マリア様がみてる Another ~シスター&シスター~ 作:夏緒七瀬
「瞳子?」
薔薇の館の前で、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
瞳子は、いつの間にか薔薇の館にたどり着いていたことを、その時知った。どうやってここまで来たのか、まるで覚えていない。心ここに在らずでただ足だけを動かしてきたのだろう。
帰巣本能が働いたのかしら?
瞳子は心の中で自嘲気味に言い、そして自分を待っていてくれたお姉さまを見つめた。
自分が帰るべき場所を見つけたように。
祐巳さまは青い傘をさしていて、驚いたように瞳を広げて瞳子のほうに駆け寄る。
「瞳子、びしょ濡れじゃない? どうしたの?」
青い傘の中に入ると、まるで温かい毛布に包まれたように気持ちになった。
青い傘は祐巳さまのお気に入りの傘だ。子供の頃から大切にしている傘で、一度無くなった後、福島駅で見つかって返ってきた縁起の良い傘だと話してくれたことがある。
傘の柄には祐巳さまのおじい様が書いた――
リリアンじょがくえん
ふくざわゆみ
の、文字が今もしっかりとある。
「瞳子、大丈夫?」
祐巳さまが傘を持った手とは反対の手で、瞳子の肩を撫でながら尋ねる。びしょ濡れというほどではないけれど、制服は雨で染みになっていて、自慢の縦ロールは見事に崩れていた。
「はい。大丈夫です」
瞳子は、そう言うのがせいいっぱいだった。
それ以上、なんて言葉を紡げばいいのか分らなかった。
「大丈夫なわけないでしょう? そんな悲しそうな顔をして」
「私、悲しそうな顔をしています?」
瞳子は――私は今、悲しそうな顔をしているのね、と思った。
それは、いったいどんな顔なのだろう?
早くいつもの顔をしなければ。
お姉さまを困らせてしまう。
だけど、瞳子にはどうすることもできなかった。
「お姉さま、いつからここで待っているんですか? わざわざ傘まで持ち出して」
瞳子は話を変えようと俯いたまま尋ねる。
「マリアちゃんと何かあったの?」
だけど、祐巳さまは話を変えさせてくれずに真っ直ぐな声で尋ねた。
その声があまりにも真っ直ぐ過ぎて、そしてお姉さまの傘の中があまりにも暖か過ぎて――瞳子は思わず涙をこぼしてしまった。
「瞳子、泣いてるの?」
祐巳さまが声を震わせて尋ねる。
瞳子の肩に置かれた手が、瞳子を引き寄せる。
瞳子は涙を流したまま祐巳さまを見つめた。
「ロザリオ、受け取ってもらえませんでした」
「うん。そっか」
祐巳さまは、まるでそのことを知っていたかのように小さく頷く。
「分っていたんです。マリアが誰とも
一度言葉にしてしまったら、言葉は次から次に溢れてきた。まるで降り注ぐ雨のように。
はじめて会った時から、マリアのことが気になっていた。
二度目に会った時には、特別な何かを感じていた。
はじめてマリアを名前で呼んだ時、自分が姉になる準備ができていることを実感した。
そして、薔薇の館で居眠りをしているマリアを見た時――瞳子はマリアが自分の妹にと願った。
でも、それは瞳子の独りよがりでしかなかった。
マリアには伝わらなかった。
さっきまでそばにいたマリアは、夢か幻のように目の前から消えてしまった。
「マリアちゃんだけが、一年生じゃない――」
祐巳さまはそう言った後、小さく首を横に振って瞳子を強い眼差しで見つめ直す。
「――なんて、言わないよ。瞳子は諦めていないんでしょう?」
「はい。だけど――」
祐巳さまの熱に当てられて「はい」と返事はしたものの、瞳子は自分でも信じらてないくらい弱気になっていた。
もう一度ロザリオを渡すなんて、今は想像もできなかった。
でも、マリアじゃなきゃダメだった。
自分の隣にいる妹は、マリアじゃなきゃダメなのだ。
自分のお姉さまが、福沢祐巳さまじゃなきゃダメなように。
でも――
「瞳子、私は諦めなかったよ」
祐巳さまは、優しくそう言って瞳子の髪の毛を撫でる。
「クリスマスの夜、瞳子にロザリオを受け取ってもらえなかった時――ものすごく悲しかったけど、私は諦めなかった。瞳子も、諦めなければいいわ」
そうだ。
私は祐巳さまからの
それでも祐巳さまは諦めず、自分を見捨てずにいてくれた。
だから、今こうして瞳子と祐巳さまは
そう思ったら、瞳子は勇気が湧いてくると同時に、別の気持ちがわき上がってきた。
「私、お姉さまをこんな気持ちにさせていたんですね?」
瞳子は今、ようやく知ることができた。
あの時の、祐巳さまの気持ちを。
何度も何度も想像はしてきたし、後悔もしてきたけれど――それでも実感としてあの時の祐巳さまの気持ちを知ってた今と後では、それはまるで違う気持ちや感情だった。
「ようやく分った? それはもう、悲しくて悲しくてしかたなかったんだから。小心者の私の心には瞳子に
祐巳さまは冗談めかせていう。
そして、傘を捨てて瞳子を強く抱きしめた。
「だから、瞳子も今は泣いていいんだよ」
瞳子は、お姉さまの胸に顔を埋めて声を上げて泣いた。
「ぅあああ――」
「うん。悲しいね」
悲しいのか、悔しいのか、嘆かわしいのか、腹立たしいのか、苦しいのか、わからない。わからないけれど、瞳子は自分の中にあるぐちゃぐちゃに混ざり合った感情を全て吐き出すように泣いた。
薔薇の館の二階には山百合会のみんながいる。でも、それを気にしていられる余裕はどこにもなかった。
瞳子は、いつの間にか祐巳さまも泣いていることに気がついた。
自分のためにお姉さまが泣いてくれている。
こんなに幸せなことがあるだろうか?
瞳子は心から祐巳さまに感謝した。
そして瞳子は、お姉さまの胸の中でマリアのことを思った。
今、どうしているだろうかって。
雨に濡れていないだろうかって。
そして、泣いてはいないだろうかって。
できれば、マリアには涙を流していて欲しくなかった。
だってマリアには――私のように抱きしめて一緒に涙を流してくれるお姉さまがいないのだから。