実に下らない話だが、神はダイスを振るらしい(本編完結)   作:ピクト人

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お久しぶりです。ピクト人です。最後の投稿から実に二ヶ月以上が経過しましたね(いつもの)
正直失踪したと思いましたでしょう? 残念だったな、オレの小説は後退(エタ)のネジを外してあんだよ。

お詫びというわけではありませんが、今回は最後ということで二話連続投稿です。そしてこの話に二万字以上、次話に一万字以上を使っているので実質三話連続投稿と言えるでしょう。


暴走の果て

 曇りなき白銀の刃が喉を通り首を落とす。重力に従って地に落ちたヒソカの首は瞬時に形を崩し液体となって弾けた。

 一拍遅れて崩壊した胴と首とが混ざり合い、毒々しい青の水溜りとなって地に広がる。かつて強靭を誇った五体は見るも無残な養分へと成り果て、直視憚られるそれをカオルは容赦なく啜り上げた。

 カオルの霊基が増大する。ヒソカをドレインすることで僅かばかりだが魔力とオーラを回復させ、喉を潤した彼女は遠巻きにするネテロたちへと向き直った。

 

 身構える彼らの前でカオルはヒソカから奪った"伸縮自在の愛(バンジーガム)"を発動する。失った左腕の肘から先より生じた靭性に富むオーラは瞬時に前腕を(かたど)り定着した。

 

「……そういうことかよ。それがテメェの能力の正体か……!」

 

 不自然だった能力の多さの秘密を悟ったナックルが憤怒に顔を歪ませる。しかしカオルはそれに取り合わず、"伸縮自在の愛(バンジーガム)"によって修復した左腕を()めつ(すが)めつ眺め鼻を鳴らした。

 

「一朝一夕では自在に動かすのは難しそうね」

 

 獲得したばかりの伸縮自在の愛(バンジーガム)に習熟していない今のカオルでは、ゴム状のオーラを腕の形に押し固めておくだけで精一杯だった。指先まで生身のように操るには今暫くの修練が必要だろう。

 少なくともこの戦いの最中に使いこなせるようになることはない。そう判断したカオルは右手に持っていた『螺湮城教本(プレラーティーズ・スペルブック)』を左手に持ち替え、ガム状にした左掌に貼り付けることでこれを保持した。これで唯一無事な右手をフリーにすることができる。そうして一先ずの確認を終えたカオルはようやく憤懣やるかたないといった様子のナックルへと目を向けた。

 

「答えろテメェ──それだけの能力を得るために、一体どれ程の人間を食らってきた!?」

 

「ふん……アナタは今まで食べたパンの枚数を覚えているのか、とでも返しておきましょうか。百を超えた辺りから数えるのは止めましたので」

 

「この外道が……!」

 

「見解の相違ね。オールドレインは(メルトリリス)に具わった身体機能であり本能。獅子が牙を剥くのは邪悪? 蜂が毒針を突き立てるのは罪悪? 違うでしょう。生まれ持ったそれを振るうのは彼らが有する当然の権利。ならば、私の踵が生命を啜ることにも罪などあろうはずもないわ」

 

 ふざけたことを──それがカオルの主張を聞いた彼らに共通の思いだろう。よもや彼女が正真正銘の人外であるなどとは思いもよらぬ以上、自らの罪科を正当化するための荒唐無稽な方便としか聞こえないのは当然である。

 尤も、カオルの主張も彼女が人間社会に生きその恩恵を享受している以上は破綻しているのだが。その道理が通用するのは人とは関係のない場所に生きる野生の獣のみである。人に紛れ人を食らうのならば、どう言い繕おうがカオルは怪物でしかない。

 

 とはいえ、この期に及んで話し合いなどするつもりのないカオルにとってはそれが詭弁かどうかなどどうでもいい事だった。なおも言い募ろうとするナックルを無視してカオルは最大最強の敵であるネテロへと視線を向ける。

 だがその時、視線を交わす両者の間にカイトが割り込んだ。カオルは突然乱入してきた部外者の存在に眉を寄せるが、織り込み済みなのかネテロは黙って静観している。

 

「初めまして……ではないかな。ハンターのカイトだ」

 

「その名はゴンから聞いているわ。それで、ゴンの恩師サマが一体何のご用かしら?」

 

 カイトがヒソカと行動を共にしていたことは遠見の水晶玉で確認していた。あるいはたった今殺されたヒソカの敵討ちでもしたいのだろうかと予想するも、即座にそれは違うだろうとカオルは判断した。何故ならカイトの目には敵意らしきものが欠片も存在しない。彼女に向けられる視線には僅かばかりの緊張と畏れ、そして深い感謝の念が籠められていた。

 

「まずは感謝を。先日は危うくキメラアントに殺されそうになっていたところを助けて頂き、感謝の言葉もない」

 

「何を言い出すのかと思えば……あれはネフェルピトーがあまりに隙だらけだったから介入しただけよ。その時の私に人助けをしようなんて高尚な意図はなかったし、アナタが命を拾ったのはもののついで。結果論にすぎないわ」

 

「それでもだ。君の思惑はどうあれ、君の取った行動によってオレは命を拾った。命の恩人に向ける刃をオレは持ち合わせていない」

 

「……殊勝な心掛けじゃない。どこぞのピエロとは大違いね」

 

 同じように命拾いしたはずなのに迷いなく襲い掛かってきたヒソカと比べ、あまりに真っ当なカイトの態度にカオルは気の抜けたような表情を覗かせる。それはまるで安堵しているかのようにも見え、カイトは意外そうに眉を上げた。

 しかし次の瞬間には元の冷酷無比な殺人マシーンのような鬼気迫る表情へと立ち戻り、カオルはじろりとカイトの背後を睨み付けた。

 

「その割には、私がヒソカとやり合っている間に色々と吹き込んでいたようだけど」

 

 さも忌々しげに目を眇めるカオルの視線を受け肩を強張らせるゴンとキルア。ヒソカと対峙している最中、何やら彼らの中で悪計が巡らされている気配をカオルは明敏に感じ取っていた。

 

「君と敵対するつもりはない。さりとて、窮地にあるゴンたちを黙って捨て置くこともできない。多少の助言程度は目溢しして欲しいところだな」

 

「私のことを命の恩人とか言っておきながらふてぶてしいことこの上ないわね……ぶっ殺されたいのかしら?」

 

「本当にこれ以上は何もしないさ。オレとてキメラアントを受け入れられたとは言い難い。生憎とゴンたちほど柔軟にはなれなくてね」

 

 腕を捥がれた恨み……とまでは言わないが、あれほど凶暴なキメラアントの危険性を目の当たりにしてきて、降伏してきたからとすぐに頷くことはカイトには難しかった。確かにここにいるコルトは理知的で如何にも話が分かりそうな性格をしているが、彼だけが例外である可能性も十分に考えられるのだから。

 

 言うべきことは言ったとばかりにカイトは背を向ける。そして巻き込まれない距離まで下がりながら、背中越しにカオルへと一言告げた。

 

「……これは余計なお世話かもしれんが、一応言っておこう。会長たちは何も君が悪だから敵対しているわけではない。君を案じているからこそ、身を挺して止めようとしているのだ」

 

「……あっそう。本当に余計なお世話だったわね」

 

 そんなことはとうに理解していた。ネテロが敵意なく拳を振るうのは、偏に引き返せぬところまで堕ちようとするカオルを止めるためなのだと。

 だが、カオルは望んでこの道を走っているのだ。今更心を入れ替え正道に立ち返るつもりなど更々ない以上、彼らの心遣いなどこの身には不要である。

 

「ほんっと、余計なお世話──!」

 

 海の水面を思わせる蒼い瞳に強烈な戦意が宿り、紅蓮の炎の如く凄烈に燃え立った。生まれた僅かな感傷は即座に切って捨て、純化した殺意を原動力にカオルは今再びの疾走を開始する。

 

「"百式観音"──」

 

 それを真正面から迎え撃つのは、開幕当初と比較しより光輝を増した黄金の観音像。ブランクによって生じていた倦怠を拭い去ったネテロは今や、少なくない消耗を抱えるカオルにとって最たる強敵である。

 堂々正面からの掌底。真上からの叩き下ろし。左右交互から繰り出される平手打ち──四方八方から迫る拳の牢獄。美猴王が釈迦の掌から逃れられなかったように、並の戦士ではネテロの掌中からは逃れられまい。

 

 生憎とカオルは並ではないが。正面から挑むのが無謀ならば正面から挑まなければよいと割り切り、瞬間その姿は忽然と射程圏外へ消え失せた。

 

(左方、六間──)

 

 ネテロがその姿を再度視界に捉えた時、既に飛翔する斬撃は目前にまで迫っていた。瞬時に反応した腕の一つがそれを迎撃し、ネテロの身に届く前に吹き散らす。

 空気を切り裂き、距離を無視して遠方へと届く鋭利な衝撃波が霧散する。幾度となく"百式観音"の腕を砕いてきたはずのそれは、この時ばかりは妙に威力が低かった。その手応えのなさに眉を寄せるネテロだったが、直後に同じような斬撃が無数に降り掛かってきたことで疑問は氷解する。

 

 まるで"百式観音"に対する意趣返しと言わんばかりに圧倒的な物量となって降り注ぐ斬撃の雨。威力を絞り手数に傾いたそれは十重二十重に折り重なる刃の牢獄と化し、ネテロのみならずその場にいる全員を標的として襲い掛かった。

 

(なるほど、そう来たか……)

 

 迫り来る刃の一つ一つは"百式観音"で容易く迎撃できる程度の威力しかないが、一方で生身で受けるには危険すぎる鋭さを宿している。当然ながら疲労困憊の状態にあるノヴやナックルたちにこれら全てを捌くような余裕はなく、ネテロは一つ一つ丁寧に叩き落すしかない。無論、仲間を守ることにかまけて自身の防御を疎かにすることもまたできない。すると必然、迎撃のためには相当量の手数を降り注ぐ刃に注がなければならず、徐々にカオル本人に対する注意が散漫になっていく。

 

(恐ろしいことは、この攻撃は彼女にとって牽制……ジャブに過ぎないということ)

 

 ジャブとは徒手格闘における打撃技法の一つである。威力はないが速度に長け、本命の攻撃に繋ぐための牽制としての役割に主眼を置いている。カオルがやっていることはつまりそういうことであり、威力を犠牲に無数の斬撃を乱れ撃つことによってネテロの懐に潜り込むための隙を作り出そうとしているのだ。

 恐ろしいことに、カオルにとってはジャブに過ぎないこれらの斬撃は人間にとって即死級の威力を孕んでいる。彼女は気付いてしまったのだろう。彼女にとっては牽制に過ぎない軽い攻撃が、人間を殺すには十分な威力を持っているということに。

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 人を殺すのにミサイルは要らない。人体を壊すのに地形を変動させるような破壊力は過剰に過ぎる。

 拳銃──刀──弓矢──猛獣を相手にするには心許ない小さな凶器が、人間にとっては十分な脅威となるように。キメラアントが相手ならば牽制にすらならないような攻撃も、ネテロたちにとっては無視し難いダメージとなるのだ。

 

 カオルにはキメラアントの王のように、針の穴を通すように精密な計算で"百式観音"の腕を掻い潜るような真似はできない。だが、極小の針の穴を強引に押し広げてやることはできる。

 カオルにとっては些細な、だが彼らにとっては脅威となる斬撃を釣瓶打ちにする。ジャブに次ぐジャブ。フェイントに次ぐフェイント。カオルを無視せざるを得ない程の密度で剃刀の刃を乱れ撃つ。

 

(──好機!)

 

 辛抱強く地味な攻撃で効果を待ち、結果訪れる意識の空白。

 ネテロの視線が完全にカオルから外れ。

 "百式観音"の腕の殆どが降り注ぐ刃の対処に追われ。

 無敵を誇った釈迦の掌に生じた隙間に、カオルは身を潜らせ刃を突き込んだ。

 

「"神速(カンムル)"!!」

 

 だがその瞬間、好機と睨み飛び込んだカオルを迎え撃つようにキルアが迫った。

 

 降り注ぐ刃を掻い潜り──

 縦横無尽に奔る釈迦の殴打を潜り抜け──

 雷気を漲らせた少年の矮躯が光速で肉迫し、攻撃一色に染まったカオルの目論見を阻んだ。

 

 共に光の速度に迫る超速での機動を実現した者同士。当然ながら攻めの思考しか頭になかったカオルも、彼女を止めるべく全力を尽くしたキルアも咄嗟の回避など望むべくもない。しかしこのまま正面衝突すれば両者共にただでは済まないだろう。等しく水煙と血煙となって弾けるのは目に見えている。

 ならば回避せざるを得ない。カオルは流体故の柔軟性を発揮し、人体には再現不可能な動作で身体を捩り。キルアは電気によって高速化した反射神経を総動員し、各々の方法で致命的な激突を避けるべく全力を尽くした。

 

 そんな極限の状態にありながら、互いに攻撃の手を緩めなかったのは流石の執念と言うべきか。カオルは膝の棘を、キルアは鋭く尖らせた手刀を相手に向けながら擦れ違った。

 回避行動を取りながらの無理な姿勢での攻撃である。当然まともに当たることはなく、棘の先端ほんの数ミリ、爪の先端僅か数ミリがそれぞれの肉体を微かに掠めるだけに留まった。

 

 だが、超高速下という状況が僅かな接触すらも凶器に変える。僅かに掠めただけの棘はキルアの左足に大腿から(くるぶし)にまで到達する切創を生み出し皮膚を捲り上げ、微かに触れただけの爪はカオルの上半身を袈裟懸けに大きく抉り取った。

 

 そして甚大な被害を被りながら、両者は明後日の方角へと砲弾のような勢いで吹き飛んだ。

 

 物体に掛かる推力が大きい程、横から加わる力による影響は大きくなる──それは狙撃手ならば誰もが身に染みて理解している当然の物理現象である。超遠距離から放たれる狙撃銃の弾は、そよ風にすら満たないような僅かな風力にも影響され軌道を狂わせる。

 狙撃銃のみならず、拳銃にも同じことが言えるだろう。腹部に打ち込まれた拳銃弾は、柔らかい内臓にすら様々な影響を受けあらぬ箇所から飛び出ることがある。観葉植物の葉一枚に軌道を逸らされることも決して稀なことではない。

 

 ならば弾丸以上の速度で動く両者が僅かにでも接触すれば。その結果どうなるかなど火を見るよりも明らかである。

 

 上空へと打ち上げられたキルアはまだマシな方であった。梢を巻き込みながら空へ飛翔した彼とは対照的に、カオルは彗星のような勢いで大地へと激突した。

 衝撃は大地を揺らし、劈く爆音が暴力的に耳朶を震わせる。轟音が束の間聴力を麻痺させ、巻き上がった粉塵が視界を遮った。

 

(超高速で動き回るアイツの弱点……ひとまずはカイトの言った通りになったな)

 

 滅多矢鱈に斬撃を撃ち出してきたのは予想外だったが、雷速で動くことのできるキルアならばそれらを掻い潜って一撃加えることはできる。左足の出血と脳震盪で朦朧とする中、敵う筈もないと一度は悲観した相手に一矢報いた事実にキルアは会心の笑みを浮かべた。

 ネテロ以外には不可能と思われた最高速度に乗ったカオルへの攻撃を成し遂げたキルアは放物線を描いて地面へと落下する。それを動物の形を模して具現したモラウの煙が受け止め地面への激突を防いだ。

 

「よくやったキルア!」

 

「奴は──まあそりゃそうだよな! この程度で倒れるんだったら苦労しねえぜ!」

 

 濛々と立ち込める土煙を切り裂き、胸の傷もそのままにカオルが飛び出した。獰猛に歪められた口元からはその戦意に一切の蔭りがないことを窺わせる。

 すかさず"百式観音"が迎撃しようとするが、カオルは再び刃の雨を降らせることで自身に殺到しようとする掌打を寄せ付けなかった。

 

「アイザック=ネテロ! アナタの敗因は一つ──この場に足手纏いを連れて来たことよ!」

 

 確かにモラウもノヴも優秀なハンターなのだろう。だがカオルやネテロと比べれば一枚も二枚も劣る。ナックルやシュート、ゴン、キルアなどは言わずもがな。序盤の内は彼らの巧みな連携に辛酸を嘗めさせられた場面もあったが、スタミナが切れてしまえばご覧の有り様である。

 ネテロはどうしても実力で劣る彼らを庇いながら戦う必要に迫られ、明らかに本来の実力を発揮できないでいた。せっかくキルアの尽力で傷を負わせたというのに、足手纏いを庇わざるを得ないばかりにネテロは攻めあぐねている。

 

 目に見える弱点を引っ提げて戦場に出てきているのだ。卑怯とは言うまいとカオルは哂い、左手に掲げる魔導書を起動させた。

 淀んだ瘴気を立ち昇らせる(ページ)が炉心より溢れ出る魔力の胎動に反応し妖しく捲れ上がる。滔々と流れ出る魔力が世界を犯し、底知れぬ深淵の裡より現れる汚穢が滲み出るようにして大地を浸蝕した。それは真っ新な画布に汚泥をぶちまけるかの如き状景であり、見る者の神経を逆撫でずにはおれぬ冒涜に満ちていた。

 

 招来されるは深淵の魔獣。夜陰に吼える海魔の狂乱が森を冒す。

 『螺湮城教本(プレラーティーズ・スペルブック)』は独自の魔力炉心を具える。魔力もオーラも底が近いカオルにとってこれ以上の適役はあるまい。

 気付けば、カオルの周囲は悪魔が跳梁する渾沌に溢れていた。打ち上げられ腐乱した鯨の腹腔から立ち昇るガスにも似た悪臭が漂い、正視に堪えぬ悪夢の軍勢が跋渉を開始する。

 

 怒涛の斬雨に加えて海魔の軍勢が"百式観音"を封殺しに掛かる。究極の個を窮極の群が押し潰すという未来を前に、しかしネテロの顔には笑みが浮かんでいた。

 

「こいつらを足手纏いと笑ったか? ならばこう言わせてもらおう──カオル=フジワラ破れたり!!」

 

「はあ?」

 

 まさかの勝利宣言にカオルは怪訝そうに眉を寄せ──ふと、ネテロの背後にいた筈のゴンの姿がないことに気付いた。

 

(馬鹿な、どこに消えた──!?)

 

 確かにカオルは最大の障害であるネテロを一番に警戒していたが、誓って他の面々から意識を逸らしたことはなかった。にも拘らずゴンはあっさりとカオルの警戒網を潜り抜けて姿を晦ませたのだった。

 素早く四方へと視線を巡らせるがゴンの姿は杳として知れなかった。あり得ない。暗殺者としての教育を受けて育ってきたキルアならばいざ知らず、斯くも完璧な隠密をゴンがやってのけるなど──

 

「余所見をしとる場合かッ」

 

「くっ……!」

 

 攻撃の手が僅かに緩んだ瞬間、ネテロの"百式観音"は召喚された海魔の軍勢の半分を叩き潰し、手隙となった腕でカオルを襲う。我に返ったカオルは慌ててそれを避けるが、握った主導権を手放すまいとネテロは怒涛の攻勢を仕掛ける。

 

「"九十九乃掌(つくものて)"!」

 

「…………ッ!」

 

 もはや"百式観音"を正面から受け切れる程の防御は今のカオルのオーラ残量では望むべくもない。カオルは必死の形相で襲い来る連撃を回避していたが、何かを感じ取ったのか突如として口元に邪悪な笑みを浮かばせた。

 

「" Ya stell'bsna fhtagn shagg uaaah── ! "」

 

 口を衝いて出るは邪なる礼讃の祝詞。その声に応えるかの如く背後から迫り来るモノが加速し、ネテロたちの前にその姿を晒した。

 

ぶぁぁぶぁぁ

 

いあるむなうがなぐる

 

となろろよらなくしらりぶぁぁぶぁぁ

 

 それは先刻ネテロに投げ飛ばされ無力化された筈の"眠れるものの影"だった。悪臭漲る総身を沸騰させ、もはや家一軒分にも匹敵する巨大さへと成長した醜悪無惨なる不定形の肉塊を直視したネテロは脳髄が捻れるような不快感を味わう。

 

「"へ,エエ ── ル,ゲブ,フ,アイ,トロドオグ,ウアアアAAAaaaa ── !!"」

 

 少女の声帯から底知れぬ悪意と冒涜に満ちた呪詛が迸る。呼応して魔導書は限界近くまで炉心を駆動させ、眠れるものの影へと魔力の過剰供給を開始した。

 泡立ち膨張する原形質は際限なく送り込まれる魔力により更なる急成長を果たす。しかし注ぎ込まれる高濃度且つ高密度のエネルギーはもはや毒でしかなく、眠れるものの影は発狂する(ましら)の如くに総身を捻れさせ苦悶に震えた。

 

 爆ぜる。限界以上に魔力を供給された結果として当然の帰結。球状にまで膨れ上がった眠れるものの影は使い捨ての爆弾としての役割を果たし、穢れた血肉と体液、そして魔力暴走の衝撃を周囲に撒き散らした。

 立ち込める刺激性の臭気は常人であれば忽ちの内に皮膚を溶かし肺を腐らせるだろう。オーラで守られた念能力者であっても隙を晒すことは避けられまい。高濃度の魔力に汚染された空気を切り裂き、カオルは無防備となっている筈のネテロたちへと躍り掛かった。

 

「──言っただろうが。嘗めるんじゃねえってよ」

 

 だが汚穢に満ちた霧を抜けた先でカオルが目にしたのは、モラウの"監獄ロック(スモーキージェイル)"で覆われたネテロたちの姿だった。

 敵を捕えて離さぬ煙の牢獄は堅牢なシェルターにも転ずる。無傷でカオルの悪足掻きを凌いだ彼らは、ここまで温存してきた体力を振り絞っての反撃に踏み切った。

 

 モラウの煙はあらゆる場所へと侵入する。通風口のある建物ならば彼の煙を阻むことはできないし、オーラを纏う故に水中であっても形を失わず、故に水道からの侵入をも可能としている。

 そう、気体であるモラウの煙の侵入は防げない。人工物であろうが水中であろうが──地中であろうが。

 

「"紫煙機兵隊(ディープパープル)"!」

 

 カオルに気付かれぬよう少しずつ、時間を掛けて地中に染み入っていた煙がモラウの号令に呼応し姿を現す。五十体にも上る白装束の人形がカオルを包囲した。

 既にこの場はモラウの腹の中も同然である。彼が一度に操れる煙の人形の最大数は216体。なおも続々と出現する白装束はカオルを捕えようと襲い掛かった。

 

「こんなもので……!」

 

 だが煙の人形が何体いようがカオルの敵ではない──そんなことは言われるまでもなく理解している。

 回し蹴りが人形をまとめて切り裂き消滅させる。だが意思なき人形に恐怖などなく、故に恐れることなく後続の人形たちが嬉々としてカオルの殺傷圏内へと飛び込んでいく。

 そんな人形の影に隠れて接近していたナックルが背後からカオルの延髄へと足刀を叩き込んだ。

 

「成る程、この人形は隠れ蓑ということね」

 

 だがナックルの蹴りがカオルの身に触れた瞬間、超人的な反射速度で振り返った彼女の背面蹴りがナックルの首を刈り取った。

 しかし──

 

「!」

 

「残念、ソイツも人形だ」

 

 首を刈られた筈のナックルが霧散して消える。その正体はナックルに擬態した"紫煙機兵隊(ディープパープル)"であった。

 

「本命は私です」

 

「っ、ノヴ……!」

 

 カオルがナックルに気を取られた隙を狙って接近していたノヴが"(スクリーム)"を展開させる。念空間へと繋がる次元の扉がカオルの片脚を呑み込んだ。

 

「無駄なことを……ソレでは私の鎧を砕けない!」

 

「そんなことは先刻承知です。貴女の刃を前に私の"(スクリーム)"は通用しない……しかし、僅かな時間とは言え貴女を拘束することは出来たようですね」

 

 ハッと息を呑んだカオルは慌てて踵に魔力を込め"(スクリーム)"を切り裂こうとする。

 そこに生まれる一拍の隙を衝き、三つの左手が飛来しカオルに掴み掛かった。

 

「"暗い宿(ホテル・ラフレシア)"」

 

 そして接近したシュートが渾身のオーラを右腕に込め、鋭い連撃をカオルの太腿に叩き込んだ。

 "暗い宿(ホテル・ラフレシア)"はダメージを与えた箇所を籠の中に閉じ込めることができる。ノヴの"(スクリーム)"ですら傷一つ負わない具足への攻撃は避け、鎧に覆われていない太腿を狙って攻撃したシュートは見事カオルの一部を閉じ込めることに成功した。

 

「……ッ」

 

 墨汁を落としたように大腿部が黒く染まり感覚が失われる。辛うじて窓を破壊することには成功するも、脚部の根元を喪失したことによりカオルは身体を支える術を失い尻餅をついた。

 

「オレにできるのはここまでだ」

 

「おうよ、ナイスだぜシュート!」

 

 シュートと入れ替わるようにして現れたのはナックルだ。彼は素早い左のジャブでカオルに一撃入れると"天上不知唯我独損(ハコワレ)"を再起動、続く右の拳に多量のオーラを注ぎ込む。

 そして"天上不知唯我独損(ハコワレ)"を維持できるギリギリのオーラのみを残し、余力の全てをつぎ込んだ渾身のアッパーカットがカオルの顎に突き刺さった。

 

「──ッ! 嘗めんじゃないわよッ!!」

 

 屈辱に顔を歪めたカオルが声を荒げ、平手打ちでナックルの顔を叩いた。少女の細腕からは考えられぬ怪力はナックルの頬の肉を抉り、のみならず頬骨に罅を入れる。

 戦闘に耐えるオーラを残していないナックルはこの鞭打を満足に防御することができず、苦痛に呻いて崩れ落ちる。しかし彼の顔には不格好ながらも勝ち誇るような笑みが浮かんでいた。

 

 その笑みを見たカオルの内に更なる苛立ちが募る。

 湧き上がる怒りがオーラとなって現出し、獣頭の髑髏となってカオルの背後に浮かび上がった。黄色く濁った獣の眼球がナックルを凝視する。

 

「"爆殺女王(キラークイーン)"!!」

 

 骨張った指先がナックルの胸を照準し突き出される。次の瞬間には"爆殺女王(キラークイーン)"の指先は彼の心臓を爆弾へと変え、その全身を灰燼に帰すであろうことに疑いはなかった。

 だが、その未来は間にコルトが割って入ったことで妨げられる。触れればあらゆる物質を爆弾と化す死神の指は割り込んだコルトの左腕に接触し、速やかに爆発性のオーラを流し込んだ。

 左腕から侵入したオーラが全身に回るのに三秒と掛かるまい。だがコルトは触れられた瞬間に右の鉤爪で左腕を引き千切ることで全身の爆弾化を防ぐ。

 

 切り離された左腕が爆発し周囲に熱波と衝撃を撒き散らした。身を挺して爆炎から守られながら、ナックルは「何故」と信じられないような面持ちでコルトを見る。

 

「何で庇った……いや、何で前に出てきた!? 奴の一番の狙いはお前なんだぞ!?」

 

「ならば、お前が死ぬのを黙って見ていろとでも言うのか!?」

 

 コルトには人間の道理など分からない。暗黒大陸だの五大災厄だの、カオルやネテロの言うことは半分以上が理解できないことばかりだ。

 だが、彼らが自分たちキメラアントを守るために戦ってくれているということだけは過たず理解していた。本来ならば敵同士であった筈のキメラアントを、口頭で交わしただけの降伏の約束を遵守するために守ろうとしているのだ。

 一度交わした契約を反古にはできないという組織としての体面もあるのだろう。だがそれ以上に彼らが義を重んじ、故に身体を張ってキメラアントを庇い立てしているのだということをコルトは肌で感じ取っていた。そんな彼らの行いをただ指を咥えて甘受するだけなどコルトの信義に悖る。

 

「受けた恩は命に代えてでも返すのがオレの主義だ。命を張っているお前たちを見捨ててのうのうと生き残るなど御免被る」

 

「けどお前、生きてなきゃ守れなくなっちまうだろうが!」

 

「ここで生き永らえたとて意味はないさ。どのみち彼女をどうにかしなければあの子の末路も見えているのだから」

 

 生きて帰り、自らの手で女王の子に仕えお守りしたいという思いはある。だがそれも目の前の魔人が生きていれば意味のない願いだ。コルトは脂汗を流しながら千切った左腕の断面の肉を潰し強引に止血する。本当は焼いて止血したいところだが、火種のない今はこれで我慢するしかない。

 

「人喰いの化け物風情が……ッ!」

 

 その様子を憤怒の形相で凝視するカオルは再び魔導書を掲げ、海魔の軍勢を召喚しようとする。際限なく魔力を生み出し続ける呪いの書は辺りに広がる海魔の血液を媒介に新たな眷属を招来せんと唸りを上げた。

 

「いいや、残念だがこれで詰みじゃ」

 

 ──そして、いよいよネテロは王手を掛ける。

 突如カオルの背後に出現する巨大な観音像。傲然と佇む黄金の神像を愕然と見上げるカオルは、ネテロが何をしようとしているのかを察し戦慄に身を震わせる。

 

「"霊気放(オーラバー)"……!」

 

 咄嗟にオーラを放出しその場から脱出しようと試みるも、すかさず殺到したモラウの"紫煙機兵隊(ディープパープル)"の人形がそれを抑え込んだ。つい先程は雑兵と切って捨てたそれらが、今の脚が動かぬカオルにとっては厄介な障害物に変わる。

 

「ネテロオオオオオォォォォッ!!!」

 

「"百式観音・零乃掌(ぜろのて)"」

 

 音もなく、敵意もなく、差し伸ばされた観音像の両掌がカオルの全身を優しく包み込んだ。

 常に微笑を絶やさなかった観音の口腔が開かれ、その内に広がる無間の宇宙を露わとする。そして極彩色に煌めく観音の口腔より撃ち放たれるは、ネテロの渾身の全オーラを束ねた光輝くエネルギーの奔流である。

 

 ──打てば爆ぜ、中れば四散の金剛一打。

 ──堅城鉄壁にして残虐苛烈な肉体の頂に到達し。

 

 ……武を謳歌せしめたその依代は齢を重ねる毎に衰え痩せ細り、肉の塊が骨と筋に萎んでいく。

 その姿に全盛を誇った昔の己を見ることは出来ず──されど道断つことなく、武の頂を目指し直走った我が生涯。

 

「感謝するぜ、我が生涯最大の強敵よ」

 

 愚直に我を貫き技を練り……だが本当に己は武の頂に近付けているのかと、疑問に思ったことがないと言えば嘘になる。

 今にして思えば阿呆の極みだ。武の頂、武の究極だと? そんなもの──これっぽっちも近付いていないに決まっている!

 見ろ、この己の十分の一も生きていないような小娘の強大さたるや! 何年何十年と武を学び、深奥に達した己を易々と飛び越えたこの小さな怪物。理不尽なまでの強さを誇るでもなく自然に具える超越者。そんなものと比べられては、やれ最強の念能力者だやれ究極の武人だと褒めそやされてきた自分が恥ずかしくなるというものだ。

 

 上には上がいるという動かし難い事実。ならば、未だ弱者に過ぎぬ己は武の頂には程遠いのだろう。精々が三合目に差し掛かったばかりといったところか。

 だからこそ面白い。これだから武はやめられない。これだけ長きに渡り鍛え続け、それでもまだ終わりが見えぬ武の道(エンドコンテンツ)。生涯堪能し続けられるなんて、武道とは何と贅沢なのだろうか!

 生涯現役!

 生涯挑戦!

 おお素晴らしきかな我が強敵! 今回は独力で勝利することは叶わなかったが、いずれ必ず乗り越えてみせようぞ!

 

「だから──今は眠れ、カオルよ。ほとぼりが冷めたらまた()ろうや」

 

 逃げ場を失くしたカオルへと降り注ぐ極光。無慈悲の咆哮と形容されるネテロ最大最強の奥義、その正体は究極のオーラ操作。生涯を武とオーラの掌握に捧げたネテロである。ことオーラを操ることにかけて右に出る者はいない。"百式観音"がネテロが辿り着いた武の再現ならば、この"零乃掌"こそネテロが到達せし系統を超えたオーラ操作の極致。そのオーラ放出は世の放出系念能力者が足元にも及ばぬ域にある。

 

「ァァァァアアアアアアアア────ッッ!!!」

 

 降り注ぐ灼熱の極光を、カオルは全オーラを防御に費やすことで凌ごうとする。それでも完全には遮断し切れず、液体で構成される肉体の随所が徐々に沸騰し泡立っていく。

 彼女を捕えて離さぬ観音の両掌、これを破壊することさえできれば"零乃掌"から逃れることも可能だろう。だが掌を破壊するために僅かにでも防御を緩めれば忽ち全身を灼き尽くされてしまう。

 ならば──後ろではなく、活路は前にこそ。

 

「『弁財天五弦琵琶(サラスヴァティー・メルトアウト)』ォォォ────ッ!!」

 

 なけなしの魔力を総動員し、カオルは海神の牙を露わとする。溢れ出る万象融解の濁流は降り注ぐ無慈悲の咆哮と鬩ぎ合い、そのエネルギーを簒奪し始めた。

 防ぎ切れぬならば奪い去る。熱波がこの身を灼き尽くす前に呑み下してくれよう。

 

 迸るオーラの奔流と神代の魔力の激流が激突する。その衝突は凄まじい熱量を生み、夜の樹海を真昼のような光で覆い尽くした。

 無窮の武辺者と貪食の魔人が相克する。極光は宝具諸共魔人を灼き尽くさんと猛り、濁流はさせじと氾濫し光を呑む。その激突は果たしてどれ位の時間に及んだか。数分、否、数秒にも満たぬ刹那の鬩ぎ合いは当人たちにとっては数時間にも及ぶ濃密さとなって感じられた。

 

 力尽きるのは同時だった。オーラを吐き尽くした"百式観音"は砂のように崩れ落ち、魔力を絞り尽くした宝具の流水は霞のように消え去った。

 残ったのは空気の抜けた風船のように萎んだ老人が一人と、襤褸と化した衣服を辛うじて身体に巻き付けた満身創痍の少女が一人。

 

「ぜーッ、ひゅーッ……」

 

 息も絶え絶えとなりながら膝をつくネテロの姿は、これが本当に目も眩むような極光で破壊を齎した念能力者の姿なのかと疑わしく思えるほど弱々しい。然もあらん、彼はその身に蓄えていた全てのオーラを吐き出したのだ。オーラとは即ち生命力。ならば"零乃掌"とは命を削る禁術に相違ない。

 オーラが枯渇することは命の残量が尽きることに等しい。ネテロは死に至らぬギリギリを見極めてオーラを捻出し、光弾と化して撃ち放ったのである。オーラ操作に慣熟したネテロならではの禁じ手と言えよう。

 

 そんな虫の息となったネテロの前に、二本の脚でしっかりと立つカオルが立ちはだかった。

 

 シュートの籠は宝具発動の衝撃で破壊された。奪われた太腿を取り返したカオルは動くようになった人ならざる脚を動かし、蹲るネテロへと近づく。

 カオルも到底無事とは言い難い有り様だった。灼熱に晒された全身からは蒸気が上がり、長く美しかった菫色の髪は肩口まで焼け落ちている。魔力で編まれた戦装束を修復する余力すらなく、キメラアントの王の猛攻に晒されても傷一つ付かなかった白銀の具足はその輝きを失っていた。

 

 だが、もう立ち上がることすらできないネテロに対し、未だ僅かにだがオーラを残し立ち上がるカオル。この両者を比べれば勝敗の行方は一目瞭然だった。

 

「……随分と手古摺らせてくれたけど、どうやらここまでのようね」

 

 もはや言葉を紡ぐことすら億劫なほどに体力を消耗したカオルだったが、最後の意地とばかりに二足で立ち、傲然とネテロを見下ろし自らの勝利を告げた。

 

「私が上で、アナタが下よ。人類最強の念能力者アイザック=ネテロ。その命と魂、このメルトリリスが貰い受けるわ」

 

「く、くくく……」

 

 だが、もはや風前の灯火となった筈のネテロは唐突に肩を震わせて笑い出した。この老人に限って恐怖に狂うわけもなく、怪訝に目を眇めたカオルは苛立ち混じりに問いを投げる。

 

「……何が可笑しいのかしら」

 

「これと決めたら一直線の直情思考。目の前の物事に集中できるのは美点だが……根っこの部分はハンター試験で会った頃と変わんねぇなあ」

 

「何を──」

 

「オレとお前の勝負は確かにオレの敗北でお前の勝利だ。だが……この勝負、()()()の勝ちじゃ」

 

 ──信じてたぜ。お前ならオレの零にも耐えるってよ。

 

 そう言ってネテロはカオルを見上げ、瞳を覗き込む。そのとき浮かべられた老人の表情を見て、カオルは背筋に氷柱を突き込まれたような悪寒を覚えた。

 鬼面毒笑。一見好々爺然としたようにも見える笑みは毒を帯びて歪み恐ろし気な牙を見せる。「笑うという行為は本来攻撃的なものであり、獣が牙を剥く行為が原点である」──どこかで聞いたその言葉が真実であるというのなら、確かに今ネテロが浮かべる笑みに潜む攻撃性にも頷ける。

 

 ふと、カオルは自身とネテロとの間に不自然な足跡を見付けた。硝子化した爆心地であるここに余人の入り込む余地はない筈なのに、これはどうしたことか──

 

「あ……」

 

 そういえば、消えたゴンのことを忘れていた。

 "四次元マンション(ハイドアンドシーク)"に逃げた気配はなかったし、結局どこにどうやって消えたのだろう。

 そういえばこの足跡、丁度ゴンやキルアの靴のサイズと一致するような……?

 

 前を見る。不気味に笑むネテロが怖くて目を逸らした。

 左右に視線を走らせる。衝撃で三々五々に散った討伐隊の面々が固唾を呑んでこちらを窺っている。

 もう一度前を見る。拳を構えてこちらを見据えるゴンと目が合った。

 

(ああ──そりゃそうだ。知能の低い海魔じゃ本気で隠れるコイツを見付けられる筈ないわよね)

 

 ゴンの首に腕を回し背負われるカメレオンと人を掛け合わせたような風体のキメラアントを見て全てを察した。このキメラアントの能力ならばカオルに気付かれず姿を晦ませるなど容易かろう。

 

 キメラアント師団長ジェイル、改めメレオロン。その能力は"神の不在証明(パーフェクトプラン)"並びに"神の共犯者"。それぞれ呼吸を止めている間のみ自身の気配を完全に断つ能力と、それを触れた相手にも共有させる能力である。

 息を荒げ恐怖の眼差しでカオルを見るメレオロンと、眦を決し莫大なオーラを右手に充填したゴン。既に王手に掛かっていることを悟り、しかし認めぬとばかりにカオルは咆哮した。

 

「ゴン────!!」

 

「グ────!!!」

 

 既に限界までオーラをつぎ込んだ"硬"を纏うゴンの右拳が、盾代わりに突き出された『螺湮城教本(プレラーティーズ・スペルブック)』を粉砕し突き進む。

 腹部の中心を狙って撃ち出された"ジャジャン拳"。カオルはそれを同じく"硬"で受け止め、最後の力を振り絞って脚を踏ん張り跳ね除けようと足掻いた。

 

 だが如何に"ジャジャン拳"が燃費の悪い技だとしても、ゴンはこの戦いの中で一度しかこの"発"を使っていない。その消耗は最低限であり、もはや並の念能力者程度にしかオーラを残していないカオルと比べれば遥かに余力がある。

 その余力の大部分を費やしたのがこの"ジャジャン拳"である。体力が底を突きオーラが枯渇する一歩手前であろうと、ゴンから見ればカオルは遥か格上の相手。油断など許される筈もなく、ゴンは持てる全てを総動員した最大の一撃をぶつけるのだと覚悟していた。

 

(やっぱりカオルは凄いよ──)

 

 ゴンの右拳に凝縮されたオーラの爆発と比較し、カオルが恃みとする"硬"の何と頼りないことか。だがその頼りない筈の"硬"は"ジャジャン拳"と拮抗し、易々と肉体には届かせない。それは卓越したオーラ操作技術の賜物であり、カオルがただ豊潤なオーラ量に任せただけの猪武者でないことの証左だった。

 同じ"硬"を比べてもゴンとカオルの間にはまだ大きな開きがある。しかし切り札として鍛え"発"にまで昇華させたゴンの"硬"は、手札の一つに過ぎないカオルの"硬"に決して劣るものではなかった。

 

 技術力ではカオルが上回る。しかし込められた覚悟の量はゴンが勝る。ならば勝敗を分かつのは──やはりと言うべきか、使用できる燃料(オーラ)の量の違いだった。

 もしカオルが残されたオーラを十全に使用できたのならば結末は違ったかもしれない。だがカオルには「借り」があった。

 

 カオルの傍らに浮遊するポットクリンがその姿を変化させる。マスコットのように愛らしかった全身は獣毛に覆われ、口は耳まで裂け牙を剥き出しにする。まるで獣とも悪魔ともつかぬ不気味な姿──「トリタテン」へと生まれ変わった。

 それはナックルが貸し付けたオーラ量がカオルの保有オーラ量を上回った証。以て「破産」となったカオルには「三十日間強制的に"絶"の状態となり念能力が使用不能となる」バッドステータスが付与される。

 

 あとほんの僅かな時間があれば"ジャジャン拳"を相殺できたかもしれない。相殺できないまでも受けるダメージを最低限に抑えられたかもしれない。だが強制的に"絶"となったことでオーラが消失し"硬"の防御は消え失せる。

 勝負の世界に「かもしれない」は何の意味も持たない。カオルは防御の術を失い、水月へ剛拳の一撃を食らい吹き飛んだ。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 原作ではゴンに協力を求めたメレオロンだったが、この世界において彼はカイトとヒソカの一行へ助力を頼んだ。

 樹海に犇めく海魔の群れ。生あるものの気配を頼りに襲い来る海魔から必死の逃走を続けたメレオロンは、図らずも原作通りに隠れ潜むことに特化した念能力に目覚めることとなる。

 

 そしてその過程で被捕食者となることの恐怖から前世……人間だった頃の記憶を取り戻したメレオロンは、コルトがネテロたちに降伏を願い出たように、偶然森の中で出会ったカイトとヒソカに助けを求めたのだ。

 

 ──ある人間がオレたちキメラアントを滅ぼそうと樹海に怪物を解き放った。

 ──オレは師団長のジェイ……いや、メレオロンだ。

 ──もう人間と事を構えようなんて思っちゃいねぇ。頼む、何でも協力するからあの人間を何とかしてくれ!

 

 メレオロンの戦闘力は師団長でありながら並の一般兵と変わらぬほど低い。故に自身より格上の存在を嗅ぎ分ける勘に優れ、それがカイトとヒソカが放つ並ならぬ強者の気配を見付ける助けとなった。そして余裕のなかった彼は、相手の人品を度外視して二人に助力を請うた。

 幸いだったのは相手が優れた人格者であるカイトだったこと。そしてヒソカがこの時カオルと戦うことしか頭になかったことだろう。ヒソカは至極どうでもよさげに、カイトは亜人型キメラアントが持つ元人間という来歴に情状酌量の余地を感じメレオロンの申し出を受諾した。……一番の要因は、メレオロンの本来の人格が決して悪性のものではなかったからかもしれないが。

 

 その後の動向は知っての通りである。王の誕生と死を知り、ヒソカの凄絶な最期を見届け──カイトの申し出によりゴンに協力し、その姿をカオルの目から隠し続けたのだ。

 力なき故にコルトが抱いた以上の恐怖を感じていたメレオロンだったが、それでもゴンがカオルの眼前に立ちオーラを溜め切るまでの間息を止め続けることに成功する。

 

「や、やった……のか……?」

 

 恐る恐るゴンの背から降りたメレオロンは、ようやく落ち着いてきた息を整え倒れ伏すカオルを見る。

 

「オレのポットクリンがトリタテンに変わっている。今あいつは確実に"絶"の状態にある……つまり戦闘続行不可能ってことだ」

 

「良くやった、ゴン。トリを飾るに相応しい一撃だった」

 

 ナックルとモラウが歩み寄り、モラウは佇むゴンの肩に手を置き労いの言葉を掛ける。それに曖昧に頷いたゴンは、カオルから目を逸らさずに口を開いた。

 

「モラウさん、キルアは?」

 

「心配いらん。今は気絶してるが命に別状はない。出血こそ派手だったが傷もそこまで深くないしな」

 

「そっか……ねえナックルさん。今カオルは念能力が使えない状態なんだよね?」

 

「あん? だからそうだって言ってんじゃねーか。今あいつは確実に──」

 

「なら、()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 ハッとその言葉を受けた全員が弾かれたようにカオルを見る。刹那、完全に気を失ったかに見えたカオルの目が見開かれ、その身は弾丸のようにゴン目掛けて飛び出した。

 各々が疲労の極致にあった彼らはその不意打ちに反応することができない。鮮血が舞い、ヒールを肩に突き刺したカオルはゴンを押し倒した。

 

「ゴン──!」

 

「動くなッ!!」

 

 カオルは一喝し、突き刺した踵を捻る。ゴンは痛みに顔を歪め、駆け寄ろうとした面々は動きを止めざるを得ない。

 

「嘘だろ……"天上不知唯我独損(ハコワレ)"は確かに発動している筈だ! 破産した状態で念が使えるわけねえのに、何故……!?」

 

「……業腹だけど、その男の言う通り今の私は念を使えない。けど念が使えようが使えまいが関係ない……だって、この鋼の脚こそが私本来の姿なのだから」

 

 槍の穂先のように鋭い爪先は"絶"の状態にありながら鋭利さを失うことなく、右手の中ではゴンに破壊された筈の魔導書が修復を始めていた。

 

「言ったでしょう、私はメルトリリス……変幻自在の流体にして万物を溶かす毒の蜜。この身はそもそも人に非ず。具える鉄のヒール、流水へと変じる異能、全てが念能力に依らぬ生来の力!」

 

「……ッ!」

 

「これが私、メルトリリスという名の災害の正体よ。理解して? 念がなくなったぐらいで、下らない希望は持たないことね」

 

 思いもよらなかったカオルの正体に誰もが言葉もない。

 然もあらん。まさか人の姿をし、人語を解し、念能力を自在に操る少女がその実人間でなかったなど、一体誰が予想できよう。

 

「そういう……ことじゃったか……君は生まれながらの念能力者なのではなく……ゴホッ!」

 

「会長!」

 

 咳込むネテロを支えるノヴ。ネテロは元より、ノヴにもモラウにももはや戦う術は残されていない。ましてやゴンを人質に取られた状態にあっては動きようもなかった。

 この状況を打開できるとするならば、ただ一人。

 

「カオル……」

 

「その名は捨てたわ。いえ、元より私の名前ですらなかった。命が惜しいのなら、余計なことを言って私の不興を買わないことね」

 

「ぐっ……」

 

 カオルは体重を乗せて踵を押し込み、更に深く肩へと刃を突き刺す。生殺与奪の権利は既に彼女の手中にある。少し力を込めて動かせば踵の刃は心臓を切り裂き、ウイルスを侵入させれば忽ちゴンの身体は溶けてしまうだろう。

 それが分からぬゴンではない。だがそれでも少年は語り掛けるのを止めようとはしなかった。

 

「人だとか……人じゃないとかは、どうだっていい。カオルには心がある。なら、カオルは災厄になんてなるべきじゃない!」

 

 ゴンとて死ぬのが怖くないわけではない。しかしそれ以上に友達が光差さぬ道に堕ちようとするのを見過ごすのは、彼にとって自分の死以上に受け入れ難いことだった。

 ゴンにはキメラアントを殲滅した後、カオルが具体的に何をしようとしているのかは分からない。だがある程度の予測はできる。曰く災厄とは人類を滅ぼし得る脅威を秘めた災害の総称であり、特に人類の生存圏に持ち込まれた五つの災厄を五大災厄と称し封じているのだという。禁忌とされG5が秘匿するような災害に名を連ねるということは、即ちカオルが人類そのものと敵対するに等しい。

 

 確かにカオルは尋常でなく強い。多大な消耗を抱えながらも人類最強であるネテロを圧倒した力は世界最強を名乗るに恥じぬものだ。その強大さを知れば、世界はカオルに恐怖し一度は屈するだろう。

 だが人はいつまでも恐怖に背を向けてはいられぬものだ。恐怖と暴力で押さえつけられた人類は、発条が伸縮するかの如くより大きさを増して反発するに違いない。

 

 人類最強を相手にするのと人類全てを相手にするのとでは訳が違う。最強の肉体は朽ちずとも心が死ぬ。

 何故ならゴンは知っている。カオルは確かに厳しい性格をしているし人を殺めるのに躊躇はないが、それでも善の心を知らないわけではないのだ。親身になって自分とキルアの鍛錬に付き合ってくれたあの日々は今も色褪せることなくゴンの記憶にある。他者に心を配る優しさのない者が、仮初であっても友人関係など築くものか。

 

 ゴンは確信する。どれだけ異形の力を持っていようが、カオルには人としての心がある。

 だが、このまま進めばカオルは本当に人の心を捨て去ってしまうだろう。

 

 

 ──"暴力"に生きる者は、"暴力"でしか制することができない……それが道理というものさ♠ ボクに釈迦の有難い説法が意味を成さないのと同じようにね♥

 

 ──キミとカオルは戦うことになるだろう♣️ 己の主義主張を通すために……"暴力"で以てね♦

 

 

 脳裏に木霊するかつて宿敵だった男の声。いつか告げられた予言のような言葉。

 分かっている。今のカオルはゴンがどんな言葉を掛けたところで翻意することはないだろう。それでも翻意させたいと言うならば、まずは「前提」を崩さなければなるまい。

 

 カオルが最強だという「前提」。

 カオルが災厄であるという「前提」。

 これら動かし難い「前提」は、全てカオルが戦いの勝者であることに起因する。

 ならばゴンがすべきことはたった一つ──カオルを敗者に貶め、その「前提」を覆すことだ。

 

 それを実現するためには今のゴンには圧倒的に力が足りない。良し、足りぬならば余所から持ってこよう。

 イメージするのは最強の自分。では最強とは何ぞや?

 幸いイメージする材料には事欠かなかった。カオルとネテロが繰り広げた人ならぬ領域の戦い。神々しいまでの超人技の数々。あれぞ最強の真の姿と讃えるに異を差し挟む余地はない。

 その最強に匹敵する自分をイメージする。こうあったらいいと夢想する自分。いずれ辿り着く自分の最果て。魂の奥底から捻り出したオーラはそのイメージをより強固に組み上げ、肉体を文字通り()()()()()

 

 

 足元で信じられない程のオーラが渦巻くのと、腹部を再度の衝撃が貫くのは全くの同時だった。何が起こったかを理解する間もなくカオルの身体は宙を舞う。

 カオルの異形の脚……銀の具足は彼女の身長の半分以上を占める程に長い。足元に組み敷かれるゴンが手を伸ばしたとて、到底腹部にまで拳を届かせることはできないだろう。ならば一体何が彼女の腹を打ったのか。

 

 答えは紛れもないゴンの腕だった。だがその太さが尋常ではない。まるで太い金属のワイヤーを束ねたような分厚い筋肉に覆われた腕にはエッジが立ち、尋常ならざる新陳代謝を物語っている。

 否、太いのは腕だけではない。ゆっくりと身を起こすゴンの身体はその全体が太く大きく、そしてしなやかだった。

 (くび)太い(デカい)。胸が分厚い(デカい)。否、その肉体は全てが巨大(デカい)。190センチは超えるであろう身長から、その体重はゆうに100キロは超えよう。それでいて軽やかな佇まいは全体の重厚さに見合わぬ敏捷を秘めているであろうことを知らしめる。

 

 まさに巨大。そして重厚。または強靭。あるいは強大。その見事な肉体の存在感を飾る言葉は十では足りるまい。競技者(アスリート)でも格闘家(ファイター)でもなく、その雄を呼び称するならば戦士(ウォリアー)の名が最も相応しい。

 それがゴンであることを、初めの内は誰もが理解できなかった。やがて理解が追いつくにつれ、例外なくその表情は驚愕に彩られる。その鍛え抜かれた肉体の見事さもさることながら、輪郭を陽炎のように歪ませ、伸びるがままにされた髪を重力に逆らわせる程の圧倒的なオーラの渦動たるや。丁寧に練り上げられたが故に帯びる鋭さはネテロに、莫大な量が裏付ける力強さはカオルのそれに匹敵するだろう。

 

「ゴン……なのか……?」

 

 喘ぐように呟くカイト。その額には冷や汗が浮かび、一流の念能力者である彼をして隠せぬ戦慄を物語っている。

 特にネテロの驚愕は一入(ひとしお)だった。何故ならゴンが今見せる肉体に宿る力は全盛期の己に迫る。そしてオーラから感じ取れる技量の程に至っては明確にかつての自分を上回っていた。全盛期の肉体と今の洗練されたオーラ技術を併せればこのゴンが出来上がるだろうか。

 

 だからこそ思う。彼は一体どれだけの──

 

「ゴンッ!」

 

 悲鳴混じりの呼び声はキルアのものだった。爆発的なオーラの高まりで目を覚ました彼は変わり果てたゴンの姿を目の当たりにし、一目でその力を得るに至る犠牲の量を悟った。

 

「お前、一体どれほどの代償を支払った!? どれだけの制約と誓約を課した──!?」

 

 制約と誓約。能力をより高みへと届かせるための発条。その内容が厳しい程に発現する能力は力を増すのだ。

 翻って、ネテロに「全盛期の己と匹敵、あるいは凌駕する」と言わしめたその力。果たして実現するのに如何程の代償を要するのか。

 

「命を懸けた」

 

 ゴンの回答は端的だった。犠牲と(ベット)したのは己の命。理想と思い描き手に入れたこの力、命を代価とする他になく。

 

()()()()()()()()()()()()()。命を懸けて──カオル、君を止めるよ」

 

 浮かべられた微笑みは一点の曇りなく純粋である。友を想う気持ちに濁りはなく、いっそ狂気的と言い換えてよい程に透明な心の発露だった。

 正面に立つカオルの脚は震えていた。迸るオーラの重圧(プレッシャー)に。腹を貫いた拳の重さに。

 

「嘘だ……あり得ない……その力は必要ない、はずだったのに……」

 

「カオル」

 

「どうしてッ!」

 

 歩み寄るゴンから逃れるように後退り、目の前の現実を拒むように首を振った。

 

「どうして……何故そこまでするの!? 自分の命が惜しくないの!? 死ぬのが恐ろしくないの!?」

 

「死ぬのは恐いよ。でも、救えるはずの友達を救えない方がもっと恐い」

 

「友達じゃない!!」

 

 間髪容れずに放たれる拒絶の言葉。殺意すら滲ませてゴンを睨み、カオルは必死になって彼の言葉を否定しようとする。

 ゴンの歩みは止まらない。

 

「私はキルアとは違う! 私はどうしようもない悪で、人ですらない怪物なのよ! そんな化け物が友達なんて──」

 

「大丈夫、カオルは怪物じゃない。これから怪物じゃなくなるんだ」

 

 我が身を見よ。この美しく鋭利で醜い身体を。兵器として設計された躯体は殺戮に特化し、毒を滴らせる踵は魔を帯びて悍ましい。

 ゴンの歩みは止まらない。

 

「オレは今年で十二歳の子供だ。ハンター資格を獲得してまだ一年目の、プロとしても念能力者としても半人前の未熟者。

 ……そんなオレに倒される奴なんかが、怪物なわけないだろう?」

 

「ひ──」

 

「ましてや災厄だなんて、とてもとても……」

 

 ゴンの歩みが止まる。既に両者の間に広がる距離は一メートルもなかった。ゴンが拳を振り下ろせば、カオルが脚を振り上げれば、確実に相手を殺傷できる。そんな殺しの間合い。

 カオルは動かない。否、動けなかった。知らず涙が零れる。上手く歯の根が合わない。何故か脚が震えて動かない。

 何故こんなことになった?

 何故ゴンはここまでする?

 何が彼をここまで追い詰めた──?

 

(ホント……何やってるんだろ、私)

 

 度重なる生命(いのち)簒奪(ドレイン)。累々と詰み上がる罪科。傲然と繰り返される悪業はいつの日か理性の歯止めを壊し、当初の目的を忘れて独走し始めた。

 独走は暴走に姿を変え、暴走したこの身は時を経ず人ならぬ領域を遥かに凌駕し災厄の──否、神の領域にまで足を踏み入れようとした。

 

 その果てに、こんな心優しい少年に命を捨てさせるのか──?

 

 何という矛盾。何という不条理。理不尽に命奪われることを恐れた暴走の末に、己は今罪なき少年の命を理不尽にも溝に捨てようとしている。

 違う、こんな結末を望んでいたわけではなかった──そんな言い訳の何と空虚なことか。

 

 今この瞬間にもゴンの命は加速度的に磨り減っている。己の所業を悔い、少年の命の浪費を瀬戸際にでも食い止めたいのなら、カオルがすべきことはただ一つ。

 静かに拳を受け入れ、地に伏せることだけだ。

 

「ジャン……ケン」

 

 大地を踏み締める剛脚は亀裂を生み、振り被られる剛拳には破滅的な威力が宿る。

 円弧を描いて天から大地へ急降下。加速を得た拳は大地から天へと真っ直ぐに急上昇。これから怪物でなくなる少女を気遣い、狙いは顔を避けてのボディアッパー。

 

「グー」

 

 刹那、少女の身体の中心で衝撃が爆ぜた。

 超大型の灼熱が顕現する。果たしてそれは火薬の炸裂か、火山の噴火か、はたまた恒星の爆縮か。

 

 意識が失われる直前、カオルの内面に生じた回想及び感覚。言葉として表現するならおおよそそんな内容か。

 無論、それは言葉にあらぬ一瞬の心模様。こんな瞬きの内に感じた苦痛(いたみ)が少年の犠牲と釣り合うとは到底思えないが、さて。

 

「おやすみ、カオル」

 

 おやすみ、ゴン。

 どうかアナタの命が、こんな下らない女のために失われませんように──

 

 


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