、C3の傘下に入って下さい」
「! 何を言っているんだ、君はっ」
明確に驚いた声と共に、漸く風谷はこちらへ振り向いた。感じられるのは困惑と、そして僅かな怒りの感情。
彼女は孤高であることにプライドを持っている。組織に帰属せずたった一人で立場を維持し続けているという事実に。それを崩せと言われれば反目の構えになるのは道理だった。
露木とて、これまではずっと、彼女にはこれ以上C3に関わって欲しくはないと思ってきた。
しかし先程も述べたが、状況が変わったのだ。
「九番目の真祖とその
「………………」
「椿との“戦争中”だけでもいい。一時的にでもあなたがC3に協力する立場であると示してくれれば、この程度は問題にはなりません。決して、あなたにとって悪いようにはさせませんから」
「私は情報屋だ。常に中立中庸であることが一番の防御機構として機能している」
「『協定文書』があれば、相応の見返りは必要ですが、C3があなたの身を保護すること自体は不自然ではありません。九番目の真祖を擁するあなたが今どれだけ危険な立ち位置にいるか、自分でも分かっているでしょう」
どうか、頷いて欲しい。
どうあっても関わらなければならないというのなら、せめて味方として。それが露木の願いだった。
…だからこそ、次に返ってきた風谷の言葉を、
「ーーーープライベートだと言ったな? なら私もオフレコとして答えよう。露木、私とC3の間に『協定文書』など存在しない」
「え……」
「人は都合の良い偽りを信じ、都合の悪い真実から目を逸らす。まして、混乱の只中なら意図的に都合の良い偽りを流布することも容易だ。デマゴーグ、と言えば君なら分かるだろう? 五年前に私がやったのは『九番目の真祖を逃がした人間とC3が協定を結んで和解した』という
前提が、あっさりと覆された。
掴んでいた頼みの綱が、ちぎれていくその音が、露木には聞こえた気がした。
ーーーー五年前、彼女が九番目の真祖と共にC3から脱走した時、中立機関内部は暫くの間大混乱だった。
そんな中で、ある時から「C3と脱走犯が協定を結んだ」という噂が流れた。そして誰からともなく誰もが口にしていた『協定文書』の存在。最重要機密として一定以上の立場の職員しか閲覧出来ないと言われたそれの内容についての憶測は様々あった。しかし取り分け多くの者が信じるに値すると頷いたのは、「九番目の真祖は風谷巽の管理下に置かれ、他の真祖との能動的な接触を禁ずる」という条文が盛り込まれている、という話だった。他の真祖との接触がない限り、C3は風谷巽を敵対者だと設定しない。それならばある程度は安心だと、多くの職員が納得したという。
そうしてC3の職員たちは、正式に協定が結ばれたという噂にみな安堵した。
露木もまた、安堵した人間の内の一人だった。
少なくともその協定に反しない限り、C3が積極的に彼女を攻撃することは無い。低い水準ではあるが、友人の安全が保証されているという事だったから。
だから、彼もまた盲信していたのだ。その協定は形として確かに存在し、風谷を守っている物なのだと。
ーーーーと、そこまで考えて。
「…………………ぁ、」
露木は、気付いた。
最後に風谷と通信でやり取りをした時の会話が頭を過る。彼女はこう表現していたはずだ。「あの件については既に副支部長との
(ーーーー協定を結んだ、なんて、一言も…)
思えば、協定が結ばれたという“噂が広がっていた”時点で、疑うべきだった。デマゴーグと、先程彼女は表現したが。確かにそれこそ昔から、彼女は常々言っていた。人の噂ほど影で操りやすいものはない、と。
けれどこの状況において、露木が気にするべきはもっと深刻な部分だった。
(…いや、それよりも、そんな事よりもっ…!)
今、風谷はオフレコと称してはいたもののーーーー自ら、逃げ道を閉ざした。
“協定文書など存在しない”ことを知ってしまった露木が、協定文書を理由に風谷の擁護をする事は出来ない。彼女の告白は、露木の講じていた策を根底から破綻させたのだ。
何より。
そう、何より。
他人の思考を読み解く術に長けた彼女には、分かっていた筈だ。露木がC3の理念や利益に関係なく、ただ友人を守りたいという思いで手を伸ばしたのだという事を。
分かった上でその手を、明確に振り払われた。
「……どうして、ですか」
もう、露木には問い掛ける言葉しか、残されてはいなかった。
風谷が積極的にC3に与しないのは、デメリットに対してメリットが少な過ぎるからだ。
風谷が露木の伸ばした手を拒むのは、今の今まで彼女がそういう生き方をしてきたからだ。
彼女の言動にはいつだってはっきりとした指針と理念があった。論理的に考えれば、理解できないことなんて一つも無かった。
だから今、露木がどうしても分からないのは、風谷の事ではなくてーーーー、
「ーーーーどうして俺は、あなたを助けることが出来ないんでしょうか…?」
相対する彼女の、黒水晶の瞳が数度瞬いた。
まさか、そんな事を聞かれるとは思っていなかったと言うような、驚きを孕んで。
やがて風谷の表情が、それまでのプライベートには似つかわしくないものから、険の抜けたものに変わった。他人から見れば極々些細な変化だったが、露木からすれば仮面一枚を外したように歴然とした違いだった。彼にとっては、こちらの方がずっと、見慣れた表情だったのだから。
静かで、大人びていて、けれど目の奥の感情を隠す事はしない、彼女なりの自然体のままで。風谷は露木の問い掛けに答えた。
「……“生きている世界が違う”からだよ」
一本の、境界線を引くように。
否、元からそこに線があったのだと、改めて教えるように。
「君と私は、育った環境が違い、出会った人が違い、選んだ道が違う。そしてそもそも生まれ落ちてきた世界すら、同じと言うには違いすぎる。だから露木、無理をするな」
いつの間にか彼女は柔らかく笑っていた。『あの時』と同じ、何かを諦めたような目をして。
「君は、私と同じところに来る必要は無い。私を庇う義務も無い。生まれてきた世界が違うなんていうのは、君のせいじゃないんだから」
皮肉でも嫌味でもまして茶化しているのでもない。激情を乗せた吐露ではなくとも、彼女は今確かに、剥き出しの心を露木へ語っていた。友人からの問い掛けに、どこまでも真摯に答えてくれようとしていた。
「誰も悪くないんだよ。過去に、君が正しいと思ったことをして、私が勝手に傷付いたことも。私が正しいと思った道を選んで、君を傷付けてしまったことも。今、君が私を救えないことも、私が君を救えないことも。誰のせいでもないんだ」
その回答に一切の救いが、なかったとしても。
「だから……君はどうか、そのままそちら側に居てくれ。私は、私の大事な学友を、私の生きてきた世界になんて引き込みたくない」
それは、突き放すような乱暴さではなくて。
反対側の道を指さして、そっと背中を押すような。振り払うことさえ出来ないような、優しさだった。
その優しさを受け入れることも、拒むことも出来ずに、露木はただ風谷を見つめ続けるしかなかった。いつも、舌戦で負けるのは露木の方だったけれど、こんな時すら言葉は出てこなかった。
やがて風谷は、沈黙する露木に用は済んだと判断したのか、背を向けて去って行った。
夕闇がすぐそこまで迫っていることを、焼き付けるような夕陽が知らせていた。それを視界の端で知覚しながらも、露木は立ち止まったまま、友人の言葉に思いをめぐらせる。
「ーーーーーーーーーーーーーーーー………、」
生まれた世界が違う。そんなことは、双子や三つ子でもない限り当たり前の事だ。
けれど。
祝福され温かな愛情に満たされた世界に生まれた人間と、残酷なだけの冷たい世界に落ちてきた人間では、同じ世界に生きていると言えるのだろうか。いわんや、手を取り共に同じ道を歩く、なんて。
(…それでも、俺は友人として、あなたの隣を歩いていたかっただけなのに)
確かに、最初に生きる世界が違うのだという現実を突き付けてしまったのは、露木の方だった。
高校に上がる前の、
露木が悪い事をした訳ではない。勿論、風谷の方も。しかし、二人が何かをした訳ではないのにあれ程までに歴然と、分け隔てられてしまった。風谷の見ていた世界と、露木の見ていた世界が、全く異なる“当たり前”の上に成り立っていたのだと。それこそが、生きている世界が違うという事の証左だった。
その時彼女が見せた、酷く傷付いたようなーーーー泣きそうな表情が、今でも目に焼き付いている。
その一件以降も二人の友人関係は続いたが、まるで境界線が引かれたように、肩を並べて歩いているという感覚は薄れていった。
…あの時、どうして境界線を超えてでも、彼女に手を伸ばせなかったのか。
後悔するほどに彼女との距離は開いていく。まるで、今更手を伸ばしたところで手遅れなのだと言われているかのようだった。
過去、彼女が歩んでいた『道』と確かに交わった、一つの交差点。
それは既に、振り返ってもみても霞んでしまうくらい、遠いものになってしまっていた。
露木を置いて歩き出して、路地の角を曲がったところで、風谷は独り言のように呟いた。
「ーーーー隠してくれ、有紗」
その瞬間、世界が切り離された。
風谷が立つのは変わらず裏路地。けれど、空には
種明かしをすれば、風谷のスーツの内ポケットには手のひらサイズのぬいぐるみに変化した有紗がいる。真祖の得手を引き継いでいるのか、どこぞのマジシャン風な
有紗の幻術が生み出す世界は、元の現実世界と紙一重だ。同じ風景、同じ建物、同じ道。しかしあくまで幻術によって作られた世界であるが故に、有紗が許可した人物以外は入って来れない。歩けば同じ分だけ現実世界でも移動するが、基本的には有紗が幻術を解かない限り現実世界に帰ることは出来ない。
風谷はこうしてよく外出時に有紗を連れて、帰路についた時の尾行や吸血鬼の襲来を避けていた。“入り口”も“出口”も誤魔化せるので、非常に重宝している。
誰もいない道を歩きながら、彼女は先程の友人との会話について頭の中で振り返る。
(…私の心の奥底にあるのが、あんな幼稚な考えだなんて。呆れられてしまったかな?)
本当は言うつもりのなかった言葉まで全て明かしてしまった。彼は昔から、彼女に本心を吐き出させるのが何故か上手い。
(けどまさか、あの状況で出てくる疑問がアレだなんて)
風谷にぶつけたい
どうして勧誘を拒むのかとか。
何故C3と取引はするくせにこの局面で味方にはつかないのかとか。
そもそも九番目の真祖と他の真祖との接触を未然に防ぐことは出来なかったのかとか。
何で五年前に何も言わずに一人で脱走計画を実行したのかとか。
それなのに、露木の口から発せられた問いは風谷の予想していたどれにも当てはまらなかった。だから、答えを用意していなかったのだ。
おかげで隠していた筈の本音をぼろぼろと零してしまった。
「昔は私ばかりが大人ぶっていたのに。変わるものだね、人は。ねぇ有紗」
ポケットの中の少女は何も語らない。ここは既に彼女の世界なのだから、手品よろしく飛び出してきたって可笑しくはないのだが。
反応がないことに若干不穏な気配を感じたが、また後でも構わない話だと風谷は思考を切り替える。
(それにしても協定文書の話で、嫌なことまで思い出したな)
五年前、風谷が九番目の真祖を連れてC3から脱走した時。C3との協定を結んだように見せ掛ける事を提案してきたのは、
まだ情報屋としての地位を確立してはいなかったあの頃の風谷には、一番重要なことーーーー冷優を救い出すということだけしか達成する力が無かった。当時の風谷には、多くを抱えながらでも目標を果たせるほどの余裕など、なかった。
だから塔間の持ち掛けてきた話に乗った。
結果、安全地帯であったはずの中立機関を敵に回し、友人を置き去りにした。策略において何枚も上手だったあの男に乗せられている事を知りながらも、それでも九番目の真祖たる少女を守りきるために。
後悔はしていない。…だが今となってみれば、協定の件だけではなく“風谷が九番目の真祖の存在を知った”ところから、あの男によって仕組まれていたのではないのかと、風谷は考えている。
(そもそも前提から違和感があったからな。
思い返してみれば不自然な点など幾らでも見付かった。彼女はそれを全て幸運で片付けるような楽観的な思考回路は持ち合わせていない。
露木には話さなかったが、彼女が塔間泰士と話をつけたーーーーその話し合いの内容も、第三者が聞けば明らかに不自然なものだった。
あの時の“話し合い”において、焦点を当てられていたのは九番目の真祖の処遇について、
そこから分かる事は一つ。塔間泰士の狙いは、九番目の真祖ではなかったのだということ。
即ち、九番目の真祖を利用して“風谷巽をC3から追いやること”こそが、彼の真の目的だったのだろうと、風谷は推測している。
そして、当時の風谷が彼にとって邪魔者と認識された理由。これについては更に憶測を重ねることになるが、恐らくは“風谷が狼谷吊戯と交流を持っていたから”ではないかと考えられる。
風谷はとある理由から、狼谷吊戯に恩を感じている。
昔から彼が塔間泰士にこき使われていたのは知っていたが、もしそれが一定ラインを超えたのならーーーー風谷は迷わず狼谷吊戯を助けようと行動しただろう。それこそ、冷優を救い出した時と同じくらいの潔さでもって。
(自分で言うのもなんだが、あの頃の私は未知数だったからな。家柄から能力を辿ることも出来ず、どこで学んだのかも分からない技術を使って、興味の向くまま行動していたから)
友人からはマイペースの一言で片付けられてしまっていたが、塔間泰士にとっては予測不能な危険因子だったのだろう。
だから仕向けた。九番目の真祖をダシに、風谷巽が自らC3から出て行くように。
(私の考えが正しければーーーー塔間泰士は狼谷吊戯を使って何かをしようとしている。それも、あの人が壊れかねない“何か”を)
見過ごしてなどやるものか、と。
一寸先が暗闇であろうと、未開拓の荒地であろうとも。
たとえ、かけがえのない学友と肩を並べた交差点が、進む程に離れていってしまうとしても。
とてもとてもお久しぶりです。大変お待たせ致しました。
私生活が忙しかったこともありますが、非常に難産な話でした。単なる友人のくせにお互いに向けている感情が重すぎる二人(風谷と露木)のせいで、プロットを五回以上、白紙から書き直すはめになったりしていました。今年の一月に初期構想として保存していたメモの内容が見る影もありません。
さて、今回のお話について少々。
まず、考えや意見が交わらないことを、平行線と表現することがあります。
しかし風谷と露木は平行線ではありません。二人は学生時代、確かに交差した線だったのですから。
そんな訳で今回のコンセプトは、
『単なる平行線よりも、交差点を過ぎた後の直線AとBの方が救いようがないのでは?』という考えでした。
この二人は基本的にこのままどんどん離れていきます。いつか交わる点があるとすれば、それはどちらかが自分の道を曲げた場合だけ。
けれど道を曲げるとか立場を変えるとかは決して悪いことではないので、いつかまた二人が肩を並べられる日が来るかもしれません。未来のことだけは、誰にも分かりませんから。
ちなみに、次回からようやく原作の時間軸に戻る予定です。またお待たせするとは思いますが、どうか気長にお付き合い下さいませ。