ーーーーあの子の事が理解できない? へぇ、良かったわね。
ーーーーだって、あの子の頭の中がどうなってるのかなんて、知らない方がきっと幸せだもの。
時間帯は深夜。良い子は寝ているべき時刻。
九番目の主従たる冷優と百合音は、自宅の地下の一室にいた。一般家庭にはあまり設備されていないであろう防音加工の施された部屋。そこは部屋の中央を陣取るグランドピアノが主張するように、いわゆる『音楽室』だった。
「それで、結局なんであんなこと言ったわけ?」
「……………」
五線譜の引かれたホワイトボードの前に立ち、百合音はピアノ椅子に座る冷優へ促す。“あんなこと”というとそれは、数時間前に百合音が割り込んで止めた椿との会話の一件だ。
事のあらましは既に冷優から聞いていた。椿と交わした言葉についても、再現するように全て。
彼女の記憶力からして恐らく一言一句違わないのだろうそれらを聞いて、まず百合音は頭を抱えた。最初から面と向かって聞かされた椿の心境を考えると本気で頭が痛くなってくる。
妹に歩み寄ろうとして「嫌です」と突っぱねられるのならまだしも、「そもそも何故歩み寄ってくるのですか?」と不思議そうに真っ向から疑問を返されるなど、流石に彼も想定していなかっただろうに。ひとの心は総じて想定外に弱いもの。椿の心に入ったダメージ量の計算はしたくない。
すっと背筋の伸びた姿勢でピアノ椅子に腰掛けている冷優は、いつもの彼女のレスポンスより二拍ほど余分に間を開けてから、つらつらと語り出した。
曰く、椿が冷優に対し妹と認める意の発言をした上で「家族にはそばにいて欲しい」と言った意味が分からなかったと。
曰く、分からなかったので推測から理由を挙げたが、どれも否定されてしまったと。
曰く、合理的理由が無いにも関わらず冷優を傍に置くことを望む椿が理解できなかったと。
言い淀むこともなく理路整然と、彼女は言ってのけた。その解釈のあまりの酷さに聞いていた百合音が更なる頭痛を覚えたのは言うまでもない。
「ていうか合理的理由って……椿さんが貴女のこと気に掛けるのがそんなに不思議なの?」
「不思議というか、謎かしら。だって、観賞用でも
「あいがっ………」
しれっと普段の生活では聞く機会のない単語を連ねられて思考が止まる。どうにも彼女は、自分の事を道具あるいは人形と同一視している節があるらしい。
そこで百合音は気付いた。一瞬思考がまっさらになったことで逆に気付いてしまった。
まさか。
「ちょっと待ってまさか貴女……あれだけ色々言われておいて、椿さんから純粋に好意を持たれてるって自覚がないの?!」
「好意?」
「いや、恋愛とかそういうのじゃなくて、こう、好感度がプラスかマイナスかみたいな話ね」
「お兄様が、私に? ……何故?」
「なぜ、って貴女ねぇ……」
「お兄様には私を大切だと思う理由がないわ」
きっぱりとそう断言した冷優に、あの噛み合わなさの根源はこの部分か、と百合音は溜息を吐いた。
察してはいたが、椿と冷優ではそもそも持っている『前提』が違う。まず訂正すべきはそこだろう。
「あのね、冷優。椿さんにとって、家族は大切なものなの」
「……そう」
「"兄妹"だって家族の繋がりの一つでしょう? だから椿さんは貴女のことも大切にしたいって思ってるだけよ」
そこで冷優が不自然に首を傾げた。
嫌な予感がして「今何考えたか洗いざらい吐きなさい」と促す。
「確かに私はお兄様から見れば妹という位置づけではあるけれど、
「……………」
「どうかした?」
「……ねぇ、貴女が椿さんのこと"お兄様"って呼んでるのって、もしかして」
「"先生"がそのように私たちを定義されたから、だけど」
冷優の返答に、とりあえず百合音は深く深く深呼吸をした。
つまり、彼女が椿を兄と呼称したのは、先生の決めた序列に則った結果というだけ。
それは例えば小学生が学校教諭を、尊敬や憧れの念などなくとも全員一律に「先生」と呼称するのと同じ。そう呼ぶように決められていて、そう呼ぶように教えられているから、というだけの理由。そこに実際に先達に対する敬意を込めている子供が、どれだけいるだろうか。残念なことに冷優もまた、兄に対する親しみなど込めているつもりはなかったのだ。
問題なのは、呼ばれた側の椿がその事を理解していなかったという点。
「……冷優、貴女にとってはともかく、椿さんにとっては貴女は序列だけの関係じゃなくて、家族としての妹なのよ」
「何故?」
「そりゃ貴女が先に椿さんのことを"お兄様"って呼んだからじゃない?」
「意味が分からないわ」
「たぶん嬉しかったのよ、椿さんは。リリイさんから聞いたけど、椿さんって事前に他の兄弟のところにいって自分のこと知らないか聞いて回ってたらしいし。他の兄弟みんながみんな知らないって言う中で一人だけちゃんとお兄様って認めてくれたら、そりゃ嬉しいって思うでしょ」
百合音の説明に、考え込んで俯く冷優。
表情に出ないので分かりにくいが、彼女は今かなり必死になって頭を回している筈だ。普段理解できないことを、理解しようと頑張っているのだから。
恐らくあの屋上で椿と相対していた時もそうだったのだろう。結果はアレだった訳だが。
やがて、長い沈黙の後で、形良い唇が音を紡いだ。
「ーーーーつまり、憂鬱のお兄様は他の真祖に対して自身を兄弟だと認めて欲しいという願望を持っていて、そこに私がお兄様の事を“お兄様”と呼称し関係を認めたことで、疑似的にその願望が満たされた。だから私に対し好意的である……ということ?」
「いやどんだけ回りくどい言い方するのよ。…まぁ、ものすごく小難しく言ったらそういうことなんじゃない?」
なにはともあれ
対する冷優は、それでもまだ自ら出した回答を上手く呑み込めていない様子だった。百合音には息をするのと同じくらい苦もなく理解出来ることであっても、彼女にとっては国語辞典を丸暗記することよりも難しいことだから。
「となると……そうね。お兄様の利益ばかりを考えて、私を引き入れたいとする理由を挙げていたのは確かに間違いだったわね」
興味深い研究論文を読み込んでいるかのようにふむふむと冷優は頷いていた。
一方、ここまできて漸く百合音にも冷優のロジックが理解できてきた。確かに「自分に好意を持ってはいない」と思い込んでいる相手から何度も勧誘を受けたら、そこには何かしら相手にとっての利益が発生するものだと思うだろう。全くすれ違いにも程がある。
「でも、まだ分からないことがあるわ」
「どこ?」
「そもそもどうしてお兄様は私にわざわざ「妹だと認めている」ことを伝えたかったの?」
えっそこに疑問持つ? と百合音は軽く戦慄した。
「だって、兄弟だって認めて貰えたら独りじゃなくなるでしょ?」
「……? 独りであることは何か問題なの?」
「独りぼっちは寂しいし、悲しいでしょ」
「そうなの?」
「そうなの」
宝石のように美しい青の瞳を正面から見据えながら、百合音は同じ言葉を異なるピッチで反復して、念を押す。
一般的にはそうなのだと、教え込む。
「……私は、仮に貴女も風谷も有紗もお兄様たちもこの世界の全ての生物が消えて独りになったと想定しても、寂しいとは感じないのだけれど」
「それは貴女の感じ方。貴女にとって独りは寂しくも悲しくもなくても、大抵の人にとっては耐え難いくらいに辛い状況なのよ」
「……………………」
「想像できなくてもいいわ。ただ覚えておいて。人っていうのは社会的動物だから、他人との繋がりが無くなることは“恐ろしいこと”なの」
発した疑問の通り、本気で冷優にとっては孤独とは恐ろしいものではないのだろう。確かにここまで他人とずれた感性を持っていてなお強固に自我を保っていることを考えれば、他人との同調や共感など無くとも精神的な不都合はないのかもしれない。しかし、だからこそ教えておかなければならない。彼女以外の大多数にとっては、孤独とは自我を蝕みかねないものなのだと。
「成る程。つまりお兄様は、私が孤独だと感じないように、私のことを想って、私を妹だと思っていると伝えに来たということなのね」
納得したのか幾分満足そうに頷く冷優。
それに対して、はい大正解よく出来ましたもう寝ていいかしら? とだいぶ精神的にやつれてきた百合音は思う。さっき冷優のロジックは理解できたと言ったが、だからと言ってこれはあまりにも酷い。泣きたい。いや泣くべきは椿である。唯一自分の事を知っていた妹が素でこんな感じとか悲しすぎる。百合音なら絶対こんな妹欲しくない。
「でも、それはそれとして、どうしてあの時のお兄様はあんなに焦っているご様子だったの?」
「………そこも分かってなかったのね」
また頭の痛い発言が飛び出した。
全くどうして、と思う。椿の様子を観察する目は持っているくせに、その様子が焦りや動揺を示唆していることも正しく読み取れているくせに、その起因に纏わる感情だけが逆算できない。こんなにバグった思考回路を許容しろというのは常人には無理である。他者への観察眼と共感性に関しては人一倍のポテンシャルを持つ鈴白百合音ですら、実際に話させてみなければ読み解けやしないのだ。面と向かって話すのがたった二回目の椿が、その機微を察せよう筈もない。
「あのね冷優、好意を疑われたら、誰だって悲しいわよ」
「疑う? 私は、」
「分かってるわよ"私には"ね。貴女は疑ったんじゃなくて、本気で理解できなかったから
冷優の言葉を遮って百合音は続ける。
「でも椿さんにはそれが分からなかった。貴方たちは持ってる前提が違いすぎて、全く嚙み合わない会話をしてたのよ」
「……そして間違えていたのは、私?」
「そういうこと」
一切の容赦なく百合音はそう断じた。だって、対人コミュニケーションにおける前提がおかしいのはどう擁護しても冷優の方だから。
「私は、お兄様に謝りに行くべきかしら」
「やめた方がいいと思うわよ」
「どうして?」
「だって貴女、理解はしたけどまだちゃんと“納得は出来てない”でしょ?」
「……………………」
黙った。図星らしい。
ここで取り繕う素振りすら見せないところが、いっそう彼女の異常性を際立たせている。けれども、その歪さを含めて冷優という人格が成り立っている訳で。
百合音はそれを、そのままで良いとは思わないけれど、少なくとも拒絶するつもりはなかった。
「ま、大丈夫よ。いつかちゃんと納得できたら、私に聞くまでもなく自分でどうするべきか決められるはずだから」
それがいつかは誰にも分からない。それでもいい。幸か不幸か彼女は不老不死の存在なのだから、時間だけは腐るほどある。常人が何年も掛けて修得する知識を既に網羅しているのであろう少女には、同じように理解するのに何年も掛かる事柄があってもいいだろう。仮にも契約を交わした縁だ、それくらいはいつまででも付き合うと決めていた。
……それにしても。
ふと、疑問が過ぎる。
「(この子もこの子で椿さんのことを気に掛けてるような素振りがあった気がするんだけど……“お兄様”呼びに親しみを込めてるつもりが無かったってことは、無意識の行動だったってだけ? それとも何か別の理由があって……?)」
そこへそんな疑問を消し飛ばす一言が投下された。
「では、次にお兄様にお会いした時には誤解を生まないように通り名の“
「それはたぶん椿さんがガチ凹みするからやめてあげて」
見た事もないのに顔面蒼白な椿が目に浮かぶ。
……このパートナーに“感情”やら“情緒”を理解させる道程は、まだまだ遠そうである。
お久しぶりです。気付けば前回の投稿から半年が経とうとしていて戦々恐々としていた作者です。
今回は冷優側の思考開示をメインに、
冷優は作者でもよく「いやなんでそうなる??」という事が多く書くのが難しいキャラクターですが、それこそが“彼女らしさ”なのかなと思いつつ。
さて、次回は本連載初登場の彼が出てくる予定です。
どうか気長にお待ち下さいませ。