マリア様がみてる Another ~シスター&シスター~ 作:夏緒七瀬
「ごきげんよう、マリアちゃん。どうしたの? 浮かない顔をしてるけど」
マリアが教室に入って自分の席に辿りつくと、前の席の生徒が人懐っこそうな顔で声をかけてくれた。
「ごきげんよう、ユリカちゃん。えっと、とくに何かあったってわけじゃないんだ。えへへ」
「そうなんだ」
マリアは適当なことを言ってはぐらかしてしまった。
そして、まだ少し緊張を残したまま自分の席に座り、お腹に力を入れて一日の始まりを覚悟した。
ホームルーム前の教室は、緑を一滴落したような光沢のない黒のワンピース制服に身を包んだ女子生徒たちで華やいでいる。
黒いラインが一本入っているアイボリーのセーラーカラーは、そのまま結んでタイになる。ローウエストのプリーツスカートは膝下丈。そして三つ折りのソックスにバレーシューズ風の皮靴とくれば、どこまでもお上品な上に天然記念物ものである。
しかし木は森に隠せとはよく言ったもので、このリリアン女学園の敷地に入ってしまえば、もう誰もそんなことは気にしない。
高等部からこのリリアン女学園に進学したマリアも、今ではすっかりこの制服に馴染みつつあった。
だけどこの学園の空気にというか雰囲気にまでは、まだ馴染めずにいた。
もしかしたら、自分はいつまでもこの学園には馴染めないのかもしれない――マリアは、最近そんなことを思うようになっていた。
「ごきげんよう、マリアさん」
背中から声をかけられて、マリアは身体をびくりと震わせた後、硬直した。
そして、心の中で――「来た」と思った。
「ごっ、ごきげんよう」
おそるおそる、それでも不自然じゃないように振り返り、マリアはこのリリアン女学園で最も頻繁に使われているであろう挨拶――「ごきげんよう」の言葉を呟いた。
振り返ると、そこには三人の生徒が立っていた。
「マリアさん、今朝、マリア像の前でマリアさんをお見かけしたというお話を耳にはさんだんですけど?」
マリアはぎくりとして身体を震わせる。
何と答えればいいのか分からずに困った笑顔を浮かべていると、別の誰かが口を開いた。
「
「いえ、あの、その――」
マリアはしどろもどろになりながら、必死に頭の中の辞書を広げて言葉を探す。
「マリアさん、今度は、いえ、と言うよりもついに、
その言葉に、マリアは深く傷ついていた。
そんなつもりじゃない、今朝のことは偶然のことで――そんな言い訳をしたかったが、言葉はやっぱり出てこなかった。
「それで、もう瞳子さまに色目は使ったんですか――私のお姉さまになってくださいって?」
「でも、結局は振ってしまうんでしょう?」
「まぁ、この学園の次期
「いいえ、マリアさんは――マリア様ですもの。誰かの妹になったりなんかしませんわよね? 誰にでも平等に接するのが、マリア様なんですから」
マリアの目の前に立った蝶か花は、針をもった蜂にでもなってしまったかのように棘のある言葉をマリアに投げかけ、そして冷やかに笑ってみせた。
「みなさん、マリアさんも困っているんですから、お話はそれくらいで終わりにしませんか?」
もう見ていられないと言わんばかりに、ユリカちゃんが助け舟を出してくれたけれど、三匹の可愛らしい蜂は意にも解さなかった。
「でもユリカさん、私たちは知りたいだけなんですよ? マリアさんがマリア像の前で紅薔薇のつぼみと本当にお話をなさっていたのか」
「そうですよ。マリア像の前と言えば――ねえ?」
三人は、顔を見合わせてくすくすと笑い合う。
マリアは顔を真っ赤にして俯き、早くホームルームが始まってほしい、この場から逃げ出したい、そんなことを願った。
すると――
「ごきげんよう。みなさんお集まりで、ずいぶん楽しそう。私も仲間に入れてもらえると嬉しいんですけど?」
マリアが縋るように視線を向けると、そこには健康的で溌剌とした少女が、楽しげな微笑を浮かべて立っていた。
リスのよう可愛らしい顔立ちに、綺麗に分け目のつけられたセミロングの髪の毛、そして露出した見事なおでこ。
「ねぇ、何の話をしていたの?」
菜々さんが好奇心旺盛に尋ねると、それまで悠然と振る舞っていた三人は顔色を変えて後ずさりする。
「ごきげんよう、菜々さん。私たちは、少し噂話をしていただけですので、これで――」
そう言うと、蘭さん、美南さん、杏さんは自分の席に戻って行った。
「あの、菜々さん、ありがとう」
マリアは俯いたままお礼を言った。
「私は何もしてないよ。ただ楽しそうなお話をしてそうだったから、仲間に入れてもらいたかっただけだもん」
そう言うと、菜々さんは自分の席に戻っていった。
「ユリカちゃんも、ありがとう」
「ううん。ぜんぜんお役に立てなかったけど」
「そんなことないよ」
「困ったことがあったら何でも相談してね」
「うん、ありがとう」
「でも、やっぱり菜々さんは素敵ね。さすが
「かっこ良いよね」
マリアは頷いた。
「私なんか、蘭さんたちとまともに会話もできてなかったし――やっぱり一年生で薔薇さまのつぼみになって、
マリアは憧れに似た視線を菜々に向けていた。
「ええ。菜々さんは中等部の頃から、お姉さまである
「
今日、マリア像の前で声をかけられた松平瞳子さまも、
山百合会。
リリアン女学園の生徒会は、マリア様のお心にちなんで山百合会という。
マリア様の心は――青空であり、樫の木であり、ウグイスであり、山百合であり、サファイアである。
それは、このリリアン女学園の幼稚舎に入って最初に覚えさせられる歌にあると――以前、幼稚舎からこのリリアン女学園に通っているユリカちゃんが教えてくれた。
マリア様の心はサファイアなんだ。
それはとても綺麗なんだろうな――マリアはその歌を教えてもらった時に、漠然とそんなことを思った。
とても素敵だなと。
私もマリアなんていう、完全に名前負けする恐れ多い名前を両親にいただいてしまったけれど、私の心はどう考えてもサファイアって感じじゃなくて、路傍の石だ。サファイアなんて素敵すぎる宝石は、あの松平瞳子さまのような方にこそ相応しいんだろうな――マリアは山百合会のことを考ながら一人納得してしまった。
山百合会のメンバーは紅白黄の三薔薇さまと呼ばれており、その妹は薔薇のつぼみと呼ばれている。
五月に行われた新入生歓迎会で、三薔薇さまとその妹たちが一堂に会しているのを見た時、マリアはその壮観さに瞳を奪われずにはいられなかった。自分と一つ二つしか歳の違わぬ生徒たちが――有馬菜々さんにいたっては自分と同い年であるはずなのに――マリアとはまるで住む世界の違う殿上人に見えてしまった。
無垢な天使とは、彼女たちのことを指すのではないかとさえ。
ロザリオを授与したところで本当の姉妹になんてなれない――
そんなことを考えてしまう私には、憧れることすら許されない存在なんだと、マリアはそう思って気分を沈ませた。
そう、私なんかが憧れていい存在じゃない。
それどころか、私は姉を持つような資格もない生徒だ。
そして、このリリアン女学園は――
私なんかが、いていい場所じゃない。