パパは新卒社会人   作:拙作製造機

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分かる方は分かるネタ。とはいえ、これは子育て話がメインではなく、結婚などしないというか出来ないだろう彼が、自分の子と接する事であの間違ったままで放置していた青春を終わらせる話。


こんにちは赤ちゃん

「……やっぱ仕事なんてするもんじゃないな」

 

 心の底から噛み締めるように呟き、彼は愛飲しているMAXコーヒーへ口を付ける。人によっては殺人的甘さと評するそれを、彼は美味そうに飲んでいく。思い返せば良くも悪くもイベントだらけだった高校時代。それに比べれば幾分大人しくなった大学時代。それらを経て、彼―――比企谷八幡は無事とある企業へ就職する事になった。従来の夢であった専業主夫は諦めざるを得なかったのだ。その理由はただ一つ、養ってくれる妻となる存在がいない事に尽きる。

 

「このまま親父達のように社畜人生を送るんだろうか……?」

 

 疲れているのだろう。その特徴とも言うべき目がいつも以上に酷くなっている。氷の女王と彼が名付けた女性が見れば罵倒の二つか三つは飛んでくる事請け合いである。まぁ、ここには彼女どころか彼以外誰もいないワンルームマンションなのだが。

 

「腹、減ったな……。買ってきた弁当でも食うか」

 

 大学の頃は節約も兼ねて自炊を心がけていた彼であるが、それは社会人となった二日目には既に諦めていた。とてもではないがそんな気力は湧かないために。節約はした方がいいが、学生バイトと新卒社会人では収入が違う。なので彼は潔く内外食へとシフトしていた。本日のメニューは季節の筍を使ったご飯が嬉しい幕の内弁当である。

 

「いただきます」

 

 彼が割り箸を手に弁当を食べようとしたその時だった。雷が落ちる音がしたのは。

 

「……結構近いな。停電とかにならんといいんだが……」

 

 思わず振り返り、立ち上がってカーテンを捲って外の様子を窺う。気付けば雨が降り出しており、余計滅入った気分へと彼を誘う。

 

「雨まで降ってやがる。朝には止んでくれよ?」

 

 独り言が多くなったと思いながら彼は再び弁当の前へと戻る。改めて手を合わせて食事を開始しようとしたその瞬間だった。再び落雷の音が響き、彼の心配した事が現実となったのだ。電気が消え、真っ暗な闇が室内を包む。今まさに弁当を食べようとしていた八幡にとっては、とんでもないところで水を差された―――はずなのだが彼はそんな事も気にせず黙々と弁当を食べ始めていた。暗闇でもある程度は見えるため、もうブレーカーなどを見に行く気力もなかった彼は食欲を優先したのである。

 

 だからだろうか。そんな彼に天罰が下ったかのような現象が起きたのは。突然落雷の音が彼の耳へ一際大きく響き渡ったかと思うと、室内に眩しく輝く何かが出現したのだ。

 

「な、何だっ?!」

 

 その輝く何かから何やら声がすると八幡は気付いた。よく聞いてみると、まるで赤ん坊の機嫌が良い時の声のような、そんな言葉になっていない言葉らしきものがするではないか。まさかと思って八幡は恐る恐るその謎の輝きへ近付いた。そこには一人の赤子がいた。着ている物は当然ながらベビー服で、八幡が受け止めると輝きは消える。その途端、彼の腕に確かな重みが感じられた。

 

「い、意外と重いのな」

 

 八幡を見て赤子は嬉しそうに笑う。と、そこで明かりが戻る。そして彼は気付いた。何か手紙のようなものが足元に落ちている事に。

 

「すまんが少し待っててくれ」

 

 赤子をベッドへ寝かし、八幡は手紙へ目をやった。そこには、赤子が未来の彼の子である事。この時間軸へ赤子が来るのは避けられない事。元の時間軸へ戻せるのは一年後である事などが書かれていた。名前はゆいこで女の子である事も。そこまで読んで八幡は赤子を見る。ゆいこと名付けられているその子は、八幡の枕へ顔を埋めるようにしながら無邪気に笑っていた。

 

「……ドッキリ、とかじゃないな。あんな手の込んだというより凄い仕掛け、やるとしたら最低でも特番か下手すりゃ映画レベルだ」

 

 信じ切る事が出来ない事ではあるが、だからといってゆいこと言う名の赤子を警察に届けるのも気が引けたのだ。手紙の内容が真実ならば、この子は一年間親元から離れて暮らさねばならないし、帰るとしてもどこからどうやっても分からない。ならば来た時と同じ状況などを整えてやる必要がある。そこまで考え、八幡は気付いた。

 

「何でもう俺は預かる気でいるんだよ……」

 

 その理由も彼は気付いている。ゆいこの髪の毛だ。一部が跳ねて目立っている。俗に言うアホ毛という状態である。その自分や妹の小町と共通する要素こそ、彼がゆいこを無関係と思えない最大の理由であった。ともあれ、このままでは不味い。何せ彼は独り暮らしで恋人さえいた事がない。そこへいきなり赤子の登場だ。怪しまれる事請け合いである。しかも彼は社会人。面倒など見ていられない。

 

「……小町を頼るか?」

 

 現在大学三年生である小町であれば八幡よりも自由な時間は多い。だが、それはあくまでも普通ならばだ。今年からは本格的に就活を始めるため、下手をすると彼よりも忙しい可能性もある。それを考えると安易に頼る事は出来ない。と、そこで思い出すのは彼の一年後輩の女性。何故か同じ大学へ進学し、やたらと接触を図って来た存在の事だった。

 

「あいつなら内定も決まってるみたいだし、高校大学の分の貸しを返してもらうか」

 

 呟くや否や手慣れた感じでスマホから相手の連絡先を呼び出し電話をかける。程なくして繋がった。

 

『どうしたんですか先輩。いきなりこんな時間に』

「おう、一色か。悪いんだが、明日俺の部屋に来てくれ」

『……何なんですかいきなり部屋に来いとかドキっとしてそういう事だと思って覚悟しちゃいますけどいいんですかごめんなさい』

「相変わらずはえーよ。そのだな。落ち着いて聞いて欲しいんだが」

『はい』

「さっき、俺のマンションへ落雷があってな」

『大丈夫ですか? PCとかダメになって今後悲しい生活を送る羽目になってません?』

「どうして心配が妙な方向なんだ。まあいい。それでな、何故か未来から俺の赤ん坊がやってきた」

 

 間違いなく電話口で呆れるような声が漏れた。それに構わず八幡はこう告げた。証拠を送るから一旦切ると。そして彼はスマホでゆいこを撮影し、その画像をメールに添付して送った。数分してスマホが振動した。いろはからの着信だった。

 

「どうだ?」

『先輩、信じられないですけど信じます。だって、先輩に誰かと一線超えるとか、ましてや子供産ませるとか不可能ですし』

「……色々言いたい事はあるが信じてもらえたならそれでいい。で、お前に頼みがあるんだ」

『嫌ですよぉ。ただ面倒見るだけなら考えますけど、この歳でベビー用品とか買いに行きたくないです~』

 

 いろはの言い分は八幡にも予想出来ていた。だからだろう。彼は枕と戯れるゆいこを横目にし、苦渋の決断を告げた。

 

―――もし引き受けてくれたらこの部屋の合鍵を渡す。

―――何が必要ですか? メモするんで教えてください。

 

 即答だった。八幡もどことなく気付いていた。いろはが自分へ好意を寄せている事は。だが気のせいだと、勘違いだと自分へ言い聞かせて過ごしていたのだ。それでも今回頼った事での反応を理由に彼は認めざるを得なかった。彼女が自分へ本当に好意を抱いてくれている事を。

 

 いろはへ用意して欲しい物を伝え、明朝に来て欲しいと告げると彼女は思いがけない返事をしてきた。

 

『いえ、今から行きます』

「バカ、時間考えろ。何かあったらどうする」

『でも先輩、そのゆいこちゃん、でしたっけ? おむつとかすぐ必要になりません?』

 

 反論出来ない事実だった。だが、女性が一人で出歩くには少々物騒な時間になりつつあるのも事実。どうするかと考えた八幡が出した結論は金で解決する事だった。

 

「分かった。ならタクシーで移動しろ。代金は俺が出す。おむつやミルクなんかもだ」

『……分かりました。じゃ、まず先輩の部屋へ行きます。そこから三人で買い物に行きましょう』

「は? いや、赤ん坊連れて出歩くのは余計不味いだろ」

『なら先輩、その子の使ってるおむつ、どこのか教えてください』

「…………気を付けてこい」

 

 会話終了。さすがの八幡もおむつのメーカーまでは分からない。というよりも、今はそういう事へ割く力が残ってなかったのだ。彼はそこで空腹だった事を思い出し、すっかり冷めてしまった弁当をレンジで温め直して食べる事にした。

 

 そうやって食事を終え、ゆいこを抱っこしてぼんやりとしていると来客を告げる音が室内へ響く。

 

「来たか」

 

 ゆいこを抱えたままで玄関へ向かう八幡。ドアを開けると、そこには大きめのバッグを持ったいろはの姿があった。すると彼女の目が八幡の抱えているゆいこへ向いた。

 

「わぁ、ホントに赤ちゃんだぁ。先輩、抱っこしてみていいですか?」

「ああ、いいけど意外と重いからな。それと荷物よこせ」

「はーい、ありがとうございまーすっと、本当だ。ズシッときますね」

 

 どこか嬉しそうに笑っていろははゆいこを抱き抱えた。すると一瞬だけ、ゆいこの髪色が黒からいろはと同じ色へ変化する。それに二人は揃って目を疑う。だが、もうゆいこの髪色は黒へ戻っていた。

 

「……どういう事なんでしょうか?」

「知らん。何せ未来からの使者だからな」

「あー、そうですね。じゃ、行きましょうか」

「その前にタクシー代を出す。いくらだった?」

「それ、後にしてくれません? 待ってもらってるんですよ」

「……そうか。雨だもんな」

「ですです。赤ちゃん連れて行くんだし、行きぐらいは車にしてあげようかなと」

 

 こうして二人はゆいこを連れて、タクシーで遅い時間でも開いてる大型ドラッグストアへと向かった。そこでゆいこの使っているおむつのメーカーも判明し、同じのはないようなので似た物を購入。ミルクなども店員からアドバイスを受けながら選び買い物は終了。帰りは八幡が片手に荷物を、もう片手で傘を差して、いろはがゆいこを抱き抱える形で帰宅する事となった。

 

「あの、先輩」

「ん?」

 

 車が撥ねる水しぶきからいろはを守るように車道側を歩く八幡。そんな彼へいろはが少しだけ微笑みながら声をかけたのは、八幡の部屋まで後五分程度まで来た辺りだった。周囲の明かりは乏しく、精々が自販機や時折存在するコンビニぐらいだった。

 

「この子、未来から来た先輩の子供なんですよね?」

「だと思う。未だにどこか信じられないがな」

「お母さん、誰なんですかね?」

 

 それは八幡が考えないようにしていた事だった。名前から推察しようにも平仮名で書かれていた上、ゆいこという響きだけではヒントもない。一人非常に似た響きの名を持つ女性に心当たりがあるものの、だとしても安直すぎるとも思えるのだ。果たして自分が名付ける際、そこまで簡単に名を付けるだろうかと。

 

「最初は由比ヶ浜が第一候補だったが、おそらくその線はないな」

「どうしてです?」

「あいつが自分の子供にゆいこなんて安直な名前付けるとおもうか?」

「…………たしかに結衣先輩でももう少し捻りそうです」

「何気に酷いな、お前。で、次にありそうなのは平塚先生だが……」

「でも、そうじゃないですよね」

「ああ、やはり名前が引っかかる。ゆいこ。漢字でもなく平仮名でゆいこだ。一体どういう意味で名付けたのか分からん。一色、お前でもゆいことは付けないだろ?」

 

 何気ない問いかけだった。会話の流れとしても深い意味はない。ただし、それは八幡にとってである。いろはにとっては軽い問いかけではなかった。何せ、それは八幡がどこかで彼女へそういう可能性があると思っている事を意味していたのだから。

 

「そうですね。でも、可愛い名前とは思います。それに、私一つ気付いちゃいました。先輩、この子と私の名前に共通点あるんですよ」

 

 八幡が足を止めた。それが自分の言った意味を理解したからだと分かり、いろはは悪戯っぽく微笑んで振り向く。

 

―――平仮名三文字の名前って、私と一緒じゃないですか?

 

 盲点だった。まさしく八幡の表情から感情が抜ける。だが、それでも彼はある事を思い出して我に返った。

 

「じゃ、何で一瞬こいつの髪色が変わったんだ? まるであれはお前が抱っこしたから起きたみたいな現象だったぞ」

「……実は本当に私がお母さんだからとか?」

「だったらますます分からん。お前が仮に俺の妻になるとしてだ。どうしてそれを完全に伏せる? それとなく匂わせるぐらいはしそうだ」

 

 その意見に賛成なのかいろはも何か反論する事なく黙っていた。それを見て八幡は更にこう続ける。

 

「あの手紙が直筆だったらまだ違ったんだがな。あれはどう見てもプリントアウトされた奴だ。徹底して俺に母親の正体を悟らせないようにしてると見ていいだろう。だから、名前も本当に平仮名でゆいことは限らん」

 

 まるで立ち直ったかのように、いろは母親説を否定していく八幡に対し彼女が少しだけ悲しそうな顔をした瞬間、それまで機嫌の良かったゆいこが急にぐずり出した。

 

「あれ? どうしたんだろ? どうしたの~? 大丈夫だよ~、お姉さんは怒られてないからね~?」

 

 優しくいろはが話し掛けながらあやすと、すぐにゆいこが笑顔へ戻る。それを見た八幡は、内心でいろはが本当に母親なのではと思ってしまっていた。それぐらいあっさり泣き止んだのだ。そうして二人は部屋へと戻り、ゆいこをお風呂に入れてやるべきといろはが提案した。

 

「この子、女の子ですよね。私が一緒に入ってあげます」

「いや、万一を考えれば俺の方がいいだろ。それに、お前は帰った方が」

「先輩、あの荷物見て分かりません? 私、今日泊まりますから」

「は?」

「先輩でも赤ちゃんのいるところで変な事は絶対出来ませんし、おむつの替え方とかも練習したいです。だって、先輩私にゆいこちゃんの面倒見て欲しいんですよね?」

 

 いろはの言葉に八幡は返す言葉がなかった。夜泣きなどされた場合、彼では泣き止ませる自信がないからだ。あの帰り道での出来事はそう思わせるに十分な程の光景だった。結局入浴は八幡が共にする事になり、いろはがゆいこの体を拭いてあげる事で決着となる。

 

 湯を張ったバスタブに入浴剤を溶かす。そうやって色を付けてから八幡はバスルームから出た。いろはは丁度おむつの着け方を練習しているところで、ゆいこはそんな彼女を楽しそうに見つめて笑っている。

 

「一色、ゆいこ連れてくぞ」

「あ、はい。どれぐらいで行けばいいですかね?」

「あー……あまり長く入らせるのもあれだろうから、俺がバスルーム行って五分ぐらいでいいぞ。ゆいこ渡したら俺は体とか洗うわ」

「……うん、先輩先に体とか洗っておいてください。私、ゆいこちゃん抱いて待ってますから。頭とか全部洗い終わったらお湯に入って待っててください。で、私を呼んでくれればゆいこちゃんを渡しますんで」

「……それがいいか。考えたらお前も入るんだもんな」

「ですよ。ま、私が先に入ってもいいんですけどね」

「そうした方がいいかもな。何て言うか、今まで経験どころか考えた事もない状況の連続で上手く頭が回らん」

 

 こうして先にいろはが入浴する事と相成った。八幡はゆいこを抱き抱え、今後の事をぼんやりと考え始める。いろはが基本的に時間に余裕があるとはいえ、それも絶対ではないしいつでもとはいかない。となると、やはり妹の小町の助けも借りるしかない。だが、それも限度がある。一年間はゆいこは帰れないのだ。その間、この幼い命が頼れるのは父である八幡のみ。そう思うと彼はため息を吐いた。

 

(彼女が出来る前に子供が出来るとか、どこの漫画やアニメだよ)

 

 しかし、裏を返せばこのままいけば将来妻が出来る事を意味している。それが誰かは分からないが、おそらくあの奉仕部関係で知り合った相手であろうと予想をつけていた。何故なら、今も彼と繋がりがあり、好意らしきものを見せたり感じさせたりするのは、その頃の相手ばかりだからだ。

 

「……由比ヶ浜が仮に母親だとしたら、名前は理解出来るし納得も出来ない訳じゃない。一色もないとは言い切れないな。ただ……」

 

 彼の脳裏に甦る長い黒髪が美しい女性の姿。彼女が母親と仮定すると納得どころか理解さえ出来ない。なのでその女性は絶対に近い程ないと断定し、八幡はゆいこを見つめた。ゆいこは小さな手をいっぱいに伸ばして彼の顔を触っている。それがここにはいない肉親を求めているように思え、彼はほんの少し表情を緩めた。

 

「ごめんな、お前の父ちゃんじゃなくて。何年後かにはそうなってる予定らしいが」

 

 懸命に手を伸ばす姿が微笑ましく、八幡は優しい表情でその行動を眺めていた。それを湯上りのいろはが思わず息を潜めて見守るぐらいに優しい微笑みで。彼女が八幡へ声を掛けたのは、それから四・五分は経過してからだった。

 

「えっと、先輩お待たせしました」

「ん? ああ、別に気にしてないぞ。女は長風呂がデフォだからな」

「そうですけど言い方ってもんがありません? あと、他に言う事も」

「悪いが俺はこういう奴だ。気の利いた事など言える気がしない。それとそれなりに色っぽいぞ。これでいいか?」

「もう……ま、それで許してあげます」

 

 ゆいこを抱き上げながら立ち上がり、八幡はいろはへその抱えた幼子を差し出した。受け取ってくれと言う事なのだろう。なのでいろはは小さく息を吐きながらゆいこを受け取り笑顔を浮かべた。それを横目にしながら八幡はバスルームへと向かう。服を脱ぎ、浴室へ入った瞬間香る嗅ぎ慣れない匂いに気付いた。

 

「……一色のシャンプーか?」

 

 見れば見慣れないボトルが置いてあった。それが彼女の持って来た物だろうと思い、彼は意識を切り替えて体を洗い始める。その脳内では先程までここを使っていた後輩の事を考えそうになり、必死に他事を思い浮かべて対処しようとしていたが。

 

(見られる可能性は低いし気付かれる事もないと思うが、一色は察しがいい奴だからな。何が切っ掛けで気付かれるか分からん。だからここはゆいこの母親について考えてみるか)

 

 手がかりはゼロに等しい。送られてきた手紙は印刷された物なので筆跡などないし、ゆいこという名前からもそれらしい手がかりはないと言える。由比ヶ浜結衣という女性はいるが、いくら何でも娘に自分の名前をそのまま付ける事はしないはず。そもそも何故ゆいこなのかも分からない。必ず意味はあるはずなのだが、それさえも分からないと言えた。

 

 体を洗い終わり頭を洗い始めても八幡の中で疑問は尽きなかった。どうしてこの時間軸に来る事が避けられないのか。あの手紙によればこの事は未来の自分かもしくは妻は知っていた。逆算すれば、この経験を積んだからこそ自分は結婚し子供にゆいこと名付けるのだろうか。であれば、このままではその相手はいろはが最有力となる。そこまで考え八幡の頭の泡をシャワーで流した。

 

「……ま、最有力ってだけで確定ではないしな」

 

 まるで自分に言い聞かせるようにそう呟いて、彼はバスタブへと向かう。と、それを待っていたかのようにドアの外から声が聞こえてきた。

 

「せんぱーい、もう大丈夫ですか?」

「おう、大丈夫だ。ゆいこ、連れてきてくれるか?」

「はーい、ちょっと待ってくださいね」

 

 その返事からややあってドアが開き、いろはが顔だけ覗かせる。そこには湯に浸かった八幡がいた。その体のほとんどを隠すように浸かっている辺り、彼の用心深さが現れていると思っていろはは苦笑した。

 

「何だよ?」

「いえ、先輩らしいなと思いまして。はい、ゆいこちゃんです」

「おう」

 

 浴室へ足を踏み入れ、ゆいこを八幡へ手渡すいろは。その光景ややり取りが本当に夫婦のように思え、二人は少しだけ気恥ずかしさを覚えた。それでもゆいこを八幡が湯へ浸からせるのを見届けるまでいろははそこにいた。

 

「気持ちよさそうですね」

「ああ、ご機嫌だな」

「何か、こういうの見てると赤ちゃんっていいなぁって思います」

「実際はもっと大変だろ。今日だって買い物だけでどんだけ色々聞いた事か」

「ですねぇ。だけど、私達の両親だって似た事をしたんだって思うと頭が下がります」

「……だな」

 

 忘れていた親への感謝。いや、この場合は改めて知る親の凄さだろう。自分達はこれよりも大変な苦労をかけてここまできた。そう八幡といろはは噛み締めたのだ。ゆいこを世話する数時間でそれなりに疲れたのだ。これを両親は何年もやった。それも仕事や家事と働きながらだ。そこからしばらく二人は黙り込んだ。唯一ゆいこだけが楽しそうにはしゃぐだけ。それが二人にはかつての己と重なって見えるのだろう。どこか懐かしく、また愛おしそうに眼差しを向けていた。

 

「……そろそろいいか。一色、バスタオルを持ってきてくれ」

「あっ、はい」

 

 一旦浴室から出てその手にバスタオルを持っていろはが戻る。その広げたタオルへ置くように八幡がゆいこを優しく乗せた。確かな重みを受け止め、いろはは少しだけ笑みを見せる。

 

「じゃ、ゆいこちゃんは私が拭いておきますから」

「頼む」

「はーい、ゆいこちゃん。体拭いたらねんねしましょうね~」

 

 母親のような事を言いながら浴室を出ていくいろはを見送り、八幡は大きくため息を吐いた。

 

「一色を頼ったのは間違いかもしれん」

 

 たった数時間のやり取りではあるが、この上なく現実味のあるままごとになってしまった。そう八幡は感じていた。現実の赤子を使っての疑似体験。これに勝る仮想条件はないだろう。おかげで先程から彼の心は乱れに乱れている。いろはも言ったが、本当に子供が欲しくなるのだ。ゆいこの母親が誰かは分からないが、きっとその相手は自分の知る女性だろうと思っている事もそこに関係しているだろう。あの高校時代に関わり合った三人の女子。一人とは連絡が取れず、一人とは未だに連絡が取れ、もう一人は今ここにいる。

 

「……由比ヶ浜とも会わせてみて、あの変化が起きるか試してみるか?」

 

 もしそれであの変化が起きればいろはは母親ではない事になる。そう仮定して八幡は湯から上がった。バスルームから出るとそこには新しいバスタオルが用意されていた。いろはがやったのだろうと思い、八幡は思わず呟いた。

 

「妻気取りかよ」

 

 だが、言葉とは裏腹に彼の声には喜びが込められていた。その後、彼ら二人は初めての作業に追われる事となる。授乳におむつ替えである。育児書などないのでPCで調べながらゆいこの世話をし、寝付かせた頃には日付が変わっていたぐらいの大仕事となっていた。

 

「……じゃ、先輩。私も寝ます」

「おう、俺も寝るわ」

 

 ベッドにいろはとゆいこを寝かせ、八幡はソファで横になる。幸いな事に夜泣きなどせず、二人は目覚ましで泣きわめくゆいこの声が聞こえるまで眠りに就くのであった……。

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