比企谷くん、ある日のラブコメ。   作:白鷲
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雨降りはめぐりっしゅの予兆、はじまりはいつも何某。


雨降りのめぐりアイ

 

 雨はいつも、その様相を変えて降り注ぐ。時に槍のように、時に囁くように、時に鉄球のように、またある時は、洗い流すように。

 

 ただ上を見上げて、どこまでも続く鈍色の雲を脳裏に焼き付けながら、ふつふつと湧いてくる怒りと悲しみを乗せて、肺は空気を送り出す。

 

 

「何故、こうなったんだ」

 

 

 頬を伝って雨に溶ける涙を噛み締めて、つい数十分前のことを振り返る。

 

 あれはそう、帰路に着こうと生徒玄関についてからのことだった……。

 

 

 

 

「あーあ、せっかく早く出て雨避けようと思ったのに」

 

「そうね。思ったよりも降り出すのが早いわ」

 

「……」

 

 

 雪ノ下と由比ヶ浜の両名に家の用事があり、3年生となり本格的に受験も始まったのだからと、本日の部活は無しとなったところ。意気揚々と玄関に来てみれば、さっきまで降っていなかった雨が本降りである。

 あ、いや別にね? 3人で過ごす(一色はいい加減自分でやれと追い返した)時間が嫌ってわけじゃないよ? ただね、過ごす時間が心地いいのと、『学校から早く帰れる!』って気分の高揚は必ずしも矛盾しないじゃん? そういうことだ。

 

 と、ふざけたはいいものの、やはり俺の気分はこの空と同じように沈みまくっていた。何故なら……

 

 

「ヒッキー……ずっとブツブツ言って、全然治ってないんだけど」

 

「ええ。『これ雨の音? いや違う、降っていない、降ってなどいない、よりにもよって今日降るとかありえない、そうさこれは誰かが屋上で水撒いてんだあははバカだなあ』とか言っていたわね。流石に慣れた今になってもこれは気持ち悪いわ。いかにあなたが現実逃避の天才であろうと、周りを下げるのはいただけないわよ」

 

「……ああ、スマン」

 

 

 ダメだ……ゾンビのような掠れ声しか出ない。誰かこの絶望を解いてくれ。

 

 

「本当にどうかしたの?」

 

「傘、忘れたんだ」

 

「……身構えた私がバカだったわ」

 

 

 おい、なんだその反応は。このボタボタボタボタと重い音のする雨を見て、傘を忘れたと聞いて、その頭を抑えるのは失礼だろう。この、この俺の! 濡れて帰らねばならないという絶望を、お前はちっぽけと申すか!

 

『ヒッ!』由比ヶ浜が引くほどの顔やをしながら恨みがましく雪ノ下を見る。すると、溜め息をつきながら、カバンの中から何かを取り出し、おれに突き出す。

 

 

「何だ?」

 

「折り畳み傘よ。予備に持ってきているの。私は普通の傘もあるから、特別に貸してあげる。感謝することね」

 

「……ゆ、雪ノ下」

 

「あら、感謝が募りすぎてまともに言葉にもできないのかしら? それでも構わないわよ。今度買い物に荷物持ちとして同行する、それで感謝として「このチャーム、何だ?」……」

 

 

 何か雪ノ下が言ってたが、全く頭に入ってこなかった。それほどに、彼女の折り畳み傘についているものが、衝撃的だったのだ。何せ……

 

 

「なあ、これ、この濁った目にアホ毛が着いてんの、まさか俺のディフォ「それはパンさんの特別バージョンよ。たまたま、たまたま! 親戚の方から頂いたものがアホ毛スタイルだったというだけよ。別に私が欲しくてネット販売開始に張り付いていたとかあなたを再現したくて樹脂粘土やレジンで作成したということではないのよ。勘違いしないでちょうだい」あ、ハイ」

 

 

 何もそこまで喋り散らさなくてもいいだろう。却って俺が落ち着いたぞ。ていうか横見てみろよ、由比ヶ浜の『ああ、そうなんだね』という微笑ましいという眼差しを。ガハママさんの面影ありありですよ。

 

 

「それで必要ないのかしら? 要らないならどうぞずぶ濡れで帰っていただいて」

 

「わあこのパンさん可愛い!」

 

「そう。では気をつけて」

 

 

 そう言って俺たちは別れたのだ。

 

 その後15分間、手元のアホ毛スタイルのパンさん(雪ノ下談)をチラ見しながら歩いていたら、曲がり角で俺を襲う……泥水。

 

 わかるだろう。飛ばし過ぎの車が、水溜りの水を、盛大にぶっかけてくれたわけさ。あの野郎。犯罪だぞクソッタレ。

 おまけにだ。ぶっかけられたことで気が緩んだ瞬間に吹いた横向きの突風に、雪ノ下の折り畳み傘が攫われてしまった。コレ、私死ぬんじゃないすか?

 

 

 右半身が泥だらけ、有罪確定の裁判が待つという立て続けの不幸に、俺の心は汗を流した。

 

 

 

 

 そして冒頭に戻る。

 

 

「スマン、アホ毛パンさん。他人とは思えなかったぜ」

 

 帰ったらネットで調べよ。5000円までなら買えますよ。ハハハ、ハァ。

 

 

「あれ? 比企谷くん?」

 

 

 明日に絶望していた俺に届いたのは、もう久しく聞いていない、記憶の片隅にかろうじて残っていた、柔らかな声。

  聞いた途端に心を軽くしてくれるような、明るい音、暖かい声色。ああ、忘れることはない、この独特の雰囲気、これは、

 

 

「めぐめぐ!」

 

「どうしたの急に⁉︎ って、ホントにどうしたの、右半分だけ泥だらけになってるよ!」

 

 

 カッと目を見開きわけのわからん言葉を発した俺に、めぐりんは二重に驚きつつも、走り寄ってきて傘の中に入れてくれる。相変わらずお人好しですねめぐりん。

 

 

「比企谷くん、見たところ傘もないし、何かあったの? 泣いてるみたいに見えたけど。こんな天気に傘なしじゃダメだよ、風邪ひいちゃうよ」

 

「ああいや、車に泥水ひっかけられて傘も風で飛んでったので、その不幸にちょちょぎれただけっす」

 

 

 んもー、なんて言いながら、懐から出したハンカチで俺の顔を拭いてくれる先輩。先輩の優しい拭い方と水分が取れたことで顔面の気持ちの悪さはマシになったが、全身を包むジュックジュクの不快感が全く消えない。おおうどうにかしてくださーい。

 

 

「それならいいんだけど。君のことだからまた何か抱えてるのかと思った。そうじゃないんだね?」

 

「……違いますよ。依頼があったとしたら、3人で悩んでますから」

 

 

 突然のマジトーンに少し固まったが、今返せる最高の答えを伝える。少なくとも、いつかあなたに見せた時よりはマシだとわかるように。

 

 先輩はそのままジッと俺を見つめて、真偽を図っているようだ。

 

 それにしても、アレだな、この人マジで可愛いな。目はくりっくりだしおでこは綺麗だし唇は薄くて小さいし私服は静かめのオシャレだしヤベェぞなんか目が泳ぎ始めそう。

 

 そうやって自分の目ん玉と戦っていると、ようやく先輩は表情を崩した。いや目見てるの変わってないんだけどね。

 

 

「……うん、嘘はついてないみたいだね。よかった、大事な後輩くんが何ともなくて」

 

「大事なって、俺と先輩はそんなに接点なかったでしょ」

 

「そんなこと言うんだ? 可愛くないなあ君は。先輩には甘えるもんだぞ?」

 

 

 ぷんぷんと唇を尖らせて指を立てる先輩。いやぁ……萌えしかないっす。ご褒美です。ありがとうございます。

 

 

「なんかバカにされた気がする」

 

「気のせいです」

 

 

 なんでみんな鋭いの。俺ってそんなわかりやすいの? 仮面つけようかしら……どっかの魔王みたいに。やめよう、背筋に寒気がした。

 

 

「あ! それよりも比企谷くん! 今のままじゃホントに風邪ひいちゃうよ、早くお風呂入って着替えなきゃ!」

 

「そうですね、じゃ、ということで」

 

「待てぇい! 何処に行く!」

 

「いや、だから家に帰ろうかと」

 

「なら私の家すぐそこだから、ほら行くよ!」

 

「え? ちょ、あの、ま、待って、ねえなんでそんな力強いの⁉︎」

 

 

 

 

 

 カポーン

 

 

「ふぅ、良い湯ですなあ」

 

 そう思わんかね八幡さん。

 

 そうですねぇ。ところで、なんで私たちは城廻家のお風呂に入っているのでしょうね?

 

 私が聞きたいですねぇ、それ。あっはっはっは。

 

 

「だって力強いんだもん。猪突猛進とはあのことよ」

 

 

 そのまま先輩に手を引かれ、やってきました城廻家。どうすれば良いんだと考え始めようとした時には、既に脱衣所に叩き込まれボディーソープとシャンプーに洗濯カゴだけ説明され、有無を言わせず扉を閉められた。もうそうなったら入らざるをえない。いつまでも濡れたままで突っ立っていれば、脱衣所は汚すわ身体は冷えるわで良いことなし。

 

 仕方なく服を脱いでカゴに突っ込んで風呂場に入ったのだが、図ったかのように先輩が脱衣所へ。制服を洗濯にかけられて、着替えは置いておく旨を伝えた後に先輩は再び出て行った。

 俺はいつ帰れるのだろう。制服は今も元気に洗濯機の中で踊っております。グワングワン。

 

 それよりも気がかりなのは城廻家の他の方である。大丈夫だろうか。入ったらいきなり知らない男が裸で! なんてことにならないと良いけど。通報とか嫌ですよ? 今の俺に勝ち目ないじゃないすか。言い逃れできないよ。

 

 頭を抱えていると、また先輩が。

 

 

「言い忘れてたけど、両親は仕事でいないから、気にしないでのんびり入ってね」

 

 

 それはそれでダメじゃーん。過ちさんアーユーレディ? ノー!

 

 次から次へと葛藤が始まる比企谷氏であった。

 

 

 

「ココア持ってきたよ〜」

 

「ありがとうございます」

 

 

 あの後、もはや無心になるしかないと、心の中で大自然に包まれながら頭を洗おうとシャンプーを手に取ったのだが、それがさっき先輩から嗅いだものと同じ匂いであることに気づき、上がるまで終始ドッキドキだった。

 

 で、あがったは良いものの、制服がある程度乾くまではここにいるしかないということで、客間か何処かで石像のように過ごそうと思っていたのだが、

 

『こっちだよ〜』

 

 と背中を押されて通されたのは、クマのぬいぐるみが淡い白のベッドの上に鎮座する、先輩の自室だった。ええどうして! 何でよ! と問いただそうとしたのもつかの間、

 

『じゃあ今度はわたしが入るね。あがるまでここでゆっくりしててね〜』

 

 そんな言葉を残し彼女は消えていった。わざわざ『ここで』と言われたので移動することもできず、ただただひたすらに不審に映らないように先輩を待った。

 ああボディーソープとは違う良い匂いがするなあとか考えてないから。これが先輩の……とか以ての外だから。押された背中に残る手の温もりとか思い出してないから。マジ。

 

 でも、いかにめぐりんと言えどここまで怒涛に翻弄されるとは思わなかった。

 

 今だってそうだ。湯上りでしっとりと濡れた髪にうっすらと染まる頬、余計な柄のない薄いピンクのパジャマ。カップを両手で持って湯気の向こうで『ぽふぅ』なんて言う姿は破壊力抜群である。なにこの生き物状態。

 

 

「あ、そうだ比企谷くん」

 

「何ですか? 一色なら上手いことやってますよ」

 

「そうなんだ〜、それはよかった。前は比企谷くんに頼りっぱなしだったからね」

 

 

 立派になったんだ〜とはにかむ先輩。他人のことなのに、本当に自分のことのように笑う。根っからの気質なのだと思い知らされる。そこで終われば良いのだが、そうは問屋が卸さない。

 

 

「って違う違う、そうじゃなくてね。比企谷くん」

 

「ん? 一色のことじゃないんですか?」

 

 

 何だか嬉しそうな顔をしながら徐ろに首の後ろに手を回す先輩。そのまま何かを掴んで頭上に持っていくと……

 

 

「見て見て、このフード! クマさん耳なんだよ〜」

 

 

 グハァ!! い、いきなりのボディーブローだァ、こいつは効いたぜ。

 

 

「せっかく可愛いパジャマ買ったのに、お母さん以外に自慢できなくてモヤモヤしてたの。比企谷くんに見せれてよかった。可愛いでしょ?」

 

「……はい。間違いなく」

 

 

 クソゥ。これがめぐり先輩でなかったら……例えばどっかのはるさんだったら、クマさん(笑)って流せたのに……。また寒気が。やめよう。

 

 

「えへへ……。でも、本当に比企谷くんにはお世話になりっぱなしだよね」

 

「いえ、そんなことは。奉仕部への依頼だって、雪ノ下がかなり頑張って、由比ヶ浜の人脈に頼って、ですし」

 

「ううん、そんなことあるよ。文化祭の時も、体育祭の時も。一色さんのことだって、君に支えてもらってたから」

 

 

 以前の俺だったら、例えば3ヶ月前の俺だったら、今の先輩の言葉には、眉をひそめて、声を荒げて、目を閉じて否定をぶつけていただろう。

 今のように、気恥ずかしさやほんの少しの懐疑は残しつつも、素直に受け取れるようになったのは、つい最近のことだ。雪ノ下と由比ヶ浜、それに時々一色。放課後に、茜色の教室で。高校生という様々な何かを抱えながらも、前よりもずっとずっと、過ごしたいと思える時間になった、奉仕部。

 捻くれていると言われるのは変わらないが、それでも勘違いだと言わなくなったのは、確かにあの時間を過ごす3人のおかげだ。あと、ちょっと平塚先生も。

 

 

「比企谷くんが、雪ノ下さんや由比ヶ浜さんも、頼り甲斐のある先輩だったから、一色さんは1人でも大丈夫になったんだと思うよ。一緒に仕事したわたしが言うんだから間違いないよ!」

 

「引退した先代まで振り回すのもどうかと思いますけどね」

 

「そこはほら、選挙の時の申し訳なさとか、ね? いろいろと……。大目に見てあげて?」

 

 

 えっへん! と胸を張る姿勢から一転、しどろもどろになりながらもここにはいない後輩を庇うめぐり先輩。そもそも一色にしか文句は言ってないのだが、先輩の困った顔も見れたから良いか。脳内スクショ余裕でした。

 

 

「うーん……そうだ! じゃあわたしが耳かきしてあげるよ!」

 

「なにがそうだなのかわかりませんし内容も突然ですしとにかく何故に耳かき?」

 

 

 眉間にシワを寄せて腕を組んで唸っていると思いきや、閃いたり! と顔を上げる先輩だが、普通に読んでも脈絡の欠如が著しく、あいにく俺の国語力では読解しきれなかったよ。てか普通無理だ。

 

 

「一色さんのお手伝いのお礼だよ。ずっと支えてくれてたんだからね、それくらいお返ししなきゃ」

 

「それは一色が返すべきであってめぐり先輩は関係ないんじゃ?」

 

「うー、そんなことないもん。わたしだって、自分の後を任せる子が一年生で、しかも最初は不本意だったんだよ? 安心して卒業できるかハラハラしてたんだから」

 

 

 心外ですと言わんばかりにまた唇を尖らせてそっぽを向く先輩。自分なりに責任感があったんだと俺を睨みながら吐露する。言われてみれば確かにその通りだ。最初に事情を聞いたときは『は?』としかおもえないものであったし、ある意味当事者であるめぐり先輩としては気が気でなかっただろう。

 あとを任せる先代としても、選挙を尊ぶ生徒会長としても。

 

 その解釈でいけば、おかしいところはないのかもしれない。しかし。しかしだ。それでもだ。

 

 

「耳かきである必要ないですよね? お菓子とかの贈り物が一般的では」

 

「だって、高校の時に教室で、男子が『耳かきイベント最高』って言ってるの聞いたんだもん。うちのお父さんも、『前は、お母さんに耳かきしてもらうことがあってな。気持ち良かったよ。今は存在自体をぞんざいに扱われてるけど』って」

 

 

 男子は教室でなに言ってんだよって話だしお父さんに関しては後半言わなくて良いよね? 何で先輩包み隠さず言うの? 知らないやつに憐れまれるお父さんの気持ちよ。

 

 

「だからって、いや、やっぱり俺は別の「もう! うるさい! 早くこっちに来て寝る!」っ! ちょっと! また強引に!」

 

 

 先輩が立ち上がったと思えば手を掴まれてベッドの上に引き倒される俺。え、俺襲われる方なの? ちょっと嫌なんですけど。いや別に襲いたくはないけども。

 

 なんてことを考えている間に、めぐり先輩に膝枕されている状態になる。ヤッベ柔らかい……パジャマもすべすべやん? それと先輩、ぽわぽわしてそうなのに時たま俊敏かつ力強いのギャップが効きすぎですよ。乙女な吉田さんくらい効きすぎです。

 

 

「やっとおとなしくなったね」

 

「手のかかる子供みたいに言わないでください。そもそも暴れたりしてないです」

 

「素直に聞かないのは手のかかる子供ですぅ」

 

 

 ダメだよ、なんて言いながら俺の頭を撫で始める先輩。ちょっと、耳かきでしょ、それは別料金ですよ。むしろ俺が払う方ですねそうですね。慰謝料ですねわかります。

 

 

「じゃあ、はじめまーす」

 

「ん、お願いします」

 

 

 いつの間に手にしていたのか、先輩の右手には耳かき棒。左手にもティッシュがある辺りしっかりしている。

 もうここまでなったら受けるしかないので、どうせなら堪能しよう。

 

 耳かきですよ? 膝枕じゃないからね。

 

 

「どう? 痛くない?」

 

「あ〜、大丈夫ですよ〜」

 

「ふふ、はあい」

 

 

 耳殻を抑えている柔らかい指の感触が、くすぐったいような心地良いような。間近に聞こえるめぐり先輩の声も脳を解し、だんだんと眠気まで誘われる。

 

 そのまま続けていると、片耳が終わった。さて、もう片方、と頭を起こして気づいた。

 

『これ、めぐり先輩も動かないと、腹に顔を向けることになるのでは』

 

 すげえ難関到来である。膝枕までは、めぐり先輩の勢いと耳かきに緊張が消えて意外とスムーズに許容できたが、めぐり先輩の方を向くとなるとまた別である。

 

 

「どうしたの?」

 

「あ、いや、その、先輩も動いた方が」

 

「え? どうしてわたしが動くの?」

 

「い、いやぁ〜なんでだろうなあ〜」

 

 

 流石に怪しすぎですよね。でもなあ、仕方ないだろう。俺だって純情少年なんだぞ……。狙ってじゃないものには弱いんだよ。

 

 

「うん? まあいいや、ほら、おいで」

 

「お、おい⁉︎ ……はい」

 

 

 いかん、なんでもない言葉に過剰に反応してしまう。先輩はただ膝を叩いて呼んだだけなのに。

 こ、このめぐり先輩の腹に……ゴクリ。

 

 

「どうして息飲んだの?」

 

「なんでもないです」

 

 

 ふーん、と流してそのまま耳かきを始める先輩。

 

 ダメだ、やはり先ほどよりもずっと濃く先輩の匂いがする。耳から感じる指の柔らかさと静かな息づかい、鼻で感じる落ち着く控えめの匂い、頬で味わう膝枕。おまけに全身を包むベッド。すべてが合わさって、究極の心地よい眠気がやってくる。ああ、落ちてしまいそう。

 

 

「ねえ、比企谷くん」

 

 

 久しぶりの真剣な声が聞こえたのは、そんな時だった。耳かきの手を止めて、先輩は静かに話し始める。

 

 

「わたしね、もうひとつ、比企谷くんに言っておきたいことがあるの」

 

「……一色の礼意外で、ですか?」

 

「そう。今度は、お礼じゃなくて、お詫び」

 

 

 お詫び。めぐり先輩から、なにか被害を受けたことがあっただろうか? 深く記憶を探ってみるが、そんな覚えはない。どちらかというと、俺の方が迷惑かけまくりだ。さて、なんのことだろうか。

 

 

「文化祭のとき」

 

「え? あの時のことは、むしろ俺の方に非がありますよ」

 

「違うよ。君がしたことに怒ってるとか、そういうことじゃないの」

 

「なら何が「いいから、聞いて」……」

 

 

 先輩の顔を見ようと上を向くと、一度も見たことのない、険しい表情をしていた。何か、苦いものを噛み締めているような、溢れそうな何かを堪えるような。そんな先輩に、言葉が引っ込む。

 それでも先輩は、俺の目から視線を逸らさない。ずっと、真っ直ぐに見つめ合う。

 

 

「君は確かに、いろいろと、褒められないことをしたよ。スローガン決めの時、閉会式の時。わたしは、君のことが全然わからなかった」

 

 

 ひとつひとつ、あったことを振り返っているのか、言葉はゆっくりと紡がれて、その度に先輩は何かが溢れそうになる。

 

 

「雪ノ下さんと仲が良くて、唯一彼女に信頼されてて、遅れている文実を一生懸命繋いでくれてた。最初は、静かな子だけど、頑張り屋さんなんだって思ってた」

 

 

 ほんの少しだけ微笑みを浮かべて、めぐり先輩は、無意識なのか、俺の頭を撫で始める。

 

 

「でもね、雪ノ下さんが倒れてからの君は、人が変わったみたいに、酷いって言われるようなことをしてた。それで、わからなくなったの。比企谷くんが、どういう人なのか。何を考えてるのか」

 

 

 そんな優しい笑みも、困ったようなものになって、その反対のものが混ざり合ったような色に、俺の心は静かに締め付けられる。曇らせてしまった。その事実だけが、反響した。

 

 

「そんなの、言い訳にしかならないよね。おかしいなあ、生徒会長は、生徒の味方のはずなのに。わからないからって、見ようとしなかったんだもん。ほんと、生徒会長失格だよ」

 

 

 とうとう、堪えきれなかったのか。手で拭おうとするけれど、瞼の中で止めようとするけれど、めぐり先輩の目から、確かに涙が流れる。

 

 

「ごめんね、比企谷くん。最低なんて言って、ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。頑張ってくれた君を傷つけて、ごめんなさい」

 

 

 見せちゃいけない、聞かせちゃいけない、そう言うように涙を止めようと目元を拭い目を顰めて、嗚咽を落ち着かせようと何度も口を閉じる。

 

 これもまた、前の俺なら、受け取りもしないんだろう。関係ないって言って。それじゃあ何にもならないんだと、今になってようやくわかるんだから、大バカ野郎だ。

 

 

「めぐり先輩」

 

「ん、グスっ、なに?」

 

 

 身体を起こして、めぐり先輩と向き合う。涙を拭う彼女の手を握って下ろす。真っ赤になった目で俺を見る顔は、ついさっきとは全く違う、悲しいだけのものだ。ふん、やっぱり、俺もやらかしてるもんだな。半年前のことが、今になっても響いているんだから。だからさ、俺も、ここで言わなきゃならない。もう、終わらせるために。

 

 

「俺も、すみませんでした」

 

 

 下げたくもない頭は下げない。でも必要なら土下座も靴舐めも余裕。そのスタンスは変わらない。どうしても守らなきゃならないものに、プライドはあるのだから。今はそれとは違う。自分の意志で、自分のために、目の前の誰かを想って、俺は頭を下げる。

 

 

「どうして、君が謝るの? 酷いことしたのはわたしの方だよ」

 

「最後の文化祭でしたよね。本当は、楽しいままで終わらせたかったですよね」

 

「それは、そうかもしれないけど」

 

「相模があそこまで無責任にさせたのは、奉仕部としての失敗です。それに、それ以外に手段を取れなかったとはいえ、汚したのは俺の行動です。それは、文化祭のためだけじゃなくて、俺自身の欲求というか、自己満足もあって。だから、すみませんでした」

 

 

 めぐり先輩は、何も言わずに俯く。涙はもう流れていない。だが、まだ落ちたままだ。柔らかくて、優しくて、ぽわぽわなめぐり先輩じゃない。まだ、俺の行動は終わらない。

 

 

「……それでも、それでもさ、生徒会長なんだから。君1人に、奉仕部だけに押し付けたのは、絶対、ダメなことなんだよ。君は、一生懸命やったんだよ。頑張ったんだよ。褒められる方法じゃなかったとしても、自己満足が混じってても、頑張ったのに」

 

「じゃあ、こうしましょう」

 

「……ふぇ?」

 

 

 つい耐えきれなくて、そばにあった箱からティッシュを取り、慎重に先輩の顔に当てる。まだ乾ききっていない、頬に残る雫を拭く。

 

 驚いて顔を上げた先輩に、今の俺にできる精一杯の、自然な笑顔を向けて。

 

 

「一色のお礼に、耳かきをしてもらいましたから。お詫びで何か、もうひとつください。そして俺も、お詫びにめぐり先輩に何かを。それで、お互いに許しませんか?」

 

「君は、それでいいの? 本当は一方的でいいんだよ?」

 

「良いんです。めぐり先輩も俺も、謝りたい。ならお互いに交換して、仲直りです」

 

 

 もともとそんな仲良くねえだろとか言わない。

 

 

「……うん、わかった。比企谷くんは何が良い?」

 

 

 ふむ。どうせなら、なかなか体験できないものにしようか。もうこの際少しは調子に乗ろう。バチは当たらんだろ。別に意味でアタるかもしれんが。

 

 

「……無難なところで、手作りクッキーを」

 

「甘いのがいい? それとも控えめ?」

 

「とびきり甘いので」

 

「……わかった。今度、作って渡すね。あ、じゃあ連絡のために登録しようよ」

 

「良いですよ」

 

 

 さっきまでの暗い雰囲気はどことなく明るくなって、互いにスマホを取り出し合う。ガラにもなくカッコつけた甲斐があったってもんだ。流れで連絡先手に入れてるが……小町には内緒にしよう。

 

 

「……今度は俺の番ですね。めぐり先輩は何が良いですか?」

 

「うーん、すぐには思い浮かばないんだよね。もともと謝ることしか考えてなかったから。……比企谷くんは何か思い浮かぶ?」

 

 

 そこで俺に聞くんかい。本人に聞いたら都合のいいものしか提案されなくなるとか考えないのだろうかこの人。

 

 しかし、お詫び、お詫びねえ。俺も男子の喜びそうなものは思いつくが、女性となるとな。……そういえば、なんかつい最近、お詫びとかお礼とか、女性に約束取り付けられたような……。あ、

 

 

「……買い物の荷物持ち」

 

「え?」

 

「あ? え、あ、いや何でもないです忘れてください」

 

 

 雪ノ下との話を思い出してたら口に出してたようだ。危ねえ、お詫びとか言いつつ完全に嫌がらせじゃねえか。

 

 だが、返ってきたのは予想外の言葉だった。

 

 

「……うん、うん。それいい、それいいよ、それにする!」

 

「……荷物持ちですか?」

 

「そうだよ! 比企谷くんのお詫びは、わたしと比企谷くんの初めてのお出かけ、だよ」

 

 

 えええぇ。それでいいのか? 最近正直になった雪ノ下ならまだしもめぐり先輩は俺とのお出かけとか、価値を感じるのだろうか。しかも『初めての』ってつけるあたりミソだよね。

 

 

「じゃあそれも今度日程決めよう。連絡するね」

 

「わかりました。では、この話は終わりで」

 

「うん。じゃあ耳かきの続きやろっか」

 

 

 終わってなかったんかい。途中であの重い話始めたのか。やはりめぐりんは天然なのか?

 

 思考をこねくり回しつつ、先ほどと同じ膝枕の体勢に戻る。忘れてたけど、腹向きなんだよな。まためぐりんパワーが……。飲み込まれるなよ、俺。

 

 

「比企谷くん」

 

 

 頭を乗せて、目を閉じようとしたら呼びかけられた。また上を向くと、さっきとは違う、いつもの穏やかで、柔らかな笑顔。だが、何か別のものも混ざっているような。

 

 見つめ合っていると、不意に頬に手を添えられる。

 

 耳でしか感じなかった感触が、頬全体を包む。

 

 少し身体を起こせば触れてしまいそうなほど近くで見つめられながら、頬を優しくそっと撫でられる。

 

 今まで忘れていためぐり先輩の綺麗な顔と、何かを強かに宿しながら、熱く見つめてくる目に、ただ触れられるだけじゃない、労わるような、癒そうとするような手のひらに、トクンと、ひとつ胸が高鳴る。

 

 ああ、やっぱり先輩は、マジで可愛いんだな。

 

 

 また事実を噛み締めていると、より一層顔を近づけて、先輩は言う。

 

 

「ありがとう」

 

 

 そして、小さな音と共に額に落ちる柔らかさ。

 

 

 慌てて目を閉じていた俺は、それからずっと開けられないでいた。

 

 

 

 

 

 

 余談だが、後日雪ノ下に傘ごとパンさんが飛んでったことを伝えたら、『手作りなのだから買えるわけないでしょう!』とガチ泣きされた。

『私のハッチーが……』と言っていたが何のことだろう。

 

 

 




数回読み返して誤字脱字の訂正は行っていますが、もしも見つけられた方はご報告くださるとありがたいです。




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