欠け落ちた翼、咲き誇る戦花   作:氷蜩

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氷蜩です!
よろしくお願いします!
投稿するのは初めてで緊張していますが、暖かい目で見てくれると嬉しいです。


第一章 箱庭の結界
偽りを歌う一つの終焉のプロローグ


溶けて行く世界で、その人はとても悲しそうな顔をしていた。全てを分かっている表情と一緒に、頰に一粒の雫が伝うのが見えた。いつしか届かなくなってしまった私の手を必死に掴もうと、私の名前を叫びながらもがくその人を見ていると、私まで悲しい気分になってくる。

やがて光が消えた。黒、暗闇で深くどこまでも続く無の空間の中に一人取り残されて、心臓を(わし)掴みにされたみたいだ。

溶けて行く世界で、その人が最後に言った言葉を、どうしてか、私はずっと。

 

思い出せなかった。

 

 

 

 

 

深い青の双眸で、ぼんやりと空を見上げていた。そこに()と呼べる景色はなにもなかったけれど、天蓋を覆いつくす木々の裏側を眺めるのも中々どうして味があるように思えた。

 

背後でチカチカと光が瞬いては消えていくのを感じながら、それでもなお、空を仰ぐのをやめなかった。その意識は、確かにそこに存在していても、翡翠色の天蓋には向かっていないように見える。過去でも未来でも現在でも、己の中にでもなく、まるで違う世界にあるみたいだ。纏う雰囲気は、決して姿形通りの少年のものではなかった。さながら、何かおおいなる、人間には逆らえない()()のようなものの正体を知っている存在のそれである。

 

少年が空を見上げている場所は、「シャトル」という人々が集まって作った集落のはずれにある丘だった。この丘は星泣きの丘と名付けられている。その由来は、ここがシャトルで最も高い地面であり、本来であれば星がよく見えるはずの場所だが、()()()()()()()()()()()()では星が見ることができないという悲しみから、ある詩人がつけたのだという。

 

––––––少年に近づく人影があった。星泣きの丘を芯のあるしっかりとした足取りで一歩ずつずんずんと歩いてくる人影は、身体つきのいい男性だった。白いものが混じる黒髪で、齢四十過ぎに見える彼は、どうやら星を眺めに来たわけではなさそうだ。

 

「レィジ、お前とヒルミィのための宴だ。こんなところで時間をつぶしていないで、顔を出したらどうだ?」

レィジと呼ばれた少年の肩に手を置いて、諭すように言う。「最後まで無関心を貫くのか」

「………関心がないわけじゃない。向こうにはヒルミィがいる。俺はもう役目を果たした、そう思っただけだ」

肩に置かれた手を払いながら不機嫌そうに言うレィジ。彼は、目深に伸ばした黒髪と彫りの深い眼のせいで暗い性格に勘違いされやすい。その上、左のもみ上げを耳の後ろに掛け、劔のレリーフの髪留めで留めている中性的な見た目から忌避する者もいるほどだった。

 

男は、そんなレィジに嘆息しながら、座れと促した。空に目を向け、視線はレィジに合わせて話し始める––––––どうやらレィジと同じように空を見ているわけではなかった。

「俺がお前を拾ってもう十年だ。ヒルミィと違ってお前はこんなに変な奴に育っちまったよ」

言葉とは裏腹に、その表情は穏やかなものだった。もう何度も交わされた、軽口のうちのひとつなのだろう。

「………ほっとけ」

そっぽを向きながら中性さの強い低い声で返事をするレィジ。その手は、星泣きの丘の土を掴んでいた。普段人が立ち入らない場所にもかかわらず、生命の気配の無い悲しげな丘の土は、指先を絡め取るような冷たさがあった。爪を立てて掴んでも、指と指の間からサラサラと抜けていってしまう手触りの土は、さながらその生命の尊さを象徴しているようだ、とレィジは思う。

 

背後では、シャトルに住む人々が、レィジとヒルミィ––––––レィジの二つ下の妹だ––––––の初舞台を祝して、飲めや騒げやの宴会を開いている。その僅かはずれで、レィジは隣の男とともに、生命のともしび薄い儚げな丘に座り込んで、各々の空を見上げる。

いよいよ、明日。

レィジは()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

丑三つ時の闇夜にたった一人で歩いていると、背筋に小さな虫が這っているような、言い知れない不安に襲われることがある。不安をかき消すように袖を掴みながら、腰を引かして歩いているのは、宴の騒々しさに後ろ髪引かれるヒルミィだった。スカーレットの長髪を青い薔薇をあしらったふんわりした髪留めで留める彼女は、宴が終わって数刻経っても帰らない兄とィージルを心配して星泣きの丘を目指していた。星泣きの丘は、二人がよく訪れる場所だったから、今日もそこにいるだろうとアタリをつけたのだ。

 

ィージルは、レィジとヒルミィ兄妹の育ての親だった。レィジが四つ、ヒルミィが二つの時に、ちょうどこの星泣きの丘の上に捨てられていた二人を拾ったのがィージル・クロイツという男だった。その当時はまだ三十を少し過ぎたくらいの青年を頭一つ抜けた若々しい男だったのが、十年経つ間に物々しく貫禄を身につけてしまった。その様子は木に似ているとヒルミィは思う。知らないうちに枝葉を伸ばし、いつの間にか姿を全く別にしてしまう。それでも森の木々は優しさと強かさを忘れることはない。

ヒルミィは木が好きだった。けれど、夜の間に見せる彼らの恐ろしい表情だけは、どうあっても好きになれないなと内心で苦笑しながら、遠くにシャトルの松明に照らされた人の影を認識する。

 

()()()()()()()()では、日中は木漏れ日だけ、夜間にはほとんど月明かりが届かなくなるので、こうして松明で人の住むシャトルを照らす習わしがあった。こうしていれば、迷い人は森の中で彷徨うことになったとしても、印として松明を探すことができる––––––そうした実際的な意味の他に、人生の道に迷った時の導になるようにという精神的な意味も含まれている。

ぼんやりとオレンジ色に染まった土色の丘の上に、胡座をかいて寝る男の姿だけ確認して、レィジがいないことに気がつく。

 

「ここにいないってことは、お兄ぃ、森に入ったのかな」

 

ィージルに心配はいらないだろうと、持ってきていたハウンズの毛皮を背中からかけてやって、これも右手に持ってきていた松明を片手に丘を下り、正真正銘森の中へ入る。このシャトル、〈グラーヴェ〉は森の中にぽっかりと空いた大きな空間に家屋を建ててできている。そのため、グラーヴェを一歩でも外に出ると、深淵の蔓延る森の中になるのだ。

けれど、ヒルミィは兄のいる場所を知っていた。それは森の中といっても、人の手が加えられて、ほとんど開ききっている空間だった。ちょうど、枯雪の降る日に造る〈深夜城(みやしろ)〉のように。

 

幼き日の幼い二人の記憶が蘇る。水に沈めたコインのように見えなくなっていたものが、水に浮かべた木片のようにぷっかりと浮かんでくる。「ここは俺とお前が造った場所だ。俺とお前がここにいたって証だ。いつか俺とお前がここからいなくなっても、これがあれば思い出せる」

そう言った兄の横顔を、ヒルミィは忘れることができない。虚空を見つめた、深い青の瞳を。

 

そして案の定、そこにレィジはいた。森の入り口をすぐ傍に逸れ、明らかに人が作ったと分かるこぎれいな細い道を抜け、二人で作った枯雪の〈深夜城〉が見える。その中で、こちらに背を向けて、一人で胡座をかいていた。

声はかけなかったが、寝ているわけではないと知っていた。ここでこうして、夜の間に瞑想するのはレィジの癖とも言える行動だった。それを知っているヒルミィは、〈深夜城〉の横にある人一人が座れるように手直しされた切株に腰掛けた。

「ふぅ………」

松明の熱に手が震える。外気の刺すような冷たさを忘れることができた。

眠くはなかった。宴で回った酒が、ヒルミィから睡眠する気を奪っていた。そんな時だからか研ぎ澄まされた感覚で、耳にする。

 

「あの………き、ど………あ……は、………をつくっ………のか」

 

途切れ途切れに聞こえる声は確かに兄のものであるにもかかわらず、それはヒルミィが生涯聞いてきたどれにも当てはまらないような声音だった。

「っ」

肩を抱き、明らかな違和感に肌を震わせる。血の繋がった存在だから判る、その異様さ。まるで、レィジの中に入っている別の存在がレィジの身体を借りて言葉を発しているみたいだった。

言葉はそれきり続くことはなかった。あるいは、それで終わりだったのかもしれない。

程なくしてレィジが出てくる頃になっても、ヒルミィはその異様さを忘れることができなかった。

いつも通りの兄の隣で。

ヒルミィは、何となく、あれが本当の兄の姿なのだろうと感じていた。

 

 

 

 

 

「ほら、お前らも歌え。第十八節だ」

「わかってるよ………ほ、ほらお兄ぃ。口だけでもいいから歌って?」

「どうして信じてもいない存在に歌を手向けなければならない」

「いいから!そういう決まりなの」

「ふん」

この世界では、毎食ごとに、全部で百節ある「森捧歌」のある節を歌う決まりになっている。太陽の光よりも、森と縁深いこの世界の人々にとって森は神が宿る尊いものなのだ。

 

そもそもなぜ陽の光が届かないのか。

それをより理解するには、この世界の全貌を知らなければならない。

特定の場所以外の全てにおいて、この世界は空を覆い尽くす幾億もの木々が、森を作っている。つまりこの世界は森に覆われているのだ。人の手の施しの効かない、雄大な自然に支配されたこの世界で、人々は自然に逆らうことは許されない。それは世界に背くことを意味し、命に背くことを意味する。

故に人々は、自然と争わず、支配しようとせず、共存し、利用せず、協力して生を営む。あらゆる家屋を木とともに造り、あらゆる信仰を森に捧げる。

ここは、森に覆われた世界。まだ、人々は、青い空に一つだけ浮かぶ太陽の暖かさと出会っていなかった。

 

「明日が勝負なんだ。歌わなくても、食うものは食っておけ」

ィージルが、安さを優先した硬く味も悪いパンをスープでほぐして口に入れながら言う。宴会で一月分の贅沢をして一晩で消費したために、現在、グラーヴェの家庭では食料は質素なものになっていることだろう。

「そうよレィジ。あなたはあまり食べないんだから、今食べておかないと肝心なときに力が出ないわよ?」

「………分かっている」

 

レィジは、育ての親であるクロイツ夫妻と妹のヒルミィと暮らしている。ィージルの妻のヒルミアは、朴訥な夫と異なり社交的な性格であり、シャトル内の立ち位置も中心的だった。長い髪を後ろで縛り、手を布で拭きながら三人の食卓を見守るその姿はまさしく母と言えるべきものだ。

「ならいいのよ、ちゃんと食べて、ちゃんと寝る!でも、その前にやることは済ましておかないと、よ?」

「ダーミルに顔を出しておけ。あいつはああ見えて情に厚い男だからな」

「じゃあ私も先生に挨拶してこようかな」

 

こうなると、レィジの言葉をもつのは誰もいなくなってしまう。レィジは内心でため息をつきながら、やはり身内には敵わないと思う。「分かったよ。ダーミルにも顔を出しておく。………食事の方も、しっかり摂ることにする」

三人が苦笑したのは、きっと同じ理由からだろう。

 

天邪鬼に食卓を立ったレィジは、去り際にダーミルの元へ行ってくると言い残して、家を出た。

宴が明けた日の朝にも関わらず、シャトルの中は人が多かった。宴が終わったとはいえ、皆浮き足立っていることには変わりないのだ。その当事者がこうも冷静頓着ならば尚更だ。なにせ、こんなことはここ十数年起こらなかったのだから。

そうして、昨日の宴に参加していないレィジが、昨日の宴に顔を見せていないダーミルの元へ訪れるというのは皮肉な話である。

 

「よぉレィジ!これからダーミルさんのところか?昨日の宴楽しかったぜ!俺ぁ昔からお前ならやってくれるって信じてたんだ!………生きて、帰って来いよ」

「………パン屋のか。帰ったら、お前のところのパンをもらおう。いつものやつを三つだ」

「はは、お前らしいよ」

 

ィージルに関心がないわけではないと言ったのは、やはり嘘ではないようだった。シャトルの住人–––––レィジの努力を知る者たち––––––にしきりに話しかけられては、一人一人に丁寧に返していくレィジを見ると、その証左だとすぐに分かる。

それでも宴に参加しなかったのは、少年の意地というやつだろうか。

それから何人かと会話してから、ようやくダーミルの家に着いた。ダーミルの家の周りには、森の木とは異なり、人工的に植えられた人の身長の大きさくらいの小さな木が等間隔にあった。特徴的なのは、その十数本の木々のほとんどが傷ついていることだった。何か刃物で斬りつけたような跡のある木や、縄で縛ったような跡が残る木など様々だった。そして、家の玄関を挟むようにして生えている二つの木は、半ばから捻り切ったかのように折れていた。およそ普通の家には思えない外観に、レィジは慣れた様子で入っていく。

玄関の扉をノックすると、中から聞き慣れた声が聞こえた。

 

「入るぞ、ダーミル」

「お前はいつになったら師に敬意を払う気になるんだ?」

「ならお前は俺に敬意を払って欲しいのか?」

「………で、何しにきたんだ。もうお前に教える事はない。まさかお前が断りに来ることも無いだろうが」

 

扉を開けてレィジを出迎えたのは、ィージルよりも一回り年の食った男だった。禿頭に、その頰や剥き出しの腕には幾筋もの斬り傷がある。その姿は、さながら歴戦の戦士だった。

––––––実際、ダーミルはレンジャーズを目指し凄絶な経験を積んできているのだ。レンジャーズとは、簡単に言えば〈命をかけた何でも屋〉である。

 

「ヒルミィとィージルとヒルミアがうるさいからな」

「………ならあの夫婦にこう言っといてくれ。面倒ごとの礼はツケでいいってな。お前の妹には、そうだな。………お前を頼むと、言っておいてくれ」

肩をすくめ皮肉るダーミルは、レィジに上がっていくかと尋ねたが、レィジの関心は他のところにあるようだ。

「なぁ、ダーミル。ノエはどこだ?今ここにいるのか?」

 

するとダーミルは拍子抜けしたような表情のすぐあとに、普段なら見せない微苦笑を貼り付けた。複雑な気持ちなんだろう。特に今は宴のあとだから、拍車をかけるように気持ちに薪が足される。

「ノエならさっき出て行ったぞ。待っていれば帰ってくるかもしれないが、まぁお前ならあいつの居場所が分かるんだろう?」

頭をボリボリと掻きながらあくびと一緒に言った言葉を聞いてすぐに、レィジはダーミルの家を後にしようとして………踏みとどまる。

「………礼を言っておく。ありがとう」

「ふん」

––––––もしかすると、レィジの不遜とした態度はダーミル譲りなのかもしれない。

 

これで本当にダーミルの元を後にするレィジはやはり照れ隠しのつもりなのだろう。

ダーミル・シルギィ。

彼は、グラーヴェを治める長であり、レィジの師でもある。

レィジとヒルミィを拾ったィージルが、レィジに剣を教えてやってくれと依頼し、それを受けたという構図だった。八年の師弟関係の中で、二人はともすればレィジを知る誰よりも繋がりが深くなっていた。言葉はいらないというやつだ。

「弟子を取るとは、俺も変わったんだな………いや、変わっていたんだろうな。あの時から」

玄関越しに離れていくレィジの背中を見つめる彼の瞳には、きっと彼にしか分からない感情が凪のようにこもっている。

音を立てて閉まったその扉は、師弟を隔てる壁を象徴しているみたいだった。

 

 

 

「………ノエ」

レィジが声をかけたのは、少し先で花を摘む少女だった。

星泣きの丘と名をつけたのと同じ詩人が、そこを浮橋の花園と呼んでいた。由来を聞いてもついぞ分からず、いつからか自然に浮橋の花園が定着していた。星泣きの丘とは反対のグラーヴェへの出入り口の近くに花畑はある。レィジとその少女にとってそこは特別な場所だった。

「ここのお花ってね、子孫を残さないんだって。その代わりに、一つ一つのお花の寿命が周りの木と同じくらいに長いんだ。でも、それってお花としては矛盾してるよね」

そう言いながら、彼女は冬に〈枯火木(かれひぎ)〉––––––専用の小さな板で擦る(こする)と摩擦で火がつくという道具だ––––––を売る女子が持つような植物で編まれた麦色の手提げの中を花で満たしていた。

 

「そんなめずらしい花を摘んでいいのか?」

「いいんだよ。だって、もう今晩には行っちゃうでしょ?………これはね、お守りにしようと思ったの。私と、レィジへ、一つずつのお守りに」

 

もうこれで十分集まったと、レィジを振り返りながらはにかむ少女を柔らかい目で見つめるレィジは、少女を連れて花園の奥に作られた二人ぶんの切株の椅子に向かう。

その間、二人に会話はなかったが、決して悪い空気が流れていたという訳ではなかった。むしろその逆………ダーミルとレィジに言葉が要らないのならば、ノエとレィジには目線だけで十分だった。

ノエ・シルギィ。ダーミルの孫娘だ。ダーミルは、父親が出て行ったノエにとっては父親も同然だった。

レィジに幼少期の記憶が蘇る。小さい頃から変わらない肩までの短い翡翠色の髪。レィジと同じ劔の髪留めを付け、麦藁帽子を手で押さえながら隣を歩く姿。二人の熱が跳ね躍る繋いだ手。レィジの右手とノエの左手で交わされる、ひと夏の熱。

 

「………約束」

ノエの口からその一言だけが発せられた。二人とっては、それだけで何を話そうとしているかが伝わる言葉。

「ちゃんと、守ってくれる?」

浮橋の花園から摘んできた花で彼女の言うお守りを作りながら、ノエは何でもないように大切な言葉を紡いでいく。花は彼女にとって重要な部分なのだ。父親の形見である赤い花の髪飾りを、ノエはいつも右手首に付けていた。

彼女は、改まり気取って言うよりも、何でもないように言う方が気が楽だったのだろう。

「あぁ、分かっている。だから、お前は安心して待っていろ」

「………うん、分かった」

 

お守りを作る少女の隣で俯いていたレィジは、ノエの横顔を見つめながら告げる。まるで、それ自体が運命の告白であるかのようだった。

短い言葉の中にある、大切な暖かさ。無くしてはいけないものを、()り合わせてできた、二人だけの宝物。

そのあと、レィジはノエのお守りができるまでじっと待っていた。そこに言葉は無かったが、互いの感情が時々思い出したかのように触れ合う肩を介して伝わっていた。言葉だけでは及ばない尊さ。

ノエからお守りを受け取った時、少年の脳裏には、花園が広がっていた。少女と二人、幼き日に歩いた矛盾の広がる花園が。宙に舞う想いの粒のひとつひとつがキラキラと光って、世界に二人だけを残してそれ以外を排して。

 

「いつかまた会えるかな」

少年の記憶の中の少女が不安そうに呟くのに、少年は答えを持っていなかったから、返事はついにすることができなかった。

「………ノエ」

呟いた右手は宙を掴んだまま、意識はもうそこには無かった。

 

 

 

 

 

時は宵を刻み、次第に朝の暖かさが近づいて来る時刻だった。浮橋の花園の方のグラーヴェの門前に、レィジとヒルミィ、それ以外にもう一人長身の男が控えていた。

 

「いいかい?もう一度おさらいをしておくよ」

間延びした声で人差し指を立て、二人の前で語り出したのは、アルフ・ベルリン。ここ、グラーヴェの学び舎の唯一の教師である。二人の出立を見送りに来たのだ。

「レィジが私を指名するんだから、不安だったんだろう?まずは森界史から行くよ」

「ま、待って先生!もう十分習ったから………」

 

困ったような笑顔でアルフを制止するヒルミィの膝上で閃くスカートを履いた腰には、ちょうどヒルミィの腕の長さほどの杖が挿してあった。それだけでなく、右手には装丁の一切ないパントリーの皮で綴じられた一冊の本が。

「そうだね………ヒルミィは心配してないけど、レィジ。君は私の講義の時いつも眠たそうじゃないか」

「………目を開けるのが苦手なんだ」

噛み合っていない返答をしたレィジの方は、ハウンズの皮で作った動きやすさを重視した軽装だった。レィジにも、腰には左右に一つずつ、二つの拳大の直方体の金属が提がっていた。何に使うのだろうか、およそ少年が持っているとは思えないような形態をしている。その一方で、ダーミルに剣を師事していたはずだが、剣の類いは持っていない。

 

「いいかい、先ずは基本的なことからだよ。私たちの先祖は、数百年前、この生きた森の中で実に珍しい空間を見つけたんだ。どこだか分かるかい?」

生きた森。生命を冠したその存在。

「………ここだろう。グラーヴェ」

「そう、グラーヴェがあるこの空間だ。グラーヴェはオアシスシャトルじゃないよね?なのに、こうして森が途切れている。これは胎動の影響だと私は思うんだけどね。そうして、オアシスシャトル、ジュストが出来てからそう遠くないうちに、このグラーヴェは連合政府ジュスト管轄下に置かれたんだ」

森の胎動。なかなか言い得て妙だった。森は数百年に一度大きく地形を変える。人々はそれを、〈胎動〉と呼んでいた。

「森界史で重要なのは個々のつながりだよ………そうだね、あまり時間もないようだから、あと一つだけ話をさせてもらおうかな」

森の隙間から漂う、闇夜に溶け込んだ(あけぼの)の香り。

「君たちが幻獣を倒して来ることを祈ってるよ。そうしたら、私から是非、森の羅針盤を渡させてくれないか」

沈黙は否定ではない。優しい沈黙は穏やかな肯定。

 

「………頼むよ、先生」

「うん、待っててね」

 

はにかむ二人は、もう行ってしまう。

アルフは目が痛くなるのを堪えて、レィジとヒルミィの背中を見送った。

「頑張るんだよ」

いつのまにか、身丈をうんと追い越して、二人の教え子は大きくなってしまったんだね………。

 

––––––レィジは思う。これはグラーヴェでの最初で最後の戦いになるだろう、と。

レィジの手中には、今朝ノエに貰った永遠を齧る花で作ったお守りがあった。

「お兄ぃ、それノエちゃんから?」

自分の背中側で、腰で手を重ねて兄の顔を伺うヒルミィ。こんな時にも変わらない妹に、どう答えようかと迷っているところだった。

「見送り。ノエちゃんじゃなくてよかったの?」

「………ノエは夜が苦手だからな。夜が苦手で、早起きが得意じゃない」

頰をぽりぽりと掻きながら言う兄に嘆息したヒルミィは「お兄ぃらしい」と思いながら、背中を押してやれなかった僅かな後悔に苛まれる。

 

ここの習わしで、旅路の見送りは最小限の人数で行われる。宴が行われたのは、見送りの代わりに華やかに飾ろうという決まりだった。今回のレィジとヒルミィの件においては、レィジがアルフを指名したのだ。それは、レィジの少年の矜持(きょうじ)に似つかない緊張だった。

レィジの手は震えていた。その因果を何と知らずとも、ヒルミィには俯くことしかできなかった––––––刹那だった。

 

「レィジっ!待って、少しだけ待って!」

「………ノエ!?どうしてここに?決まりが………」

 

すぐ目の前で、困惑するアルフを追い越して走るノエの姿が確認できた。目元を赤くした彼女の足取りは、誰かのように震えている。

「そんなの関係ない!………やっぱり、私、レィジには行って欲しくないよ。だって、すごい危険なんだよ!?––––––きゃあっ!」

門を潜り、複雑な表情に挟まれるレィジへ手を伸ばしたノエは、絡まった木の根に足を取られて転んでしまう。「ノエ!………ッ!」

(うずくま)るノエに駆け寄り、抱き起こしたレィジは、その時胸がきつく悲鳴をあげたのを覚える。痛みを抱いて、自分自身と戦うように。

 

「私っ、私、レィジのこと待ってるから!誰よりもずっと待ってるから!だから、絶対帰ってきてね。だから、絶対絶対………」

後半は声にならない声で、ノエはレィジの顔を手で包み込む。冷たいはずの外気は、激しい鼓動と触れ合う肌が掻き消してしまった。

ノエは知っていた。どんなに自分がレィジを想っても、彼は行ってしまうのだと。だから、最後の日に、永遠の命を刻む花で、二人お揃いのお守りを作ったのだ。彼の心に、ずっと、私がいられればいいな………そう願って。

 

––––––まつ毛を震わせて目を閉じたノエは、愛おしそうに自らの唇をレィジの唇に重ねる。そのひと時が永遠であれと、腕の中の少女への気持ちで少年の瞳は満たされた。

どれくらいそうしていたか、二人には分からなかっただろう。ただ、例えどれほどでも、ヒルミィはこうしている兄をずっと待っていようと決めていた。

重なり合った身体が、ノエの手で離れていくと、ノエはレィジにしか聞こえない声で呟いた。

 

()()なんて、今は考えない。ただ今は、自分の気持ちに正直でいたいから。

 

 

 

「いってらっしゃい」

 

 

 

 

 

 

 

 

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