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「仕事、見つかったよ」
そう、彼女が俺に告げてきたのは、昨日のことだった。
「……聞いてないぞ、そんなこと」
「そりゃそうよ。今日、夜ごはん買いに行くときに言われたもの」
昨日までの沈んだ様子とは嘘のように、アイゼンティアに水をやりながら話す彼女の表情は明るいものだった。すると彼女はは指に嵌めた、紅の指輪をちらつかせて、こちらへ目を向ける。
「なんだか私、ルーヴェルトさんの関係者みたいに思われちゃってね。それでちょっと、声をかけられた、ってわけ」
「それはどうなんだ」
「いいのよ。実際に関係してるでしょ? それに、あの人なら疑う必要もないでしょ」
胸を張るジーナに、少しだけ不安が残っていた。
ルーヴェルトが関係しているのなら、それは確かなものなのだろう。何せ相手はこの土地の領主なのだ。その仕事を手に就けられるのなら、これ以上のものはなかった。
やはり俺の杞憂なのだろうか。それとも、ジーナが俺の所からいなくなるのが、少しだけ寂しいと思っているのか。
「ま、私にかかればこんなもんよ。いっぱい働いて、あんたが欲しがるくらいお金稼いでやるんだから」
ついぞ先日まで仕事に就けない、と喚いていたのは誰だろうか。けれど彼女がそうなれたのなら、俺からは何も言うことはなかった。
「それで? どこで働くんだ」
「あー……、なんだっけ? 忘れちゃった」
「お前な、自分の勤め先くらい覚えておけよ」
「しょうがないでしょー、物覚え悪いんだから」
砕けたように、彼女が笑う。そこには今まで隠れていた、安堵の色が見えていた。
「あ、でもお店の人は、接客って言ってたかも」
「接客か。明るいお前なら、似合うのかもな」
「そう? そう言われると、自信つくかも」
垂らした雫を眺めながら、ジーナは膝を伸ばして立ち上がる。空になった木の入れ物の調子を確かめるように振ると、彼女はそれを二のしてあるバケツの隣へと軽く放り投げた。
からんころん、と軽い音が響く。その音に応じたのか、路地裏の隙間から、小さな陰が飛び出して、
「なぁー」
小さな猫がジーナの足元へとすり寄った。
「アンタもここ棲みついちゃったのね」
「なぁーぉ」
「ふふっ、こんな汚い所にいても何もないのよ? せいぜい、あの花があるくらいで」
「なぁー?」
何もわかっていないような表情で、子猫は首を傾げていた。
そんな様子に彼女はくすりと笑みを浮かべて、手のひらの上の猫を優しく地面へ下ろす。再び地に足を着いた子猫は、辺りをきょろきょろと見回した後、ゆっくりとアイゼンティアの蕾へと歩いて行き、その前足で小さな蕾をつついていた。
「……ほんとに、分かってるんだか」
雫を垂らすその花は、暗闇の中で輝いて見えた。
「そういえば、泊まり込みなのよね」
「……何が?」
唐突なその言葉に、思わずそう返す。
「仕事よ、仕事。泊まり込みになるから、しばらくはお別れね」
「そうか……それは、大変だな」
「でも、お金は多く貰えるみたいだから。ひょっとしたら、すぐに帰ってこれるかも」
どちらなのかは分からないけど、それは彼女も同じなのだろう。何かを思い出すようにする素振りからは、彼女が二つ返事でその仕事を引き受けた事が、目に見えて理解できた。
けれど、明日から彼女がいなくなると思うと、どこか寂しく思う自分がいるような、そんな気がした。
「なにしょげた顔してんのよ。すぐに戻って来るし、それにあんたにも頼みたいことだってあるんだから」
「頼みたいこと?」
首を傾げて聞き返すと、彼女は溜め息をついて路地裏の向こうを指した。
「アイゼンティアの世話。私が居なかったら、誰がすると思ってんの?」
「……ああ、そういうことか」
「いい? お水をあげるのは、一日二回。不安だからってあんまりやりすぎちゃダメだからね? それと、バケツの中の水も汚くなったら換えること。蓋もちゃんと忘れずにね」
「分かった」
そう頷いて答えると、彼女はどこかおかしそうに、笑みを浮かべていた。
「そんなに気負わなくても大丈夫よ。すぐに戻って来るんだし」
「……まあ、出来る限りで頑張ってみる」
「そうそう、出来る限りでいいのよ」
そう、彼女は一瞬だけ寂しそうな表情を浮かべて、
「だから、絶対に待ってなさいよ」
そんな呟きを漏らしていた。
「どこかへ行くつもりはない」
「そんなこと分かんないでしょ、必ず待ってなさいよ。それに」
と、ジーナがこちらを見上げ、
「今度は私の番なんだから」
口にしたのは、そんな言葉だった。
「それは、どういう?」
「今まであんたがしてきてくれた分、私が返してやる、って言ってるのよ」
少し照れくさそうに言う彼女へ、俺はまた首を傾げていた。
何かされるような事をした覚えもないし、そう施される身でもない。ただ俺にはその本心が分からなかった。やはり彼女は、ときどき俺には分からない事を言うのだった。
そうやって口をつぐんだ俺に、ジーナはまた呆れたように息を吐く。
「私が、カインを救う」
その言葉と共に、どうしてか背中に、何か冷たいものが走り抜けていった。
「もう、あんたが傷つかないようにしてあげる。こんな暗い所で生きなくてもいいように、私が導いてあげるから。そりゃもちろん、まだお金とかは足りないけど……いつか必ず、あんたを救ってあげるから、さ」
笑みを浮かべるジーナの一言一言が、まるで死体に集る蟻のように、俺の肌の下でうごめいていた。まるでこの世のものとは思えないような、目を覆いたくなるほどのおぞましい怪物のような、そんな不気味さを感じていた。
「……でき、ない」
「はあ?」
「俺は、お前のように、なれない」
――声を忘れた、彼女の言葉を思い出す。
それだから、俺は変われないのだろう。変わることを許されていないのだろう。
「俺は変われないんだ……それは、お前でも分かってるだろ? なのに、救うだなんて事を言わないでくれ……俺は、もう、ここから抜け出すことは……」
「そんなもの、やってみなきゃ分からないでしょ」
覚束ない足取り、ぼやけそうになった視界の中で、そんな声が響く。
「こんな私だって、カインのお陰でちゃんと生きられるようになったのよ? それなら、私がカインを救うことだってできるはずよ」
「それは……」
「あーもう、なんであんたはそこで卑屈になるのよっ! あんた散々言ってたでしょ!?」
ぐい、と彼女は俺の襟を引っ張って。
「私を、信じなさい」
そう、強く俺に告げた。
「……どうして、お前は」
「何よ」
「どうしてお前は、俺を救おうとする?
彼女の言葉がわからない。やはり、彼女の言うことは、俺にはまだ理解できない。
けれど心からのそんな疑問に、ジーナは俺の襟から手を離しながら、静かに口を開いた。
「そんなの、決まってるじゃない」
碧色の瞳には、どこか暗がりが広がっていて。
「カインがいなくなるのが、嫌だから」
寂しそうに、どこか縋るように、彼女はそう口にした。
「だから、必ず待ってなさいよ! アイゼンティアも枯らさないように! いい? あんた変なトコで抜けてるんだから、気を付けること!」
「……分かった。必ず、ここで」
そう答えると、彼女は一瞬だけこちらをにらんだかと思うと、すぐに頬を緩ませて、
「絶対、そこにいてよ」
それを最後にして、彼女は俺の前から姿を消した。
彼女の声が消えた路地裏はひどく冷たく、暗いものに感じられた。彼女という光がなくなった暗闇からは、今まで以上に、決して抜け出せないように感じられた。
アイゼンティアの蕾を、雫が伝う。いつもは彼女の碧眼に映っているその白い蕾は、彼女が居なくても、いつものようにゆらゆらと水に流されて揺れていた。
暗く、冷たい路地裏に、俺はいつまでも在り続ける。
けれど心にはどうしてか、希望が抱かれていた。
「どうして、お前は……」
救えると思ったのだろう。こんな俺を、導けると思ったのだろう。
それこそ、彼女の言い分も根拠がないものだった。俺をどう救うのかも考えていないし、何の予定を立てているわけでも無い。明らかに感覚で、無鉄砲に信じているだけの、子供の夢のような、そんな言い方だった。
けれど、それは俺にはどうしてか、輝かしい希望に見えた。
「お前を、信じている……か」
いつか放った言葉は、今度は自分に向けられていた。
先は分からない。募らせた希望が無残に散る事も、覚悟している。
けれど、俺ができるのは、彼女を信じることだけで。
「それが、お前の望むものなら。お前がそう、したいのなら」
白い蕾は、俺の瞳の中で――
□
人を殴ることに、もう何の感情も湧かなかった。
「あああぁッ!」
向かってくるナイフを手の甲で避けながら、そのまま相手の頬へ拳を打ち付ける。吐き出された血が地面に飛び散って、顔を上げようとしたそいつに、俺は膝を振り上げて顎を吹き飛ばした。
痛みが走る。だから俺は殺すことができなかった。
「いい、加減にッ……!」
立ち上がろうとする彼の手を踏み砕き、ふらつく手を懐へ。悲鳴を上げている彼の足へ長いナイフを突きたてると、赤い液体が彼の足から流れていた。
まだ生きている。彼も、痛みを感じている。
「おいカイン、そっち終わったか?」
悲鳴と嗚咽が響く路地裏でそんな事を考えていると、ふとそんな声が後ろから聞こえてきた。それが誰かは分からないし、知ろうとも思わなかったけれど、俺の敵でないことは定かだった。
数は二人だった。一人は金の髪に小柄な体躯、手に血の濡れたナイフを持っていて、もう一人は頭にバンダナを巻き付けた、大柄な黒髪の男だった。
「……終わった」
「ってー、また生かしたままじゃねえか。お前も器用だなあ」
「ま、こっちの方が楽だしいいんだけどよ。ほら、ジーヴァ。お前の分」
そう言って、もう片方が綺麗な方のナイフを渡す。渡された方の彼――名前を覚えるつもりはない――は、そのナイフを慣れた手つきで逆手へ持ち帰ると、足元で蹲っている彼へそれを突きたてた。
声が途切れていく。血が流れだしていく。 命が切れていくのを、俺は見届けることができなかった。
どれくらいの時間が経っただろうか。肉を処理し終えた二人が、暗闇から戻るのが見えた。
「これで今日の分は終わりか?」
「……俺が知る限りでは、それで最後だ。情報は別の場所で引きだしているらしい」
「そうか。じゃあ早いとこ切り上げようぜ。なあ、カイン?」
呼びかけに答える間もなく、肩へ手をかけられる。
「最近お前、なんか頑張ってるじゃねえか」
「……別に、手柄を取ろうとは思っていない」
「俺達もそんな事は思ってねえよ。ただまあ、気張りすぎるのも身体に毒だ。だから、久しぶりにそこらでパーッとやらねえか?」
呆れながら言う彼の視線に敵意は無く、本当にそういった誘いらしかった。
「ま、本当はお前といると女が寄ってくるからなんだけどな」
「ガトー! なんですぐバラすかな、お前は」
「いいじゃねえか。騙すよりはちゃんと理由を言った方がいいだろ? なァ、カイン」
こういった雰囲気にはいつまでも慣れなかった。人を殺した後に、酒におぼれて、女を抱こうとする彼らのことを、理解することができなかった。
けれど彼らを否定するというわけでも無く、ただ俺が感じているのは疑問のようだった。それは、今のままの俺ではけっして理解できないような気がした。
「……いいだろう。少しだけなら」
「っし! そうと決まればほら、チャッチャと行くぞ!」
そう言って真っ先に駆けだす彼をよそに、ふと足元の死体を見つめる。
助けられなかった。手を伸ばすことは許されなかった。命を奪ったのは俺ではなく、それが例え救いようのないことだったとしても、目の前で誰かがどこかへ行ってしまうのは、とても恐ろしいことに思えた。
「カイン」
強く、肩を掴まれる。
「気にするなよ、何度も見てきたことだろ」
「……あ、あ。そう、だ。何度も見てきた。何度も……何度も……」
目の前で、また一人どこかへ行ってしまう。手を伸ばすことも出来なくて、それを俺はただ見届けることしか許されなくて。
何度、誰かに分かれを告げただろう。何度、手を伸ばせたのだろう。
やはり、俺には何も、分からなかった。
□
気が付けば、いつか歩いていた色町を彼らの後に着いていた。
酒と、女と、何かの薬の匂い。ここの通りに足を踏み入れると、どこか頭がぼんやりとする。それがたまらなく、俺には合っていなかった。どちらかと言えば苦手なようだった。
けれど彼らはそうではないらしく、並ぶ娼館を眺めては、何か色々と話しているようだった。
「おいカイン、もっと近く寄れよ。お前がいないと話が進まねえんだ」
「すまない……少し、疲れているのかもしれない」
「ここ最近働きづめだったもんなあ。ここらで息抜きしたらどうよ」
息抜き、というよりも息が詰まりそうだが。
それを二人に言う訳でもなく、俺は二人の後へと着いていく。しばらくすると目的地へ辿り着いたのか、二人はそろって足を止めて、俺の方へと目を向けていた。
煙草の匂いが強くなる。薬も、酒も。
「あら? あんた達、どうしたのよ」
聞き慣れた声に、顔を上げる。
「フローラ」
「あんたが来るなんて珍しいじゃない。また無理したんでしょ」
「そうなんスよ。またこいつ、一人で無茶して」
「変わんないねえ。で、手柄もあんた達が横取りかい」
「だってこいつ、意地でも殺さねえですもん。俺達が殺っとかないと」
肩を強く抱きかかえながら、彼らはそんな事を言い放った。
「それで、フローラの姉御」
「わかったわかった。そんなにがっつかなくてもいいでしょ」
何か面倒くさそうにフローラは彼らを宥めるようにして、
「ふぅ……」
そう疲れたように、俺へ煙草の煙を吐き出してきたのだった。
「あーっ、またカインかよ!」
「何でそんなチンケな男なんか……」
「そんな事言ってるなら、あんた達は一生わかんないだろうね。ほらカイン、行くよ」
にやりと口の端を釣り上げながら、フローラが俺の肩を抱き寄せる。煙草の香りと薬の香りが広がって、頭が一瞬だけ揺れた。
ぼんやりとしたまま、フローラに導かれるようにして娼館の中を歩いてゆく。桃色のような淡い壁紙の廊下は、まるで体の中を巡っているようで、フローラはその突き当りのドアを開けると、俺の体をベッドへ倒してくれた。
「……すまない」
「いいのよ。ああいうの嫌いなんでしょ? ゆっくり休みな」
壁際に置かれた机の上の、小さな瓶を煽りながら、フローラは仰向けの俺にそう言った。
「あの子は」
「……ジーナ?」
「そう、多分その子。なに、逃げられた?」
「いや、彼女は仕事を見つけた。だから今は出稼ぎに」
「立派じゃない。あんたのお蔭?」
そう、なのだろうか。俺は、彼女が進む光への道標に慣れたのだろうか。
分からない。暗闇のままの俺には、何も分からない。
「……ジーナが、俺を救うと言っていた」
「物好きな子ね」
「彼女は真っ当に生きる道を選んだ。二度とこの世界に戻ってくることはない。だから、俺はそれで満足できた。それが叶うなら、俺は本望だった。彼女が救われることが、俺の願いだったから」
その先に、俺と彼女が共に在る未来は無いと思っていた。彼女が、こちらへ手を伸ばすなんて、出来る筈も無いと思っていたから。
「どうして俺を救うのかも、話してくれた。俺をここから連れ出すことも、一緒に居られるということも、話してくれた。話している彼女は、とても満たされているようだった……けれどまだ一つだけ、疑問が残っている」
「それは?」
「俺は……救われても、いいのだろうか」
もし、それが許されるのなら、俺は彼女の側を望むのだろう。
いつまでも手を伸ばせる、光の届く先に、彼女を求めるのだろう。
それが叶うならば、俺には他に何もいらなかった。
「もし私が答えたら、あなたは変わろうとするの?」
「…………すまない」
「いいのよ、それで。そう答えられるのなら」
煙草をひとつふかして、彼女は静かに告げた。
「あんたが変われると思ったなら、それが答えよ」
意味はまだ分からないけれど、彼女の言葉は俺の中へ溶けていくようだった。
「ま、いいわ。それよりも次の仕事の話、していい?」
「……断るつもりは、ない」
「そう。じゃあ二週間後に最終工程ね。待ち合わせの場所はリヒトーフェンから預かっているから、ここに置いとくわ。あんたも疲れてるだろうし、明日になったら読みなさい」
「ああ……、すまない、急に押しかけて」
「別にいいわよ。あんたと遊べなかったのは残念だけど」
かちゃん、とドアを閉める音と共に、まどろみの中へ体が沈んでいく。淡い光は視界の中で溶けていくようで、横たわった体へ力が入る事は、二度とないように思えた。
煙草と酒の残り香が、瞼を重くしていく。この匂いをつけてジーナに会ったら、彼女は怒るだろうか。そもそも彼女は、酒や煙草を嗜むようになるだろうか。煙草は似合わないだろうな。けれど酒は、二人で飲み交わすくらいなら、いいのかもしれない。
そんな未来を思い描いていいのなら、俺は救われてもいいのだろうか。
消えゆく意識の中で、そんな思いが透けてゆく。
彼女へ思いを馳せながら過ごす二週間は、とても短く感じられた。
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