実に下らない話だが、神はダイスを振るらしい(本編完結)   作:ピクト人

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飛翔する忠義の翅

 

 ──オレが思うに。もし神とかいう上位存在が本当にいるのならば、神の似姿たる人間を不完全なまま産み落としたことこそが最大の恩寵であり慈悲であると確信する。有史より弛まぬ発展を続け興隆を極めてなお、愚かなる人類は全知には程遠く。故にこそ、オレは大きく口を開いた奈落の淵にあってなお未だ正気を繋いでいられるのだ。

 ()()()()()を理解してしまうぐらいなら、オレは愚者のまま白痴に踊ることを選ぶ。

 

「アッハハハハハはははァ───! なんだいアレ! なんだいアレ! 凄いぜカイト! ボクあんなモノ見たことないよぉ!」

 

 ヒソカがすぐ隣で狂ったように笑っているが、生憎と今のオレにはコイツのように笑っていられるような余裕はない。

 遠く距離を隔てていながら、アレの全体像は細部に至るまでハッキリと見て取れる。思うに、アレを取り巻く法則下においては幾何学が狂っているのだ。遠くにあるものが近くに、近くにあるものが遠くに見える。物と物との相対的位置が幻影のように絶えず変化を示しているかのようだ。もし神とかいう上位存在が本当にいるのならば、ああ神よ。どうかその恩寵によって、網膜を貫き脳に焼き付くこの忌まわしき光景を忘却の海に沈め給え。

 

 猫のキメラアントによって負った傷を癒し、巨大なオーラを追って辿り着いた先で目にしたモノ。初めは巨大な触手の集合体でしかなかったソレが、今や悪夢めいて凶悪な輪郭を帯びるに至っている。

 ソレを一言で表すならば、蛸と竜と人間の戯画(カリカチュア)だろうか。どこか人間味を漂わせる蛸にそっくりな頭からは幾本もの触手が伸び下がり、鱗に覆われた胴体には爪の長い前足と後足、そして背中には細長い翼を備えている。やや肥満気味にも見える全身に凶悪な害意を漲らせ、ソレは悍ましい咆哮を上げていた。

 

『■■■■■■■───!!』

 

「動いた! いや歩いた! おお神よ! 山が歩き、よろめいたのだ! なんてネ♠︎ あっははははは!」

 

「──……ヒソカ、少し黙れ……」

 

 膠質(こうしつ)で緑色の際限なく巨大な怪物の姿の凄まじさは、オレのような常識人の想像力を超えている。それは傍らで興奮を露わにするヒソカも同じだろう。黙れと言われて律義に両手で口を塞ぐコイツも、子供のように「すごい」と連呼するばかりで具体的な形而を口に出すことはない。斯くまで恐ろしい地獄の叫喚と永遠の狂気を語る言葉を人類はまだ知らない。

 粘性を帯びた気泡の弾ける破裂音、切り割った翻車魚(マンボウ)が流すどろどろした汚物より立ち昇る悪臭、暴かれた古墳から噴出する臭気──例えるならばそれ。狂気に毒された空気が波となり、巨大な爪が蠢き膜質の翼がはためく度に距離を無視して異様なまでの生々しさで迫る。ああ、吐き気がする。

 

 だが不幸中の幸いと言うべきか、アレはオレたちなど眼中にないらしい。燃えるように赤く光る眼球は明後日の方向に向けられている。その果てなき食欲が向かう先は……二つの巨大なオーラが存在を主張する、樹海のど真ん中の辺りか。

 異様と言うならば、その二つのオーラも馬鹿げている。緑色のアレのように脳を震わせるような狂気を発散しているわけではないが、放たれる存在感はどっこいだ。信じ難いほど高速で動くために追跡を断念したが──

 

「おいヒソカ。本当にあそこにお前の言うハンターがいるんだろうな?」

 

「カオルのことかい? なら間違いなくいるさ♥ どれだけ存在が大きくなろうが、ボクが彼女のオーラを見間違えるはずがないからね♣」

 

「……俄かには信じられん。あれは人間が出せるようなオーラ量ではないぞ。王と思しきキメラアントのオーラも大概だが、もう一方のオーラは輪を掛けて……巨大すぎる」

 

「そうなんだよねぇ……カオルったらいつのまにあんなに強くなったのやら♦ 正直、食べ頃を通り過ぎちゃってガッカリってカンジ♠」

 

 はぁ、と大きくため息を吐くヒソカ。直前までの狂騒が嘘のように消沈した様子の相方を胡乱な目で見る。

 

「……このNGLで少なくない時間を共にし、お前という男の性質は概ね理解したつもりだ。だからこそ解せんな。食べ頃を過ぎたとはどういうことだ?」

 

 ヒソカ=モロウ。生粋の戦闘狂(ウォーモンガー)。敵が強ければ強いほど喜ぶタイプの人間だと推測していたのだが。

 

「戦いとは互いが同じ次元になければ成立しない究極のコミュニケーションだ♥ 互いが互いを殺す手段を有している状況における命の相克、それこそがボクを昂らせる♣ それが一方通行であってはならないんだよ♦ 圧倒的強者による蹂躙なんて、見ていてちっとも面白くない♠ ただ弱者が哀れなだけさ♥」

 

「……正直意外だ。お前のような狂人も闘争に美学を見出すか」

 

「美学か……そうだねぇ、ボクは戦いを神聖なものと認識してるよ♣ 肉を抉り骨を砕き血を啜るような極限の闘争、それは言語を超越した魂の交信だ♦ 血沸き肉躍るとはこのことだね♠ 想像するだけで果ててしまいそうだよ♥ ……だからこそ、ボクはボクと同格の敵を求めるのさ♣ 敵は弱すぎてもいけないし、強すぎてもいけない♦ 圧倒的強者による蹂躙なんて虚しいだけ……一方通行の語らいなんて、そんなの相手がいないも同然の自慰行為に過ぎないのさ♠」

 

 普段の人を食ったような態度は鳴りを潜め、ヒソカは落ち着き払った口調でそう言った。

 しかし、戦いが究極のコミュニケーションか。上から下でもなく、下から上でもない。完全に同じ視点を持つ者同士の殺し合いこそがコイツの理想。そう考えると、ヒソカのゴンに対する態度にも合点がいく。コイツはゴンが己と同じ高さにまで上ってくるのを待っていたというわけか。

 

「……言いたいことは色々あるが、今はやめておこう。ゴンの人間関係にオレが口を出すのは筋違いだしな。──さて、現実逃避するのもこのぐらいにしておこうか。そろそろ現実と向き合わなければならん」

 

「あら、今までの会話って全部現実逃避?」

 

 ヒソカが少し傷ついたような顔をするが、当たり前だ。お前の趣味嗜好なんぞ、こんな状況で語るようなものでもあるまい。せっかく乗ってくれたのに悪いと思わなくもないが。

 現実逃避なんて事態の先送りにしかならないと馬鹿にしていたが、時にはそんな心の弱さが必要になると学んだよ。少なくとも、心の整理をする時間ぐらいは得られたからな。

 

 丹田に力を込め、意識を強く保ち再び彼方の化け物へと視線を送る。こうして一度冷静に立ち返ると案外見えてくるものがある。

 

「恐らく、あの化け物は不完全だな」

 

「へぇ、その心は?」

 

「最初は巨大な大王烏賊(ダイオウイカ)の怪物みたいな見た目だったアレが、何らかの要因で今の人型に変身した。その変化には何らかの意味がある筈だ」

 

「まあ、そうだね♣ 実際にあの姿になってから狂気的な存在感が増したわけだし♦」

 

「アレがどういう性質の存在かは分からんが、少なくとも必要によって変化したからには今の人型の方がアレにとってより上位の姿なのだろう。だが、それにしては変身が中途半端だ。ずっと見ていると遠近感が狂ってくるんでアレだが、注意深く観察すると所々が(ほつ)れて元の触手が露わになっているのが分かるだろう」

 

「……あ、ホントだ♠」

 

 ぬらぬらした緑色の鱗に覆われた肌。渦巻くように蠕動して見えるそれはどうやら夥しい量の触手の集合体であるらしい。一歩を踏み出す度に、そして咆哮を上げる度に結合が解けて剥がれ落ちるように触手がうねうねと蠢いている。如何にも中途半端じゃないか。まだあの形状に慣れていないのか、あるいは単純に人型を維持するにはエネルギーが足りないのか。

 いずれにせよ、何かしら手を打つのなら今しかない。今の不完全な状態ですら逃げ出したくなるほど恐ろしいのに、これが完全体にでもなったら気が狂ってしまいそうだ。

 

「アレと比べればキメラアントなど可愛いものだ。カオルとやらが王を引きつけてくれている間に、あの化け物を何とかしなくてはな……だがオレたちだけでは手に余る。何とか応援を呼べればいいのだが……」

 

 オレが打開策を捻り出すべく唸っていると、ヒソカが何とも言えぬ微妙な表情で見てきていることに気が付いた。何だ、言いたいことがあるならハッキリ言え。

 

「いやあ、多分そんなに心配することはないんじゃないかなって♥」

 

「……アレを見ても笑ってるものだから余裕があるのかと思っていたが、実は既に気が狂っていたのか? アレを見て心配ないだと? 流石に正気を疑うぞ」

 

「だってアレ、カオルの念能力の産物だよ? 多分だけど♣」

 

「──……は?」

 

 

 

 

「は?」

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 永久の憩いに安らぐを見て、死せる者と呼ぶなかれ。果て知らぬ時の後には、死もまた死ぬる定めなれば──

 

『■■■■■■■■───!!』

 

 星辰が揃いつつある。測り知れぬ宇宙の周期が経過した今、粘液を滴らせる泥土に覆われた石窟より甦りし大いなるクトゥルフの似姿は、咆哮と共に強力な思念波を放射し始めた。それはNGLを越えて広範囲に広がり、感受性の鋭い人間の夢に沁み入っていく。この奇跡の出現は全世界にテレパシー現象を起こし、旧支配者の解放と復権を願う巡礼に出よと強圧的に呼び掛けつつあった。高名な芸術家や建築家は狂死し、哀れなパームは高熱に浮かされる。人間には抗拒(こうきょ)不能な大宇宙の力で恐怖の淵に転落させんと咆哮した。

 

 善と悪とを超越した自由の世界、その到来を悦ぶがいい。そして法も道徳もかなぐり捨て、殺戮の歓楽を満喫するのだ。かねて地上は大虐殺の焔に包まれ、自由の法悦を味わった使徒たちが狂喜乱舞するであろう──そう高らかに吼える偉大なる古き神々、その大いなる意思を代弁する大祭司の狂奔する様を、シャウアプフは全力の"絶"で身を隠しながら諦観の目で眺めていた。

 

 その姿は元の成人男性程度だったものと比べるとあまりに小さい。今や子供の背丈程度でしかなく、小柄な王と並べてもなお下回るだろう。"蠅の王(ベルゼブブ)"によって分割され、総体が半分を下回った結果がこれであった。

 では、失われた半分はどこへ消えたのか──言うまでもなく、それは大海魔の腹の中である。遂に逃げられないと悟ったシャウアプフは、己の力を"蠅の王(ベルゼブブ)"によって分割し、核を持たぬ方を囮として活用し大海魔の目を欺いたのだ。

 

(恐ろしい……アレはただ巨大なだけの生物ではなかった! いや、あれは本当に我々と同じ生命体なのか? 肉と血に覆われた我々とは根源的なところで、決定的に異なっている……!)

 

 半分とはいえ、軍団長のものともなれば並の師団長数十体分に匹敵するほどのエネルギーを得られたことだろう。大海魔が姿を変え、明らかに()()()()()()()()()()のはそれが切っ掛けだった。あるいは、シャウアプフの半分程度で足りてしまう程に、召喚主からの魔力供給が潤沢なのだろうか。

 だが敵を強化してしまうことになっても、このような惨めな姿に成り果てても、シャウアプフには為さねばならぬ使命があった。

 

 ──王をお守りせねばならない──

 

 この悍ましき化け物は確実に王を狙うだろう。今もあの人間と戦っているであろう王を。それを許すわけにはいかなかった。

 だが、シャウアプフではどう足掻いても大海魔には勝てない。カオルにも勝てない。そんな役立たずの臣下にできることとは何か。

 

(この身この魂、シャウアプフの魂と魄は全て王の所有物なれば)

 

 絶望に濁っていた瞳に光が(とも)る。眦を決したシャウアプフは、隠形を維持したまま出せる限りの全力で飛行した。

 飛行能力に優れたシャウアプフはオーラによる強化補助がなくともそれなりのスピードで飛行できる。不慣れな歩行に四苦八苦する大海魔を追い抜き、彼は巨大なオーラがぶつかり合う爆心地へと辿り着いた。

 

 そして目にする。まさに恐れていた事態……往時の威勢が嘘のように傷つき、膝をつく王の痛ましい姿がそこにはあった。

 カオルの姿は何故か見えない。王はただ一人、まるで水が引いたばかりの地面のような泥濘(ぬかるみ)の中に蹲っていた。

 

「お、おお……何と、何ということか……! ああ、我が王……お労しや……」

 

「ぬ、ぅ……その声、シャウアプフか……?」

 

 もはや生物のものとは思えぬ程に堅牢だった甲殻は至る所が傷つき、罅割れている。だが最も酷いのは背中の創傷であろう。まるで鎌鼬を受けた肌のようにばっくりと割れた甲殻からは青黒い血と──病的に青い粘液が止め処なく流れていた。

 

「お役に立てぬ私をお許しください……私では()の女はおろか、あの化け物にすら敵いませぬ。このような役立たずは王の臣として失格で御座います」

 

「良い……元よりお前には然程の期待を掛けてはおらぬ。余が敵わぬ敵にお前が敵う道理もなし。

 ……だが、お前が真に余の忠臣であると言うのなら……疾く馳走を用意せい」

 

 じわじわと臓腑を蝕むメルトウイルスの猛威に晒されながら王が口にしたのは、奇しくも生まれてすぐに発した勅と同じものであった。

 

「余は空腹じゃ……かつてない程に。母から奪ったエネルギーも既に底を突いた。自前の生命力だけでは奴には抗し得ぬ。もはやレアモノであるかは問わぬ故、持てるだけの肉団子を持ってくるのだ」

 

「おお……畏まりました。であればそう時間は取らせませぬ。既に食料の用意が御座いますれば」

 

「なんと。余が空腹であることを想定し、既に食料を用意してこの場に現れたということか」

 

 王はシャウアプフの思わぬ優秀さに舌を巻く。思えばシャウアプフは戦闘力に特化したキメラアントではなかった。この優男の真価は王の執事役にあったのかもしれない。

 王は暴君ではあるが暗君ではない。何かしら成果を上げた臣下には労いの言葉を賜し報いろうとする程度の情けはあった。故に王は賛辞を賜そうと口を開き──

 

 

 

「私をお召し上がり下さい。王よ」

 

 

 

「───」

 

 透徹とした(まなこ)。曇りなき忠義を宿したシャウアプフの表情(かお)を前に、王は数瞬忘我した。

 

「…………何と、申したか」

 

「私をお召し上がり頂くのです。王の護衛兵としては役立たずでありましたが、そこらのレアモノの肉より遥かに王の空腹を癒せると自負しております」

 

 それはそうだろう。シャウアプフは紛れもなく王の直属護衛軍の一角、最強のキメラアントの一体なのだ。人間の念能力者とは格が違う。

 シャウアプフは初めからそのつもりでこの場にいた。その身体は血の一滴に至るまで全てが王の所有物。王の物を王に還元することに何の躊躇いがあろう。

 戦力として役に立てぬのならば、己の血肉を糧として王に捧げるまで。それこそが我が身を顧みぬ究極の滅私奉公、即ちシャウアプフの忠義の形であった。

 

 その赤心を、王は測り違えることなく受け止めた。女王を食らった時と状況は同じである筈なのに躊躇が生まれたのは、その曇りなき忠義に胸を打たれたからだろうか。

 自身にすら分からぬ未知の感情に王は困惑するが、決してそれを表に出すような真似はしなかった。臣下から向けられる忠義を前に躊躇うなど、そんな無様は王の矜持が許さない。その躊躇は赤心を示す臣下に対する裏切りに等しい。

 

「──忠道、大儀である。許す。シャウアプフ……其方(そなた)の血肉を捧げ、余の腹を満たすがよい」

 

「ありがたき幸せで御座います、王よ」

 

 シャウアプフの目から一筋の涙が零れる。だがそれは死にゆく未来に恐怖し涙したのではない。王の役に立つこと──忠臣の本懐を果たせる喜びのあまりに感動し涙したのだ。

 そしてシャウアプフの身体がオーラを放って輝き、無数の細胞群へと変じた。"蠅の王(ベルゼブブ)"の能力によって己を細胞単位にまで細かく分裂させ、煌めく霧となってシャウアプフは忠義の道を飛翔する。

 

『さあ、私の細胞たちよ! 隅々まで行き渡り王の空腹を癒せ!』

 

 己の全てを懸けた生涯最後の念行使。霧となったシャウアプフは王の身体に満ちていった。

 

「お、おお……おおおおおお───ッ!!」

 

 刹那、王の思考は真っ白に染まった。まるで脳が弾け飛ぶかのような圧倒的な多幸感が全身を駆け巡る。

 口腔を経て全身に満ち満ちてゆく生命力(オーラ)の奔流。それは空腹であったことも手伝い、まさに天上の美味であると言っても過言ではないと王には感じられた。

 

 そして、シャウアプフを食らったことにより王ですら自覚していなかった彼の念能力が発動する。それは"他者を捕食することで自身を強化する"というキメラアントの王に相応しい能力であった。

 まず戦いの中で負った傷が癒えた。大小様々な傷は甲殻の修復と共に消え失せ、のみならずより強靭に再生する。唯一背中に負った創傷のみは完全には癒えなかったが、しかしメルトウイルスの侵食が弱まったのは如実に感じられた。

 そして身体の奥底から溢れ出る圧倒的なオーラ。単純な加算ではない。王の能力が合わさることで乗算され、シャウアプフから受け継いだオーラは何倍にもなって王の総身に漲ったのである。

 

「……余は二言が嫌いだ。だが敢えてもう一度口に出そう。──大儀であった、シャウアプフ」

 

 ギリリと握り締められる拳。掌中に蟠る力の、何と凄まじいことか。

 気づけば、王の肩甲骨の辺りから巨大な蝶の翅が生えていた。それは紛れもなくシャウアプフの翅であり、彼の(オーラ)が王の中で息づいていることの証であった。

 

「今の余であれば、あの人間にも抗し得よう。否、勝利してみせる」

 

 臣の忠義は確かに受け取った。ならば、後は王としてその忠義に応えるのみ。

 

 

「待っているがいい、人間。勝つのは、キメラアント(我ら)だ」

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 シャウアプフの半身を食らった大海魔は、着実にその身をクトゥルフのものへと近付けていた。

 だがまだ足りない。偉大なる古き神々は血と肉から成っているのではない。無論、形は(そな)えている。それは天上の星座を見れば判ることだ。だが、その形は物質によって作られたものではない。宇宙空間を星から星へと飛び回る神々は、人間の低次元の思考では及びもつかない超自然的な力を衣として纏い、形を成しているのである。

 

 然るに、まだ足りない。肉に覆われた身では不完全だ。大海魔は完全なる"復活"を果たすべく、巨大なオーラの下へと進行を開始した。

 覚束なかった歩行も数分で我が物とし、汚らしい粘液を滴らせながら猛然と突き進む。目指すは、先ほど取り逃がした巨大なオーラの片割れ……即ちキメラアントの王である。進路上にある樹海の木々を()()()()()()()進撃する醜悪なる威容。これを止めることはもはや人間にも、そしてキメラアントにも不可能である。──唯一、彼女のみを例外として。

 

 まず、何の前触れもなく大海魔へと送られ続けていた魔力供給が途絶えた。一方的に破棄された契約の崩壊により、その反動が大海魔に向かう。反動と言っても大した衝撃ではないが、不意打ちじみたそれは大海魔を困惑させるに十分な威力を持っていた。

 意識に生じたほんの一瞬にも満たぬ僅かな空白。その間隙を衝き、天から飛来した轟雷が大海魔を貫いた。

 

『■■■■■■■■───!!?』

 

 それは"霊気放出(オーラバースト)"の加速と、上空四百メートルという高々度からの重力加速が加わった渾身の蹴撃。その威力は大海魔の脳天から股下までを貫いて余りある絶大なものだった。

 蠢く汚肉の集積体を穿ち、勢い余って大地に断層を刻みながら彼女はその姿を海魔の前に現した。

 

「さっきぶりね、自称大祭司さん。出し抜けに申し訳ないのだけど──アナタ、もう用済みだから死んで下さる?」

 

 菫色に変化した長髪が風に靡く。海魔からすれば蟻ほどに小さな少女(カオル)は、大海の如き莫大な存在感を纏って海魔を睥睨していた。

 

『■■■■■■■■───!!』

 

 脳天から串刺しにされた海魔は口から泡を飛ばして激怒する。顔から伸びる触手を戦慄(わなな)かせ、足元に立つ元主人へと憤怒に燃え上がる赤眼を向けた。

 大海魔にはただの海魔だった時の記憶はない。だがそれでも元主人(カオル)の魂胆は見え透いていた。

 

 ──コイツは獲物(シャウアプフ)を食らって肥えた己をも糧とし、我が力を奪おうとしている──

 

 即ち敵である。もはや海魔とカオルとの間には何の(しがらみ)も存在しない。既に魔力供給回路は破棄されたのだから、カオルに遠慮するような必要は皆無であった。

 

 豪風を巻き起こし、海魔は腕を叩き下ろした。軟質ながら巨大な爪は大地を砕き、引き裂く。巨大であるということはそれだけで武器であり、大海魔の一挙手一投足はそれだけで地形をも変容させる。それが攻撃の意図の下に放たれた一撃ともなれば何をか(いわん)や。

 だが、出鱈目さ加減ではカオルの方が──少なくとも現時点では──上を行く。一度の跳躍で四百メートルもの上空へと駆け上がる彼女の機動力を以てすれば、ただ愚直に振り下ろされるだけの巨腕を避けることなど容易い。回避するついでに思う存分に斬りつけてやる。大きな的だ、実に斬り甲斐がある。

 

「■■■■■■■■───!!」

 

 莫大なオーラと魔力が込められた斬撃、直撃さえすれば王を三度殺して余りある刃の嵐──それが都合四十八。だがそれも、無限再生を繰り返す海魔には有効打足り得ない。脳天を貫通した初撃の傷すらも既に修復を終えている有り様であった。

 

「けれど、最早それも無意味」

 

 翻る長髪を翼のように夜空に靡かせ、カオルは冷笑を零した。

 異変は(たちま)ち現れた。ごぼり、と不快な粘性を帯びた泡立ちと共に大海魔の口腔からメルトウイルスが溢れ出したのだ。

 

『■■■■■■■■───!?』

 

「さっき脳天から身体の中に潜り込んだ時、メルトウイルスを流し込んであげたわ。たっぷりとね」

 

 ウイルスとは生物の細胞に感染して増殖する非細胞性生物の総称である。その名を冠するメルトウイルスも例外なく同じ性質を有している。自己増殖は出来ないが、少量でも生物の体内に侵入すれば爆発的に増大するのだ。如何に大海魔が山のような巨体を誇ろうが、無限に再生する原形質の肉体を有していようが関係ない。相手を徹底的に犯し、塗り潰し、ただの情報体(スライム)へと貶め蹂躙する──それこそがメルトウイルスという災害である。

 

 そして無論、敵がただ溶けていくのを大人しく待っているようなカオルではない。機械のように冷酷に、氷のように残忍に、彼女は殺戮の刃を振るう。

 

 

()()()()

 

 

 爆発的に高まる魔力の渦動。飽食の果て、一個の生命体としては過剰な程に成長した魔力が荒れ狂う。

 

 

「これなるは五弦琵琶、全ての洛を飲み込む柱──」

 

 

 刹那、()()()()()()。人型の災害は轟雷の唸りを上げ、物理法則を鼻で笑う全力疾走を開始する。

 生じた大気摩擦がプラズマを発生させる。蒼雷を迸らせながら疾駆する彼女の後に続くのは、遍く全てを蕩かす神の水、死の毒液(ウイルス)である。

 

 

「──さあ、飲み込まれてしまいなさい。『弁財天五弦琵琶(サラスヴァティー・メルトアウト)』……!!」

 

 

 快楽のアルターエゴ、メルトリリス。その象徴たる宝具が牙を剥いた。

 

 

 彼女の根幹を成す女神は三柱。狩猟を司る純潔の月女神アルテミス。旧約聖書の「最強の生物」たる大海嘯レヴィアタン。そして「流れるもの」を司る聖なる河の女神サラスヴァティー。その内、都市を呑み込むレヴィアタンと河と文化の女神サラスヴァティ―の神威が増大する。それは世界の終焉を告げる大津波も斯くやという激流を生み出し、大海魔の巨体を余すことなく飲み込んだ。

 

 大音響の悲鳴が轟く。対流圏にまで達する水の柱と化した宝具の激流に包まれた大海魔は、内と外から肉体を溶かされていく苦痛に狂おしく身を捩った。

 急速に侵食され、青く染まっていく身体。しかしカオルは容赦しない。激流に乗って旋回し、四方八方からの大斬撃を繰り返す。掠めるだけで人体など爆散させて余りある超加速から繰り出される蹴撃は、もはやそれだけでAランクの物理火力に匹敵する。

 

 体内から魂を蝕む致死の毒液。体外から肉体を溶かす神の激流。そして尚も足掻く再生能力を封殺する怒涛の斬撃。さしもの邪神の現身と謂えど、こうも徹底的に蹂躙されては勝ちの目はない。最後の悪足掻きとして残った魔力を総動員し肉体を汚穢(おわい)を撒き散らす星雲状に変化させるも、それすら水の柱は容赦なく押し流していった。

 

 

『■■■■■■■■───!!』

 

 

 大海魔は一際大きく咆哮し、救いを求めるように宇宙へと手を伸ばす。だが宇宙は何も語らない。蜘蛛の糸は垂れることなく、何処(いずこ)かの次元にあるン・カイの森の深淵は何者にも興味を示さない。

 代わりに天から降ってきたのはカオルであった。莫大な魔力を充填した鋼の踵を振り翳し、彼女は流星となって大海魔を貫いた。

 

 水の柱が渦を巻き収縮する。邪神の情報が溶け込んだ宝具の海がカオルの身体を覆い尽くし、やがて吸収されていった。

 シャウアプフを食らった大海魔を更にカオルが吸収する。得られる経験値量は凄まじく、彼女はこれまでにない全能感に包まれた。

 

「ああ、素晴らしいわ……」

 

 恍惚と呟く。悍ましい深淵の化外を取り込んだことによる不快感がないわけではない。しかし、アルターエゴとして真に迫った今のカオルはその程度では正気を失わない。

 アルターエゴ。根源より別たれた精神体。「失われぬ自我」を意味するその在り方は、彼女を狂気の淵から脱却せしめたのだ。

 

「これで護衛軍は全て吸収した。ついでに私が倒せる範囲でほどよく成長した海魔も取り込めた。……今なら労せずして王を倒せるでしょう」

 

 それは驕りではない。客観的事実として、今のカオルは生命が到達できる限界を超え究極の位階にまで踏み込んだのだから。

 

 故に、それは驕りではない。しかし油断ではあった。戦場においては首を取った瞬間こそが最も危険であるという事実を失念していたのである。

 一つの勝利による気の緩み。全能感の錯覚が齎す意識の隙間。狩人の視点からすれば今のカオルは隙だらけであり、故に直後の出来事は必然であった。

 

 僅かな空気の乱れ。(うなじ)を撫でる鋭い殺気。今のカオルがこれに反応できたのは奇跡と言ってよかった。ほぼ無意識の反射が回避行動を取らせ、背後から脊髄を狙って迫る死神の鎌からの逃避に成功する。

 

「───ッ!」

 

 その代償は左前腕。流体化も間に合わず、左腕の肘から下が盛大に弾け飛んだ。

 

「ぎっ、あああああ"あ"あ"あ"!!?」

 

 鮮血の代わりに断面から迸るのはエーテルが溶けた水。生まれて初めて味わう激痛と喪失感に悶絶し、カオルは恥も外聞もなく悲鳴を上げた。

 

「ここまでしてようやく腕半分か」

 

 カオルの左前腕を奪っていった下手人。背から美麗な蝶の翅を広げた王が見下ろしていた。

 それを見てカオルはようやく気付く。自身の裡にシャウアプフの情報が半分しかないことを。

 

「あの海魔(ヤロウ)、しくじりやがった……!」

 

 王との一対一に水を差されないよう、海魔をシャウアプフに(けしか)ける。そして見事シャウアプフを捕食した暁には、海魔ごとドレインし更なる自己強化を図ろうと考えていたのだ。

 しかし蓋を開けてみればこの有り様。シャウアプフの半身は王の下へと逃げ延び、その身を捧げることで主人を窮地から救ったのである。

 

 全てを賭した捨て身の献身。実に感動的だ。だが腹立たしい。カオルとてシャウアプフの念能力は承知していたが、まさか海魔を完全に放置していくとは思わなかった。

 だが結果として海魔は消滅し、王は強化された。カオルとて海魔とシャウアプフの半分をドレインしたことで強化されたが、先程までとは決定的に異なる要素がある。

 

 

 ──王が、遂に己の念能力を理解したのだ。

 

 

「よくも我が臣下を悉く食ろうてくれたものよ。だが今度はこちらの手番だ」

 

「───ッ」

 

 依然として両者の力関係に変化はない。カオルが上で、王が下だ。しかし王は意気軒昂であり、カオルは未だ動揺の最中にある。念戦闘において、どちらがより優れたパフォーマンスを発揮できるかなど論じるまでもない。

 

 

鏖殺(みなごろし)だ。肉片一つ残らぬと知るがいい」

 

 

 未だ夜明けは遠く。怪物同士の戦いは終わらない。

 




ユピーを食べてないのに王の身体が変化してプフの翅が生えてきたのは、偏にプフの忠義()が為せる技です。つまり念です。ガバ設定じゃないよ、ホントだよ。

あとヒソカがなんか色々語ってくれてますが、これはただの作者の妄想です。多分原作のヒソカはもっとアレな感じだと思う。

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