路地裏のアイゼンティア   作:宇宮 祐樹

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次回から動きます


『少女の錯綜』

 

 

 ――誰かの温もりを感じる。

 

「んぅ……」

 

 朧げな意識に入り込んできたのは、そんな小さな声だった。

 

「ジーナ」

「……ぁ、……? なー……に…………」

 

 隣で寝ている彼女に声をかけるけれど、それが届く事は無く、薄い布団にくるまった彼女は、瞼を閉じたまま俺の懐へと潜り込んだ。

 まるで猫の様に頬を擦りつける彼女の頭に、手を伸ばす。朝陽に照らされる金の髪は輝いていて、さらさらとした心地よい手触りが手に伝わってくる。

 しばらく彼女の頭を撫でていると、彼女はとても心地よいような笑みを浮かべていた。

 

「ん……もっ……と…………」

 

 頭を撫でる手から、耳元を伝って、頬へ。くすぐるように指先を這わせながら柔らかい肌へ手を伸ばすと、彼女はその感触を楽しむようにして俺の手へと頬を擦りつけた。

 眠りから覚めた時の、こもった暖かな感触が伝う。まるで夢の中にいるような、ふわりとした感覚で、俺は彼女の頬を撫で続けていた。

 彼女の香りがする。暖かな感触が包む。さらついた髪が、輝いていた。

 

 彼女は輝いていた。俺にはないものを持っていて、それはとても素晴らしいものに見えた。

 崇拝、渇求、切望――そんな感情が、渦巻いていた。その意味では、俺は彼女を欲していたのだと、思う。俺には無いものを持っている彼女が、ひどく魅力的で、それはまるで誘う花のようで。

 気づけば俺は、彼女を抱きしめようと手を伸ばし――

 

「…………」

「………………なにしてんの」

 

 翡翠の瞳と、ぶつかった。

 

「……おはよう」

「ん、おはよ」

「…………すまな、い?」

「なんで聞いてんのよ。さっさと起きるわよ」

 

 呆れたように呟きながら、彼女は俺の手を解いて、ベッドから立ち上がった。

 留めたまま寝ていたのだろうか、尾の様に垂れる髪を幾度か整えると、彼女が再びこちらへ蔑むような、それでいて興味のあるような視線を向ける。それに俺は何を返すでもなく、ただ彼女のことをぼうっと見つめていた。

 

「……あんた、寝起き弱いのね」

「そう、か」

「ま、いいわ。とりあえず、顔洗って朝ごはん持ってくるから」

「い、や。俺は……」

「ダメよ。朝はちゃんと食べないと。そんなんだからいつも暗いのよ? しっかりしてよね」

 

 まったくもう、と頬を膨らませながら、彼女は奥の部屋へと消えていく。けれど俺は何が出来るわけでも無く、ただじっと、彼女の残滓を見つめていた。

 

 ジーナと過ごす時間が多くなった。

 先日の一件から、彼女は俺の家で寝泊まりするようになった。もちろんそれは彼女からの提案で、元々住んでいた住処よりもこちらの方が街に近いから、という理由であった。始めは少しだけ迷ったけれど、それで彼女の力になれるのならば、迷う必要はなかったのだろう。

 彼女は自由な人間だったった。ベッドが一つしかないから、とこうして俺の所へ潜り込んでくるときもあれば、どこで覚えてきたのか、台所を勝手に使って料理を作るときもあった。

 そういった意味では、俺と彼女は近しい関係になったのだろう。それがどう働くかは分からないが、彼女がいつも隣にいる生活というのは、少しだけ安心するものでもあった。

 

 やがて、しばらくすると、彼女は昨日買ってきた黒いパンを二つ、手に持ってきた。

 

「今日はどうする?」

「仕事探し」

 

 それはそうだが。

 

「……もう、五日目だぞ? 少し休んだ方が……」

「そんなヒマあるわけないじゃない。あんた、今まで私の隣にいたんだから、分かるでしょ」

 

 小さな口でパンを頬張りながら。ジーナはそう言った。

 彼女の仕事探しは、言ってしまえば絶望的であった。とにもかくにも、彼女がまるで関わってはいけないように、腫れ物扱いされているのだ。

 顔が知られているのか、はたまた見た目というか、纏う雰囲気が悪いのか。とにかく彼女とまともに取り合う人間は今のところ見つかっていない。それは俺にはとても不満で、どうにも呑みこみにくいのもであった。

 

「しかしだな……お前だって、疲れもあるだろ」

「それが何よ。そんなもの関係ないでしょ」

 

 既に食べ終わったジーナが、床に置いたテーブルへうつ伏せになりながらそう答える。

 

「あんたが信じてくれてるんだから。私も頑張らないと」

「……そう、だな」

 

 そう語るジーナはどこか崩れてしまいそうで、俺はそんな彼女に頷くことを、少しだけ躊躇った。色の薄い、忘れてしまいそうな不安が心に浮かび上がっていた。

 けれど彼女はそんな事を知らないで、俯せた顔を上げながらこちらへ口を開く。

 

「よし、それじゃあさっさと行くわよ! ほら、あんた食べるの遅いんだから!」

「……元々、食べるつもりは無かったんだ。だから良いって言ったのに……」

「んじゃあいいわよ。食べ終わるまで待ってあげるから」

 

 呆れたように息を吐いて、彼女が再び腰を落とす。そうしてテーブルへ両肘をついたかと思うと、彼女はじぃ、と俺の事を見つめたまま動かなかった。

 既に固くなったパンを齧りながら、俺も彼女のことを見つめる。

 

「…………」

「…………」

「…………」

「…………ふふっ」

 

 ……どうして、笑う?

 

「少し前まで、こうしてあんたと話をすることなんて、なかったからさ」

「……嫌、だったか?」

「ううん、その逆。嬉しいよ。こうして、私と話してくれるんだから」

「それなら……良かったのか?」

「なんで聞いてんのよ。良かった、って言ってるじゃない」

 

 少し照れくさそうに、けれど彼女は、俺の前で笑っている。

 そして、どういう訳か――俺も、彼女と同じように、笑みを浮かべていた。

 

 

「だーっ! 何でこうなるの!? ふざけるんじゃないわよ!」

 

 そんな叫び声とともに、ジーナが転がっていた空き瓶を蹴り上げる。からん、と夜空に軽い音を響かせるそれは、路地裏を転がって、街の光の届かないところで大きく弾け飛んだ。

 それでもまだ暴れ足りないのか、地面を蹴ったり、ぎゃあぎゃあ暴れたりする彼女を見届けること、十と数秒。いくらか体を動かしていた彼女は、ぜえはあと肩で息をしながら、俺のことをきつい視線で睨み上げた。

 

「むかつく」

「……落ち着け」

「むかつくっ!」

「分かったから」

 

 ぐぎぎ、と歯をくいしばる彼女に、ため息をひとつ。

 結局のところ、今日も彼女の仕事は見つからなかった。やはり彼女はどこか避けられているのだろうか、服屋にしろ飯屋にしろ、それこそ裏方にしろ、彼女を受け入れてくれるところは存在しなかった。

 

「なんでこんなに見つからないのよ! ほんと、どうかしてるんじゃない!?」

 

 正直な話、俺もそろそろ見つかるだろうとは思っていたのだが、けれど彼女はいつもと変わらず、またこうして癇癪を起している。それは彼女らしいといえば彼女らしい、という行動なのだろう。けれどその体の端々には、目に見えてわかる衰弱の痕が残っていた。

 

「まだ焦るような時期じゃない。ゆっくり、一歩ずつ進めばいいさ」

 

 焦る彼女の肩に手を置くと、ジーナは少しだけ落ち着いたようで、その細い指を俺の手へと重ねた。

 

「……早くしないと、このままじゃダメになっちゃうから」

「それも分かる。けれど、焦りすぎるのもいけないのは分かるだろ?」

「…………それも、そうね」

 

 溜め息を一つ吐いて、ジーナは自分で確かめるように一つ、首を縦に振った。

 

「早く帰りましょ。ってか、ここどこ? 適当に歩いてきたからわかんないんだけど」

「あのなあ……」

 

 彼女の惰性に付き合ってきたので、俺もどこだか見当がつかない。見知らぬ路地裏というのは先が見えない程に暗く、どこか冷たいものであった。

 差し込むのは街頭の光だけで、ジーナはそれに導かれるようにして、そちらへ足を運んでいく。遠くに行く彼女を追うと、夜のぼやけた街頭の光が、俺達を照らしていた。

 

「ここは……」

 

 煙草と、どこかで嗅いだことのある薬の匂い。女の香りが、一気に漂ってくる。あまり慣れない、どこかふわふわとした空気だった。

 

「そういうトコ?」

 

 並び立つ娼館を眺めながら、ジーナはそう首を傾げた。

 

「そうだな。まあ、ここを突っ切ればいつもの通りに着くはずだ」

「ふーん……」

「……どうかしたか?」

「なんでもない」

 

 何か気分を害したのか、ジーナはいつものように唇を尖らせながら俺の先を歩き始めた。

 こういったところはあまり慣れたものではなかった。酒と金と、女が入り乱れるこの場所は、やはり俺から遠くはなれた所に位置している。特に女というのは、俺にはあまり分からないものだった。

 けれどそれは彼女も同じなのか、時折ちらちらと店先にいる彼女等を見ながら、ふとこちらへ口を開く。

 

「あんたはこういうとこ、来たことあるの?」

「少ないな。あまり良くは知らない」

「……でも、一回は来たんだ」

「仕事の付き合いでな」

 

 俺達のような人間は、何かとこういったところと関係が深かった。

 

「やっぱりあんたも興味あるの?」

「あまり……良く、分からない。俺はそこまで余裕のある人間じゃないから」

「……そ。ならいいのよ。ほら、早く行きましょ。私はこういうの苦手なのよ」

 

 そう進むジーナに着いていくと、ふと。

 

「あら、カインじゃない」

 

 そう、どこから呼ぶ声を聴いた。

 果たして、立ち止った俺の視線の先に居るのは、一人の女性であった。短い煙草をふかしながら、視線は呆けた俺へと向けられたまま。長い茶色の髪は夜風に揺れていて、流すような瞳で彼女のことを思い出した。

 

「フローラ?」

「そうよ。久しぶりね」

 

 濃く差した紅の唇を吊りながら、フローラは俺へと続けた。

 

「あんたがここに来るなんで珍しいじゃない。どうしたのよ」

「別に、用という訳じゃない。たまたまだ」

「そう……ま、あんたの言うことなんだから、本当なんだろうね」

 

 そう薄く笑って、フローラが煙草を口に含める。すると彼女は俺へ向けて、その薄く白い煙を吐きかけた。煙草の匂いと、ほのかな、けれど強い香水の匂いが、鼻孔に突き刺さる。

 

「……何するんだ」

「なに、時間あるんじゃないの? あんたの事だから、毎日ヒマなんでしょ」

「どんな偏見だ。それに俺は毎日ヒマって訳じゃない」

 

 それが以外だったのか、フローラは目を見開いて俺のことを見つめている。

 そうして、彼女が何か口を開こうとした瞬間、ずかずかという音が聞こえそうな程の勢いで、ジーナが俺と彼女の間に割り込んできた。

 

「何してるの」

「ああいや、知り合いだったから……」

「それで?」

「話していただけ……だろ? そうだよな」

 

 少し助けを求めるようにフローラへ語り掛けると、彼女はジーナへ訝しげな視線を向けたまま、白い煙を吐いた。

 

「何よこのちっこいガキ。あんた趣味変えたの?」

「ち、ちっこいとは何よ! あんたみたいなおばさんよりマシでしょ!?」

「うるさいわね……だから子供って嫌いなのよ」

 

 と、彼女は呆れたように呟きながら、俺の方へと歩み寄って来る。すると彼女は煙草を地面に落とし、それを踏みつけるようにしながら、俺の手へと抱き着いてきた。

 煙草と薬の香りがする。あまり慣れない感覚だった。

 

「ねえカイン、あんなガキより私と遊ばない? あんたなら少し安くしとくからさ」

「な、なな、何してんのっ!」

「そうねえ……金貨12枚でいいわよ? あんたとするの、楽しいからさ」

「たのっ、楽しいって! ちょっとあんた! いい加減にしなさいよっ!」

 

 顔を赤くして叫ぶジーナをよそに、フローラが俺の耳元へ唇を寄せる。

 

 

「明日の夜、あんたに声かかってるから。準備しときなさい」

 

 

 ――体が、少しだけ強張った。

 思わず彼女の方を見下ろすと、フローラはいつも通りの不思議な笑みを浮かべながら、ただ俺の瞳を覗いている。そんな彼女に、俺は無言で頷くことしかできなかった。

 逃れられない。けれど、そのつもりもない。

 俺は、これでしか生きていけないのだから――

 

「聞いてんのカイン!? あんたもボケっとしてんじゃないわよ!」

 

 彼女の声で、どこかから俺は引き戻された。

 

「何よ、あんたこいつに惚れてんの? 止めときなさいよ」

「ほれっ、惚れてる、とかじゃなくて! そいつは今、あ、あたしのなんだから! 勝手に取ってくんじゃないわよ!」

 

 彼女のものになったつもりもないし、彼女に見合うものになれるかもわからない。

 けれど、その言葉は、どこか少しだけ落ち着いたものだった。

 

「……まあ、そういう事だ。誘いはありがたいが、今は余裕がない。本当にすまない」

「そう。あんたがそう言うならいいわ」

 

 俺の手を離して、フローラは呆れたような視線を向けていた。

 

「ほらカイン、さっさとする!」

 

 不機嫌になったジーナが、再び俺の前を進む。けれどそれは、呼びかける彼女の声によって遮られた。

 

「あ、ちょっとそこのガキ。こっち来なさい」

「……ガキって言わないでよ、おばさん」

「生意気ね。でもそう言うのは嫌いじゃないわ。子供は全部嫌いだけど」

 

 なんて軽口を躱しながらも、ジーナがフローラの元へと歩み寄る。すると彼女はジーナの方へかがみ込み、とても小さな声で、ジーナへ何かを伝えていた。

 

「あいつ、割と変態だから。やるときは覚悟しときなさいよ」

「………………は?」

 

 ぽん、と。

 彼女の顔が、急激に赤くなったのが見える。

 

「な、ななな、あ、な」

「そうね……あいつ、腋とか首筋とか、変なところ好きなのよ。綺麗にしときなさいね」

「はぁああああ!? あんっ、あんたいきなり何言ってんのよぉっ!?」

 

 遠くだったから聞こえなかったけれど、ジーナはどうしたのか、顔を真っ赤にしながら叫んでいた。さすがに周りからの気を少なからず引いているので、俺も彼女の方へ近寄っていく。

 

「あら、真っ赤にしちゃって。ま、頑張りなさいな」

「う、うるさい! ぁ、あた、あたしそんなんじゃないから!」

 

 必死に叫んでいるジーナの肩を叩いて、声をかける。

 

「ジーナ、行かないのか? 話すことがあるなら、別にもう少しゆっくりしていても……」

「――――――――ッ、わ、わかっ、た、から……」

 

 凄い目で見られたような気がする。そのまま彼女は頬を紅潮させたまま黙り込んでしまい、ぶつぶつと何かを呟き続けていた。

 

「ゎ、わき……くびす、じ…………」

「フローラ、お前何した」

「別に? あんたの事、少しだけ話しただけよ」

 

 少し、という量じゃない気がするが。

 けれど彼女はそれ以上話す気は無いようで、腕を組みながら俺へと流すような視線を送っている。そんな彼女に溜め息を吐きながら、俺は動かなくなったジーナの肩を叩いて帰路に着くことにした。

 

「じゃあね、カイン。あんまりハメ外しすぎるんじゃないわよ」

「……何の話だ」

 

 意地の悪い笑みを浮かべながら、彼女は最後まで手を振ったままだった。

 

 

 煙草と薬の匂いはどこかに消え、残ったのは見慣れた暗闇だけ。今までと同じ感覚で明かりを灯す街頭の下を、ジーナはうつむきながら歩いていた。

 冷たい夜風が肌を撫でる。空には月も見えず、ただ薄暗い曇天が広がるのみ。先の見えない暗闇は、どこかで見たことのあるもののようだった。

 

「ねえ、カイン」

 

 その声で、視線が前へと引き戻される。

 

「あんた、あの人とどういう関係なのよ」

 

 唐突にそんな事を問いかけてきたジーナに、少し考えてから口を開く。

 

「どういう、という程でもない。ただ、何度か世話になっただけだ」

「……ああいう女の人が好み、ってこと?」

「そう言う訳じゃない。ただ、彼女が俺の相手をしてくれるだけだ。俺は、ああいうところの勝手が良く分からないから」

「ふーん……」

 

 どこか素っ気なく見せるけれど、ジーナは少し興味のある様子で続けた。

 

「でもさ、あんたはちゃんとそういうのも買う、って事よね」

「……仕事の仲間との付き合いもある。どうしても、という場合には、まあ」

「じゃあ、女の体を買うのに抵抗もない、ってこと?」

「なんでそんな事を聴く」

「答えてよ」

 

 そもそも人前で言うような事でもないけれど、彼女の視線はそれを許そうとはしなかった。まるで何かに迫られたようで、俺はそんな彼女を不思議に思いながら、口を開いた。

 

「まあ、それがそういうものなら、拒否する理由はない」

「……そっか」

 

 それだけ告げて、再びジーナが何事も無かったかのように前を向く。訳の分からない彼女との会話を少しだけ不思議に思ったけれど、やがて俺は考えるのを止めた。

 これだけ過酷な環境に身を置いているから忘れがちだが、彼女はまだ子供と言えるような年齢なのだ。まだ分からない事も多いだろうし、それに対して考えるような時間も要るのだろう。そう呑みこめば、今の会話も別に不思議に思うことはなかった。

 

「…………」

「…………」

 

 歩いているうちに、景色はいつもの路地裏へ。黙ったまま前を行く彼女の後を、離れないように追う。

 うつむいた彼女の背中は何かを考え込んでいるようで、張りつめたような静寂が続いていた。それは俺には無くて彼女にある、どこかで憧れたもののようで、けれど今の俺は、それに憧れるのはどうしてか憚られた。

 

 やがて、彼女の歩む足が止まる。

 

「あの、さ」

 

 風が吹けば消えてしまいそうな声で、彼女はこちらへ向き直り、

 

「私の体、買ってみない?」

 

 問いかけるその瞳は、弱々しく震えていた。

 

「わ、私だってそういうの、もうできる歳だし……別に、できるでしょ? ……ほんとは、ちょっと怖いけど、あんたなら、その……あまり悪い気とか、しない、し」

「…………お前」

「金貨十二枚……は、私の体じゃ盛りすぎかな。十枚……いや、八枚でもいいよ。お金くれるなら、あんたの言うこと、なんでも聞くから。私のこと好きにしてくれていい、から――」

 

 

 

「ふざけるな」

 

 ――気が付けば、俺は彼女を壁に押し付けていた。

 

「俺はお前に施すわけじゃない。お前なら、変われると信じてるだけだ」

 

 フローラを否定するわけじゃない。かといって、ジーナを受け入れるわけでも無い。その理屈は言葉に表すのは難しいけれど、これ以上に表せることは、俺には難しかった。

 色褪せた彼女の瞳は、ただじっと俺の事を見つめていて、その体は崩れ落ちるように、俺の腕へと吸い込まれていった。

 

「……ごめ、ん。私…………」

「いい。疲れてるんだろ、今日はもう帰って寝ろ」

「わかっ、た……」

 

 そのまま眠ってしまいそうな様子の彼女の体を支えながら、家までの道を再び歩く。

 ふらつく彼女の体は、とても軽いものになっていた。

 

 


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