「これで……いいかな?」
ゆいこのおむつ替え。それを結衣が行っていた。彼女の横でいろはが見守っている。とはいえ、そこまで難しい事でもないので結果は約束されていた。
「うん、完璧ですよ結衣先輩」
「あはは、大げさだよいろはちゃん。でも、昔は紙おむつじゃなかったんだよね。どうやってたんだろ?」
「布でやっていたのよ。おしめと言ってたのはそういう事」
哺乳瓶のミルクの温度を確かめながら雪乃が解説をする。今、休日の八幡の部屋は、かつての奉仕部部室のような場所となりつつあった。勿論毎週ではないが、それでも比較的彼女達が揃いやすくはなっている。
「相変わらずだな、ユキペディアは」
家主である八幡は、どこか複雑そうな表情でテーブルに顔を乗せていた。何も雪乃の言った内容に対してそうなっているのではない。ゆいこの現状を見てそうなっていたのだ。
「それにしても、ゆいこちゃん変わったねぇ」
結衣の言葉通り、あれから一月程が経過した現在、ゆいこの見た目はいろはの髪色でクセ毛がなく、色白の可愛らしい外見となっていた。まるで三人の女性の特徴を兼ね備えたかのように。それが意味する事を考え、八幡は複雑な表情を浮かべていたのだ。
「そうね。しかも、最近はこれで固定されつつあるのでしょう?」
「ですです。私が抱っこしても先輩が抱っこしても、結衣先輩でも雪ノ下先輩でも変化なしです」
「もしかして、これが本当のゆいこちゃんとか?」
「いや、それはない……はずだ」
弱めの否定。それが限度だった。何せ、どこまでいっても推測でしかないのだから。未来からやってきた存在。その母親も謎ならば、どうして変化するかも謎なのだ。雪乃達三人の内の誰かが母親なのか。あるいは他の女性であるのか。それさえも確実な事が何もないのだ。
「まぁ、今のこの子の状態は、彼の本音を示していると見るべきね」
「あー、そっか。ヒッキーがあたし達の中でお母さんを選べないから」
「あるいは、三人の内なら誰でもいいとか?」
「そこまで自棄になってはいないと思うけど……」
「こっち見んな」
咄嗟に返した言葉は所謂ネット用語の一つだった。無論、雪乃達にはその事は分からない。が、言ってしまった後の八幡が気恥ずかしそうな反応を見せた事で、何か別の意味があった事だけは察したのだろう。小さく笑みを零すと、雪乃は楽しそうに問いかけた。
「比企谷くん、どうして顔を背けるのかしら?」
「ほっとけ」
「でも、こうなるとゆいこちゃんの名前も由来が気になりますね」
「意外とあたし達の名前から一文字ずつ取ったとか?」
「雪乃と結衣でゆがかぶってるわ。ゆいこ。ゆが私と由比ヶ浜さんで、いが一色さん。では、この部分は?」
「それこそ結衣先輩が言ってたやつですかね? 何々の子って意味」
女性三人の会話を聞きながら、八幡もぼんやりとゆいこの名前の意図を考えていた。雪乃と結衣でゆが共通という点に首を傾げたのだ。と、そこで思い出す事がある。それは、結衣が再会した日に彼へ言った言葉。
―――ゆいこって結衣の子って意味じゃない?
その言葉を思い出して、彼は思わず立ち上がった。その音に三人の視線が彼へ向く。八幡は驚愕していたのだ。
「どうしたの?」
「……分かったんだ。ゆいこの名前の意味が」
「まさか、小町ちゃんの名前も混ざってるとか?」
「違う。ゆいこのゆの字は雪ノ下の名前だ。そしていは一色の名前」
「でも、それじゃ結衣先輩の名前が……」
「いや、ちゃんと由比ヶ浜の名前も入ってるだろ」
八幡の言葉で三人が脳内にゆいこの文字を浮かべて―――同時に小さく声を漏らした。そう、雪乃の”ゆ”といろはの”い”を足す事で結衣の”ゆい”となる。三人の名前を織り交ぜた名前だったのだ。
「由比ヶ浜、お前の考えは間違ってなかったんだ。ゆいこはゆいの子。雪ノ下と一色の名を組み合わせて、お前の名も作りだしている。もし、あの手紙が俺の考えたものなら、この考え方が一番有力だろう」
「じゃ、じゃあお母さんは誰なんですか?」
「それは分からん。この考えでいけば由比ヶ浜が最有力な気もするが、雪ノ下が初めてゆいこを抱っこした時に変化しなかった事が気になる。そして、こうなるとゆいこの名前も本当の名じゃない気もするしな」
全員の視線がゆいこへ注がれる。ゆいこは周囲の反応がよく分からずに指を咥えて小首を傾げていた。その愛くるしさに誰もが笑みを見せる。
「一先ずゆいこちゃんの名前に関しては今のでいいと私は思います。となると……」
「や、やっぱりお母さんが気になるよね」
「比企谷くんの答え次第ではあるけれど、一つだけ私には気になっている事があるの」
ゆいこの頬を優しく指で突きながら、雪乃はそう周囲へ切り出した。そんな中、ゆいこは雪乃の指をしっかり掴んで離さなくなる。その反応により笑みを深くし、雪乃は微笑む。慈愛に満ちた微笑みに八幡が胸をときめかせると気付かぬままに。
「あの、雪ノ下先輩。気になる事って?」
「え……? あっ、その、ゆいこさんが私達にあやされただけですぐに泣き止む事よ。あれから私なりに調べてみたけど、赤子というものはもっと理不尽なぐらい泣くし、実の母親があやしたところで泣き続ける事もあるの。だけど、この子はそんな事はない」
「そうなんだよね。夜泣きもしないし、不意に泣くとしても、ちょっとあやしてあげるだけでニコニコするもん」
「おかげでこっちとしては助かってますけど、そう言われると気になりますね」
「やっぱり本来なら生まれていない存在か? だから母親になりそうな雪ノ下達の心の動きに敏感なのか?」
八幡の呟きにゆいこはただ楽しそうに笑うのみ。と、そこで彼はある事を思った。ゆいこの変化が止まった事は、ある意味で彼の答えに委ねるという、ゆいこなりの意思表示ではないかと。一番初めは雪乃への秘めた想いが強かったための状態で、次はいろはとの接点を設けた事による変化の兆し。結衣が抱いた時も同じ事が言え、雪乃が抱いた時は言うまでもない。
そして、今の八幡はそんな三人との接点を増やしながら、誰へ想いを告げたいのか。あるいは、どう今の自分が想っているのかの、本物の気持ちを見つけなければならないと強く意識している。それ故に対象となっている三人の特徴をゆいこが示しているのではと、そう考えたのだ。
「とりあえず、ゆいこが実在しないかどうかに関係なく、俺はこの子をこの腕でもう一度抱き抱えてやりたい。出来る事なら、産声を上げたその瞬間に立ち会ってな」
強い意志を持って放たれた言葉に、ゆいこが一際嬉しそうな声を上げた。更に手を打ち鳴らしての拍手まで始めたのだ。そんなゆいこに雪乃達も笑顔を見せながら八幡へ視線を動かす。
「良かったわね、アナタ。娘が喜んでくれているわよ?」
「パパ、ゆいこちゃんがカッコイイだって」
「ゆいこちゃんが喜んでくれて良かったですね、お父さん」
「……おう。あと、何で三人してコメントが奥さんっぽいんだよ」
止めてくれ。恥ずかしい。そんな気持ちを滲ませての言葉に、雪乃達は少しだけ照れを見せながらも何も言い返さなかった。それが余計八幡の心を騒がせる。そんな風に時間は過ぎていく。そして、ゆいこを中心とした四人の関わりはそれぞれに良い変化を与え始める。
「本当にいいのか?」
「はい、俺もいい加減ガキのままじゃ不味いんで」
八幡は遂に社長へ自ら飲み会の参加希望を告げた。頻繁には無理だが、時折程度ならとそう前置いて。彼自らの参加希望は社長達男連中を大いに喜ばせ、近くの居酒屋でささやかな酒宴が行われる事となる。そこで八幡は父親のような歳の者達から手荒い歓迎を受けるも、かつて受けた仕打ちなどに比べ、そこにある嬉しさなどの気持ちを感じ取り、こういうのも悪くないと思ったとか思わなかったとか。
「いろはさん、何か良い事ありました?」
「じ・つ・はぁ……じゃ~ん」
「おおっ、これってお兄ちゃんの部屋の合鍵じゃないですか。もしかして、遂に?」
同じ大学の後輩にもなった小町へ、ゆいこの事を伏せて話すいろは。この日、ゆいこはいろはのためにと八幡が面倒を見ていた。それさえもまるで夫婦のように思え、いろはとしては幸せな事だった。残るは卒論を仕上げるのみとなっているため、もう半ば大学生活も終わりに向かっている中、ゆいことの将来のために彼女は色々と考え始めていた。その変化を小町に色々追及され、苦しむ事になると知らずに。
「結衣、あの後どう?」
「ヤった?」
「ううん、でもイイ返事もらえた。大人じゃないけど、子供な付き合いは卒業かな?」
八幡との事を少しだけ同僚へ話し、結衣は輝いた表情を見せた。そこから二人もその意味を察したのだろう。もう何か言う事なく、彼女の好きにさせる事にしたのだ。が、そんな和やかな雰囲気も、結衣から話される現状に少しずつヒビが生じていく。何せ、拙い付き合いでも幸せそうな雰囲気がひしひしと伝わったのだ。現在彼氏のいない一人といても喧嘩中の一人には、これほど羨ましい事はない。こうしてしばらく結衣は二人に社食を奢るハメになる。
「雪ノ下さん、何かあったの?」
「何がでしょうか?」
「いや、最近表情が柔らかくなったからね。周囲の評判もいいよ」
クールビューティーとして社内で人気を博していた雪乃も、ゆいことの触れ合いで、あの頃も顔を出しつつあった可愛さのような部分を出し始めていた。元々仕事が出来る美女が、女性特有の柔らかさを併せ持った気品を漂わせれば、後はもう言うまでもないだろう。
こうして彼ら四人は、あの頃と似てるようで違う時間を過ごし始める。明確な違いは女性三人の想いを男性が気付き、また受け止めて苦悶している事。間違っていたラブコメが、ようやくあるべき姿へと戻り出したのだ。余談ではあるが、八幡の部屋から一番近いドラッグストアへ彼は二度と行けなくなった。何故なら、ゆいこを連れていろはが、結衣が、果ては雪乃までも買い物に出かけた事があるためである。と来れば、理由はもうお分かりだろう。三人もの女を引っかけ、若いのに子供の面倒を見させていると思われたのだ。
「……ま、いいさ。どうせ頻繁に行かない場所だ」
そうどこか疲れた声で呟く八幡をゆいこが慰めるように撫でたとか撫でなかったとか。とにかく、そんな風にして時間は過ぎていく。日を追うごとに雪乃達のゆいこへの想いは強まり、八幡の答えは解を出すのが難しくなっていった。
そして迎えた八月八日。この日は八幡の誕生日である。会社でも社長達に祝いの言葉を掛けられ、彼は定時よりも少しだけ遅れて帰路に就いた。同時刻、八幡の部屋ではいろはがゆいこを背負って誕生日会の準備をしていた。本来ならば小町も来るはずだったのだが、ゆいこの事もあり、彼女が機転を利かせてその来訪を阻止したのだ。
―――ごめん、小町ちゃん。今年は二人きりでお祝いさせて。
こうなれば小町も聞き分け良く引き下がるというもの。そして、それは外堀から八幡を追い詰めるいろはなりの策でもあった。小町からすれば、合鍵を持ち半同棲している彼女は、既に恋人扱いにも等しかったのだ。勿論、この事は雪乃や結衣は知らない。いろはからすれば、高校時代はともかく、大学時代を共に過ごして距離を詰めようとしていたのだ。いくらゆいこのためとはいえ、むざむざ諦めるつもりはなかったのである。
(先輩は小町ちゃんが大切な存在。あとはゆいこちゃんが他のお二人よりも私へ懐いてくれれば……)
小姑と未来の娘か義娘を抑えれば、家族思いの八幡がどうするかは分かり切っている。それでも、いろははその事をまだ明かすつもりはなかった。それで彼が自分を選んだとしても、どこかで信じ切れなくなりそうだからだ。あくまで小町との関係は秘密裏に進め、彼が自分を選んでくれた際に明かす。つまり、ダメ押しの一撃にするつもりだったのだ。
「ふふっ、先輩は少し遅くなるって言ってたし」
そこで鳴り響く来客を告げる音。いろははそれが何かを察して玄関へと向かう。
「は~い、今開けまーす」
「いろはちゃん、やっはろー。ゆいこちゃんもやっはろー」
ドアを開けた先にいたのは、ケーキが入っているであろう箱を下げた結衣だった。彼女は今日のケーキ担当だったのだ。出迎えたいろはとゆいこに挨拶をし、結衣は手にした箱を持ち上げた。
「じゃん。ケーキの到着だよ」
「ありがとうございます結衣先輩。じゃ、とりあえず中に」
「うん。ゆきのんは?」
「少し遅れるみたいです。先輩と鉢合わせにならないといいんですけど……」
ゆいこの頬を軽く突きながら結衣は部屋の中へと入る。玄関先の靴を見て、まだ八幡が帰ってきていない事を確かめると、彼女は小さく笑った。
「驚いてくれるかな?」
「だと思いますよ。小町ちゃんが言うには、先輩って誕生日を盛大に祝われた事ないらしいです。ほら、夏休みだから」
「あー……」
そこで、小さい頃から友達づきあいが下手だったと言わない辺りに二人の性格が出ている。きっと雪乃であればやんわりとその事を指摘しただろう。さて、その雪乃であるが、彼女はこのサプライズパーティーのメインとも言える物担当で、今は少しだけ急いでマンションへと向かっていた。
「予定より遅くなってしまったわね……」
腕時計を見ながら早足で歩く雪乃。その手には、某百貨店の紙袋がある。彼女は三人を代表してプレゼントを持ち込む運びになっていたのだ。と、その足は僅かに止まる。彼女の視線の先には、見覚えのあるクセ毛を生やした男性が歩いていたのだ。
「……こんばんは、比企谷くん」
「ん? ああ、雪ノ下か。何か買い物でもしてきたのかよ?」
何とか先回り出来ないかと考えた雪乃だったが、彼女は方向音痴であるため、知らない道を歩けば迷子の可能性が出てくる。そのため、致し方なく声を掛ける事にしたのだ。全ては目の前の彼のために。
「ちょっとね。今帰りなの?」
「おう。そういうお前はまたゆいこに会いに来たのか?」
「え、ええ。何かいけないかしら?」
嘘ではないと、そう自分へ言い聞かせて雪乃は会話していた。ゆいこにも会いに行くのだからと。そのまま二人は揃ってマンションへ戻り、雪乃が家主である八幡を先に行かせようとする。理由は無論サプライズのためだ。今、リビングでは結衣といろはがクラッカーを手にして待っている。そこへ自分が先に行っては意味がない。そう考えて、彼女は結衣へLINEを送り、八幡をリビングへ送り込もうとしていたのだった。
「家主を差し置いて先に入るつもりはないわ」
「いや、別にいいだろ。そんな些細な事を気にするような性格じゃないぞ」
「い、いいから先に行ってくれないかしら。貴方に背後を取られると不安なの」
「……分かったよ。じゃ、ちゃんと鍵をかけておいてくれ」
何かある。そう予測した八幡であったが、さしもの彼も、その理由が自分をサプライズで祝うためとの発想は浮かばなかった。やや後ろを警戒するように廊下を歩く八幡。結果として、それは最高のアシストとなった。リビングへ通じるドアを開けた瞬間、彼の耳に発砲音にも似た音が響き渡る。
「「ゆいこちゃんのパパ、誕生日おめでとう!」」
「………………は?」
頭にクラッカーの中身を乗せたまま、八幡は理解不能とばかりに間抜けた声を出す。その後ろから雪乃が現れ、楽しげに笑いながら彼の前へと立った。
「鈍感谷くん、今日は何月何日?」
「今日? 八月の……」
そこで八幡の表情が変わる。気付いたのだ。今日という日付が意味する事に。そして、彼の表情からそれを察して雪乃が手にしていた紙袋を差し出した。その行動で八幡も理解する。何故雪乃が自分を先に入室させたがったのか。手にしていた大きな紙袋の意味と理由も合わせて。
「誕生日おめでとう比企谷くん。これは私達三人からよ」
「……マジか。その、ありがとう雪ノ下。由比ヶ浜と一色も本当にありがとう。本気で嬉しいわ。俺、生まれて初めて家族以外の、しかもこんな美人達に祝われるとか……死んでもおかしくないな」
そう答える八幡の目には光るものが浮かんでいた。一瞬雪乃達が息を呑むも、すぐに微笑みを浮かべる。彼女達が彼の涙を見たのは、あの高校時代での一幕のみ。だからこそ、今の彼が見せる涙に喜びを感じたのだ。何故ならそれは、彼が彼女達に初めて見せる嬉しさの涙なのだから。
「さあさあ、じゃあテーブルについてください。今日は私、頑張りましたから」
「それと、ケーキもあるよ。ホールにしようかなって思ったけど、みんなの好み分からなかったから定番の奴を色々買っておいたからね」
「さ、比企谷くん。主役なのだから早く座って?」
「……ああ」
少しくすぐったく思いつつ、八幡は一番に椅子へ座る。しかも、椅子の位置も普段と違っていた。俗に言うお誕生日席の位置取りに。それにも気恥ずかしさを覚えるも、嫌がる事なく彼は雪乃達を待った。やがていろはが作ったであろう料理が運ばれてくる。頑張ったと言うだけあり、よくあるオードブルの数々が彼女のお手製で用意されていた。
「一色、本当に凄いな」
「いろはちゃん、料理上手だよね」
「雪ノ下先輩程じゃないかもですけど」
「いえ、私も最近は自炊頻度が落ちているから。だけど、これは本当に見事よ」
「それで、飲み物は酒って事はないよな?」
「それも考えはしたんですけどね。ゆいこちゃんもいますし、それはまた別の機会にって事で」
いろはが出したのはアイスティー。それを氷を入れたグラスへ注げば、見た目だけならウイスキーのように見えなくもない。これでアルコールに見立てて乾杯しようという事だった。なので八幡がグラスを手にし、雪乃達もそれに合わせるようにグラスを持つ。
「その、今日は俺のために色々とありがとう。今日の事は、何があっても決して忘れないわ。乾杯」
「「「乾杯」」」
グラス同士を軽く合わせた綺麗な音が鳴り、四人はアイスティーを飲む。そこから小さな、だけども賑やかなパーティーが始まった。ゆいこは八幡がずっと抱き抱える事となり、両手を塞がれる形となった彼は、料理を雪乃達から食べさせられるという、何とも嬉し恥ずかしな状況へとなる。
「はい、先輩。あーんしてください」
「…………あ、あー」
「ヒッキー、ポテトもどーぞ? あーん」
「ぐっ……あ、あー」
「なら鶏の唐揚げも食べておきなさい。タンパク質は必要よ。は、はい」
「お、おう……」
「ゆきのん、そこはあーんって言わないと」
「そうですよ。今日の先輩は主役なんですから、こっちがおもてなししてあげないと」
「わ、分かったわ。えっと、その、あーんして?」
「………………あー」
顔を真っ赤にしながら料理を食べた八幡は、ゆいこにミルクを飲ませながらこう思ったという。味がしなかったと。それでも満足していた。いや、これで満足しなくて何で満足するというのか。そう心から実感する程の幸せを噛み締めていたのだ。
「ゆいこ、俺はどうしたらいいんだろうな?」
後片付けをする雪乃達を眺め、八幡は小声で呟く。今日の事で思ってしまったのだ。あの奉仕部での時間。あの紅茶の香りが漂う中で、彼女達三人がいた日々こそが彼の人生でもっとも安らぎ、そして満たされていた時だったのだと。それを成人した今、再び取り戻し、より強く実感してしまったのだろう。失いたくないと。だが、それは出来ないのだ。ゆいこの母は一人だけ。この国は一夫多妻など認めていないからだ。
「……情けないな。あの頃は有り得ないと言い訳をして、今度は決められないと言い訳をするつもりか比企谷八幡」
彼は静かに拳を握る。自身への憤りをぶつけるように。すると、ゆいこが泣きそうな顔をした。まるで八幡の怒りを怖がるように。その反応に彼は慌てて拳を開き、ゆいこの頭を優しく撫でた。
「どうした? 怖い顔してたか? ならもう大丈夫だ。ほら、な?」
いつか幼い頃の小町をあやした記憶を思い出し、八幡は優しく穏やかな声と表情をゆいこへ向ける。丁度そこへ片付けを終えた雪乃達が近寄った。そしてまた見る事になるのだ。父性を見せる八幡の姿を。そんな彼へ嬉しそうに手を伸ばして笑うゆいこを。
(比企谷くん……やっぱり貴方はそういう面を持っているのね。小町さんだけでなく、家族を強く思う貴方を……。け、結婚したら私にもそんな顔を見せてくれるのかしら? 私も彼へもっと素直になれるかしら?)
(ヒッキー、とっても優しい顔してる。あたしが奥さんになったら、同じように優しくしてくれるかな? 今よりも、もっと甘えてくれるかな?)
(本当に先輩はゆいこちゃん好きなんだから。……私も、私も同じぐらい好きだといいな。ゆいこちゃんのお母さんにしたいって、そう思ってくれるぐらい好きって、そう言って欲しい……)
三者三様。それでも根底にあるのは八幡への強い好意。自分を選んで欲しい。もっと近くで寄り添いたい。そんな気持ちを胸に、三人の女性は赤子を抱く男性を見つめた。
次の日から、八幡のスマホの待ち受け画像がある物へと変わる。それは、ゆいこを抱えて照れくさそうにする八幡を中心に、微笑む雪乃達が周囲に寄り添っている物。まさしく成長した彼らを象徴する画像だろう。それが、八幡にとってはもう一つの誕生日プレゼントとなった。
ゆいこを抱えてその画像を眺める八幡は、無意識に馬鹿げた願いを口にする。
―――これを、いっそ現実に出来ればいいのに……。
そんな彼の儚い望みは、あの三人に聞かれる事なく消える。ただ一人、無垢な眼差しで父を見上げる幼子だけが、それを聞いていた……。