さよなら鈴谷、時々熊野。でも、実は割合は逆かもしれません。

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さよなら鈴谷、時々熊野

あの日――。

 

 俺は一片の紙片を軍令部から受け取った。その内容を見た俺は既に机の上にある紙片の上に重ねた。あの日から、あの瞬間から、この机の上にある紙片を受け取った瞬間から、俺の人生は色を失った。

 

 第二艦隊提督ヲ解任シ、軍司令部付トス。

 

 そんな辞令に意味はない。どのような役に任じられようと俺の心に生じたどうしようもない空虚を埋めてくれるわけがない。

けれど、俺にはやるべきことがまだある。俺自身の為ではない。アイツらのために。この色彩を褪せさせないようにするために。

 

 俺はペンを取った。

 

* * * * *

 

「すとおっぷ!!」

「なんだなんだなんだよ急に。」

「提督ぅ、駄目っしょ~~!!ちょ、駄目だって~~~!!手を止めなさい!!」

「何が?」

「せっかく茹で上がったパスタ、どうして箸なんかで食べようとするわけ?あたしの丹精込めて作ったパスタなんだよ。しかも小麦から作ったの今回が初めてだし!!」

「俺はフォークとやらが使えんのだ!!」

「はぁ!?信じらんない!!」

「しょうがないだろ?」

「しょうがないなぁ、もう・・・んじゃ、これでどう?」

「お、おいおいおいおい!!俺の手を持つな?」

「いいじゃん、実地実地。こういうのは、ほら、ね。ここをこうして・・・こうして巻くの。」

「・・・・・・・。」

「ほら、できた。さ、食べてみて?」

「・・・・・・・。」

「どう?箸なんかで食べるのとは違うっしょ。」

「・・・違う。」

「でしょ~!!こういうのはそれにあって物使って食べるのがいいのよ~。」

「・・・・・・・。」

「でもよかった~。」

「何がだ?」

「これ、正直自信なかったんだ~。」

「お前、俺に自信がないものを食わしたのかよ!?」

「いいじゃんいいじゃん、提督なんだし~。提督が美味しいって思うとき、いつも無言になるよね。でもね、それでいてとても楽しそうな顔、鈴谷は覚えているんだよ。」

「・・・・・・・・。」

「うん、見れてよかった!本当に・・・・。」

 

 

 鈴谷は俺に満面の笑顔をにいっと向けてきた。どこかほっとしたような顔で、そしてそれが総倍の嬉しさを引き立たせて。

 

 

* * * * *

 

 盛大に生い茂る雑草は、いつまでも俺の心に残るしこりのようだった。それを取り払っても取り払っても、翌日には生えそろってくるような勢いで生えている。永遠に終わることのない作業なのに、どこか一点の安らぎがある。

 

正確には・・・・何も考えなくて済む。

 

どんなに終わらないものであろうとも、どんなにはびこっていようとも、俺は手を休めなかった。それがここ最近続いている日課・・・・というよりも何か宗教的な習慣といった方がいいかもしれない。

 

「こちらでしたのね。」

 

 穏やかな声がして、後ろを振り向く。茶色のブレザーにオレンジ色のスカーフ。ブレザーより少しだけ色が薄いスカート。その姿は名門のお嬢様学校の女生徒そのものだった。重巡熊野は今の俺の秘書艦だ。

草取りをしていた俺は滴る汗をタオルで拭い、顔を上げた。まだ夏には遠いが、それでも日中の作業は汗が伴う。上に覆いかぶさるようにして茂っている大樹の間から木漏れ日が落ちてくる。もう昼なのだとわかった。

 

「どうしてわかったんだ?」

「提督のいらっしゃる場所など、探し当てるのに苦労はしませんわ。それに――。」

 

熊野は微笑した。懐かしさの色とはかなさを伴った色とを混ぜて。

 

「あの子もお気に入りでしたもの。そこの場所は。あなたたちはいつもそこでぐうたらしていましたものね。」

「ぐうたらはひどいぞ。」

 

 俺の抗議に「本当のことですもの。」とさらりと流す。容姿はお嬢様そのものだが、言っている内容は容赦がない。

 

「そろそろお昼の時間でしてよ。少しお手を休めになったらいかがかしら?」

「おいおい、もうそんな時間なのか?」

 

 業務は、と言いかけて俺は言葉を飲み込む。しなくてはならない業務などほんの一握りのものなのだ。俺は汗をぬぐい、青いバケツを手にぶら下げて立ち上がる。

 俺と熊野は大樹の下をでて二人並んで裏庭を歩き、裏門から赤レンガの建物に入る。二人だけの足音ががらんとした赤レンガの建物にこだまする。ギシギシという木のきしむ音が廊下に響く。廊下の突当りに「食堂」と書かれた木の看板がぶら下がっている。最近は提督の執務室ではなく、そこに来て食事をとるようにしていた。

 

「そこに座っていてくださいな。」

 

と、熊野に言われるまでもなく、俺はいつもの席に腰を下ろす。窓際の日当たりがいい席で、普段なら艦娘の取り合いが激しいが今日は誰もいない。

 

 厨房からにぎやかな音がしているのは、熊野が不器用ながら懸命に料理の仕上げをしているのだろう。俺はそれを複雑な思いで見守る。

 

「大丈夫なのか?」

 

 答えの代わりに帰ってきたのは、派手に鍋が床に転がる音と狼狽した小さな悲鳴だった。

 

「大丈夫ですわよ。もう少しお待ちになっていてくださいな。」

 

 務めて平静に熊野が答える。俺はわざわざ厨房を見に行くようなことはせず、黙って座ったまま彼女を待つ。10分後、熊野が大皿に盛りつけたパスタを捧げ持ってやってきた。俺はそれを受け取る。湯気の煙の向こうには、ジェノベーゼが盛りつけられていた。緑色のソースに鮮やかな緑色のバジルが添えられている。それを見た時俺の胸に何かどうしようもない衝動が入ってきたが、それを殺した。

 熊野が取り皿とフォークをもってきて、手早くパスタをよそい、俺の前に置く。

 

「どうぞ、召し上がってくださいな。」

 

 熊野に促されてフォークで巻いて一口食べる。フォークなど最初は使いこなせなかったのだ。ここに来てからだ。曲がりなりにもできるようになったのは。程よくゆであがったパスタの感触が歯に快い。なかなかの出来だが、もっとパスタをうまく茹で上げられた人間を俺は知っていた。

 

 開いた窓から緩やかな風が涼を運んでくる中を俺と熊野は無言でパスタを口に運ぶ。二人きり。だが、それ自体は俺には苦ではなかった。その代り、食事を食事ととらえることができない。あの時から、義務的な――単に体を生き長らえさせるだけの動作と化した。

 

食べ終わった皿に置いたフォークがカランと音を立てる。

 

「ご馳走さま。」

「嘘ばっかり。」

 

 熊野は微笑んだ。少し悲しそうな色は隠し切れない。見た目には完ぺきな作業結果だった。綺麗に食べ終わった皿。けれど、それは美味しさからではなく、義務感からこなしたものだということは目の前の艦娘はよくわかっている。そしてそれは俺も否定できない。

 

「やはり私では真似をすることはできませんのね。」

「そんなことはないさ。熊野には熊野のやり方があるだろう?」

「ええ・・・それはわかっています。けれど、それでは提督、あなたを・・・・・。」

 

 熊野の言葉はしぼむように、消えた。彼女は大皿の上に手早く二人の皿を重ね、俺の顔を見ずに席を立った。

 

 救うことはできません、か。

 

 俺は熊野の言いかけた言葉の続きを思い浮かぶ。そんなことをしても何の意味もないことにすぐに気が付く。

だから断ればよかったのだ、と俺は思う。こんなことを続けていても熊野に俺は何もしてやれない。それどころかつらい思いをさせるだけだ。それなのに、熊野は俺の申し出を拒否し、今日もここにきて料理を作る。毎日というわけではなかったが、数日に一度彼女はここにやってくるのだった。

 

ありがとう、熊野。けれど――。

 

俺を救う事は君には出来ない。

 

 

* * * * *

 

「提督、何してんの?」

「蔵書の整理だ。お前に読ませる本を選んでる。」

「ゲッ・・・!!」

「・・・・なんだ、その後ずさりは。」

「なんで私が本を読まなくちゃ駄目なの?」

「必要だからだ。そう遠くないが、新たな発令が出る予定になっている。そうしたら、お前に実戦で第二艦隊を率いてもらうことになる。」

「私が?ええ~!?本気で言ってるの?」

「本気だ。」

「面倒くさい。どうしてよ~、赤城や榛名、大和や長門、いっぱいいるじゃん。」

「お前『も』艦娘だろ。」

「・・・・・ど~しても読まなくちゃ駄目なの?」

「お前、本を全然読まないな。『戦術書』や『戦略論』は必要な物だろう?」

「必要ないよ、だって私には・・・・・。」

鈴谷は満面の笑みを浮かべる。

「提督がいるじゃん。提督が私に指示すればいいもの。提督が間違ったことなんて一度もなかったよね。」

 

それは満面の笑み、100%俺を信頼している顔だった。

 

* * * * *

 

 執務室に積みあがった本は俺の気力を奪うのに十分な量だった。これほどまでにため込み、かつそれを読み漁っていた往年の俺の気力には我ながらあきれる思いだった。本棚だけでは収まりきらず、本棚の上、さらには机の脇の床に直に積み重ねている状態だ。今日はこれを整理しなくてはならない。整理といっても、軍令部からの借用書は段ボールに詰めて返戻し、自分の購入した蔵書は一部を除いて捨てるだけだったが。

 

「一人で整理するのには骨が折れるな・・・・。」

 

 作業開始から1時間後、俺は額の汗をぬぐった。他に誰もいない部屋で一人本と格闘するのはむなしい。それでいてどこか安堵を覚えるのは、あの大樹の下の草むしり等と同じことだからかもしれないな、と一人思いをかみしめる。こういう時に先日までならば騒騒しく邪魔立てする存在がいたのだが、今はそれにかかわりあう煩わしさから解放されている。

 

「・・・・・・・?」

 

 ふと、俺の手元に一枚の紙片が舞い落ちて、床に着地した。その白い雪のような紙片に書かれた文字を見た瞬間、俺は鼓動が止まった。震える手でそれを拾い上げる。間違いなかった。癖のある、それでいて読みやすい文字は間違いなくアイツの手で書かれたものだから。

 俺は左手に持ったままだった、紙片をはさんでいた犯人の本を見た。

 

『海軍基本戦術』

 

 俺はその場でしばらく動くことはできなかった。何故基本戦術なのか、何故この本の中にアイツの手紙が入っていたのか、それを考えるのに頭が一杯だったからだ。

 ふと、気が付くと、手紙が挟まっている頁にはメモや注釈がびっしり書き込まれている。はっとして他の頁をめくると、同じような光景が目についた。本自体も何度も読み返されたらしくところどころページが脱落しそうになっているものがある。

 

 俺はアイツの手紙を開いた。

 

『提督、本借りちゃった☆ごめんね!』

 

 たったそれだけの文字だったが、その裏に隠されていたものを俺は遅まきながら受け取ることとなった。戦術の応用編を取ってみてみると、やはり同じような注釈が書き込まれている。ただしそれは最初の数ページにすぎなかった。

 

「謝らなくてはいけないのは、俺だ・・・・。俺は、お前に気づいてやれなかった・・・・・。」

 

 なぜもっと早く気づいてやれなかったのだろう。俺自身この本を繰り返し読んでいる姿をアイツは見ていたはずだ。だからこそ、この本を選んだのだろう。けれど・・・俺はこの本を開くことは久しくなかった。

 もしもっと早く見返すことができていれば・・・俺はあいつに声をかけてやれていたはずなのに。

 

 俺はその本を蔵書の小さな山の上に置いた。この本は捨てられない。アイツの思いを風化させないために。

 

 いつの間にか外に夜のとばりが降りている。今日は熊野が来て夕食を作ってくれる日だという事に遅まきながら気が付いた。今日くらいは遅刻せずに食堂に行くことにしよう。

 

* * * * *

 

 雨の音がし始めていた。天気予報では夕方から夜にかけて激しい雨が降るのだという。それを思い出しながら少しだけ俺はほっとしていた。

 熊野と向かい合って取る夕食は昼食以上に重苦しい雰囲気だ。やはり太陽の存在は気持ちにも影響するらしい。けれど、今は雨という伴奏がついている。それを聞きながら静かに食べるのもまた風情があるじゃないか。

 

 そんなことを考えていた時、派手な音がした。また熊野が鍋を床に落としたらしい。派手な悲鳴が台所から響いてきた。

 

「大丈夫か?」

「大丈夫ですわ!少し・・・その、トラブルが起きただけですの。」

「トラブル!?」

 

 俺は台所に向かう。普段熊野は俺に台所に入るなと言っている。自分が料理をしている姿を見られるのは集中できないからだと言う。だが、今の音はそんなことを言っている場合ではないと俺に伝えていた。

 

「――――!!」

 

 台所にしゃがみこんでいた熊野がはっとした顔を俺に向ける。その右手には雑巾が握られ、床には派手にぶちまけられていたおでんがじわじわと広がる姿を見せていた。左手を袖で庇うようにしていたが、すぐに俺は異常に気が付いた。

 

「ケガしているじゃないか!火傷したのか!?」

「いいえ、いいえ大したことありませんわ――。」

 

 懸命に取り繕うとする熊野の左手を俺は取る。そして小さく悲鳴を上げる彼女には構わず、立たせると、水道の蛇口に手をもっていき、思いっきり冷水を出した。熊野が痛そうに顔をしかめる。

 

「我慢しろ。何故もっと早く冷やさないんだ?おでんなんてどうでもよかったのに。」

 

 熊野が小さく身じろぎするのを無視して、俺は冷水で冷やし続けるように言うと、提督室に走って戻り、小さな救急箱をもって食堂に走って戻ってきた。手を見せるように言うと、熊野はそっと左手を出す。赤くはれていたが、そうひどいものではない。ただ数日は痛みが続くだろう。

 俺はなるべく痛まないように熊野の手を柔らかいタオルで抑え、水を拭き取ると、手早く軟膏を救急箱から取り出し、それを熊野の左手にそっとつけ、包帯を巻いてやった。その間熊野は無言でされるがままになっていた。

 

「これでいいかな。・・・俺もあまり経験がないから、これくらいしかしてやれなくて悪いな。」

「いいえ・・・それよりも提督。私に謝ることがあるのではなくて?」

「え?」

 

 顔を上げると、熊野が怒ったようにそっぽを向いていた。俺はあっけに取られていた。一言位感謝されてもいいと思っていたのに、何故熊野は怒っているのだろう。

 

「おでん・・・・わたくし、随分前から仕込んでいたのですわよ。それを・・・どうでもいいだなんて・・・・。」

「あっ!?」

 

 思わず怪我の手当てにかまけてそんなことを言ってしまったことを思い出した。けれど、それには俺にも言い分がある。

 

「おでんは作り直せばいいが、お前の怪我はお前自身のものだ。俺なんかの為に怪我をしてほしくはない。」

「別に私の事なんかどうでもいいのでしょう?」

「おい、熊野!」

「だってあなたの心の中には・・・・・・。」

 

 そう言ったきり、熊野は下を向いてしまった。はらりと前髪がかかり、熊野の表情は見えない。うかつに触れてしまえば消えてしまいそうな儚さが出ている。

 

 こんな時どう言っていいのだろう。何を言っても熊野の心を壊しそうで、俺は何も言う事ができなかった。

 

「なぁ、ニンジンやジャガイモは余っていたよな?」

 

 なんて間抜けなセリフなのかと思ったほど、俺自身にも突拍子もないことをいつの間にか口にしていた。

 

「えっ!?」

 

 予想外な言葉に熊野は顔を上げた。

 

「え、ええ・・・・。」

「玉ねぎも牛肉も余っていたよな?いや、豚肉だったか?」

「え、ええ・・・・確か・・・・。」

「じゃ、二人で作らないか?カレー。確か奥の方にカレー粉の缶、あったはずだろ?」

「カレーくらい私が作りますわ。」

「その手じゃ辛いだろ?お前は鍋の具合を見てくれればいい。具材を切るのは俺がやるよ。それくらいは手伝ってもいいだろう?」

 

 あっけに取られていた熊野が今度は口元に手を当てて笑い出した。

 

「提督ったら・・・ごめんなさい。そうですわね、ええ、やりましょう。」

 

 おでんを作る時よりも、どこか楽し気に熊野は立ち上がる。そしてカレー粉の缶に右手を伸ばした。

 

* * * * *

夕食はどうにか完成したカレーの皿、そしてコップの水、それだけ。

 

そしてそのカレーもお世辞にも上出来だとは言えないものだった。

 

「おい、ジャガイモが半煮えだったな。」

「提督こそ、このニンジンの切り方、少し雑すぎませんこと?どうみても一口で食べられる大きさではありませんわ。」

「そんなことはないぞ。これは煮え加減を意識した切り方だからな。」

「だったら最初からそう言ってくださればよろしかったのに。」

 

 他愛もない責任のなすりあいが、むしろ俺には楽しかった。こんなに会話が弾んだのはもしかすると初めてかもしれない。二人きりでご飯を食べるようになってから。それは俺だけじゃないだろう。目の前で向かい合っている相手も、俺が浮かべているであろうものと同じような表情を浮かべているから。

 

『ごちそうさまでした。』

 

 期せずして二人の声ががらんとした食堂に響く。目の前の皿は綺麗に空になっていた。

 

「それなりに食えたな。」

「ええ、もう少し提督がお上手になれば私もっといただけましたわ。」

「言ってくれるな。いいだろう、今度はそれまでに練習しておく。」

 

 不意に熊野の顔が曇った。俺は内心狼狽した。何か言ってはいけないことを言ったのだろうか。視線を逸らすと、掛け時計に目が留まった。もう10時に近い。

 

「こんな時間か。寮まで送ろうか。」

「でも、後片付けが――。」

「片付けは俺がやっておく。第一その手では水洗いは無理だろう?」

「・・・・・・・・。」

 

 熊野はそれ以上何も言わずに、立ち上がった。

 

* * * * *

 

 一歩外に出ると、降りしきる雨が傘を濡らし、滴を地面に落としていく。激しい雨はまだ続いていた。風が吹いていないのがそれなりの救いだった。

 

「雨、激しいな。」

「・・・・・・。」

 

 隣の熊野は黙っている。何故だろう。またコイツを怒らせてしまったのだろうか。いつの間にか俺も熊野もただ黙々と歩いている。寮までそれほど距離があるわけでもないのに、妙に今日は遠く感じられる。

 

「・・・・・・・!?」

 

俺は急に後ろを振り向いた。いつの間にか熊野の足が止まっていることに気が付かなかったのだ。赤い鮮やかな色合いの傘が熊野の胸から上を隠していた。

 

「おい、どうした?」

 

 俺が近づいていっても傘が動くことはない。心持傘を持ち上げると、此方をまっすぐ見ている熊野の瞳とぶつかった。

 

「ごめんなさい。少し・・・考え事をしていましたの。」

「考え事?」

「・・・・・・・。」

 

 熊野は何かを言おうと懸命に口を動かしていたが、やがて意を決したように声を出した。

 

「提督。」

 

 どこかかすれてぎこちない声だった。

 

「これを受け取ってくださいませんこと?」

 

そこにあったのは鈴谷のヘアピンだった。彼女の室内に残されていたものの一つで、鈴谷がいなくなってから、熊野がずっとお守り代わりに持っていたものだ。

 

「何の真似だ。」

「受け取ってもらえませんこと?」

「理由もなしに唐突に差し出されても駄目だ。それはお前にとって大切な物なんだから。」

 

 熊野はかつての親友が付けていたヘアピンを握りしめた右手を下ろした。手だけではなく顔も一緒に俯く。その手の甲にぽたりと滴が落ちる。俺はそんなにひどいことを言ってしまったのだろうか。

 

「・・・・行かなくてはならなくなったのですわ。鈴谷の後任として、第二艦隊に。」

「・・・・・・・?」

「だから、もうお世話できなくなります。」

「・・・・・・・?」

「・・・・ごめんなさい。」

 

熊野が何を言っているのか、俺にはわからなかった。少なくとも俺の聴覚はその時だけ麻痺をしていたらしい。

 

「・・・もう一度、言ってくれないか?」

「何度でも言わせる気ですの!?ええ、でしたらわかるまで申し上げますわ!!鈴谷を殺した、鈴谷を見殺しにしたあの第二艦隊司令部に私はいかなくてはならないのです!!!」

 

 熊野の傘が主を離れて地面に落ちるのと、熊野が体をぶつけるようにしてしがみついてきたのが同時だった。そして数秒遅れて俺の傘も地面に落ちる。

 

「どうしてですの?どうして、どうして、どうして!?鈴谷を殺しただけでは飽き足りませんの?提督から鈴谷を奪っただけではまだ飽き足りませんの?それとも鈴谷一人でさみしいからと私も水底に送り込もうというつもりですの・・・・!!」

 

 支離滅裂な言葉を吐き出しながら、熊野は俺にしがみつき、拳を振るって身もだえした。ヘアピンの先が俺の身体に刺さるが、俺はそれをよけようともしなかった。目の前の艦娘、そして俺はそれよりもはるかな痛みを抱え続けてきた。今までも、そしてこれからもそうだろうと思っていた。

 

けれど、今、俺たちはさらに大きな悲しみを背負おうとしている。

 

「行くな・・・・!!」

 

思わず声を出した。

 

 鈴谷が死んだこと、それは報告書で経緯を知っていた。何度も何度も読んで知っていた。けれど俺はそれを受け入れることができていなかった。熊野の言葉から初めて俺は鈴谷が死んだことを突きつけられた。

 けれど、鈴谷が死んだ原因はこいつにはない。たとえ報告書でその経緯は分っても、それが原因だとは限らないじゃないか。

 

 たとえ、熊野が旗艦だったとしても。鈴谷の所属する戦隊の旗艦だったとしても。鈴谷の追撃を止められず、鈴谷を一人逝かせてしまったとしても。

 

それが原因だとは限らない。何故なら――。

 

 俺が命じたからだ。熊野を旗艦とすることを。そして鈴谷をそこに所属させたのも。すべては俺の指令から始まった。だから、熊野、お前は背負うな。後悔、苦悩、そんな余計なものをお前に背負わせたくはない。そのためにこそ、俺がここにいる。そんなもののために、お前を行かせたくはない。声にならない言葉を力に変え――。

 

「だから、行くな。」

 

 俺は熊野を抱きしめる手に力を籠める。雨が俺たち二人を包み、周囲から音を奪うほどに強くなる。何もかも洗い流そうとするかのように。俺たち二人の苦悩を洗い流そうとするかのように。

 

 不意に熊野が体を引き離す。震えていた体がピンと張り詰め、背を伸ばして俺から数歩遠ざかった。

 

「けれど・・・・。」

「・・・・・・・?」

「提督・・・私は・・・・行きますわ。」

「・・・・・・・!」

「違いますわ。贖罪の為に、などという動機からではありません。そんなことを言っても今更鈴谷に許してもらえるとは思いませんもの。」

「だったら、何故――。」

「私は艦娘だからですわ。」

 

 熊野は濡れた頬を俺に向けて言った。濡れた睫毛から滴がつっと頬を伝い続ける。それなのに、熊野の灰色の瞳はずっと俺をまっすぐに見つめる。

 

「ええ、艦娘だからです。私は鈴谷の為に、鈴谷の仇を取るために・・・・もう一度あの場所に参ります。」

「・・・・・・・・・。」

「ご心配なさらないで、提督。私は、提督のお世話ばかりしていたわけではありません。これでも訓練を欠かさなかったのですわよ。」

 

だって、そうでしょう?と熊野は微笑む。何故なら――。

 

「二人の思いを背負って私は戦わなくてはなりませんもの。」

 

 では、ごきげんよう。そう言って、熊野が優雅にお辞儀をした。俺に背中を向けると、もう振り返らず、歩みも止めない。俺はその肩に手を伸ばしかけたが、はるか遠く、空を切る。降りしきる雨と闇が俺たち二人の間を隔てていく。主を失った赤い傘が折から吹いてきた風にあおられてどこかに飛んでいく。

 

「なぜみんな・・・・・。」

 

俺の言葉は空しく雨に消えた。後は声にならない叫びが闇を切り裂いただけだ。

 

雨は降り続いている。

 

* * * * *

 

今日も暑い日だ――。

 

 俺はタオルで汗をぬぐう。噴き出す汗を抑えきれず、タオルは既に濡れタオルと化していた。それでもやらなくてはならない。何しろこなさなくてはならない量が二倍になったのだから。

 

 上を仰ぐと、折から吹いてきた風にさやさやと涼し気に葉が揺れ、木漏れ日が揺れ動く。こんなものでも無風よりも涼しいと思うのだから感覚とは不思議だ。

 

「提督。」

 

 不意に後ろから声が聞こえてきたような気がして俺は後ろを振り向く。けれど、そこには誰もいない。ふと、汗にぬれる時計を見ると、もう2時近い。

時間を忘れて作業に熱中している俺を、昼の時間だからと言って呼び戻してくれる存在は、もういない。

 

「心配するな。」

 

俺はさやさやと風に揺れ動く草原に声をかける。

 

「俺はいつまでも昼を忘れているような人間じゃないぞ。だって今日は――。」

 

俺は担いできたリュックサックから大きな銀色の箱を取り出す。そしてそれを2つの作りかけの石の前にもっていって、腰を下ろす。あの日、皆のお気に入りだったこの場所に。

 

「一緒に食おうな。まだまだ不器用だけれど、それでもどうにか形にできるようにはなったんだぞ。」

 

 俺は石に見せつけるように蓋を取ってしばしそこで待つ。そして大きな木に背をもたせ掛けると、水筒から勢いよく水を飲んだ。そして二つの石にも水をかけてやる。

 

「今日も暑いよな。」

 

 折から噴出した風が束の間俺に涼を与えてくれる。それを御供に俺は自分のこしらえた弁当を無心でほおばり始めた。

 

「夏、早く終わらないかな・・・・。」

 

 

 



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