大丈夫。工藤邸は中立地帯のはずだ。たぶん。
工藤さんのお宅なう。
お父さんから連絡を受けたおばあちゃんが、工藤さん宅に電話をしてきました。
有希子さん曰く、今出先なので、お迎えは夕方になるとのことでした。
うん。今日はお父さんとの予定がそうだったものね。今日は習い事が何もないから、夕方までいっぱい、お父さんに甘えられるはずだったんだよね…。はぁ。
おばあちゃんには、おばあちゃんの予定がある。いつも私に掛かり切りで自由な時間がないんだから、たまにはゆっくりしないとね。
よし。私も腹を据えて有希子さんに接することにしよう。
で、有希子さんから持てなされ中です。
親が別居中で祖母に預けられたかわいそうな友人の子供。有希子さんにしたら、保護対象ですよね。だから優しくしてくれます。
実際とても優しい人なんだろう。…でも凄く押しが強い。
うん。有希子さんの笑顔の圧力に断りきれず、ついクッキーを食べた私だが、でも本当にお腹いっぱいなので、お菓子を勧めるのは、止めてください。うっぷ。
「もういいの? そう? 新ちゃんはあんまり食べてくれないから、蘭ちゃんが食べてくれて嬉しいわ」
ウフフと可愛らしく笑う有希子さん。私のお母さんもとても綺麗だけど、有希子さんとはタイプがだいぶ違う。
夕希子さんには、ワガママを言ってもワガママと思わせないふんわりした雰囲気がある。何より甘え上手だ。これには私も負けた。
さっきのお父さんとのやり取りを見ていても、お母さんが夕希子さんみたいな性格だったら、ここまで二人の夫婦仲は、拗れなかったんじゃないかなと思ってしまう。
おばあちゃんがよく言うけど、二人とも我が強くてどちらも折れないから、喧嘩になっても落とし所が探せないんだって。
人付き合いに妥協は付き物だけど、二人とも職業柄もあるのか、強硬さが身に染み込んでしまってるのかもしれないな。
でもお父さんは、気が強くて強情で意地っ張りだけど、肝心なところが抜けているお母さんがとても可愛いと、酔っぱらった時に言っていたなあ。
それなら自分が折れろと言いたいが、それが出来ていたらそもそも別居に至るまで、夫婦仲がこじれることはないよね。
お父さんは、お母さんが大好きなんだ。知ってるよ。
でも好きなのに、離れてしまうしかなかったの。悲しいね。
私を優しく慰めてくれる夕希子さんには悪いが、お父さんとお母さんが元に戻ることは、たぶん無い気がする。
どんなに好きで望んでいても、どうにもしようが無いことがあるということ。私はずいぶんと早く、幼児期に知ってしまった。私の諦めがいい性格は、思うにそこが起因だろう。
あの日にお父さんとお母さんがお互いにぶつけた酷い言葉は、消えることはない。
お父さんとお母さんの反目が私を傷つけ、私は二人を拒絶して傷つけた。本来なら子供の私は、二人を繋ぐ
皮肉だね。同じ楔なのに、使い方が違えば効果も真逆なんだよ。
一度出した言葉を取り消せるほど、お父さんとお母さんは素直じゃなくて、私が二人を拒絶した事実が横たわって邪魔をしている。
今思えば。すぐに二人が離婚しなかったのは、幼かった私への配慮とお互いへの未練だったのかな。
でも親の元からはぐれた子供にしてみれば、もう一緒に住めない時々会えるだけの二人が、別居中でも離婚していても、状況的には変わらなかったと思うんだけどね。
下手に期待させる方が余程罪だと、そう思うのはおかしいだろうか。
「蘭ちゃんは何が好きなのかしら。ピアノは好きね?」
何が好きと聞かれて、有希子さんの後ろを見た私に、彼女は優しく尋ねた。
ここって応接間じゃないかな? と言うくらい広くて立派な工藤さんのお宅の
お邪魔した当初から、ずーっと気になってて、見てれば分かるよね。
「弾いてみる?」
「うん」
一も二もなく頷いた私は、お迎えが来るまでピアノから離れなかった。
「ピアノが弾きたかったら、いつでも来ていいのよ。新ちゃんはサッカーばかりで、ピアノは興味がないから、遠慮しないでね」
私が今、近くに住んでいることを知った有希子さんは、帰り際そう言ってくれた。
たくさん優しくしてくれて、ありがとう。下手なピアノを聞かせちゃってごめんなさい。
お父さんに置いていかれた私を、ずっと慰めてくれていた有希子さんは、何度も女の子も欲しかったわねえと言っていた。
新一君はどちらかと言えばお父さん似のようだが、有希子さんに似た女の子なら凄く可愛いだろう。私のお父さんお母さんと違って、工藤さんのお宅は仲良しみたいだし、作ればいいのになあ。
ここに生まれる子は、きっと幸せだ。私にしてくれたように優しく包んでもらえるだろう。
家に帰ったら、リビングにレッスンバーと姿見があった。
レッスンバーは壁面に取り付けるタイプじゃなくて、スタンド付きの可動式で洗濯物干しみたいな形の物で。使わないときは部屋の隅に片付けられる便利仕様の物だった。
実際に時々、洗濯物や洋服が掛けられるのはご愛敬だ。
鏡は取り付け型でだいぶ大きい。少なくとも店頭に気軽に置けるサイズじゃなかった。以前から注文していたようだ。
「これで家でもレッスンが出来るでしょう」
私がいない間におばあちゃんは、練習環境の改善をしてくれていたのだ。お迎えが遅かったはずだ。
「ありがとう。おばあちゃん」
離れていても時間を見つけて、必ず会ってくれるお父さんお母さん。足りない部分を満たそうとしてくれるおばあちゃん。
私も充分愛情を注がれている。無い物ねだりは止めよう。
初対面の人がこちらを知りすぎてると、気が休まりません。
たとえ相手が善意の人でも、ガリガリ精神を削られます。