とある空想の能力活劇(改) 作:SD
「……ああ、………むむむむ、…………うわぁ、……………久々にやってしまったぁ………………」
上方井鶴の一日は、情けない青息吐息とともに始まった。
目覚めは気楽なものだった。あくびをしながらも、井鶴は呑気に枕元の目覚まし時計を手繰り寄せた。井鶴を驚愕させる時刻表示がそこにある事も知らずに。初めは時計を傾けている見ているのかと思い、首をかしげてみたのだが、どうにもおかしい。そして、時計が絶望的な時刻を示しているのだということに、井鶴はようやく気がついた。
頭のエンジンが急速にかかるのを感じ、眠気まなこをこすり身体のスイッチも切り替えようとする。井鶴はがばっと乱暴に布団を跳ね上げ、顔を洗うなどの諸々の行為のために、派手に床板を軋ませながら洗面所に向かう。冷水を顔に感じながら、井鶴はどうしてこうなったのかを考えられずにはいられなかった。
そう、昨晩はかなり疲弊した状態で能力を使用した。確か、多人数に寄ってたかって強請られていた人を助けたのだ。金原佐久間とかいう青年、長点上機の生徒だったか。そこからの記憶が曖昧だ。
─────そうだ、思い出した。
顔に冷水を躊躇いなく叩きつけ、歯を丁寧に撫でるようにして磨きつつ、井鶴はぼんやりとした記憶を辿る。結局余りの疲労でその後、井鶴は意識する間もなく、視界が暗転したのだ。暫くまどろみの中にいた後、目を開けた時にいきなり、
それも当然だ。気絶した少女とそれを抱える青年。人気のない場所である事も相まって、その光景を見るどの人の頭にも、如何わしさと胡散臭さの詰まった想像が溢れただろう。それに、また他の不良達が通りかかるかもしれない可能性も、考えられなくはなかった。
………まあ一番考えられるのは、単純に突然の出来事に金原がパニックになっていたという事だろうか。
巡回中、たまたま通りかかった先生が、不審に思って声をかけた所、金原はかなり安堵した様子で井鶴を託し、去っていったという。井鶴はその時に意識が落ちていたので、実際のところ、大半は先生からのざっくらばんな説明を基にした憶測にあたる。
髪をさっと結び、井鶴はそんな彼の事を脳裏に浮かべながら、疲れが取れきってないその顔に、苦微笑を浮かべた。
昨日がどうであれ、今日ほぼ遅刻が確定したという事実は紛れもなく迫ってきている。
どうすべきかは、井鶴が一番理解していた。
素早く棚から色とりどりの参考書類、数冊大判のノート、並びに能力についての読みかけの論文を、一気に積み上げて。そのままの形で、その全てが入り切るとは到底思えないような薄手の鞄の中に、一気に叩き込んだ。こんな無茶をしても壊れないのは、流石天下の学園都市仕様といった所だが、今はどうでも良いことだった。
玄関まで走っていき、靴べらを使うことなく無造作に足を革靴へ押し込んで、
「行ってきます!」
誰もいない居間に向かってそう叫び、井鶴は玄関の扉を開いた。
学生寮群の隙間は、走るのには至極快適だ。車通りは少なく、大量の学生を収納する為にそびえたそれらの建物が、ナンパをしつこく仕掛けてくる軽薄な青年のような、太陽の粘着質な視線を丁度いい具合に遮ってくれる。五月の朝の空気は梅雨の湿り気を帯び始めてはいるが、まだ春という季節であることを示しているかのように、辺りは暖かさと涼しさが両立したような空気が漂っている。車道のアスファルトの硬い反発を足裏に感じながら、井鶴は真っ直ぐ前を向いて走り続ける。そもそも、革靴というものは走るのには適していないのだが、今の状況で背に腹はかえられない。これが初めてなら、先生に言い訳も通じたんだろうなぁと憂鬱に思いつつ、体力のない井鶴は脇腹を押さえながら懸命に足を動かす。そもそもの話として、井鶴は高校生活が始まったばかりなのにも関わらず、相当な回数の遅刻をしていた。これが続くようならば、コロンブスの卵を筆頭とした悪夢のような補修の数々を受ける事となるのは自明の理で。
走らずにはいられなかった。
学生寮が何棟もそびえる辺りをしばらく走り、ようやく視界の開けた通りの方へ出た。
(次の角を右に曲がって、大通りをしばらく行った角で、─────うん、良し、間に合う!)
遅刻せずに済む見通しが立ったところで、心にある程度のゆとりが生まれた。それが、次の瞬間に起こることの原因となる。
最短経路で角を掠めるようにして曲がる。このまま勢いをつけて走り抜けようと、そう井鶴が急いで思ったか否か、別の方向から駆けてきた誰かと衝突した。その拍子に、歩道と車道の段差に躓いて、両腕を投げ出すような形で井鶴は倒れた。当然、鞄も手を離れて飛んでいき、車道を撫ぜるのが目に入るのと共に、鞄の表面の削れる嫌な音が聞こえた。詰めていた物が飛び出さなかったのは、不幸中の幸いだった。
何故か、井鶴は違和感を覚えていた。腹から落ちたのだが、硬い地面に叩きつけられたのであれば、もう少し、こう、内臓をかき回されたような気持ち悪さや悪寒が襲ってきてもおかしくはない。しかし、一向にそのような手応えは感じられない。寧ろ、人肌の残った布団の上に飛び込んだような柔らかさのような何かを感じていた。
何となく、嫌な予感がした。
恐る恐る、体を起こしてみたときに、井鶴は状況を把握した。
現在進行形で、倒れている人の上に被さっていた、ということを。
「─────っ、うわっ、うわっ」
動揺してまともに声が出ていないことにも気付かずに、井鶴はさっと体を起こした。
「だ、大丈夫ですか⁈」
井鶴に押しつぶされていた人物は、うぅ、と曇った声を絞り出して、それからうつ伏せになったまま、
「目覚まし時計が壊れてたせいで寝坊して、すぐに飛び出したのは良かったものの、階段を全速力で駆け下りたら足を滑らせてすっ転んで、それでも気合い入れて走って間に合わせようと思ったら、今度は曲がり角で女の子とぶつかるって、…………なんつーか、地味に不幸だ」
と、どんよりとした調子で呟いていた。
井鶴が声をかけているのには気づいていないようで、倒れている青年はブツブツと泣き言を吐露している。
「あ、あの」
恐る恐る、もう一度声を掛けたところ、今度は届いたようで、ガバッと立ち上がって青年はこちらの方に向かい直った。
「あ、ああ、俺は大丈夫だ。ってそんなことよりそっちは怪我とかしてないか?」
「言っていいかわからないんですけど、クッションになって下さったお陰で、心配するには及びません」
それは良かった、とばかりに青年はホッと胸をなで下ろした。そして、辺りに目を巡らせて、
「鞄は、─────────って冷静に考えてそんな都合のいい事は無いデスヨネー、ハイ」
転がっていってしまっただけで済んだ井鶴とは引き換えに、青年の鞄は大口を開けて無様に鎮座しており、その四方にはプリント類が散らかっていたり、テキストが折れ曲がって落ちていたりして、酷い有様だった。
自分の鞄を拾って表面を軽く払ったのち、井鶴はちらりと青年の方を見た。
風に飛ばされたプリントを追いかける哀れな青年が視界に捉えられた。ここで突っ立っているのも何だし、歩き去って行くのも薄情な気がしたので、井鶴は辺りに散乱している物を拾うのを手伝うことにした。割と近くで学校の始業のチャイムが鳴り響いたような気がした。が、ぶつかった時点で間に合う望みは断たれたのだ、と諦めた井鶴には、もはや気になるようなことでもなかった。
数分ほどして、全てのプリントが集まったらしく、井鶴が集めて手渡した紙の束をざっと確認し、青年は朝から疲れ切った笑いを浮かべ、ようやくほうっと一息ついた。そして、井鶴の方に向き直り、
「その、悪かった! おまけに拾うのも手伝って貰っちゃって申し訳ない!」
「大丈夫ですよ、このぐらい」
手を後頭部に添えて、
本音は言えなかったし、表情にも出せなかった。実のところ初めは、倫理と常識由来のちょっとした気まずさから手伝っているつもりだった。けれども、彼の口から次々と飛び出してきた、珍事もとい不幸な出来事の数々を聞いていくうちに、井鶴はこの青年に心の底から同情していたのだった。
そして、その心情が悟られると、青年はより一層惨めな気分になってしまうのではないか。そう思うと、井鶴はニコニコと、若干不自然にも捉えられてしまうような笑いを保ち続けてしまうのだった。
しばしの沈黙が、緩やかに二人の間を通り過ぎていく。
「………………名前訊いてなかったな」
「………
「あのー、上方。本当に大丈夫だったのか?」
「……私は大丈夫ですよ、私は。それよりも」
「それよりも?」
「その、時間大丈夫なんですか」
すると、目の前の青年は、どこか遠い目をして、
「あー、残念なコトにさっきチャイム鳴ってるの聞こえたから、諦めてます」
「………私も同じです」
そんな具合に会話をしていた二人だったが、まさかこのまま学校へ行かない訳にもいかないので、どんよりとしたムードを醸し出しながら歩き始めることにした。
歩く方向が全く変わらず、同じ高校に通っているのが判明したのは数分後。世界というのは思っている以上に狭いものなのではないか、と思いながらふと、井鶴は口を開いた。
「そういえば、名前、なんていうんですか」
「そーいや言ってなかったな。俺は二年の
「改めまして、一年の
昨日からよく非日常的なことに遭い続けているなー、とどことなく思考放棄しながら井鶴は上条から差し出された右手に応じて、握手を交わした。
(まあ、こういうのも悪くはないかな)
いろいろな人と縁があるのもまた人生の醍醐味だ、と思うことにすると、昨日から今日に至るまでのちょっとしたツイてない一連の流れにも、意味はあったのかな、と思うことが出来て。
心なしか井鶴は溜まっていた疲れが和らいだような気がした。
昇降口で別れる際、井鶴はふと、気になっていたことを質問することにした。
「一つ訊きたかったんですけど」
なんだなんだ、という具合に立ち止まってこちらの方に向いた上条に、井鶴はしばらく躊躇ったのち、言った。
「その頭、寝癖なんですか」