実に下らない話だが、神はダイスを振るらしい(本編完結)   作:ピクト人

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お久しぶりです。前回の投稿より月を跨いでしまいましたが、日数的にはまだ一ヶ月経っていないのでセーフです(?)

今回の話において、パームの能力と海魔に関して独自解釈・独自設定を含みます。そういった要素が苦手な方はブラウザバック推奨です。「一度見てみないことにはブラバするべきか判断できない」という方は、しっかりと『覚悟』して読み進めて下さい(GIOGIO並感)



彼方より、旧き偽神の呼ぶ声ありて

「何ともはや、醜穢(しゅうわい)なる眺めよ……」

 

 蟻塚の先端、屋上に設えられたテラス。王のためだけに作られたその空間にて、簡易の玉座に座った王は忌々しげにそう呟いた。

 地上が霞む程の高々度にありながら、王の優れた視力は地上を埋め尽くす海魔の群れ、その一匹一匹に至るまでを鮮明に捉えていた。この時ばかりはその優れた身体能力を恨む。シャウアプフより供された肉団子に口を付けていた王は、逃れようもないほど視界一杯に広がるその光景に重い溜め息をつき、手にした肉団子を放り捨てた。

 

「お口に合いませんでしたか?」

 

「端的に言って薄い。酷く薄い。味付けがどうこうといった話ではなく、単純に素材としての旨味が足りぬ。あの女の腹の中で極稀に非常に濃厚豊潤な馳走が送られてきた……あの味を知ってしまっては、こんな肉団子など綿かゴムのようなものよ」

 

「レアモノのことで御座いますね。念能力者と呼ばれる人間の肉は栄養豊富であり、女王も好んで食しておられました」

 

「うむ、それだ。あのえも言われぬ充足感……余の身体が欲しておるわ」

 

「では……」

 

「───だが如何にレアモノであろうと、このような場では食欲など湧こう筈もない」

 

 王は不快げに目を眇め、眼下に広がる蠢く影を一瞥する。

 

「何だ、あの醜悪な汚物の群れは。右を見ても左を見ても、どこを見てもあれらが目に入る。鬱陶しいことこの上ないわ」

 

「も、申し訳御座いませんッ!減らしても減らしても増え続ける奴ら相手に、儀を終えたばかりの配下ではどうしようもなく……私の指揮が至らなかったばかりに王の御目を汚すなど、許されざる失態。斯くなる上は、今からでも私が奴らを殲滅して───」

 

 慌てて平伏し謝罪をするシャウアプフ。しかし王の前に跪こうとした次の瞬間、シャウアプフの右頬に衝撃が走った。

 

「戯け、これ程の距離がありながら不快な潮の臭いがここまで漂ってくるのだぞ。そんな中に突っ込んでみよ、余は金輪際貴様を傍に近寄らせないだろう。貴様がいなくなっては誰が余の側近を務めると言うのだ」

 

「お、おお……」

 

 しゅる、と王の尾がしなる。強かにシャウアプフの頬を殴りつけた王は、悪臭を放つ者を傍に置く気はないと語る。

 一方、シャウアプフは感動のあまり震えていた。彼の中では「貴様がいなくなっては誰が余の側近を務めると言うのだ」という言葉のみが延々と繰り返されていた。

 

(おお、おおお……!王が!王が私如きの身を案じて下さった!"私以外には側近は務まらない"とッ!"私でなければ駄目なのだ"とッ!)

 

 確かに王はシャウアプフの力を認めており、替えの利かない配下だとは認識している。だが王は断じてシャウアプフの身を案じたのではなく、「側近に海魔の放つ悪臭が移るのは困る」程度にしか思ってはいなかった。

 王の言葉を「余にはお前しかいない」といった意味合い(ニュアンス)に曲解して受け取りながら、シャウアプフは暫しの恍惚に浸る。この時ばかりは、シャウアプフは不謹慎ながらネフェルピトーとモントゥトゥユピーの死を喜んだ。王の視線と寵愛(勘違い)を一身に受け独り占めしているこの状況は、シャウアプフにとりまさに我が世の春と言うべきものであった。

 

「? 何を赤面し身体をくねらせておる、気色悪い」

 

「……ハッ!いえ、何でも御座いません。失礼致しました」

 

「……まあ良い。貴様は余の足を務めよ。こんな薄汚い所に長々と居座る理由もなし、レアモノを食らいに出るとしよう」

 

「仰せのままに、我が王」

 

 王は玉座より立ち上がり、テラスの縁に足を掛ける。一礼したシャウアプフは王を運ぶために翅を広げ飛び上がり……一瞬、海魔の発生源たる術者のいる彼方に目を向けた。

 

 キメラアントの王は女王より生まれてすぐ、新天地を目指して旅立つという生態を有している。旅立った王はその地で(つがい)───その際の母体は同種族・異種族を問わない───を作り、新たなコロニーを形成するのだ。こうしてキメラアントは生息圏を広げてきた。王もまたその例に倣い、レアモノを探す傍ら別天地を目指すつもりなのだろう。好都合だ、とシャウアプフは考える。

 王は本人が言うように、些か以上に早く生まれ過ぎた。生まれながらに完成されていて然るべき王の肉体はまだ未成熟であり、無毀の玉体と言うにはやや不安を覚えるのが実情だ。生まれてすぐ母たる女王の身を食らうという暴挙に及んだのも、偏に未完成故の栄養不足からだろう。本来ならば母の胎内で摂取すべきだった約一ヶ月分の栄養を、王の身体は激しく欲しているのだ。

 

 ───五割。これで片を付ける。

 

「………」

 

 王の身体は未完成だ。しかし肉体強度・オーラ総量共に比類なく、特にオーラ量においてはシャウアプフは元より、モントゥトゥユピーのそれをも優に上回っている。まさに至高の王と称するに不足ない力を備えていると言えよう。

 だが思い出す。五割と宣言され、少女の身体より放出された埒外のオーラの奔流を。王が有するオーラ量は明確にそれを上回ってはいるが、しかし五割である。少女の言が本当のことだとすると、シャウアプフが見たオーラ量を倍したものが彼女の本来のオーラ量だということになる。───王と少女、果たしてどちらがオーラ量において勝っているものか。

 

(王の方が上だ……とは、真に遺憾ながら断言できない。明らかに同等か、それ以上のオーラを奴は有していた)

 

 今の王があの少女と対峙するのは危険だとシャウアプフは考える。勿論戦うとなれば自身が全力で王をサポートするつもりではあるが……それでも、シャウアプフは必勝を確信することが出来なかった。王の実力を実際に目にしていないからというのもあるが、それだけモントゥトゥユピーを圧倒した敵の姿が衝撃的だったのである。

 故に、レアモノを探しに巣を離れるという王の提案は渡りに船だった。王のプライドを刺激することなくごく自然に敵から離れることができ、更に王の肉体を完成に近づけることが出来るのだから。

 

 王が王として完成しさえすれば、如何にあの人間が強かろうが敵ではなくなる筈だ。シャウアプフはそう確信して憚らなかった。

 

「───む?」

 

 ふと、飛び上がったシャウアプフの足に己の尾で掴まろうとしていた王が動きを止める。訝しげな声を上げた王は、不意にシャウアプフと同じ方角へと顔を向けた。

 

 

 刹那、シャウアプフは脊髄に氷柱を突き込まれたかのような戦慄を覚えた。まるで途方もなく巨大な何かに魂の奥底を見透かされたかのような、異質な悪寒を感じ取ったのである。

 

 

「───」

 

 それは王も同じだった。何の前触れもなく正体不明の悪寒に見舞われた王は瞬時に警戒態勢に入り、油断なく眼下を睥睨した。

 

 その視線が向かう先……それは絨毯のように地表を覆い尽くしていた海魔の群れであった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

「───流石の生命力、と言ったところでしょうか。人間であれば、あの状態で母体から放り出されて生きてはいられないでしょうから」

 

「では……!?」

 

「ええ、無事に容体は安定しました。後は点滴を与えつつ様子を見るのみです。が、この調子であれば問題なく成長するでしょう。キメラアントの頑丈さには驚かされますよ」

 

「良かった……本当に……!」

 

 集中治療室から出てきた担当医より赤子の無事を聞いたコルトは、安堵のあまり腰を抜かしてその場に座り込んだ。明らかな異形の姿でありながら人間臭い挙動を見せる彼を、医師は興味深そうに眺めている。

 

「感謝する……!何と礼を言ったらいいか……!」

 

「君が誠意を示し、理性ある行動を見せてくれたからこそじゃよ。でなければワシらは君たちを信用することは出来んかった」

 

 好々爺然とした微笑みを浮かべ、感涙に咽ぶコルトを眺めるネテロ。だがその穏やかな外面に反し、彼の内心では様々な打算が渦巻いていた。

 

 亜人型キメラアントの危険性はもはや語るまでもない。そんな彼らの降伏、更には女王の子の延命まで受け入れたのは、偏にキメラアントが滅びかけているからである。当初は数千を超える個体数を維持していた彼らも、今や海魔の襲撃により百匹以下にまでその数を減らしている。しかも残っているのは殆どが一般兵であり、その程度の兵力ならばハンター協会の戦力で容易に殲滅させることが出来る。要するに脅威ではないのだ。もし女王が残っていて、ここから更にキメラアントが増える余地があるのなら、ネテロとて容易には首を縦に振らなかったことだろう。

 しかし現実に女王は死に、残ったキメラアントたちも亡き女王を差し置いて繁殖し、勝手に勢力を築こうとするほど恥知らずではなかった。これ以上増えぬというのであれば、王ならぬ女王の子一匹程度、生きていようが然したる影響はないと踏んだのである。

 

(現金な話じゃが、人間側(こちら)の優位が確かだからこそ受け入れられた降伏じゃった。もしキメラアントが今以て勢力を拡大しつつあり、これから更に被害が増えていくのであれば和解は難しいことになっていたことじゃろう。ワシらは許容できても、大衆意識が許しはせんじゃろうからのぉ)

 

 NGL自治国という外界から隔離された地域で起きた事態だからこそ、この「亜人型キメラアント事件」は世間に知られぬよう隠蔽することが出来る。もしメディア等を通して情報が行き交う普通の国にまで被害が及べば、如何にハンター協会と(いえど)も完全な情報統制は難しくなる。亜人型キメラアントという存在を明るみに出さざるを得なくなるだろう。

 キメラアントの兵隊蟻は本来、女王を失えば統率を失って四散し、各々が王の真似事のようにコロニーを形成するという生態を持っている。もし師団長クラスのキメラアントが王として振る舞い、人間社会に進出し"国"を作ろうとすれば───きっと大変な被害が出ることだろう。無論、協会の威信に懸けて必ずやそんな不届き者は討伐するが、被害が出てしまっては和解の道は閉ざされたも同然となる。どれだけコルトのような穏健派が無害を主張しようが、被害が出てしまった以上、被害者が……そして被害者の遺族が彼らを許しはしないのだ。

 聞けば、謂わば過激派に属するようなキメラアントはその殆どが死んだという。まさしく僥倖であったと言えよう。どちらか一方が滅ぶまで続く戦争ほど不毛なものはないのだから。

 

 ネテロは深く溜め息をつく。強さを求めて幾星霜。ハンター協会の長にまで上り詰め大きな力と権力を手にしたものの、それと引き換えであるかのように、立場と責任という名の鎖がネテロの身を縛り付けている。降伏を求める敵と和解する……ただそれだけのことに、斯様な面倒臭い思考と打算を巡らせねばならないとは。

 

「年は取りたくないのぉ。しがらみが多くなっていかん」

 

「……? 何か言ったか?」

 

「いや……残る問題は王のみじゃな、と」

 

「……王に挑むのか?」

 

 ネテロの呟きに反応しコルトが顔を上げる。頷いたネテロは目を閉じ、己のオーラに意識を集中させた。

 

「コルト君、お主も念が使えるそうだが……王を間近に見た経験を踏まえて、忌憚のない意見を述べてくれ給え」

 

 ぐっ……とネテロの全身に力が満ちる。枯れた老体のどこにそんな力が眠っていたのか、一瞬で練り上げられたオーラが間欠泉の如くに溢れ出した。

 まるで刀剣のようだ、とコルトは感じた。鍛錬に鍛錬を重ねた刃金の如き錬磨の極致。肌を切り裂くかのような圧がどっと押し寄せる。そのあまりのオーラの鋭さにコルトは冷や汗を流し、恐れるようにじりりと後退った。

 

(これが老練の念能力者のオーラか!何と恐ろしく鋭利で冷たい圧力(プレッシャー)……!)

 

「どうかな?ワシと王とを比べて」

 

 ネテロの問いに、冷や汗を拭うコルトは数秒黙考する。思い起こすのは女王の間にて見えた王の姿。ただそこにいるだけで周囲を押し潰すかのような圧を自然体で放っていた、絶対者の威容を。

 

「………恐らく、王に触れることさえ出来ないだろう。その前に直属護衛軍に殺される」

 

「ほう」

 

「だが、護衛軍は既に二人が倒れた。残るシャウアプフ様は後方支援能力に特化していると伺っている。故に恐らく、前者二人よりは直接戦闘能力において劣る。付け入る隙はあるだろう。

 ……だがそれで終わりだ。仮に首尾よくシャウアプフ様を倒せたとして、貴方から感じ取れるオーラでは王に太刀打ちできるとは思えない。無為に屍を晒すだけだ……」

 

 ネテロでは王に勝てない。ネテロの極限まで磨き上げられたオーラを目の当たりにしてなお、コルトはそう断じた。

 ネテロのオーラを錬磨の果ての大業物と形容するならば、王のオーラは大山霊峰の類である。果たして、刀で山を崩せようか?

 

「ホッホッホ、嬉しいのぉ。───この年で挑戦者か。血沸く、血沸く」

 

「……!」

 

 その時、コルトは確かに恐怖した。王の精強さを知ったネテロの、浮かべられた笑みより滲み出る修羅の気配に恐れをなしたのだ。

 事ここに至り、コルトはまだ目の前の老人を見誤っていたことに気が付いた。好々爺然とした表情など偽りの顔。ネテロの本質はどこまで行っても武人であり、強敵を追い求める求道者である。その闘争心は老いてなお衰えず、ただの骨董品ではあり得ない()()を滲ませていた。

 

 コルトが彼から感じた"強さ"は、王から感じた"強さ"とは異なるものだ。生まれながらに完成された超越者であり、他種との生存競争に晒されたことのない王には存在しない"重み"をこの老人から感じる。あるいはこの差異が不確定要素となり、王の身に届く要因足り得るのか───?

 

 コルトはネテロのオーラを指して、その鋭さを刀剣の如しと形容した。そして、刀では山を崩せはしないとも。

 とんだ勘違いであった。刀剣は刀剣でもネテロのそれは妖刀魔剣の類であり、山をも崩す可能性を秘めていたのである。

 

「───流石はネテロ会長。全盛期の半分以下だの何だの言ってましたが、全然現役じゃねぇですか」

 

 聞こえてきた声に反応し、コルトは首を巡らせる。現れたのは二人の男。NGLでネテロと行動を共にしていたプロハンター、モラウとノヴの二人であった。

 

「おお、来たか二人とも。……それで、何か分かったかね?」

 

「はい。会長が仰っていたカオルというハンター……彼女がNGLに入国したという事実は認められませんでした。少なくとも、正規の手段で入国したというわけではないのでしょう」

 

 ネテロに水を向けられたノヴは、手元のメモに目を落とし淡々と告げる。NGLにて海魔の姿を目にしたネテロは、ノヴにカオルの足跡について調査するよう指示を出していたのである。

 

「ふむ、密入国でも敢行したか。まあそれは良い。どーせあそこは碌な国ではないじゃろうからの」

 

「そもそも今や国の機能自体が麻痺していますからねェ。今更密入国も何もないでしょうよ」

 

「……話を戻しますが。彼女が最後に目撃されたのは、ヨークシンにある大富豪バッテラ氏の別邸です。どうやらグリードアイランドなるゲームに参加していたようで」

 

「それはいつの話じゃ」

 

「約三ヶ月前です」

 

 ふむ、とネテロは顎髭を扱いて考えに耽る。長年クリア者が出なかったG・Iがクリアされたとのニュースが流れたことは記憶に新しい。どういう訳かバッテラ氏が頑として取材に応じなかったため情報が少なく、話題が下火に向かうのも早かったが。

 それが三ヶ月前。それから巨大キメラアントの情報を聞きつけ、NGLへと向かったというのが真相なのだろう。あの海魔の主がカオルである以上、彼女が現在NGLにいることは確かなのだから。

 

 だが、そこでネテロは僅かな引っ掛かりを覚えた。そもそも亜人型キメラアント発見の契機となったのは、漂着した巨大キメラアントの女王の脚だ。だが、それは別にニュースとなって大々的に発表されたわけではない。各地に情報員を配置し随時様々な情報を集めているネテロでさえ、キメラアント事件について知ったのはごく最近である。何しろキメラアントという種そのものは本来、人間にとって脅威でもなんでもない魔獣以下の虫に過ぎないのだから。話題になんぞなろう筈もない。

 にも拘らず、たった三ヶ月という長いようで短い期間の中でカオルは情報を入手し、敵陣深くまで攻め入った。多くのハンターが半ばで斃れる中、たった一人でだ。ネテロたちが道中で全く兵隊蟻と出くわさなかったことから、恐らくほぼ全てのキメラアントを相手取っていたのは確実だろう。よしんば一人でなかったとしても、並みならぬ速攻であることは確かである。

 

 つまるところ、ネテロはカオルの「行動の早さ」に疑問を覚えたのである。NGLに侵入し、敵本丸に攻め入るだけなら、まあ相応の実力と能力があるのなら短期間で実現できなくもないだろう。だがその前段階、「巨大キメラアント及び亜人型キメラアントの発生」という情報をどうやって知った?

 仮に幸運に恵まれ、偶然にもG・Iを出てすぐ情報を得られたとして。情報を入手し、その確度を精査し、戦力を整え、そして行動に移す。この過程(プロセス)をたった三ヶ月で、且つ事前知識なしで実行しろと言われたら、ネテロであれば早々に匙を投げるだろう。

 

(───知っていたのか?巨大キメラアントの女王が漂着したことを。予見していたのか?亜人型キメラアントが発生することを。だから迅速な初動を実現し、短期間での敵殲滅を可能とした……?)

 

 否、あり得ないことだ。それこそ予言のような念能力でもない限り、そんな荒唐無稽な事象を予見するなど出来よう筈もない。あるいはカオルが幻獣ハンターであればそういう情報に耳が早いことにも説明がつこうが、生憎と彼女は賞金首(ブラックリスト)ハンターである。門外漢もいいところであろう。

 

(分からん。分からぬが、しかし我らにとって最上の結果を引き寄せてくれたのは確か。彼女の不可解な行動に対する疑問は尽きぬが、王の討伐には何ら関係のないことじゃ)

 

 雑念は捨てよ、とネテロは己に言い聞かせる。相手は己より格上の難敵なのだから。そも、今こうしている間にも彼女は一人で王と戦っているかもしれないのだ。ぐずぐずしている暇はない。

 これより臨むは生涯最後の挑戦。悪くない気分だ、とネテロは笑む。なればこそ、まずは装いを改めねばなるまい。

 

(アレに袖を通すのも、これが最後になるやもしれぬ)

 

 「心」Tシャツ───ネテロが本気で戦う時だけ身に纏う勝負服。心源流の真髄を表した、彼にとっての戦装束だ。徒手空拳を得手とする彼は寸鉄も帯びず、ただ「心」Tシャツのみを纏って戦場に臨むのである。

 

「モラウ君、ノヴ君、準備は整っているかね?」

 

「オレはいつでも行けますぜ」

 

「右に同じく。必要な物資は既にマンション内に格納済みです。会長のお声さえあれば、いつでも」

 

「よし、では半刻後に出発とする。それまでは各々心身を研ぎ澄ませておくように。コルト君もな」

 

 応、という三者の声を受けたネテロは彼らに背を向ける。向かう先は勿論、「心」Tシャツを忍ばせた荷物のある部屋だ。彼は意気軒昂のままに目的地へと足を向け───

 

 

 

 ぞわり、と肌が粟立つ。やおら只ならぬ悪寒に見舞われたネテロは、瞬間的にオーラを練り上げ身構えていた。

 

 

 

「……ッ!」

 

 つ、と冷や汗が伝う。ネテロは窓の外───NGLのある方角へと真っ直ぐに視線を向ける。

 彼方より来りて、刹那に駆け抜けていった不吉の風。感じた悪寒は一瞬なれど、ネテロの警戒感は既に限界まで引き上げられていた。

 

「何だ、今のは……?王のオーラとも違う……」

 

「会長……い、今のは……」

 

 同じ悪寒を味わったのだろう、震える声を上げるコルトとノヴ。ネテロはそれらには答えず、ぽつりと思うところを呟いた。

 

「……視線、か……?」

 

 視線。そう、視線だ。ネテロが感じ取った異質な気配。それは何か得体の知れないモノ……人間が深層に抱く根源的な恐怖が形を取ったかのような何某かの、暴力的なまでの悪意を煮詰めて抽出したかの如き凝視であった。ネテロはそう直感したのである。

 

 これが度々感じていた"嫌な予感"の正体か───?真相は定かならずも、その邪視がNGLから向けられたことだけは過たず理解したネテロは、未だ狼狽えている三人へと活を入れた。

 

「……これ、いつまで狼狽えておるか。予定は変わらぬ、半刻の後に我らはNGLに向けて発つ。先の悪寒が何であれ、今にその正体は知れよう。それまでに調子を整えておくのじゃ」

 

「は……はい!」

 

 今度こそ背を向け、ネテロは気持ち急ぎ足で歩き出す。しかし総身より滲み出る気迫は増したものの、強敵を目前にした高揚は既に失われていた。

 NGLでいま何が起こっているのか。あるいは、何が起ころうとしているのか。ネテロの胸中にあるのは、今や得体の知れぬ焦燥感のみであった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 ───時を同じくして、割符を賭けての戦いを繰り広げていたゴンとキルア、そしてナックルの下にもその「視線」は届いていた。

 

 

「な……」

 

「何だ、今の……?」

 

 思わず戦いの手を止め、呆然と呟くゴンとキルア。NGLから遥か距離を隔てた街の郊外にあってなお、冒涜的な悪意を乗せた邪視は彼らにも向けられたのである。

 

「あっちはNGLのある方角じゃねぇか……何が起こっていやがる」

 

 古風なリーゼントヘアー(ツッパリ)の男───ナックルは滲み出た冷や汗を拭い、未だ見えぬ敵の姿を推し量るかのように目を眇めた。外見から粗暴な印象を抱かれがちな───そういう一面があることも確かだが───ナックルであるが、彼は決して粗野でも野卑な男でもない。少し血の気が多くて粗忽なだけであり、冷徹な戦略眼と天性の勘とを持ち合わせた生粋の戦士であった。

 そんなナックルの経験と勘が告げていた。何か超級にヤバイことが起こっている、と。

 

「ナックル」

 

「シュートか。おい、感じたかよ」

 

「ああ……今のはヤバイ、かなりヤバイ」

 

「ああ、洒落にならん」

 

 唐突にナックルの傍らに現れた、着流しに身を包んだ長身痩躯の男───シュートが不安と焦りを満面に浮かべながらナックルに話し掛ける。平時であればもっと落ち着いた、理知的な言い回しをするシュートが「ヤバイ」とだけ連呼していることからして、彼の抱く不安の程は瞭然であった。

 

「何が起こっているんだ……?」

 

「ンなもんオレが聞きてぇよ……っと、電話か?」

 

 ピリリ、という電子音が鳴り、ナックルは懐から取り出した携帯電話を開く。その着信が師匠───モラウからのものであると見るや、彼は即座に通話ボタンを押し込んだ。

 

「師匠ですか?」

 

『ああ、オレだ。感じたか、ナックル』

 

「ええ、感じました。ありゃあ一体何ですかい」

 

『それはオレも知りたい……ま、これからそれを確かめに行くんだがよ。どうも先に連中と交戦していたハンターがいたらしくてな。ソイツの援護及び救出の必要もあるんで、オレたちはすぐにでもNGLに発つつもりだ』

 

「……こんなこと言いたかありませんが、ソイツはまだ生きてるんですかね?」

 

 聞きましたよ、王が生まれたんでしょう───その言葉を既のところで飲み込んだナックルは、ちらとゴンとキルアに視線を向ける。キメラアントの王が生まれたという情報は、ゴンとキルア……特にゴンにはまだ伏せられていた。直情傾向にある彼のこと、更なる危険が生じたと知ればカイト救出を逸りかねなかったからだ。

 

「あー……ンンッ!で、そのハンターはどんなヤツなんですか?」

 

『カオルという名前の賞金首ハンターだ。オレたちが偵察に行った時点ではまだ生きていたんだが───』

 

「カオル!?」

 

 唐突にゴンが声を上げる。何事かとナックルが振り返れば、彼のすぐ足元に立ち驚きを露わにする少年の姿があった。

 ゴンは五感に優れる。彼はナックルの至近にまで忍び寄り耳(そばだ)て、通話の内容を傍受していたのである。

 

『あん?そこにゴンがいるのか……丁度いい。ナックル、ソイツにも聞かせてやれ』

 

「え?は、はあ……」

 

 ナックルは言われるがままに携帯を操作し、スピーカーを切り替える。聞き耳を立てずともモラウの声が聞こえるようになったところで、彼はゴンに語り掛けた。

 

『おい坊主、お前さんはカオルって野郎を知ってんのか』

 

「野郎じゃないよ、女の子だもの……うん、知ってるよ。カオルは友達で、オレと同じ287期のハンター試験を受けた同期なんだ」

 

「ついでに言うと、つい数ヶ月前までグリードアイランドっつー念能力者用のゲームで一緒に行動してた」

 

 所在なさげにしていたキルアも会話に加わる。すると、モラウはキルアの言葉に反応し通話越しに口を開いた。

 

『マジか。ということは、あのゲームをクリアしたのはお前さんたちなのか。で、クリアした後にカオルとは別れたと……去り際に何か言ってなかったか?』

 

「何か『用事がある』って言ってたよ。本当ならカオルも誘って一緒に行動するつもりだったんだけど、断られちゃって」

 

『用事、用事ねぇ……事前にキメラアントの発生を見越していたっていう話は本当だったのか……?』

 

 何やら受話器の向こうで唸るモラウ。ゴンとキルアは不思議そうに顔を見合わせた。

 

『……まあいい、お前さんが聞きたいのはそういうことじゃねぇだろう?』

 

「あ、そうだよ!カオルがNGLにいるって話!本当なの!?」

 

『会長が言うにはそうらしい。半日ぐらい前か、オレらが偵察目的で連中の巣に近寄った時点では生きていた。生憎と事情があって遠目に見るだけで撤退したが、少なくともカイトってヤツより緊急性は高くないと判断した』

 

 何しろキメラアントを殆ど殲滅しつつあったからな、というモラウの呟きに、その場の全員が目を剥いた。

 

「キメラアントを殆ど殲滅って……それはどういうことですか」

 

『どういうことも何も言葉通りの意味さ、シュート。オレらが確認した時には地上の兵隊蟻はほぼほぼ全滅、残ってるのは空を飛べる一部の奴らだけだった。キルアが言ってた猫のキメラアント……ネフェルピトーって言ったか?ソイツも含めてもう散々に蹴散らしたらしい』

 

「アイツを……!」

 

 ざわっとゴンの全身が総毛立つ。カイトの腕を奪った憎きキメラアント。彼らに拭い難い恐怖を刻み込んだ怪物。

 猫のキメラアント───直属護衛軍、ネフェルピトー。いずれまた相見えるとばかりに思っていたキルアは、怨敵が既に死んでいるという事実に「ありえねぇ」と呻いた。

 

「あんな馬鹿げたオーラを発していた化け物だぜ……それを倒した?確かにカオルはすげー強かったけど、流石に信じられねぇ」

 

 しかもネフェルピトーを倒しただけに飽き足らず、キメラアントそのものを全滅に追いやりつつあったという。敵と直接相対した経験を持つ彼らだからこそ、俄かにはその事実を信じられずにいた。

 

『まあ信じられん気持ちも分かる。だがオレは確かにこの目で見たし、何よりこちらに投降してきたキメラアントの師団長がそう言ったんだぜ』

 

「じゃ、じゃあ!アイツが死んだってことは、カイトが生きてる可能性があるってことだよね!……ん?なら、何でカオルの救出に急いで行く必要があるの?カオルは勝ったんでしょ?」

 

『あー、それは……』

 

 口篭もるモラウ。試練を突破したわけではないゴンに王が誕生したことを伝えて良いものか。

 だが兵隊蟻を生み出す原因であった女王が死んだことで、既に試練はその意義を半ば失っている。別に構うまいと思い直したモラウはややあって口を開いた。

 

『……王が生まれたのさ。女王は死んだが、女王に倍する脅威が新たに発生したというワケだ』

 

「王って、キメラアントの!?」

 

「ってことは、アイツは今たった一人でそんな危険地帯に……」

 

 確かにカオルは強いのだろうし今更それを疑う者などいないが、護衛軍を含む多くのキメラアントと戦った後となれば流石に相応の消耗がある筈だった。

 しかし酷な話であるが、最悪カオルが死んだところで大きなデメリットは今や存在しない。ネテロたちが最も恐れていた「摂食交配による敵戦力の増加」は女王が死んだことでもはや起こり得ないのだから。王との戦いにおいて戦力として宛にできるのであれば彼女の生存にも意味はあろうが、直前の戦闘による消耗を思えばその望みも薄い。消耗したカオルの救助のために戦力を分散するぐらいであれば、いっそ彼女には死んでもらっていた方が王の討伐に注力できるという点においてメリット足り得た。

 

 だが、モラウたちは血の通わぬ戦闘機械ではない。情を持ち合わせた人間である。この「キメラアント事件」における最大の功労者であるカオルを、僅かなメリットのために見殺しにするような冷血漢など三人の内にはいなかった。彼らは本心からカオルを、そしてカイトらを助けたいと思っているのだ。

 

「モラウさん、オレたちも連れてって!カオルは大事な友達なんだ!」

 

 だからこそ、モラウはそう叫ぶゴンの言葉を無下にできなかった。元より義理人情に厚い性格であるモラウは、友を助けたいと叫ぶ少年の思いを無視できる男ではない。

 

『……いいだろう。だが、現場ではオレらの指示に従ってもらうぜ』

 

「師匠!?」

 

「ありがとう、モラウさん!」

 

 女王がまだ存命であったのなら、流石のモラウとてゴンたちの同行を許しはしなかっただろう。摂食交配による戦力吸収の恐れがなくなった今だからこそ、ゴンとキルアは十分戦力足り得るのである。

 ……最悪、消耗により戦力外であろうカオルや、仮に生きていたとしても重傷を負っているであろうカイトらを退避させる足代わりとしての役割は果たせる。少数精鋭の意義が薄れた現状では猫の手でも借りたいのが実情であり、ならば外部からの応援を待つよりは今ここにいるゴンたちを動員する方が手っ取り早く合理的であった。

 

 そういった諸々の打算があることなど知る由もないゴンは、割符の奪取を待たずして同行を許されたことを無邪気に喜んだ。ナックルは突然の決定に驚くも、素早く意識を切り替え眼光鋭くゴンとキルアを見据える。

 

「師匠の決定だからな、今更オレから言うことは何もねェ。足ィ引っ張るんじゃねぇぞ!」

 

「もちろん!」

 

「……シュートだ。よろしく頼む」

 

「キルア。まあ、よろしく」

 

 ナックルが発破を掛け、ゴンは威勢よくそれに応える。実は少年二人とは初対面であるシュートが会釈し、キルアもまたそれに応じた。

 そんな彼らのやり取りを通話越しに聞き、モラウはその意気軒昂なる様に笑みを浮かべる───ようなことはなかった。むしろその逆、モラウは電話の向こうで渋面を浮かべていたのである。

 

 実は、モラウは彼らに伝えていないことが一つあった。それはノヴの弟子であるパームの件に関してである。

 

 パーム=シベリア。彼女は一風変わった強化系念能力者であり、遠見───千里眼にも似た念能力を有している。直接的な戦闘能力ではなく、距離を無視した情報収集能力を買われてネテロ率いる討伐隊に同行したのである。

 パームは水晶玉を触媒に遠見の能力を発揮する。制約は「対象を肉眼で見ること」であり、一度でも彼女の視界に入った者はその監視から逃れることはできない。

 

 だが精度を度外視すれば、この制約はある程度無視することができた。対象の名前や現在の居場所など、情報を出来る限り多く揃えれば目視していなくとも遠見は発動するのである。実際に対象を捕捉できるかは情報量と運に左右されるのだが。

 そして、パームはノヴに頼まれこの能力を発動した。対象はカオルであり、目的は件の邪視の正体を断片的にでも探ることであった。幸いにもネテロに頼まれていた件でカオルに関する情報は揃っており、現在の居場所も判明していたため問題なく遠見は効力を発揮したのである。

 

 そして───パームは発狂した。何を見たのかは定かではない。だが水晶越しに"何か"を見、彼女は正気を失ったのである。

 「星辰が揃った」だの「蘇る」だの意味不明な言葉を悲鳴と共に叫び、パームは意識を失った。現在はビスケットが看病しているという。

 

 パームは一流のプロハンターだ。モラウやノヴからすればまだまだでも、平均値を大きく上回る強力な念能力者なのは確かである。そんな彼女が正気を失うなど尋常なことではない。つまり、それだけ尋常から逸脱した何事かがNGLで起こっているのだろう。

 理性は「戦力は一人でも多い方がいい」と言う。一方で、本能は「ゴンたちを行かせるべきではない」と忌避感を露わにする。理性と本能の二律背反がモラウを悩ませていたのである。

 

 だが賽は投げられた。結果としてモラウは理性の声に従い、ゴンとキルアの同行を許した。ネテロもノヴも否とは言うまい。それだけ状況は逼迫しているのだから。

 モラウは現地で落ち合うことをゴンたちに告げ通話を切る。それでも、彼の内では不安が渦巻いていた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 ───死せる■■■■■、ルルイエの館にて、夢見るままに待ちいたり。

 

Ia! Ia! Cthulhu fhtagn! Ia! Ia! Cthulhu fhtagn!

 

 穢れた嬌声、呪詛の輪唱。粘性を帯びた泡立ちにも似た、くぐもったような深きものどもの唱和が響き渡る。

 

 ───夢見るままに待ちいたり。夢見るままに待ちいたり。

 

Ia! Ia! Cthulhu fhtagn! Ia! Ia! Cthulhu fhtagn!

 

 白濁した眼球、深淵の異相。全身を滑り光る鱗で覆った異形、人ならざる人形(ひとがた)。乱杭歯が並ぶ口腔から腐臭と呪詛とを撒き散らしつつ、深きものどもは呪いをこそ言祝いだ。

 声高らかに両腕を振り上げ、海神の眷属たちは叫ぶ。目覚めの時は今ぞ。

 

 ───死せる■■■■■。

 

Ia! Ia! Cthulhu fhtagn! Ia! Ia! Cthulhu fhtagn!

 

 ───夢見るままに、待ちいたり。

 

 呪詛であり祝詞。深きものどもの喝采を受け、深みの落とし子どもは触手を蠕動させ、互いに寄り集まり融合していく。触手同士が絡み合い、無数の落とし子が融合と膨張を繰り返す。巨大な肉塊を形成する。

 それはこの世ならざる光景、吐き気催す程に冒涜的なる景象であった。樹海を覆うように伸び広がっていた海魔の波が、ある一点を目指して収束していくのである。もはや直視するだけで精神を砕きかねない程に悍ましい汚物の集積体は、聳え立つキメラアントの蟻塚にも匹敵する巨大さにまで成長しようとしていた。

 

 その烏賊か海星の如き姿を指して海魔と呼び称される使い魔たち。その正体は"クトゥルフの落とし子"。ルルイエの館にて主と共に永劫の眠りにあると語られたそれらが、いま地上に惨劇を顕そうとしていた。

 

 海魔同士が融合しているようにも見えるが、その行為は供犠───海魔自身の血肉を触媒に新たな海魔を生み出すという代替召喚の延長にある。海魔もとい落とし子どもは、その身を以て"何か"をこの世に顕現させようとしているのだ。

 その悍ましき光景をカオルは無感動に眺めていた。左手の中の魔導書は猛り狂う魔力の渦動を滔々と垂れ流し、深淵に通じる術式を編み上げていく。

 空間を歪める程の魔力の波動に僅かに視界を阻害されつつ、カオルはカクンと右に首を倒し何事かを呟いた。すると、今まさに最高潮の昂りを見せ激しく両腕を振り上げていた深きものどもがピタリと動きを停止。直後、一斉に海魔の肉塊目掛け駆け出した。

 

 我先と肉塊へ走り寄り、その身を投げ出す深きものども。その悉くを、なおも増殖と膨張を繰り返す原形質から伸ばされた大小様々な触手が絡めとり、引きずり込んだ。深きものどもは一切の抵抗なく、むしろ嬉々としてその身を捧げ蠕動する肉塊の内へと沈んでいく。

 続々と集い、融合し巨大な原形質へと変貌していく落とし子。そして針金虫に寄生された蟷螂の如く、主に操られるがまま肉の海へと身投げを敢行する深きもの。海魔と海魔による暴食の宴。斯様な地獄めいた光景と比べれば、黒魔術師の魔宴(サバト)の方が幾分かマシというものであろう。

 

 そして変化は訪れる。遂に全ての深きものが肉の海に呑み込まれた刹那、球状にまで膨れ上がった不定なる原形質が確かな輪郭を形成し始めたのだ。

 (タコ)烏賊(イカ)の胴部、あるいは磯巾着(イソギンチャク)の口盤を思わせる巨大極まる"頭"が天を衝き、繊毛の如き細い触手の集合体とでも称するべき脈動する"胴体"が柱のように屹立する。そしてそれらを支えるかのように、二十を超える触腕が伸び広がった。一本一本が高層ビルにも匹敵する長大さを有するそれら青黒い触腕は、巨体を支える"足"であり"腕"である。轟音を立てて大地を掴み、虚空を踊る"足"あるいは"腕"は、歓喜を表すかのように細かく震えた。

 

 

 

 

『■■■■■■■■────!!!』

 

 

 

 

 どこに声帯があるのか、それは歓喜の雄叫びを上げ大気を震わせる。誕生を告げる呪詛混じりの産声は、破滅を告げる風となってNGL全域に吹き荒んだ。

 クトゥルフの落とし子の集合体として誕生したそれ。であれば、この巨大海魔を指して称するべき呼び名は一つしかない。

 

 ゾスより飛来せし侵略者。宇宙原初の混沌を祖とする、水気を統べる旧き支配者。大いなる者どもの代弁者にして大司祭。

 

 

 ───死せる■■■■■、ルルイエの館にて、夢見るままに待ちいたり。

 

 

 邪なる神々、その一柱。非ユークリッド幾何学的な外形からなる、異界の法則が支配する館にて微睡む者。星辰が揃う時、海底より浮上し世界に破滅を告げるサタンなる者。

 

 

 ───死せる■■■■■、ルルイエの館にて、夢見るままに待ちいたり。

 

 

 その名はトゥールー(Tulu)。その名はトゥートゥー(Thu Thu)。その名はクトルット(Kthulhut)。その名はクトゥルー(Kutulu)。その大いなる御名は───クトゥルフ(Cthulhu)

 

「───Ph'nglui mglw'nafh Cthulhu R'lyeh(死せるクトゥルフ ルルイエの館にて) wgah'nagl fhtagn(夢見るままに待ちいたり)

 

 パタン、と魔導書を閉じる。カオルの目の前に、今、語るも悍ましき旧支配者の似姿が顕現したのである。

 

 だが、これが本物であろう筈もない。神話(空想)に語られる大いなるクトゥルフとは、似てはいるが明確に異なる異形である。宝具『螺湮城教本(プレラーティーズ・スペルブック)』が原典たるルルイエ異本の劣化コピーであるからして、よもや本体を召喚できる筈がないのである。

 ではこれが何かと問われれば、カオルには答える術がなかった。恐らくクトゥルフの化身の一つ、あるいはクトゥルフに相似するだけの大魔獣か何かだろうと予想を立ててはいるが、真相は定かではない。

 

 唯一確かなのは、これが途方もなく巨大で強大な生命体であり、また未完成であること。そしてこの上なく飢えていることだけだ。

 これがクトゥルフとして信仰・定義されて召喚された以上、これはクトゥルフとして完成するまで止まらない。であれば、これが完成に至るための贄を求めるのは自明の理であり、深きものどもが数百体程度では贄として全く不足していた。

 

 ぼこぼこと粘液に濡れ光る青黒い肉の表面が泡立ち、大量の眼球が現れる。それは途方もない悪意と飢餓の感情を乗せて周囲を睥睨する。非ユークリッド幾何学的法則が支配する居城にあったそれにとって距離などは何ら意味を持たず、およそ地表の全てを視界に捉えた。NGLは言うに及ばず、地平線の彼方に至るまで全てがそれにとっての"視界"であったのだ。

 星そのものに遮られるでもない限り、それの視線が届く範囲に限界はない。しかし物理法則が支配する物質世界に肉を持って現界した以上、直接的な影響を及ぼせる範囲は触手の届く距離に限られる。故に、手近な位置にある獲物に真っ先に食いつくのは当然の帰結であった。

 

 脈動する汚肉の表面から、蠕動する網の如き触手が何条も躍り出る。とある世界にて最新鋭の戦闘機をも苦も無く捕獲した触手は、巨大海魔顕現の一部始終を呆然と眺めていた空飛ぶキメラアントたちに襲い掛かった。

 当然ながら、一瞬で百メートル以上の距離を伸縮する触手から逃れる機敏さを持った者などいない。ましてや"儀式"の影響で衰弱していた彼らは、悲鳴を上げる暇すらなく触手に絡めとられるしかなかった。

 

『■■■■■■■■────!!』

 

 異形は吼える。まだ足りぬと、贄が足りぬと苦悶を上げる。

 神格一歩手前程度の格を有するそれは既にカオルの支配下にはないが、それでも召喚主を襲わない程度の分別はあった。それは未だ魔導書からの魔力供給が存在維持に大いに役立っているからこそではあったが、理由はどうあれ現状においてカオルは獲物の対象外であった。

 

 で、あれば───いるではないか。召喚主に負けず劣らず美味そうな贄が、柱のような建造物の上に二匹も!

 

 蠢く原形質の表面から疣のように現れた眼球が一斉に見開かれ、蟻塚の天辺に立つ二匹の贄───王とシャウアプフへと視線を殺到させる。蛇の群れの如きにうねくる触手が、更なる贄を求めて鎌首を擡げた。


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