救いようもないけれど、けれど何か答えを得るまでの男の話。
時系列的にはオスカーと出会うより更に前です。

pixivともマルチ投稿しております。

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縦書き設定を意識した配置ですので、強く推奨させていただきます。


「夫婦と自動手記人形」

 

 

 後悔しています。

 貴方の笑顔をしっかりと見られなかったこと。

 その原因が、自分にあること。

 思う度に胸が重くなって、言葉にも上手く出せません。

 だから、せめて。

 私は笑っていたいのです。

 例え貴方の沈んだ海の底に、光が届かなくとも。

 心にだけでも、美しい明かりを灯していたいから。

 

 

 

 彼等の家は、近くの街からは大きく外れた場所に位置している。

 目立った産業はないのだが、海上貿易で仄かに賑わい始めた。そういう港街である。

 特色は何と言っても、国籍を問わない様々な船や物が見られる所だ。人々の目を飽きさせない多様な意匠の船もそうであるし、露店が取り扱う見慣れない品物などもそうである。

 

 貿易を行っている街など幾らでもあるはずなのだが、中でも一番国際色豊かな街となれた所以。それはやはり、他国との国境付近に位置する地理的条件の影響が強いのだろう。

 観光地とはいえないものの、この街の店を注意深く見ると面白い貿易品がよく見つかる。それだけの為に旅行の帰りに寄って、可笑しな物を買っては土産代わり、なんて事はよくある話だ。

 周りを囲う山も四季に合わせて様々な色を見せるのも有り、見た目や人の数以上に賑やかで鮮やかに映るのが特徴である。

 喧騒の街の外れに、彼等は居るということになる。

 一口に言っても、未開拓と呼ばれる段階に有るような山の中。傾斜の激しい山道を進んでいると、木々の隙間から不思議な息遣いの見える家が突然現れる。

 彼の妻の要望で作られた白いアーチに、誰も来ないはずなのに妙に綺麗な赤煉瓦の屋根。民家と言い切るには大きさと間取りが大きいのだが、屋敷と言われるとそれもまた違う。大きいとも小さいとも言い難い家だ。

 庭の草木に目を向けると、心ある人物が手を加えている気配がする。加えている割にそこまで整っていない辺りを見ると、どうやら関心自体は薄いらしい。

 植えられているのは可愛らしい花を咲かせるものばかりで、粗の多い手入れが悪目立ちして少し不格好に見える。

 そこに、じょうろを持って水をやる栗毛色の髪の男が一人。姓をオーランド、かの『自動手記人形』の開発者だ。

 『自動手記人形』とは失明してしまった妻であるモリーの小説活動の為だけに作られた機械人形の事である。機械人形の権威であった彼に作られた、肉声の言葉から「代筆」を行う人形。

 今では貸出する企業が生まれる程にまで使われるようになった有名な発明である。

 しかし、彼の見た目というのはとてもそういう人物には見えない。

 歳のせいか皺が少しだけ見え始めたものの、それでも見るものを翻弄する端正な面立ち。若葉の雫のような緑の眼は気怠げに輝き、右目の下の泣き黒子は道行く女性に無作為な誘惑をしたこと数知れず。

 その整った顔立ちに比べると着ている白いシャツは皺が目立ち、ベルトは意味がないくらいに緩めに締められていて、一言で言うならだらしがない。

 どうやらこの水やりも面倒らしい。手の振り方はあまりに適当で、水が均等に行き渡っているとは思えない。

 妻に頼み込まれてしているのだから、実際面倒には違いなかった。

 彼は顔に反して無愛想で言葉選びがとても雑な男だ。モリーにもそこは変わらないから勘違いされがちなのだが、面倒事でも聞いてやるのは彼女だけである。

 この家の意匠は彼女の趣味だし、今水をやっている花の種類だってそうだ。欲しがれば熟慮はさせるが買ってしまうし、やってほしいと言われれば溜息を付きつつもやってしまう。

 失明後の衰弱していく彼女を近くで見ていたからなのだろう。自動手記人形を手にして再びその明るさを取り戻したモリーをひたすら甘やかした。

――我儘を言う内にやってやらなくては、言わなくなった時に後悔する。

 彼なりに学んだことから来る優しさだ。人形を触る時は器用なくせに、こういう事になると途端に不器用。モリーが彼を好きになったのはここにあるのだろうか。

 じょうろの水が尽きかけた頃。突然に家のブザーが鳴った。

――来たな。モリーも変なものを注文してくるものだ。

 何故見ても居ないのに注文の品と分かるかと言えば、ここに郵便以外が来ることなんて天が引っ繰り返ろうともないからだ。

 オーランド夫妻は有名にはなったが新聞取材を全て断っていた。表舞台から敢えて姿を消したのだからここを殆どの人間が知るわけがないのは当然だ。

――面倒だな、人と会うのは。

 言葉を飲み込んで、じょうろを花のすぐ横に置いた。

「待ってくれ! すぐに向かう!」

 返事はなかったが聞こえているだろう、と断定して玄関に向かう。

 モリーの注文というのは本当に変な物だった。彼の発明と役割どころか名前も被っていて、非常に紛らわしい職業婦人である。

 モリーが笑いながら

『貴方の発明の名を冠した、彼女達の仕事ぶりに触れてみたいわ!』

 と提案してくるものだから、不思議な顔をしながら承諾してしまった。

 別に邪魔にはならないだろうし、モリーがあまりにも興味津々に言うものだから根負けしたらしい。

――私は正直、彼女達に興味など無いのだが。

 トロリーバッグを持つ来客の容姿を見るなり、そんな無関心は消え去った。

「本物の人形みたいだな…………」

 近づくと見えてくるその姿に、風にさらわれそうな小さな声で呟く。

 確かにその姿は人形である。

 日差しを吸って煌めくそれはまさしく金糸の髪。一束に値でも付きかねない柔らかい編み込み、その終わりにはダークレッドのリボンがはためく。

 遠目でも見えた白く細い体付きは、スノーホワイトのリボンタイワンピース・ドレスで淑やかに飾り付けられている。

 加えて着込んだプルシアンブルーのジャケット。これが女の白さと、物静かな雰囲気を確固たるものに変えている。

 シルクのプリーツが入ったスカートは僅かな風に清楚に揺れ、胸元のエメラルドの大きなブローチがいよいよその女の非現実味を強めている。

 瞳はまるで大海の美しさだけを切り取ったような碧眼に、艶やかなルージュが引かれた唇。その美に欠ける所などまさしく無い。

 女性に大して興味のない彼ですら息を呑んだ。絵画の中に入っていってしまいそうなその美しさの前では、生来の関心の有り無しなど意味がない。

――違う、出迎えをするのだろう。鑑賞は何時でも出来る、じゃなくて落ち着け。自動手記人形は鑑賞するものではないぞ、私は馬鹿か。

 色々な言葉が頭で周りながらも何とか平常心を胸に刻みつける。

「お前が自動手記人形だな?」

 扉を開きながら、いつもの不躾な言葉遣いで尋ねた。

 出会った誰もが顔を顰めるこの第一声。形が違えど相手の反応は変わらないから、今回も彼は同じ反応を期待していた。

 なのにこの人形じみた女は、整った顔立ちをまるで崩さない。

――むしろ気味が悪い。言葉通りの人形のようだ。

「はい。お客様がお望みならばどこでも駆けつけます。自動手記人形サービス、ヴァイオレット・エヴァーガーデンです」

 玲瓏な声とともに、丁寧な仕草の礼が添えられた。声の残響を味わいながら、彼はわずかに眉を上げた。

――本当に何処を見ても評価が落とせない。

 見惚れてしまっていたが、女性への興味が薄いのが幸いだった。

 嘆息しそうな思いもねじ伏せて、その美貌から踵を返して家に歩き始める。

「長い紹介だが、まあ良い」

 ついて来いという意味だと解釈したらしく、ヴァイオレットは彼の数歩後をついていく。

「お前のお客様とやらは中にいる。私ではない」

「そうでしたか。申し訳ございません」

「謝る所じゃない、私は何も言わなかったからな」

 初対面と思えない無愛想な喋り方にも、彼女の声色はまるで揺らがない。

――本当に人形じゃないだろうな?

 顔だけ後ろに向けて女を見てみるが、当然ながら人間である。

 だが、ココアブラウンの革のロングブーツが道を踏みしめる音を聞くたびに、何だかそれが調律されたもののように聞こえてしまう。

「ですが、人違いには変わりありません」

 向けられた碧眼が眩しく見えた。目をすぐに逸らす。

――調子の狂う予感がする。直感などあてに出来ないと思っていたが。

 顔には出さなかったものの、辟易とした雰囲気になった。勝手な憶測で勝手に不機嫌になって、後ろから見ればどれだけ阿呆に映るのだろう。

 ヴァイオレットはそんな自己嫌悪気味の男の背中を、じっと見つめてついて行く。

 

 

「お前、埃っぽいと駄目な体質じゃないか?」

「いえ、お気遣いなく」

 返答は短かった。

 汚いとはいえないけれど、だらしなさそうな男が掃除している姿が浮かぶ程には埃が目立つ。それくらいの玄関だ。

 久しぶりに人を家に入れたからか、彼は後ろを見ながらその表情を確認してしまう。ヴァイオレットは眉一つ動かしはしない。

 小さく気の抜ける感覚を振り払いさっさと通路を歩く。

 そして突き当たりにある部屋の扉を何の躊躇もなしに開いた。

「モリー、来たぞ」

 少しだけ緩んだ声で奥にいる女性に話しかける。

「そして彼女は言ってのけた……あら」

 モリーは言葉を止めて、不思議なタイプ音を響かせる人形の動きを止めて振り向く。

 胸元まで有る漆色の髪は彼と同様に波打っており、白い髪留めで一つに括られている。髪留めが主張しすぎないからか、髪が黒く光沢を放つのがよく映える。

 白いワンピースの上から赤いカーディガンを袖に手を通さずに着込むそのシルエットからでも、体つきが細くて華奢であるのが垣間見える。ちらりと覗く白い足や手が簡単に折れてしまいそうなくらい細いからであろう。

 瞳は花が咲いたようにも見える美しいココナッツブラウンの色。けれどオーランドを見ているはずなのに、何も映していないかのように瞳には虚無が見え隠れしている。

 言葉の意味を理解したのか、手を合わせてはしゃいだままにモリーが目を輝かせた。

「自動手記人形ね! どんな見た目なのかしら!」

 弾むような口調で尋ねかけてくる。ヴァイオレットにはどう見えるだろうかと振り向いてみるが、やはり大きな反応がない。

――つくづく人形だな。本気なのか顔に出ないだけなのか。

 訝しみながらもヴァイオレットを前に出るように促す。

 彼女は従って前に一歩踏み出した後、スカートの裾をつまみながら整った仕草で礼をする。

「お客様がお望みならばどこでも駆けつけます。自動手記人形サービス、ヴァイオレット・エヴァーガーデンです」

 彼に対するものと同じ言葉を、オルゴールでも鳴らすように同じ声で響かせた。仕草も機械のように見えてきて、いよいよ本当に機械なのかを疑ってしまう。

「美しい声だわ! 彼女は容姿もさぞ美しいのでしょう、私には分かります!」

 弾むどころか飛び跳ねそうな勢いで、モリーは早口に捲し立てた。

――仕方ない。したくはないが、言わねば文句の一つでも飛んできかねない。

 大きな溜息を付いて、ゆっくりと口を開く。

「…………眼は碧眼で、髪は金。髪型は編み込みで赤いリボンだな、来ているのは白い……まあ、高そうなワンピースだ」

「上から青いジャケットを着ているな、スカートも白いぞ。後、エメラルドの大きなブローチが胸元で輝いている」

「想像しやすく言うなら高級な人形。御伽噺から飛び出してきたのか、お前」

 恥ずかしげもなく「美しい」という文面を喋った後に、ヴァイオレットの眼を見つめる。

「恐らく物語から生まれた訳ではないと聞いております」

 蒼い瞳は揺らがない。

「ああ、それはそうだろうな……」

――聞いたことが有ったんだな。

 的外れな返答に頭を掻いて困惑するのを他所に、モリーが目を輝かせたまま彼の顔を見る。やはり何処か焦点が合っていない。

「それは素晴らしいわ、私の予想とぴったり合っているもの!」

 そう言っては騒ぎっぱなしのモリーを横目に、彼はヴァイオレットの顔色を観察する。

――おかしい。気づいていないという訳でも無さそうだが。

 この奇妙な会話を指摘しない人間というのは、大抵苦笑いや動揺したりしながら目を合わせない。

 しかし彼女は全くそんな様子もなく彼を見つめるから、逆に不審に思えてしまう。

「気にならないのか? 目の前の女が言っている事は意味不明だと思うが」

 とうとう問いかけた。モリーはあまりな言い方に不満そうではあるが、子供じみたむくれ方を見るには慣れているようだ。

 表情も薄いままに、少女の口がゆっくりと返答を紡ぎ始めた。

「……自動手記人形に、モリー・オーランドという奥様の名前」

 淡々として、まるで朗読を聞いているような心地がする声だった。

 資料を読んでもらえたなら、彼だって普段の三日は長く内容を覚えていられそうなくらい。

「失礼ながら、旦那様は機械人形の権威であるオーランド博士――ということでよろしいでしょうか?」

 声が終わる。尋ねるのではなく、それは確認だった。

――これまで気付かなかったのが不思議だ。名前はちゃんと書いたはずだが。

 意外と抜けてるんじゃないか、と疑りながら小さく鼻を鳴らす。

「そうだ。愛の発明家なんて渾名がついているのは私、オーランド博士であり」

 モリーが言葉を挟み込む。

「妻のモリーは私よ!」

 横入りしてきた妻を咎めるように見つめて頭を掻く。

 二人の声の調子があんまり違ったからだろうか、ヴァイオレットは二人を交互に見ては少し不思議そうな顔をした。

 

 

 それからというもの、モリーによる事情聴取が続いていた。

 彼もその内容に興味が無いとはいえず、横で話を聞こうとしていたのだが

『ヴァイオレットが喋りにくいわ』

 というあんまりな理由でモリーに部屋から締め出されてしまったのである。

――予想してはいたが、他人が居る家は居心地が悪いな。

 二階の書庫に篭ったものの、内心は暗い何かが充満し始めていた。書庫も日当たりの関係で少し薄暗いから、気分は重くなるのも道理である。

 ヴァイオレット・エヴァーガーデン。彼女はどうやら彼とモリーの時間を奪うような存在らしい。

 モリー自身が好奇心が強いのもある。だがそれ以上に、あの女は人の目を奪うような奇妙な魅力に包まれた魔性である。

 自分だって興味を引いたのだから、これは相当なものだと彼は踏んでいる。

――しかも依頼は手紙一通と来た。一週間もむしろ何を拘束する気なのだという話じゃないか。

 予想では代筆以外でもヴァイオレットは振り回されるのだろうと思う。

 付き合うようには見えないが、しかしヴァイオレットだって後の予定が有る。変に此処を離れても手持ち無沙汰には違いない。

――にしても、本当に手紙を書く気があるのだろうか。

 首を降って考えを振り払うが、理由は有る。確かに彼は不信感が強い性格では有るが、そこにはそれなりの根拠を持つ男だ。

 例えば今回の手紙は誰宛てなのかをはぐらかされたことや、最近のモリーの態度がぎこちないことが挙げられる。

 考えすぎと言えばそうかもしれないが、彼は自分が人好きされない性格である事を理解している。神経質になってしまうのは妥当だった。

――私の相手ばかりで面倒だから召使い代わりに呼んだ?

 いやいやまさか、とまた首を振る。疑ってしまう自分には嫌気が差してしまう。

 そういう女性ではないはずだと、自分が一番分かっているのに。

「…………はぁ」

 そんなことばかり考えて研究書はまるで読み進められなかった。

 本を閉じてしまうと、階段を下ってリビングへ向かう。こうなるとどうしようもないのは経験則で分かっていた。

 リビングは日当たりが良い場所なのだが、差し込む光は茜色。リビングを見渡してから、漸く今は夕方なのだと気づく。

――やはり調子が狂った。いや、ヴァイオレットのせいとも言えないのだが。

 少し肌寒さも含み始めた風に彼は身震いしそうになる。幾つも有る窓が大きく開いていて、どうやら其処から入り込んだ風らしい。

 彼はいつも通りに湯を沸かす時、ふとキッチンを眺める。

――使ってない。二人共出てきてないのか?

 どうやら書斎から出てきてないらしいのは、他の何処からも使った痕跡が見つからなかった事から確認が取れた。

 ヴァイオレットは飲食しない姿が想像できてしまうのだが、モリーとなるとそう思えない。

 大病こそ眼を除けば患ったことがないが、体は強くない。青褪めた顔を思い出しては書斎の扉をちらちらと見てしまう彼を誰も心配性とは責めれない。

 勿論倒れていればヴァイオレットも対処をするだろうし、何も言わないなんて事は有り得ない。杞憂と笑われても仕方ないと彼自身も思う。

「…………長いな」

 頼りなさ気な声は、しんと静まった朱い壁に吸い込まれる。その方が都合が良い。

 この心配性というのは何に限らず共通していることだ。発明であっても変わらない。

 自分の計画にも疑ってかかるものだから、周りが過剰だと笑っても計算と推測を辞めない。交友関係がほぼ皆無に等しいのも、この「やり過ぎ」の気味悪さと無愛想さが原因だ。

 自動手記人形も同じようなやり方だった。完璧な設計図としか言いようがなくとも、試作を取り掛かるまでは長い精査を行っている。

『使って分かる問題も有る? それはそうだが、使わないから見える問題が無い理由は?』

 訝しむ同僚に苦言を呈した。

 さぞ周りに奇妙に写ったことだろう。だが、だから自動手記人形は発表後すぐに生産に移れた部分が有る。

 普及するような偉業に一番重要なのは、『如何にその偉業を知らしめられるか』という所だということだ。

――だが、そんなもの。私の求めるものに関係がない。

「勝手に助かったと思って、勝手に私を決めつける。人間は嫌いだ」

 気づけば天井を眺めて悪態をついていた。

 その奇抜とも取れる感性は同時に人への強烈な嫌悪感を生み出す要因ともなった。

 彼が研究馬鹿になった原因は素養の偏りも有ったが、人嫌いであった所も大きい。

――人間関係は中々上手くも行かなければ、その苦労に見合った結果もない。

 研究はまだマシだった。誤解とか、偏見に塗れたものは苦手だ。

 姿を見て、女好きだと誤解されたことが有る。

 仕事を見て、奇人だと偏見の目を向けられたことが有る。

 態度を見て、自分を嫌っているのだと断定されたことが有る。

 全て、全てが不快だった。

――私は見ただけで全て理解される程度の人間か? お前は見ただけで全て理解できる人間なのか?

 違う。そう思いたいだけだ。自分が出来ないことを出来るから僻みたい、都合の良い男が欲しい、嫌っているから相手も嫌っていて欲しい。

 そんな事を考える内に、彼は人に時間を使うことを惜しむようになった。さりげない気遣いのできる男であったのにそれも辞めた。

――人は都合の良い事しか見ない。相手を定義して、定義した通りでないものから目を塞ぐ。

 普通は流せることが流せなかったのだ。それも、恐らく物事の見方の違いのせい。

「……旦那様?」

 気づけば女がそこに居る。

 気分の悪くなってきていた所に、他人が。ヴァイオレットがやってきた。無愛想な顔で声の主を見つめる。

 その金糸の髪はまるで作り物で、その美しい碧の瞳はまるで宝石。人形という評価は酷く妥当に見えてくる。

――人形のようでも、所詮人間。

 偏見には慣れていて、誤解されるのは得意分野。

――どうせお前だってそれは変わるまい。

「何だ? モリーはどうした?」

 何処か刺々しくも聞こえる声で尋ねる。

「最初は私に質問ばかりされていましたが、今は寝ていらっしゃいます」

 ヴァイオレットの返答は抑揚に乏しいというよりは、感情に欠けるものだと彼は評価する。

――抑揚をつけてもまだ足りない。何か重要なものを持っていない。

 その奥底について思いを馳せながら尋ねる。

「何か飲むか?」

 気を遣ったというよりはモリーと居る時の反射的な行動だった。

「お気遣いなく」

 相変わらずの玲瓏な声が響く。長く時間を過ごした訳でもないのに、本当に出さなくても気にしないという奇妙な確信が生まれる。

「なら、私と同じ銘柄だ」

 問題は彼自身が一人だけ飲む事に抵抗が有ることだろう。

 

 

「モリーは起こすなよ」

 飲み終えたカップを静かに置く。口調とは裏腹に、その所作は面倒事でなければ丁寧だ。

「何故でしょうか」

「お前の前では気丈に振る舞ったかもしれないが、体が強くない。はしゃぎ過ぎて熱でも出されたら困る」

――さすがにそれだけで熱は出さないが。

 適当な誤魔化しだった。そうでも言わなければ起こすだろうし、モリーにヴァイオレットが拘束され続けるのは見えていた。

――私だって全く興味が無いわけではない。

「承知しました」

 あっさりと承諾する。彼は不審そうに顔を顰める。

「……取ってつけたような理由だとは思わないのか?」

「そうなのですか?」

「いや、半分は本当だが」

――聞かれて正直に答える男が何人居る。私は答えるにしてもだ。

 訝しむどころか素直な様子に、段々と心配すら覚え始める。

「お前、もっと私を疑うべきじゃないか? 妻が居るとは言え、男が女と二人きりで喋ろうとするなんておかしいだろう」

 その言葉が予想外だったのだろうか、ヴァイオレットは急に彼の顔を見つめて問いかける。

「旦那様は私に興味が無いのだと思っていましたが、違うのですか?」

――それはそうだ。確かに女自体には興味はないが、そういう問題かこれは。

 顔が引き攣り始める。相当重症らしいということを漸く察してきたらしい。

「私はそうだ。そうだが、もっと人を疑って然るべきだ。お前ぐらいの顔なら突然変な気を起こす輩も居ただろう」

「しかし旦那様がそういう方であるとは思えません」

「何故そこまで私を信用する……」

 特に取り繕っている様子も見えないのが混乱を加速させていく。

――なんなんだこの女、いや少女か。私を全面的に信頼し過ぎではないか?

 彼の妙に整った顔つきに騙されているのでもなく、その無愛想さを深読みしているという様子でもない。

 単純に「善である」と信じてやまないような言い草だ。

「何故…………何故、でしょうか」

「分からないのか……?」

 何やら難しい顔をしながらヴァイオレットが小さく肯くと、いよいよ呆れたように肩を竦めて溜息を付いた。

――どんな人生を送ってきたんだ。男は狼だなんて何処かで言っていた気がするが、これは私の記憶違いか?

 世間に疎い彼はどんどん自分の認識を疑いだしてしまう。

「人を見る目に自信があるのか?」

「いえ、むしろ見る目はないのではないでしょうか」

「世間の私への印象に騙されてないか?」

「どんな印象なのですか? 私は名前以外を多くは存じ上げていないのですが……」

――即答しかしないじゃないか。

 苛つきに任せて、最後には投げるような口調になってしまう。

「なら、今まで会った誰かに似ているんじゃないか?」

 其処でヴァイオレットの瞳が少しだけ見開かれた。どうやら思い当たる節があるらしい。

 僅かな表情の変化だったが、感心したような顔つきで彼を見つめる。

「最初に疑うのは其処だろう、お前…………」

――相当奇妙な人間関係だな。らしいと言えばそうだが。

 らしいという言葉に、自分のものながら顔を歪める。らしいも何も、出会って数時間だったことを思い出したのだ。

 ヴァイオレットの唇が動き出すと同時に、彼の神経が少しだけ研ぎ澄まされる。

「そう、かもしれません」

 言葉は心細けで、瞳は何処を見ているのか分からない。恐らく自分のカップは見ていなかった。

 その様子を見ている内に、段々と何かに突き動かされるように続けざまに尋ねてしまう。

――これが魔性だと言うんだ。何だか無性に探りたくなる。

「どんな奴なんだ? 私に似ているとなると、相当変わり者だろう?」

 ヴァイオレットは顔を上げる。

 未だに不安げな表情を浮かべている彼女を見ても、彼には理由がどうしても掴みかねた。

「……どんな方、だったのでしょうか」

 ヴァイオレットは彼のエメラルドの瞳を見つめる。僅かに揺れたその蒼い瞳は、彼がモリーに出会った時の輝きに似ていた。

――なるほど。それは、まあ当然気を許してしまうのだろうな。

 長らく会ってないことも口振りで分かったらしく、静かに目を閉じた。

「本人には言わないことだな。面倒事が増えそうだ」

――まあ、私がその男と会うことなど無いだろうがな。

 再び瞼を上げると子供のようだったヴァイオレットの姿はもういない。出会った時と同じ、表情に乏しい人形のような女が佇むだけ。

 だがその幼い面影は随所に残っているように思えて、肩に入っていた妙な緊張感はない。

 彼の中での印象は大きく変化した。勿論、悪くない方向性に。

「何故ですか」

「全部が全部、言葉にしなければならない訳でもない」

 立ち上がって二つのカップを手に取った。一緒に立ち上がろうとするヴァイオレットを制して、静かに運んでいく。

 ふと振り向くとヴァイオレットは不思議そうにこちらを眺めている。彼は仕方なさげに息を吐いて答える。

「……まあ私とその男とは無関係だ。それは忘れるな」

「何故、男性を指していると分かるのですか?」

 結局立ち上がってついてきたヴァイオレットにさっきよりも大きな溜息が零れた。

――また子供が増えたな、あっちの大きな子供で手一杯なんだが。

 

 

 そして奇妙な自動手記人形と彼等の短い生活が始まった。

 彼の杞憂は杞憂で終わるものだったらしく、次の日から手紙の代筆は始まった。

 書斎に篭った時には、少し耳を澄ますとモリーの声とタイプライターの機械音。入るなと言われたのにひっそりと気落ちはしたものの、困ることもないので諦めた。

 手紙を書かない時はやはりモリーはヴァイオレットを振り回す。

 例えば家を見せたり、外に出たり、巡った美しい風景の話をさせてみたり。普段はしないような事を多くした。

 どんどん聞いてほしいとモリーが言ったのに任せてヴァイオレットも時々質問をして、それに応えたりもする。

 昼は外嫌いの彼も引き連れて、仕立て屋、惣菜屋、詳細不明な怪しい露店。転々と回ってはヴァイオレットに尋ねかけ、駄目ならば仕方なしに彼に尋ねて。

――職務と全く関係ないな。これは。

 外に出る毎にそれを思い出すが、ヴァイオレットはまるで嫌がる様子はない。

 気づかぬ内に仲を深めたらしい二人に僅かながら嫉妬したりもする。

「次のお店を周りましょう!」

 と機嫌の良いモリーに

「人が多いのでお気をつけ下さい」

 と言って先導するヴァイオレット。普段は彼の仕事だから立場のない気分を味合わされた。

 帰ってくれば、三人揃って休憩しながらモリーが質問攻めにして、その内また書斎に篭って手紙を書く。こういう日がしばらく続いた。

 最近は嫌がっていたが、モリーが無理に食事も同伴させるようになった。ヴァイオレットは彼の料理を見てみたいと自分から言うようになった。

 朝の挨拶に、昼の外出の呼びかけに、夜の代筆の要請に。

 全てに諾々と付き従うヴァイオレットを見ては、偶に娘か何かと勘違いしそうになる。

――私達の間にあんな美しい娘は生まれないだろうな。

 気づけば大事なものを横取りされたような息苦しさは無くなっていて、また別の感情を抱えだす生活になっていき。

 それは、もう五日間は続いていた。

 

 

 六日目。彼は郵便受けを開いては、いつも通りに何もないことを確認した。

 以前からやっていたことだ。どうせ開くからとモリー宛てに届く手紙もすぐ開いてしまう。

 恐らくモリーは知らない。そんな事まで気にしないし、確認する時間にはモリーはまだ寝ているのだ。

――今日は機械人形を見たいと言われていたな。

 ふと扉を開く時に思い出す。

 ヴァイオレットに頼まれているらしい。何でも彼を見ている内に興味が出てきたのだとか。

――そんな面白い人間でもないがな、私は。

 いつもなら断るだろう頼みを、渋りはしたが承知していたのだ。

 何だかんだ気に入ったらしい。

 

 

 二階に在る彼の部屋は、第一印象と喋った印象。どちらに比べてもかなり小奇麗に纏まっている。

 書庫が有るというのに革の装丁の厚い本は此処でも並んでいる。本棚のすぐ横のショーケースには幾つかのトロフィーや賞が入っているのだが、その途中から様々な人形達が入室した人間を出迎える。

 顔や服装は多種多様で、機械人形という語感から与えられる印象とはまるで異なる。顔の造形は不要なくらい作り込んであり、その服装にも何処と無く可愛らしさがある。とてもこれが機械じかけとは思えない。

 故に一見すると、それは人形師の部屋だった。

「……あぁ、顔つきは趣味だ」

 人形をじっと見つめるヴァイオレットに向かって説明が入る。彼女は入ってそうそう、一つの人形だけを穴が飽きそうなほど眺めていた。

 ブルーグレーのドールアイに、腰回りで漸く括られた波打つ赤髪。目尻は下がっていて優しげな印象で、着ている服は白いシャツに茶色のベスト。

「それは……息抜きで作った普通の人形だったな」

――目が見えなくなってきたと言いだしたくらいに、頼まれて作ったのだがな。

 それからの視力の低下は著しく、結局モリーがその人形を眺めていた期間は短かった。

「モリーの好みの男に似せたのだが…………」

――もう見ることも出来ない。

 その人形を見つめている内に、全く別の何かが浮かんできそうになるのを彼は切り捨てる。

 しかし彼が目を離しても、ヴァイオレットの碧眼は人形に魅入られて戻ってくる様子はない。

 稀に自分も有ることだから何だか親近感のようなものを覚える。

「……欲しいならくれてやる」

「ですが」

 さすがのヴァイオレットもその提案には少し戸惑っていた。

――そんな輝いた眼のまま遠慮されても、逆に困る。

 彼は鍵を取り出して、ショウケースについた鍵穴に差してガチャリと開く。

「作ったのは私だ。モリーも数回眺めて飽きたからな、欲しがってる奴が大事にすればいい」

 丁寧な手つきでその人形を取ると、ぽんとヴァイオレットの手に掴ませる。

「何だかんだ変なことにまで付き合わせたからな、追加報酬とでも思っておけ」

 そのほうが気が楽なんだろう、とでも言わんばかりの言い草だった。実際にそうなのかもしれない。

 人形と彼の顔を交互に見るのを繰り返していたが、区切りをつけたように人形を抱きかかえた後

「ありがとうございます」

 と僅かに弾んでいるような、そうでもないような声で礼を言った。

 頷いてはみたがやはり気になっていたのだろうか。彼は眉をひそめて尋ねる。

「何でそれなんだ? まあ、好みと言えば其処までだが……」

「社長に似ていましたので」

「女なのか?」

 質問が突拍子もないように思ったのか、ヴァイオレットは眼を丸くする。

「いえ、男性です」

「そうか……」

――モリーが見飽きたのはどう見ても女にしか見えないから、だった気がするが。

 納得出来ないような顔付きのまま自分の作業机を眺める。

 見ただけでは何が何やら分からない方眼紙に描かれた設計図に、周りには裁縫道具等の機械人形の作成に関する道具が立ち並ぶ。

 まだ綺麗な方では有ったが、軽く整理しておくべきだったかと彼は内心後悔する。

「機械人形とは言うが、そこまで便利なものは無いぞ」

 歩きながら他の人形を眺め始めたヴァイオレットに、少し面倒そうな口調で言った。

「最近は玩具として設計することも多い。自動手記人形は時代の流れから言えば少し特殊だ」

――聞いているのだろうか。

 少し不安な様子に彼は苦い顔になる。しかし心なしか楽しそうに見えたから追求はしない。

「その義手は以前では考えられない技術だが、考えられないと考えられているものなんて大抵いつかは出来てしまう」

「気づいていらしたのですか?」

 突然振り向いて、少しだけ眉を上げてヴァイオレットに尋ねられる。

――何を言ってるんだ。

「食事の時は手袋を外しているし、料理を教えてやっている時も外しているだろう」

 不機嫌な様子であげつらう。

――全て手袋を外していたじゃないか。視界の端でいつも輝いていた。

「ヴァイオレットは私を何だと思っているんだ?」

「あまり私の方を見ないので、嫌われているのかと」

「じゃあ何で私は今、此処でお前に機械人形の話なんかしてるんだ」

 そう言われた途端にヴァイオレットは顎に手を当てて考え込み始める。人形のようだなんて彼は考えていたが、最近は人形というより小さい子供のようにも見えてきていた。

――これが演技じゃないと分かってくると、いよいよ手の掛かる娘みたいだ。

 両目を手で覆って彼女の今後を静かに憂う。

「まあ良い。機械人形は、その考えられないことを部分的に達成できる程度のもの」

 目下の問題を解決できても、問題の発生源は何も変えられない。

「いつか取って代わられる側の、繋ぎが精々の技術だ」

 取って代わられるのは何時のことだろう。

――さっさと唯の道楽に落ちてくれれば良いのに。

 数多くの機械人形は時に着想を汲み取られ、時に全く別の形で、常に取って代わられてきた。

――なのに自動手記人形は。未だに取って代わられない。

 こんなに世界は目まぐるしく変わっていくのに。彼はこれほど、それを渇望しているのに。

 どうでも良いものばかりが発展して、彼の望むそれが現れることは無かった。

「それだけ、なのでしょうか」

 彼の焦点がヴァイオレットに戻ってくる。

 改めて彼の瞳を見つめる表情は何処か悲しそうとも取れたし、ただ見つめているだけとも取れた。

 しかし彼女に感情が見えたと思えたなら、大体その予想が当たりであることを彼も学んでいた。

「そうだ。さしたる意味はない」

 何かを切り捨てるような言い方。

「結果から見れば繋ぎかもしれません。ですが本当に、それだけなのでしょうか?」

――そうじゃないか。何が変わる。

 技術は発展していくものだ。その変化の波の中で生き残る物もあれば、もまれて消えていく物も多い。

 消えていく物には繋ぎ以上の価値がない。それは今となっては不便なものだろうから。

「それでは旦那様が作った自動手記人形さえ、無価値だと言っているようです……」

「無価値だ。何も解決できないんだからな」

――誤魔化すだけで、誰が助かるというのだ。

 助かった、救われたなんて嘘を言うな。それは今その場の苦しみを誤魔化すだけの道具であり、自動手記人形で助かったなんて言葉を私は信用しない。

 手がなくて使うなら、義手を付けた方がずっと良いだろう。

 寝たきりだから使うなら、体が健康になった方がずっと良いだろう。

 目が見えないから使うならば――――目が見えるようになった方が、ずっと良いだろう?

「ヴァイオレット。問題に対して人間が取れる行動は少ない」

「目を伏せるか、妥協するか、解決するかだ。こんなもの、妥協に使えれば良い方だ。大抵目を伏せる為に使う」

 たかだか文字を遺せて何なのだ。それで使った人間の、本当の問題は解決するか?

 違う。ならばそれは所詮妥協。

――もっと以前の時代ならこれだって無かった。

 そう思って慰めに使うだけだ。満たされていないし、それでは意味など無い。

「……旦那様の仰ることに、私は明確な反論の出来る理論は持ち合わせません」

 ヴァイオレットの声は、今までよりもずっと心細げだった。言葉を挟めば消えてしまう。

「しかし。救われた方は、きっと居るはずです」

 まるで傷だらけの兵士を見つめているように、その瞳は揺れていた。

 

 

「……私がお前を見ないのは、別に嫌いだからじゃない」

 彼は慣れた動作で卵を割って、フライパンに向かってそんなことを大きな声で言った。

 朝食を作らねばと言って、気まずさから彼は逃げるようにキッチンに立っていた。勿論それをヴァイオレットが放置するわけでもなく、結果として彼女はソファーに整然と座っている。

「関係ないものがちらつくものでな、どうにも目を背けてしまう」

――お前を見ていると、昔のモリーが浮かんでくるんだ。

 見た目はまるで似ていない、性格だって表面は別物。だが、それでも私には重なる。

 彼女もよく私の料理を見ては、見よう見まねで様々なことをやっていた。

「……奥様ですか」

「そうだ。勝手に幻視しては何だと、怒られても仕方ない話なんだがな」

 彼女の顔を見れなかった。怖い、のかもしれない。

――モリーは出会った時から騒がしい奴だった。

 出版社でちょっとした評論の出版手続きをしていた時に、遠くに居た彼のところへ来て

『よく会いますね。ところで貴方はどんな本が好きですか?』

 と唐突に尋ねられたのが出会いだった。

 勿論、彼も最初はあしらっていた。経験則で顔目的の女と動きが似ているように見えていたのだ。第一、いきなりやってきてそう言われた所で対応に困るのは当然だ。

 よく会っていることにすら彼は気づいていなかったのだ。

『本は読まない。開発が主な仕事だからな』

 こう答えれば、科学者に偏見を持っているものは勝手に離れていくことを彼はよく知っていた。

――これで益もなさ気な私に寄っては来まい。

 そんな予想を彼女は軽々と破って

『どんな開発をしたことが有るのかしら?』

 と普通に聞いてきた。

 いよいよ面倒だと思って、そこでは仕事について軽く教えてやって彼は早々に出ていった。付き纏われても面倒だし、何より気味が悪かったらしい。

 しかし、彼と彼女はしつこいぐらいに出会うことになる。

――もしかしたら何度も出会っていたのは事実なのかもしれない。

 ふと本屋を眺めている時。

『貴方が読みそうな本は――あっちね!』

 港に来ていた船の構造に意味もなく思いを馳せていた時。

『降りていく人を観察するのは楽しいわ。貴方は何が好き?』

 何となく奇妙な露店を冷やかしていた時。

『この街って、本当に何でも売っていて飽きないわ!』

 彼は基本的に店なんて見て回らないから、普通はこう何度も出会うはずなんて無いのだ。

――今なら言えるが、ある意味これは運命だったのだろう。モリーに尋ねても同じ答えが帰ってきた覚えがある。

 何度も冷たくあしらっていたのに話しかけてこられると、さすがの私も段々と情が湧く。

『何だ、これが食べたいのか?』

 高そうな菓子を見ては唸る彼女に買ってやった。

『金が無いと前も言っていただろう、何でそんなに本を抱えてるんだ』

 本を抱えながら唸る彼女の選別を手伝ってやった。

『偶にはお洒落をしろ。お前みたいな性格の人間は、真っ当な風に装うものだ』

 髪留めがボロボロなのを見兼ねて、髪留めを買ってやった。

――ああ。私はあの時は馬鹿だった。彼女が騙しているのではないかという想像はしなかった、できなかったと言ってもいい。

 人間不信が嘘のようだった。裏表がないのが、裏表を見てきたからこそよく分かったのかもしれない。

 本当にそのままの姿だった。見た目にも、言葉遣いにも、肩書にも惑わされない。

――気付けばするすると結婚だ。名前も知らないままに告白して、そのまま流れるように関係は進展した。

『やっぱり貴方って優しいのね』

 朗らかに笑う彼女は、彼にとって数少ない希望のようなものだった。

 人生が自分だけのものだったのが、二人のものになった。自分のことばかりだったが、少しだけ人のことを考えるようになった。

――だというのに。モリーは視力を失った。

「……私は神だとか、救いだとかは全く信じない」

 気づけば言葉が零れ落ちる。

――全く、何時から私はこんなに人に心を開くようになったんだろうか。

 それともヴァイオレットだけになのだろうか。長らく人と喋っていないものだから、分からない。

「だが、不幸でなくていい人間が居るのは分かる」

 正確には、彼にとってそうである人間だ。

 人はそれを大事な人というのだが、彼にははっきりと分からない。

「ヴァイオレット、君から見て――モリーは不幸になるべき人間か?」

 ひどく柔らかい声。いつもの何処か刺々しい言葉遣いは、まるで幻聴のよう。

「いいえ、不幸になっていい人間は居ません」

「だろうなあ」

 

 

 

「じゃあ何で、モリーは目が見えないんだ?」

――どうして私では救えない?

 もっともっと、笑うんだ。綺麗に、朗らかに、この世の綺麗な物を集めた風に。

 今は何だか違う。

「私も一生懸命考えたんだが、納得出来ないんだ」

――彼女の何がいけないんだ。

 私と此処に住むまでは、誰とでも仲の良い快活な女性だった。いつも通り過ぎる人に挨拶ばかりしていて、私との話が進まないくらいだったんだ。

 本が好きなだけの善良な女性じゃないか。

「色々やってみたが、私ではどうしようもない」

 彼の後悔の全ては其処だった。

「あんな人形じゃ駄目だろう。彼女は光を失ってしまって、きっと今でも辛いじゃないか」

――小説は書ける。書けるとも。

 だが他はどうしようもなかった。秀才なんて言われたつまらない事ばかりに使えるこの頭も、こればかりにはお手上げだと観念してしまった。

「なあ、ヴァイオレット・エヴァーガーデン。彼女は辛いと言わなかったか?」

――当然だろう。

 モリーは私より、ずっとずっと強いけれど。それでも人間じゃないか。

 

 相手の顔が見えないのは、言葉の意図すら汲み取れない。

 

 景色を見ることが出来ないのは、美しさをもう知ることがないのと同じこと。

 

 暗闇の中で常に立たされているような状態は、まさしく地獄に値する。

 

 死ぬよりは良い、きっと多くの人は言う。

 

 でも人によっては、死んだ方が良いのだと嘆くことなんじゃないのか?

 

「目が見えなくなって、そんな境遇を呪わない女性だ」

――でも。でもだ。

「それでも、辛くないわけがないじゃないか」

 気づけば水の中にいるように視界が霞んでいた。彼は訝しむ。

――彼女の方が。光が届かない深海の方が、ずっと辛い筈なのに。

 何で私は涙が流れるんだ。

「手紙もあの手じゃ書けない……私にはそんなのは耐えられない」

 言葉が弱々しくリビングに響いた。嗚咽に震えて、泣き顔を噛み殺すのに途切れて。

――情けない。一週間そこらでこんな面倒な男に心を許されて、彼女だって煩わしいかもしれない。

 そんな予想は外れて、ヴァイオレットの声は未だ玲瓏に響く。

「……一つだけ。嘆いていらっしゃることが有りました」

 心苦しそうにも聞こえたそれに、きっと彼は救われた。

――良かった。それを打ち明けられる誰かを、連れてこられる運命が有ったこと。それだけで私は感謝できる。

 嘆くことも無いなんて言われても困る。

 涙を袖口で掬い取って振り向く。居るのは朝日に照らされたままだけれど、何処か切なげに此方を見ている人形のような少女の顔。

「そうか。君に打ち明けられているようで、何よりだ」

 朗らかに装って彼は笑う。

――だって、きっとヴァイオレットは心配する。私のような身勝手な男に心配することなんて無い。

「手紙は――ちゃんと送り届けられそうか?」

 誤魔化すように、振り向いたヴァイオレットの瞳を見つめて尋ねかける。

 変わらぬ碧い海の色。揺れるのを見ているだけで、見惚れてしまいそうな宝石の瞳。

「はい。きっと良い手紙になるはずです」

 初めてその口元が緩やかに弧を描いた。

――何だ。君、笑えるんだな。

「良い仕事をしたんだな」

「書いたのは奥様です」

「それでもだ」

 戸惑いがちに顔を振るヴァイオレットに、何だか面白い気分になっていた。

「製作者が褒めたんだ、素直に受け取るものだよ」

 彼はそう言って、それきり料理に戻ってしまった。

 その喋り方は、もう誰にもしていない。

 

 

 そしてヴァイオレット・エヴァーガーデンの仕事は終了した。

 手紙は完成したらしく、満足げな表情でモリーは門の前で彼女に手を振っていた。

 彼も見送りに立ち、最後に

「お疲れ様、ヴァイオレット・エヴァーガーデン」

 と同じく手を振った。

 ヴァイオレットも手を振りながら

「さようなら」

 とだけ応えて、とうとう家を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 オーランドは今日もいつも通り郵便受けを確認した。

 不思議なことに手紙が入っているではないか。思わず眼を丸くしそうになるのを抑えて、新聞をくしゃくしゃに片手に持ちながら彼は急いで家に入る。

――何年ぶりだ、手紙だなんて。

 あれから時間は過ぎていたが、あの自動手記人形を思い出す。それだけで少し彼の口元は緩んだ。

 リビングで新聞を放って宛名を見ると…………奇妙なことに手紙はオーランド自身に向けられた手紙ではないか。

 差出人は書かれておらず、けれどその手紙に有った印に目を剥いた。

――どういうことだ。彼女は私に向けて手紙を送っているというのが単純な推理だ。

 そんな訳があるか、急いで手紙を開く。

 乱雑な所作で中の紙を取って一番上から読んでいく。

 

『お誕生日おめでとう』

 

『これはお礼の手紙なんだけど、ヴァイオレットに手伝ってもらったのは何だか上手く言葉が出なかったからなの。後は興味本位というのも有ったけど、書き直す時に貴方を呼ぶ羽目になったりしたらサプライズにならないというのも有るわ』

 

『まずは、いつもお世話をしてくださりありがとうございます。花に興味が無いのに水やりを欠かさずしてくれたり、無理な外出にも付き合ってくれて。しかもご飯もついてるのよ、幸せな生活だと思うわ』

 

『何より自動手記人形よ! あ、貴方が作ってくれた機械人形ね。とても助かってるわ、一生できないと思っていた執筆活動がまた出来ているのだもの!』

 

『貴方は人に優しくするのがとても苦手な人だから、一生懸命に考えて作ってくれたのよね。心の篭った物だと思って拝みながら使わせてもらってるくらいよ』

 

『だからありがとう。幸せよ、本当に。不自由がないと言ったら嘘だけれど、貴方に支えてもらえるのも良いものだし。この歳で箱入り娘扱いされるのも中々貴重な経験だし、何より優雅な気分だもの』

 

『後は、貴方が笑ってくれるととても嬉しい。貰い笑いも在るというし、私が笑ってみているけれど笑えてるかしら? 貴方はあまり笑わない人だから時々心配になるわ』

 

『ああ、もう残り少ないわね。後のことは起き抜けの私に聞いてね、朝に勝手に開いてるのは最初から知ってるんだから』

 

『此処は一番苦労したんだけど、ヴァイオレットにも一言添えてもらったわ。せっかくだから書いて欲しいって一週間頼み込むのは大変だったけど、それについて書くのは無理そう。後で奮闘を聞いて下さい』

 

『長くなっちゃったけど、私は大丈夫よ。心配しないでね』

 

 手紙を持つ手は震えていた。喜びというべきか、後悔というべきか。また涙が流れ落ちていく。

――馬鹿だな。心配しているつもりで、心配されているじゃないか。

 心配事をいつも理解してくれたのが彼女であったことを失念していた。

 彼は視線を滑らせてヴァイオレットの言葉について思いを馳せる。流れる涙は拭かなかった。

 

 

 

『毎日のように頼み込まれては仕方が有りません。奥様は意外と強情な方ですね』

 

『肝心な事実が抜けていたので、それだけを』

 

『奥様が嘆いていらっしゃられたのは、『旦那様の顔が見れないこと』です』

 

『あまり奥様を心配させないよう、お気をつけ下さい』

 

「馬鹿だなあ」

 思わず言葉が漏れる。

――私の顔より、見れなくて嘆くことなんて沢山あるじゃないか。

 

 

 

 

 

 

 

 家のブザーが鳴った。

「待ってなさい、すぐに向かう!」

 じょうろをすぐに置いて、玄関へと早歩きで向かっていく。

 注文の品は分かっていた。見た目も名前も紛らわしい、ある職業婦人を頼んだのだ。

 今回は彼が依頼者。妻の誕生日に、プレゼントに手紙を添えたいのだが文面が思いつかない。

 困って困って仕方がないのだ、さすがの彼もその力に頼らざるをえない。

――相変わらず人形みたいだな。

 彼は朗らかに笑って、その女の前に立った。

 金糸の髪は日差しにきらめき、編み込みの終わりにはダークレッドのリボンが揺らめく。

 スノーホワイトのリボンタイワンピース・ドレスに包まれた細い体は、プルシアンブルーのジャケットで更に白さを映えさせる。

 シルクのプリーツの入ったスカートに、胸元に大きなエメラルドのブローチが携えられている。

 後はそれとはそぐわない、水色のストライプ柄のフリル傘。貰い物なのだろうかと彼は想像を巡らせる。

「お久しぶりです、旦那様」

 声は相変わらず玲瓏である。なんだか変わっていない様子に、息の抜けるような感覚。

「新聞に載ったそうだが、何時から有名人になったんだ?」

 その問いかけに、彼女は碧い瞳を僅かに細めて微笑む。

「というか背が伸びたか?」

「気のせいかと思われます」

――そうか。また何というか、美人になったものだな。将来が怖いものだ。

 彼は門を開ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

「まずは同じ手口だから誤魔化す計画から考えてくれ」

「今は書斎に引き篭もっているから、話を詰めるなら今しかないんだ」

 そう言いながら彼が歩いていく。

 前と同じように彼女は数歩後をついていきながら

「旦那様は私を何だと思っているのですか?」

 と尋ねる。

「勿論、ヴァイオレット・エヴァーガーデンさ」

 調子よく答えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 後悔しています。

 貴方の笑顔をしっかりと見られなかったこと。

 その原因が、自分にあること。

 思う度に胸が重くなって、言葉にも上手く出せません。

 だから、せめて。

 私は笑っていたいのです。

 例え貴方の沈んだ海の底に、光が届かなくとも。

 心にだけでも、美しい明かりを灯していたいから。




 結局、納得出来ないまま2月後半時点のものを投稿しています。我ながら初志貫徹の出来ない性分に飽き飽きとしています。
 アニメ続編おめでとうございます、出来れば原作も買って欲しいsincerityです。

 アニメ一話をリアルタイムで見て、インフルエンザで死にながら原作を買ってきてもらってセンター試験会場で読んだのが出会いです。今思うと酷いものですが、死ぬまで持っていく蔵書の一つなので問題ないですね。

 オーランド博士の下の名前がわからないので「彼」「彼」「彼」ばかりでした。外伝で名前が出ているのが確認できた場合は変更します。というか途中までオーランドが姓なのに気づいてなくて急いで変えました。
 読みにくいと思いますし、個人名を地の文に出すのはあの文体の癖なので、無念です――。
 もしかしたらリメイクして別投稿するかもしれません。今回のテーマは「失礼なほどのパクリ」でしたから、失礼も突き抜けなければ最低だと思います。

 それはさておき、どうだったでしょうか?
 良い話? 泣ける話? 勇気がもらえる話? 私はどれにも該当しないと思いながら書きました。

 私は特に高尚な願いだとか持論を持ち合わせないふわふわした人間です。ですから物語にメッセージ性を込めているかというと、実は込めてないのだと思います。

 けれどもし。朝、貴方が眼を開く時に「こんな話も有ったな」と思えたなら素晴らしい事でしょう。

 頑張ってください。人生の主人公であろう貴方を、貴方自身が応援出来るようになりますように。



――ああ。感想は気軽にどうぞ。いつもの私が見たい人は活動報告で色々暴露してるので宜しくお願いします。


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