霧の中で少年は、少し前のことを思い出す。
背後にイーオスが現れた事に自分は気が付かなかった。
確かに影を見たり音に集中すれば、いち早くイーオスに気が付けるかもしれない。
しかし一瞬でも気を抜けば同じ事が起きる。
次はない。
気を引き締めて、少年は耳を澄ませながら辺りを見渡した。
今の所イーオスが襲ってくる気配はない。
「……幸いな事に少しだけ霧が薄くなってきましたが、油断は出来ませんね」
エドナリアは歩く速度を少しだけ落としながらそう言う。
そして、小さな声で「聞こえましたか?」と呟いた。
「はい。……イーオスの声」
霧の中で一瞬、イーオスの声が聞こえる。
警戒するようにラルクは周りを見渡すが、エドナリアは姿勢を上げて再び歩き出した。
「エドナリアさん……?」
「気付いていない振りをしましょう」
「え?」
ラルクはそんな彼女の言葉に困惑する。その言葉の真意が彼には分からなかった。
「さっき二度目の攻撃の後、イーオス達は私達に居場所がバレていると思って襲ってこなかったんだと思います」
「イーオスって、そんなに頭が良いんですか……?」
少年のそんな質問に、エドナリアは「私達が思っている以上には」と短く答える。
事実その知能の高さ故に群れを率いての狩りを得意とし、モンスターの中でも小型に入る種でありながら繁栄しているのだ。
生物として成功している例と言えるだろう。そうでなければこの世界で種の保存は出来ない。
「なので、こちらが気が付いていない振りをして襲って来たイーオスに反撃します。これで数匹は数を減らしたいですね」
イーオス等の群れを作るモンスターと戦う場合は、いかにして個体数を減らすかが重要だ。
問題はドスイーオスとの戦いになった時。
イーオス達の数が減るのは嫌がるだろうが、そうせざるおえなくなれば群れのボスは仲間を全て率いて襲って来る。
その時に一匹でも数が少ない方が、こちらとしては有利だ。
エドナリアはこれまでと調子を変えず、しかし背中の得物に手を掛けながら歩く。
一方でラルクも彼女に合わせてゆっくりと歩いた。
しかし、彼の目には已に見えている。周りを囲むイーオス達の群れが。
その内のどれかが突然襲って来るかもしれない。全部が一斉に来たらたまったものでもない。
そんな恐怖からか、ラルクは少しだけ頭が真っ白になっていた。
「わ、わー、イーオス……どこだろー、分かんなーい」
気の抜けた声にエドナリアは「ぶふっ」と空気を吐く。
「あっはは、ラルク……流石にそれはダメです。あはは」
ラルクは真っ赤になって俯いた。恥ずかしい。物凄く恥ずかしい。
「───っ、エドナリアさん左!!」
ただ、そんな隙をイーオスが逃す筈もなく───しかし、ラルクは直ぐに反応して襲ってくるイーオスの位置をエドナリアに伝えた。
さっきまでくすりと笑っていた彼女は一瞬で狩人の顔を見せ、身体を捻って刃を回す。
飛び込んで来たイーオスの喉元に突き刺さった操虫棍を振り上げると、頭と身体が離れて血飛沫と一緒にそれは横たわった。
「……っ」
「ナイスです」
凄い。
お互いに違う感度でお互いの事をそう思い、二人は一度顔を合わせて真剣な表情で視線を左右に割る。
まずは一匹。しかしここからイーオス達がどう出てくるかが問題だ。
妙な静けさから一変。野太い鳴き声が辺りに響く。
「ドスイーオスの声……」
イーオスの声とさほど変わりはないのだが、明らかに何かが違った。
まるで周りへの命令を大声で叫ぶような、そんな声が耳に響く。
「───来ます。左右から!」
ラルクの視界に映ったのは、ほぼ同時に二人の左右から挟み込むように現れるイーオスの影だった。
挟み撃ち。明らかに統率の取れた攻撃。
ラルクも焦ってライトボウガンを構えるが、左右どちらに攻撃したら良いか分からない。そんな打ち合わせはしていない。
迷っている間に、左右から二匹のイーオスが飛び出す。悲鳴をあげそうになるラルクだが、彼が見たのは二匹に同時に攻撃を当てているエドナリアの姿だった。
操虫棍。
長い柄の両端に刃と棍棒を備えるのが基本的なデザインの武器。
エドナリアはその刃と棍棒を巧みに振り回し、両端の得物で二匹のイーオスを迎撃したのである。
「ラルク、落ち着いて下さい。狙撃は私が取りこぼした方を冷静に狙ってくれれば大丈夫です。……視界が悪いだけならば、そしてその視界をラルクがカバーしてくれるなら、私はイーオスに遅れを取る事はありませんよ」
前回は背の高い草に彼女の長い武器を振り回す事も叶わずに苦戦を強いられたが、これが本来のギルドナイト───エドナリア・アーリア・シュタイナーの実力だった。
「……す、凄い───次、正面と……僕の後ろ?!」
「失礼します……っ!」
頭を左右に振って三百六十度全方位を確認するラルクの視界に再び迫るイーオスが二匹。
エドナリアはラルクの頭を抑えてしゃがませながら、ラルクの背後から来るイーオスに刃を突き刺す。
「───はぁぁぁ!!」
そのまま操虫棍の柄をラルクの背中に当てたエドナリアは、梃子の原理でイーオスが突き刺さったままの操虫棍を持ち上げ───反対から来るイーオスにソレを叩きつけた。
「うぇええ?!」
「すみません、重かったですか?」
倒れたイーオスの頭を棍棒で潰しながらそう聞くエドナリア。
そういう事じゃなくてどういう戦い方を、なんて言葉は出てこない。
ただひたすらに狩人としての力を見せつけられて、ラルクは困惑する。
「次手は……なしですか。ラルク、ドスイーオスの鳴き声がした方角は分かりますか?」
無言で指を向けて頷くラルクに、エドナリアは「今度はこちらから向かってみましょう」と足を前に出した。
しかし同時に、周りのイーオス達が一斉に鳴き始める。
さっきから攻撃の少し前にドスイーオスの鳴き声が聞こえていたのだが、それも掻き消されてイーオス達の行動は厄介なものだった。
「……考えますね」
これではドスイーオスが移動した先も分からないし、ノーリスクでドスイーオスは指示を出す事が出来る。
明らかに人───狩人と戦い慣れている行動だ。
「来ます、正面から!」
そんな中で、エドナリアひたすら真っ直ぐに歩く。
ラルクの指示はエドナリアが歩いている向きからの方角だ。
彼女が向きを変えてしまえば、ラルクが指示を出しにくくなってしまう。
しかし前しか見ないという事は確実に視野が狭まるという事でもあり、ラルクが指示を少しでも謝れば致命的な隙に繋がる事を意味していた。
「次、右と後ろ!」
「……っはぁぁ!!」
それでも彼女はラルクを信じて武器を振るう。向かって来るイーオスだけを相手して、ひたすら前に進み続けた。
「左右と正面!」
「……っ、三匹!」
舌打ちをしながら、猟虫を前に飛ばして左右から来るイーオスに棍棒と刃を叩き付ける。
そして猟虫が怯ませたイーオスを切り飛ばした所で、ラルクは「後ろからも!!」と声を上げた。
息つく暇もなく、エドナリアはラルクをしゃがませながら操虫棍の刃を振るう。
───しかし刃は何かを捉える事なく、空をきった。
攻撃を外したエドナリアは目を見開く。
ラルクの指示ミスではなく、確かにそこには何かが居た。
「ドスイーオス?!」
他のイーオスよりも大柄な身体。左眼と顎に傷を持っているその姿には見覚えがある。
やはりあの時のドスイーオスだ。
そんな事を考える間もなく、エドナリアはラルクを後ろに押し倒す。
「エドナリアさ───っ?!」
驚いて振り返ったラルクの視界を紫色が襲った。
大量の毒液。ラルクの身体にも少し付着したが、その大半は彼の正面に立って居たエドナリアの身体を覆い尽くす。
次の瞬間彼女は目を見開いて血反吐を吹き出した。
悲鳴をあげるラルクの前で、しかしエドナリアは「立って!」と叫ぶ。
これは彼のミスではなく、自分のミスだ。
まさかこのタイミングでドスイーオスが自ら襲って来るとは思わなかったし、それを見越して冷静に攻撃を選ばなかった自分のミス。
結果は攻撃をドスイーオスに避けられて、逆に反撃を貰っている。これでラルクに毒液を当てられていたら、彼女は自分を責めても責め切れなかった。
ただ、それこそ本当のミスだと自覚する。
自分がまともに動けなければ、誰が彼を守るというのだ。
唇を噛みながら、エドナリアは目の前のドスイーオスを睨み付ける。
だったら、まともに動けば良い。なんとか解毒薬を使う事ができるタイミングを作り出すだけだ。
喉の奥から込み上げて来る血反吐を口から漏らしながら、エドナリアは左右と正面を確認する。
イーオス達が近付いてくる様子はない。勝ち誇ったように堂々と目の前に立つドスイーオスが野太い鳴き声をあげた。
これがなんの指示かは分からない。ただ、周りのイーオス達が同時に鳴き始める。彼女達の恐怖心を煽るにはそれで充分だった。
「……っ、ぅ」
一方でラルクは急激な状況変化に身体が追い付かない。
頭では何かしなければいけないと分かっているのに、手も足もまるで地面に縫い付けられたように固まってしまっている。
とりあえず立て。
そんな強い想いすら届かなくて、ラルクは目の前で口から血を漏らすエドナリアを見上げる事しか出来なかった。
そして、運が良いのか悪いのか。
少しずつ薄くなっていた霧が、ここに来て視界を確保出来るまで薄くなる。
それで彼等の周りを六匹のイーオスが囲んでいるのが見えたのだから、もうラルクは目を瞑りたくなった。
結局いつもこう。やろうやろうと前に進もうとしても、いざ目の前まで来ると固まって何も出来なくなってしまうんだ。
僕なんて───
「ありがとう、ラルク」
そう思った矢先、エドナリアのそんな声が少年の耳に響く。
どうして。
ラルクはその言葉の意味が分からなくて、無意味に首を横に振った。
僕は何もしていない。出来ていない。
「貴方のおかげでイーオスをこれだけ減らす事が出来ました。ドスイーオスに出て来させる事も出来ました。この狩場でラルクは何も出来ていないと思っているかもしれませんが、あなたはこの戦況を作り出した立派な狩人ですよ」
振り向かずに、立つのがやっとの身体を操虫棍で支えながら彼女はそう言う。
事実、彼女一人ではここまで来るのは容易ではなかった。
二人だったから、彼がいたからこそここまで来れたのだと彼女は確信している。だから───
「───だから、立ってください」
今の彼女にラルクを守りながら戦う余裕はない。
一人では無理だ。
だから。
「背中は預けます」
それ以上何も言わずに、エドナリアは足を前に出す。
そして操虫棍を地面に叩きつけ、反動を使って飛び上がった。
重力に引かれ、彼女の身体はドスイーオスの背後を取る。振り返るドスイーオスに一閃。喉元を刃が割いて、血飛沫が舞った。
「……僕は」
震える足で立ち上がる。
何も出来ないと、何も出来ていないと思っていた。
でも、違ったのかもしれない。
まるで生まれたてのケルビのように震える身体をなんとか持ち上げて、少年はライトボウガンを構える。
後ろでは自分をここまで連れてきてくれた人が必死に戦っているんだ。
僕は───
「───僕は、狩人になるんだ……っ!!」
発砲音が湿地帯に響く。
一人の狩人の戦いが始まった。
ドスイーオスを倒すのにどれだけ時間をかける気なのか。