「結衣先輩ですか?」
「ああ、あいつにもゆいこを会わせてみようと思う」
雨も上がり、陽射し差し込む中靴を履きながら、八幡はゆいこを抱き抱えるいろはへそう告げた。社会人の朝は早い。時刻は七時半を過ぎるか過ぎないか。いろはにとっては驚きであるが、これが来年の自分も通る道かと思い微妙な気持ちとなっていた。
「まぁ、ある意味で最有力候補ですもんね」
「だから連絡しとくわ。今日か、遅くても今週中には会いたいしな」
「ゆいこちゃんのため、ですか?」
その確かめるような問いかけに八幡は即答出来なかった。それが何よりの答えである。いろはは彼の気持ちを察すると小さく息を吐いてゆいこの右手を優しく掴んだ。
「ゆいこちゃん、パパに行ってらっしゃいしようね? 行ってらっしゃ~い」
「……行ってくる」
気恥ずかしさと照れくささが一気に押し寄せ、八幡は居た堪れなくなって玄関を出た。頭の中で、いろはと結婚した場合、先程の光景が日常になるのかと思ってしまったのもある。こうして八幡は一旦ゆいこに関する事を忘れて仕事へ向かった。一方、いろはと言えばゆいこの世話をしながら一度自分の部屋に帰る事を考えていた。
「一年間、かぁ」
テーブルに肘を付いてため息を吐くいろは。その視線は、ベッドではしゃぐゆいこへ向けられる。その無邪気な声と姿に彼女は無意識の内に笑みを浮かべた。今朝、ゆいこの泣き声で目覚めた時は八幡と二人で大慌てだった。それでもいろはが抱き抱えてあやすとすぐに泣き止んだので大事には至らなかったが。
(ホント、ゆいこちゃんのお母さんって誰なんだろ? 私……だったらいいなぁ)
そんな事を考えながら、いろははそっとある物を取り出す。それは鍵。この部屋の合鍵であった。かつて欲しくても得られなかった物。進路希望校を八幡と同じところにし、奉仕部の二人と離れた彼と親密になろうとした大学生活。だけど、結局進展する事はなく、出来たのは高校時代に比べれば比較的声を掛けられる頻度を増やせた程度。
「なのに、自分の子が絡んだ瞬間あっさりと私を頼れるんだから……」
どこか呆れつつも嬉しそうにいろはは微笑む。八幡の家族思いな面を感じられたためだ。元々妹への愛情が重いぐらいあるのを彼女は知っている。だけど、それがまさか子供にまで出せるとは思っていなかったのだ。昨夜のゆいこを見つめる優しい眼差し。あれがいろはの恋心を更に刺激してしまったのだから。
「それにしても結衣先輩か。先輩は安直って言ったけど、ゆいこちゃんの名前が偽物だとしたら一気に最有力だよねぇ。ゆいこって、結衣の子って意味だって言えるし」
ぼんやりと結衣がゆいこを抱き抱える様を想像する。スタイルもあって、自分よりも母親感が強いそれにいろはは大きくため息を吐いてテーブルへ突っ伏した。確実に自分よりも母親らしいと思ってしまったのだ。
「……ゆいこちゃん連れて部屋戻って、大学のあれこれも持ってこようかな?」
いくら内定が決まっているとはいえ、いつ取り消しと言われてもおかしくない世の中である。それに卒論はどちらにせよやらねばならない。であるならこの一年間、この部屋で同居させてもらう方がいい。そう考えていろはは立ち上がる。が、すぐにある事に気付いて腕を組んだ。
「ゆいこちゃん、ずっと抱っこだと辛いよね」
こうしてまずはゆいこを連れて買い物へ行く事にした。よくある子供を連れていくのに便利な抱っこ服を手に入れようと思ったのだ。本格的に母親の買い物だが、一年間は短いようで長い。それに、将来を考えれば無駄にはならないと思ったのだろう。
そして無事に手に入れた抱っこ服へその場で着替え、ゆいこを連れていろはは自分の部屋へと向かう。周囲の目は気にはなるが、そんな事を気にしていたら何も出来ないと覚悟を決めて。この辺り、いろはも僅かながら母らしい気持ちが芽生えてきているのだろう。
いろはがゆいこを連れて自室へ戻っている頃、八幡はPCの画面へ意識を集中していた。彼はとある中小企業の事務仕事を受け持っている。メインは肉体労働系という事もあり、事務方に若い人間がそこまでいないため、新卒でPCも使えるというだけで採用が決まった職場であった。そのため、彼が嫌うようなタイプの人間はあまりおらず、いてもそういう人間はデスクではなく現場の人間なため、直接関わる事はほぼないというのも八幡としては嬉しい点である。
「……こんなもんか」
仕事はデータ整理とたまの電話応対。簡単に言えばこれだけである。その分給料は多くないが、人付き合いなどが苦手な彼にとってはそれをクリア出来ている時点で恩の字であった。と、そんな彼の肩が叩かれたのはそんな時だった。
「比企谷君、どうだ? もう仕事は慣れたか?」
「社長……」
振り向いた先には五十半ばにしては若く見える男性が立っていた。この会社の社長である。それまで肉体労働系の人間はみなどこかガサツなイメージを持っていた八幡が、その認識が偏見であったと心から認める理由となった人物である。
「こんな先の見えない会社へ新卒が来るとは、世も末だなと思ったんだがな」
「自分もびっくりしました。まさか面接であんな事を言われるとは」
「ああ、その目は生まれつきかって奴だな。いや、きっとそれは学生の時に言われてると思ってなぁ。そういうものに対する反応でそいつの人間性ってもんは分かるんだ」
「で、自分は合格だったと」
「いや、採用しないつもりだった」
「は?」
思わぬ返しに素の声を出す八幡。すると社長は呆れた顔を見せる。
「いや、お前さんな。普通面接ってのはもう少し外面を気にするもんだ。なのに何て答えたか言ってみろ」
「気が付いたらこうなってました。なので生まれつきというよりは生き疲れですね」
「ああ、そうだ。自分は、これまでのたった二十年ちょっとで生きる事に疲れましたなんて言いやがって。普通ならもう少し自分を良く見せるもんだろ」
その話を聞いていた一人の中年女性が笑いながら二人へお茶を出した。社長の奥さんである。
「ふふっ、よく言うわよ。今時自分を飾らない珍しい奴だって、そういって採用する事に決めたんじゃない。アナタも昔は本音ばかり言って痛い目見たものね」
「ほっとけ」
「比企谷君、この人はね、貴方みたいな子は絶対根はいい奴だって言い張ったのよ? 自分もそうだって言いたいでしょうね。ま、仕事ぶりを見てると真面目でしっかりしてるとは思うけど」
「きょ、恐縮です……」
どこかその採用理由がいつかの恩師を思い出させる内容で、八幡は内心で息を吐いていた。
(やっぱ、俺はまだ大人になれてないんだな……)
大人ならば、社長の言ったように上手く自分を飾るだろう。本音を言う。嘘を言わない。それらは美点であるかもしれないが、世の中を生きていくには少々難しいためだ。嘘ではない程度に飾り、気に入られようとするのが賢い生き方。それは八幡も分かってはいる。いるのだが、やはりどこかで青臭い気持ちが出てしまうのだ。
自分の事を見つめ直すように茶碗の中身に映る己を見つめる八幡。そんな彼へ一気にお茶を飲み干して社長が問いかける。
「で、どうだ? 慣れたか?」
「え、はい。難しい事はそこまでないですし、仕事量も殺人的には程遠いですから」
「あー、それじゃないんだ。いや、それも含めてではあるんだが……」
「比企谷君、この人は職場には慣れたかって聞いてるの。つまり、人付き合い。貴方、そういうの苦手でしょ?」
返す言葉が無かった。彼としてはそれなりに上手くやっていると思っていたのだが、やはりそれは自分だけの認識でしかなかったと痛感した。八幡が返事をしない事で社長夫妻も察したのだろう。揃って苦笑すると彼へこう告げた。
「まぁ、今の若い奴らが仕事以外で関わるのを嫌がるのは知ってる。でもな、ここはまだそういう繋がりを大事にしてるんだわ。大手さんみたいな感じには、俺らはさすがに出来ん」
「煩わしいかもしれないけれど、人の繋がりを大事にするのは保険みたいなものなの。ほら、情けは人のためならずって言うでしょ? いざという時に自分が助かるために誰かを助けたり、あるいは仲良くしておくの。これはきっとどこの仕事や国でも言えるはずね」
暗に勤務時間が終わるや挨拶だけして帰宅する八幡への助言であった。人と関る事を避けていては後々困る事になるのは自分だぞ、と夫妻は告げていた。おそらく実体験からのそれに八幡は反論する事は出来なかった。そこまで彼は自信家でもなければ自惚れてもいなかったのである。
「すぐに変えろとは言わんさ。ただ、少し考えてみてくれや。久しぶりの新卒で他の奴らも喜んではいるんだ」
「……マジですか?」
「ええ、そうよ。昔なら歓迎会とかしたんだけど、今は不景気のせいか中々ね。それに比企谷君もそういうの嫌いそうだったから」
奥さんの言葉に八幡は身が縮む思いだった。本当に子供だと思ってしまったからである。大手の企業ならまだしも、中小の中にはこういう付き合い方をする会社も少なくない。そういう意味でも彼はまだ未熟だった。
「とにかくだ。もしそっちの気持ちが変わったら教えてくれ。こっちはいつでも飲む口実さえあれば歓迎だからな」
「そういう事よ。まぁ、みんな比企谷君の事を受け入れたいの。そういうための切っ掛けが欲しいのね」
そう言って社長夫妻は去っていく。残された八幡は温くなったお茶へ口を付けて呟く。
―――大人になるって、難しいな……。
そして昼休みとなり、八幡はいつものように昼を食べるべく外へと向かい、行きつけとなりつつある定食屋へ入った。そこは会社の人間もよく使う場所で、彼もそこを彼らから教えてもらったのだ。いや、連れて来てもらったのだ。それは、彼がコンビニ弁当ばかり食べている事を見た彼らなりの気遣いだと八幡が知るのは、もう少し後になる。
「いらっしゃい」
「えっと……日替わりで」
「あいよ。盛りは普通でいいかい?」
「うす、普通でいいです」
少し無愛想だが味はいいし、何より値段が安いのが八幡としては有難かった。近所にあれば毎日通う事請け合いなぐらいである。日替わり定食は五百円。たまの贅沢焼肉定食が七百八十円。他にも焼き魚定食や煮魚定食などもあり、ご飯の大盛り無料でお代わりは一杯までならタダなのだ。
「そうだ。今の内に由比ヶ浜へ連絡入れておくか」
久しぶりの連絡に若干緊張しつつ、メールを打ち始める。内容はもし可能なら連絡くれという一文。送信し少し息を吐いて水を飲み、何か雑誌でも読むかと動こうとした瞬間、スマホが振動する。
「……マジか」
見れば結衣からの返信だった。そこには久しぶりの連絡且つ彼からしたメールともあっての驚きなどが綴られている。これなら大丈夫かと思いつつ、彼はメールを送った。内容は大事な話があるので電話しても大丈夫な時間を教えてくれというもの。その返信は意外と時間がかかった。
「……来たな」
八幡が最後の鳥の唐揚げを飲み込んだ時、それはきた。そこに書かれていたのは午後一時までなら大丈夫という文と、それ以外なら午後五時過ぎという文だった。ならばと考え、八幡は午後五時以降に電話すると返した。その後は店を出てする事もないので会社へ戻り、早く帰れるように仕事を片付け始める。普段であればどこかで時間を潰して休憩時間ギリギリまで過ごすのだが、ゆいこのために早く帰宅したいとの気持ちと、結衣との連絡を茶化されないためにと思い、八幡は仕事へ打ち込んだ。それを周囲がどう見るかを考えぬまま。
「じゃあ、お先に失礼します。朝の件、前向きに検討してみます」
「そうか。お疲れさん」
社長を始め他の者達へ挨拶し、八幡は会社を後にした。歩きながらスマホで結衣へ電話を掛ける。するとワンコールぐらいで繋がった。
『も、もしもし?』
「おう、由比ヶ浜か。悪いな、突然」
『う、ううん。ヒッキーこそどうしたの? いきなり連絡来て驚いちゃった』
「その……だな。お前、今週予定空いてる日あるか? 出来れば早い方がいいんだが」
『ふぇ?!』
奇声を発する結衣に八幡は内心である事を思った。それは、彼女の自分への気持ち。高校時代、結衣は八幡へ一番分かり易く好意を向けていた。それが今もまだ消えていないのだろうか。そう考えながら八幡は答えを待った。
『え、えっと……夜なら大抵空いてるけど……』
「今からはどうだ?」
『ええっ!? い、今からって……ヒッキー、どうしたの? てか、ホントにヒッキー?』
「失礼な奴だな。ま、気持ちは分からんでもない。その、ちょっとした問題が起きてな」
そこで八幡は結衣へゆいこの事を簡単に説明した。証拠として昨日いろはへ送った画像を添付したメールも送って。すると数分後、結衣から再度着信があった。
「どうだ?」
『うん、信じるよ。でも、ゆいこちゃんかぁ。何か他人な気がしない名前だね。……お母さん、誰?』
その声に込められた感情を察し、八幡は大きく息を吐いた。いろはと同じだと分かったのだ。大学四年の間で縁遠くなった後も、彼女は一途に思い続けてくれているのだとも。だからこそ、偽りなき本音を告げた。
「その母親探しも兼ねてる。やっぱり子供には母親が必要だろうと思ってな」
『それであたし?』
「実は、一色が初めて抱き抱えた時、髪色が一瞬だけ変化したんだ。そこでお前にも抱っこしてもらって同じ事が起きるか確かめたい」
『……それが起きないといろはちゃんがお母さん?』
「可能性が高いってだけだ。どうだ?」
『ヒッキーってどこに住んでるの?』
返事はすぐには出せないだろう。そう八幡は思っていた。だが、その予想に反して結衣は即答とも言える速さで応じた。どこに行けばいいのかと、そう彼へ問うてきたのだ。その声に込められた女としての強い気持ちに気圧され、八幡は少しではあるが息を呑む。それでも気を取り直し最寄駅を告げ、そこで待ち合わせる事になった。通話を終えて八幡はスマホをポケットにしまいながら息を吐く。
「お前もかよ、由比ヶ浜。どうしてだ? 何でこんな奴に執着するんだよ……」
呟きつつ、彼は彼女の気持ちにどこかで喜んでもいた。あの頃は直視する事が出来なかった関係。だが、それに目を向けなければならない事態になっている。その大きな理由がゆいこの存在である事は疑いようがない。逆に言えば、あの赤子がいなければ今も彼は目を背け続けただろう。それが一番彼女達を傷付けるとどこかで知りながら。それをしなくてもよくなった。それ自体は彼も素直に喜べる。ただ、その根底にある動機は喜べはしないものではあったが。
さて、最寄駅で結衣を待つ事になった八幡であったが、その心中は複雑であった。大学へ進学した直後ぐらいはまだ連絡をもらう事もあった。会う事はなかったが、繋がりは途絶えてはいなかったのだ。それも一年経ち二年経ちとする内に途絶えがちになり、とうとう誕生日と正月、後は結衣がメアドを変える時しか連絡が来なくなった。それを八幡はどこかでしょうがないとも、これでいいのだとも思っていた。思おうとしていたのだ。
―――あいつにはきっといい相手が出来る。俺なんかよりも、あいつの事を想って幸せにしようと考える奴が。
まさしく童貞くさい考えだった。そう今の八幡は言える。何も女性との経験をしたとかではない。あの頃の、高校時代の自分への率直な感想だった。結衣程の女性はそうはいない。大学でそれとなく見た中でもそう断言出来るレベルで、結衣はいい女だったのだから。
「ヒッキー?」
不意に聞こえた声に八幡の胸が高鳴る。それでも慌てず自然な風を装って振り返った。そこには、少しだけ髪を伸ばした由比ヶ浜結衣がいた。その格好はいかにも仕事帰りのOLといった風情で、そこはかとない色気に彼の心が騒いだ。
「……おう、一瞬誰か分からなかったわ。髪、伸ばしたのか」
「うん、大学入ってからは大人っぽくなろうと思って。ほら、あの髪型だと子供っぽいって見られてさ。エッチな事出来るかもって思われたみたいで」
あははと苦笑いを浮かべる結衣を見て、八幡は思わず息を呑んだ。その脳裏に過ぎる大学でのサークル騒動。そういう連中に何かされたのか。そう思って表情を強張らせる彼に気付いて、結衣が小首を傾げた。
「どうしたの? 何か顔怖いよ、ヒッキー」
「……大学で変な連中に絡まれたのか?」
「え? あ、大丈夫。実はそこにめぐり先輩がいてね。あたしの事助けてくれたんだ。今の会社もめぐり先輩の紹介」
「めぐり先輩、か。懐かしい名前だな」
「めぐり先輩もヒッキーの事気にしてたよ? ちゃんと社会でやっていけるかなって」
「余計なお世話……とは言えないな。実際、今の職場へ行ってなければどうなっていたやら」
と、そこで結衣がある事に気付く。それは八幡の目。彼女が最後に見た頃よりも心持ち眼差しが優しくなっているのだ。その原因を考えたところで彼女は肝心な事を思い出した。
「そうだ。ヒッキー、あのゆいこちゃんって子に会わせてくれるんだよね?」
「ああ、そうだったな。ついて来てくれ」
こうして部屋へ結衣を招いた八幡だったが、彼は一つ失念している事があった。ゆいこの面倒を見ている存在だ。彼女が結衣を心から歓迎するかどうか。その一点をすっかり忘れていたのである。
「ここだ」
「お邪魔しまーす」
「あっ、お帰りなさい先ぱ……」
二人の前に現れたのは、エプロンで背中にゆいこを背負ったいろはであった。その奥さん感全開の姿に八幡は沈黙し、結衣は目を見開いた。いろはも結衣の姿に目を見開く。まさか昨日の今日で連れて来るとは思っていなかったのだ。無言で立ち尽くす三人。その硬直を解いたのはゆいこの楽しそうな声だった。
「あ、言い忘れたな。とりあえず一色に面倒を見てくれるように協力を頼んだんだ」
「そ、そうだったんだ。びっくりしたよ。てっきりいろはちゃんがヒッキーの彼女になったのかと」
「あはは、そんな訳ないじゃないですかぁ。まぁ、先輩が望むなら構いませんけどね」
「もう、ダメだよいろはちゃん。そんな事言ってヒッキー困らせちゃ」
「いえいえ、こう見えても昨日一緒にお風呂に入った仲ですし、可能性はないとは言えないかと」
さすがにその発言を流す事は出来なかったのだろう。結衣が動く前に八幡が口を挟んだ。
「おい、誤解を与える言い方をするな。ゆいこを入浴させるために、お前は服を着て風呂に浸かった俺へ手渡しに来ただけだろ」
その発言に安堵する結衣と少しだけ不満そうないろは。ただゆいこだけが不思議そうに彼らを見ていた。その眼差しに気付き、八幡がゆいこをそっと抱き上げて結衣へと手渡す。
「由比ヶ浜、ちょっと抱っこしてみてくれ」
「う、うん」
「思ってるより重いですから気を付けてくださいね」
「分かった。っと、うわぁあったかくて柔らかいね~」
結衣が抱き抱えても髪色の変化は起きない。それにいろはと八幡が気付く。だが、別の変化が起きた。それは一瞬ではあるがゆいこのクセ毛が消えたのだ。その意味する事に八幡が息を呑んだ。
(まさか……ゆいこの見せる変化は一色や由比ヶ浜が妻になった場合か!?)
もしそう仮定するとゆいこの母親は二人ではないとなる。そして、そうなると相手は八幡の中に一人しかいなかった。だからこそ、八幡はそれを切り出すタイミングを計った。今はまだ早い上に面倒な事になる。何故なら結衣はゆいこを心から可愛がっていたからだ。そんな気分へいきなり水を差すのは避けたい。そう考え、彼はとりあえず結衣を部屋に上げる事にした。
「とりあえず上がってくれ由比ヶ浜。一色、もしかして料理中だったのか?」
「そうですよぉ。先輩がお腹すかせて帰ってくると思って頑張ってたんですから」
「そ、そうか。悪い。本気で助かる」
少しだけ頬を膨らませるいろはにドキッとしつつ、八幡は靴を脱いで部屋へと上がる。それに続くように結衣もヒールを脱いで部屋へ。だが、結衣を先に行かせていろはは八幡へ耳打ちした。
「先輩、ゆいこちゃんのお母さんってやっぱり雪ノ下先輩ですかね?」
「……まだ分からん」
流石に鋭い。そう思って八幡は歩く。その後ろをいろはが追う様に歩き、キッチンへと向かう。結衣はゆいこへ笑顔を向けながら楽しそうにしていた。その姿も八幡には中々胸に迫るものがある。
「ゆいこちゃんはいい子だね~。ずっと泣かずに笑ってるなんて、あたしでも出来ないよ~」
何気ない一言だったが彼には耳の痛い言葉である。結衣が泣く事があるとすれば、その内のいくつかは自分が原因だろうと思ったからだ。思えば、あの事故から結衣は八幡へ想いを寄せていた。はっきりとそれを伝える事が出来たのは一年以上後となったが、その前にも一度伝えようと動いた事はある。もし、仮にそこで彼がそれを受け止めていたら、未来は大きく変わっただろう。
「ホント凄いなぁ。ね、ヒッキー。ゆいこちゃんって泣いた事あるの?」
「あ、ああ。一度だけな」
「へぇ、夜泣き?」
「いや、一色とちょっとした会話をしていた時だ」
「ふーん、じゃあゆいこちゃんはいろはちゃんのために泣いたのかな? 人のために泣くなんてパパに似てるね~」
「っ!?」
結衣の言葉に八幡は息を呑んだ。それこそ心臓を掴まれるような一言だった。人のために泣く。それは文字通りではない事を彼は理解している。そして、それが結衣の自分への印象であり評価であるとも。あの高校時代、彼女はある意味で一番彼のやり方を見てきている。それは傍からは単なる自己犠牲だ。だが、その根底にはいつだって自分よりも大切な何かがあり、それを守るために動いていた。それを結衣は分かっていると暗に告げていた。
(反則だろ……。それを、今、ここで言うのか……)
思わず顔を背ける。今はとてもではないが誰かに顔を向けられないのだ。こみ上げてきそうになる感情の波を必死に抑え付け、鎮静させようとしていた。すると、彼は背後に気配を感じる。そして聞こえてくる小さな声。
「ヒッキー、ゆいこちゃんってあたしがママかな? だって、ゆいこって結衣の子って意味じゃない?」
いろはが思った事を結衣も思ったのだ。それが八幡の心を揺さぶった。先程見たクセ毛の消失は、本来あるべき姿への変化だとしたら。そう思って彼はゆっくりと振り返った。そこにはクセ毛のないゆいこと微笑む結衣の姿があったのだ。思わず言葉を失う八幡だったが、ゆっくりとゆいこの髪型は戻っていく。それにも彼は驚くように目を瞬きさせる。
「あはは、なんてね。あたしも赤ちゃん欲しくなってきちゃうよ」
「あー、結衣先輩もですか? 私もなんですよ。さすがにまだ早いと思うんですけどね」
「ん~……でもママは産むなら早い方がいいって言うんだよ。あたしも出来れば三十前には産みたいかな」
「ですね。最低ラインはそこです。可能なら二十後半になる前が理想ですけど……」
女性二人の話を聞きながら八幡は頭を抱えたくなっていた。ないと思っていた結衣の可能性。それが再び急浮上してきたからである。ゆいこが偽名とすれば、先程の考えは恐ろしい程しっくりきたのだ。あまり頭の回転が速い訳ではない結衣だからこその、精一杯のヒント。そう考えると腑に落ちてしまったために。
「……いや、まだ分からん。こうなったら毒喰らわば皿までだ」
結婚や妊娠出産の話題で盛り上がる二人を見つめ、八幡は意を決して口を開いた。
「由比ヶ浜、ちょっと頼みがある」
「ん?」
こちらへ笑顔で振り向いた結衣へ彼は真剣な表情でこう切り出した。
―――雪ノ下に連絡を取ってくれないか?