前回の前書きでも言わせてもらいましたが、実生活との折り合いで不定期更新にさせていただきました。
今回で話的には一区切りつきますが、次の更新も期間が空いてしまうと思います。
ですが、この話は書き続けていきます!
穴の底は広い。大樹を抱えていようと、アリア商会のある壁沿いの区画からオアシスシャトルまでは歩いてしばらくはかかる。少し歩いただけでは、グラーヴェを少し出た森のように
「………そろそろ感覚も戻ったな」
宿から離れ、ゴツゴツした地表がむき出しの壁に背を向けて、大樹と相対しながら、レィジは短刀を抜いていた。
「………っ!!」
首筋の汗がぴっ、と地面に跳ねる。その度にレィジの剣はジュストの灯りを反射して、オレンジ色を刀身に映し出す。レィジが踏み込むたびに、無骨な土と低い背の雑草だけの地面が揺蕩く震えた。
「少し速さが出てきたか………!?」
飛び散る汗が地面にぶつかるその前に、重心を移した脚が雑草を踏み、刀身が
「ふぅ………」
いつも通りの鍛錬を一通り終えて、外の冷気とは裏腹にじんわりと肌に
そのまましばらく息を整えるように、ゆっくりと四肢を回したり軽く屈伸したりしている時だった。シャガールの時みたいに––––––だが、今度はヒルミィではない誰かがレィジに近づいてくるのを感じた。
「誰だッ––––––?」
「おお、そんなに警戒しないでくれ。お前、アレだろ?モーブルが言ってた、確か………レーニン・クロ………クロミツ?だか何だか言う護衛って奴は」
見ると、レィジに話しかけたのはオアシスシャトルの方向から歩いてくる長身の男だった。濃い青色の髪がかかりレィジの瞳と近い青の双眸がレィジを見つめる。モーブルにそうやって見つめられていると、心の底まで明かされるような気分になるが、この男の視線を感じてもそれほどの
「………俺の事を言っているなら、
「レィジ・クロイツか!すまんすまん………!いや、モーブルの奴がテキトーぬかすからよぉ〜。おっと、俺の紹介がまだだったな。俺はビブリオ・クレメンツだ。アリア商会が一人、ジュスト随一の色男だ。よろしくな!」
アリア商会、というワードが出ると、自称・ジュスト随一の色男ビブリオもアンナやモーブルと同じ商会のメンバーであると分かる。話し振りは軽かったが、この男にはどこか掴み所のない雰囲気がある。
「………何か用だったのか?」
「いや、剣を振ってる姿が見えたから何かと思って来てみたら、噂の護衛だったから声をかけたってワケだ」
少し得意げに鼻を鳴らすビブリオは、
「ところでレィジ………お前、剣を握るんだな」
「ああ、そうだが………それがどうかしたか?」
口調は相変わらず軽いままなのに、心を覗かれているみたいな気がした。この男の他者に与える底の読めなさに眉をひそめるかたわら、両の眼はレィジを射抜いてくる。
「よし、じゃあ俺とちょっとした手合わせをしよう。なぁに、寸止めの峰打ち、傷なんてつけるもんじゃないから心配いらない」
「手合わせ………?ビブリオも剣を使うのか?」
「おお、聞いてた通りだな」
何を聞いていた通りだったかはレィジには言わず、ただ、少年の無骨な態度をニヤニヤと眺めて、ビブリオはすぐに顔色が変わった。
「ああ––––––俺
たったそれだけを言うと、腰に挿していた刃渡りが彼の腕ほどのある剣を構えて、ビブリオは続ける。
「レィジ、お前も剣を抜け。俺が投げる硬貨が地面に落ちた瞬間に始めて………そうだな。お前が俺に踏み込めたら勝ち、なんてどうだ?」
「………!」
ついさっき鞘に収めたばかりの剣を抜きながら、視線はビブリオからずらさない。その口元が少しだけ斜めになったのを見て、レィジは神経が逆撫づのを感じた。
(舐められている………のか?)
この掴み所のない男は、剣を握るようには思えなかった。剣よりも女や金が似合いそうな雰囲気すらある。ますますこのビブリオという男のことが分からなくなったが、一つだけ分かることといえば………。
(踏み込んで、余裕を崩してこそというものだ)
すなわち、
ダーミルのものとは全く違う、見たこともないような独特な構えで、ビブリオは目を
「………準備はできたぞ、ビブリオ。硬貨を」
「分かった、じゃあ」
行くぞ––––––。
パリンッ………。
硬貨が曲がる。二人の視線の上でひらひらと、妙にゆっくりと舞いながら落ちてくる。ひらひらと、くるくると、すっ、と。
コ、ツン––––––。
「シッ––––––ッ!!!」
「………っ!!」
硬貨が地面に落ちたそのまさに
「くっ………」
防戦一方にビブリオの一撃を抑えることしかできないレィジは、
「どうした、レィジ?その程度か?」
あるいは、ビブリオが強すぎるだけなのかもしれないが、少なくともこの場において、レィジは
「おおお………!」
「ふん………」
剣ごと押し返すように腕を伸ばし、なんとか形勢逆転を図ろうとするレィジだったが、筋肉は震え、筋繊維が悲鳴をあげるその
(このままじゃあ腕がダメになる………!)
故にこその、発想の転換。
––––––何も、受け止めるだけが防御ではないッ!
ギャリイイインッ!!
「………なるほど、剣の腹で滑らせたか」
ビブリオの言葉通り、レィジは剣の腹でビブリオの体重の乗った一撃を滑らせて、バックステップをしながら
だが、これで終わりではない。
ビブリオは即座に一歩踏み込むと、間髪開けずに切り込む。上段からの叩きつけるような重い一撃は、同じように躱されると分かったからか、一撃を防ぐたびに新たな剣戟を跳ねるように続け、まるで隙を作らせなかった。レィジはその一撃ごとに対応するのに全神経を集中させ、次の一撃の隙を考える余裕もない。
反転してビブリオの様子は、真剣さに覆われているものの、その芯には余裕が含まれていた。敵に対する油断ではなく、自分の力量に自信があるがゆえの、余裕。
キッ、キッ、キィィンッ!!
金属と金属のぶつかる硬質で弾ける音が宵を叩きながら、静閑を許さない一撃一撃が地面の上で舞う。
「––––––なあ、レィジッ」
ビブリオの剣が袈裟懸けにレィジに降りかかるのを、真上に剣を弾くことで軌道を逸らす。
「お前は、何の為に剣を握るんだ?」
弾かれた剣を、返す刀胴へ払う。
「お前の剣は、何を理由に握られているんだ?」
剣を縦にして、その軌道を打ち消す。
「お前のその瞳は、剣と共にあるのか?」
石が地面を跳ねるみたいに、ビブリオの剣はレィジの剣を跳ね、レィジの胸を
「その剣の重さに、お前は気づいているのか?」
一点のみに完璧に集約されたビブリオの剣の切っ先が迫る、その秒を刻んでレィジはビブリオの剣を打ち払う。
「その信念が、剣の重みの全てだ」
ビブリオの剣が、その剣戟が、チカチカと変わる変わる交わっている。
「お前の剣は、軽すぎる。それはお前の剣に信念がないからだ。それはお前が握っているのは剣の形をした惰性だからだ」
レィジの剣は、ビブリオの剣をただ受けるしかできず、その体勢も、ビブリオの攻撃を防ぐためだけに、後ろにのけぞるようなものになっていた。
「その剣では、お前は何一つ守れやしない。信念のない、
「––––––違うッ!!!」
レィジの剣は、初めてビブリオの剣よりも速く動くいていた。
「何が違うと言うんだ?」
ビブリオの剣は、その剣の行く先を予測して、レィジよりも早く打ち返す姿勢をとったが、その予測すら欺き、重心を崩しながらもレィジの想いを乗せた剣を振り抜く!
「俺は、俺の剣は………!!」
一度ビブリオの剣にレィジの剣が当たったことで、ズレた重心を修正しながら、すぐさま二撃目を斬る。
「憧れと、大切な人を守る為に握る––––––ッ!!!」
キャリィンッ!
飛び上がるような金属音が
「俺は俺の憧れの為に剣を握った!今も変わらない!俺は俺の大切を守る為に剣を握った!!その想いは今より強くなって俺に剣を取らせる!!」
レィジの剣は勇猛果敢に、ビブリオに攻め続ける。縦、横、斜め、上、下、突き、あらゆる面から走っていくレィジの剣は、今ではビブリオのものよりも速かった。
「俺の信念は………確かにここにあるッ!!」
キンッ!!
それを証明するみたいに、レィジはビブリオの剣の腹を横殴りに弾く。僅かコンマ秒でさえ、今のレィジには十分な間隔だった。
できた隙間を逃すことなく、踏み込んで、ビブリオの剣よりも早く、鋭く、一瞬で。
「………なるほど、だが––––––これが今のお前の限界だ」
「かはッ………!?」
確かに踏み込んだはずのレィジは、いつの間にか地面にうつ伏せ倒れ、その、剣を持っていない方の手は腰で抑えられ、肩口には服越しにも分かる冷たい感触があった。背丈の低い草ばりの地面に顔を付けると、二人の、合計四つの靴の跡がはっきりと分かった。ビブリオのそれは、整然と、初めから最後まで全て計算されたみたいな統率感すらあるが、レィジのモノは、激情に任せるまま踊り狂っているだけだった。
レィジの反応が、ビブリオの速さに追いつかず、知覚する間も無く押し倒されていたのだ。
(––––––完敗だ。全てを圧倒され、蹂躙されたみたいに、俺はこの男にあっけなく負けた)
「お前が何の為に剣を取ったのか、これではっきりしたな。お前自身が分かってもいないような剣では、お前の言う憧れも、大切も守れない」
「………!」
背中越しに聞こえる低い声。それを聞いて初めて、レィジは
「さて、手合わせは俺の勝ちだな。………ふぅ」
手を離され、悪かったな、もう終わりだと言いながら目の前に手を差し伸べられる。素直に受け取って、フラつく身体を引っ張ってもらいながら立ち上がる。
「とっ、とと」
「おいおい、大丈夫か?」
引っ張られる力が強く、立ち上がってそのまま転びそうになるのを笑われて、少しムッとはした。けれど、この男のことはどうしても憎めない。
「よし、じゃあそろそろ戻るか。俺はずっとここにいるわけだから、また手合わせでもしたくなったら––––––」
手を伸ばせば届くくらいの距離でそう言ったビブリオに被せて、レィジは早口でまくし立てる。これを逃せば、言い出せなくなる、と。
「ビブリオ。俺に……剣を。剣を………………教えて、ください」
剣を鞘に収め、ビブリオに頭を下げるレィジのその様子は、今まで見たこともないくらい真摯で、真っ直ぐだった。
ビブリオはやれやれとうなじをボリボリ掻きながら、ため息を一つ。
「……….俺の教えは厳しいぞ?」
「俺の憧れの………信念のためなら、何だってする」
レィジは気がついたのだ。彼は、レィジすら気づいていなかった、レィジの剣の信念を自覚させるためにこの手合わせを願い出たのだと。
「よし………なら、レィジ・クロイツ。俺はカタイのは嫌いだ。お前は俺のことをビブリオと呼べばいいし、俺はお前に剣を教える時以外は普通に接する。レィジ………改めてよろしくな」
「あ、ああ………よろしく頼む」
交わされた握手は、堅く長く、まるで何かを確かめ合っているみたいに。剣戟の激しさから一転して訪れた静閑に驚きながらも、穴の底の闇はそれをすんなりと受け入れる。
「ふぅ………じゃあ、帰るか」
「えっ」
何でもないように言い出したビブリオに拍子抜けして、レィジは素っ頓狂な声を上げた。
「鍛錬は明日からだ。今日は帰って休め。これでもかってくらいしっかりな。もう休みとは今生の別れになると気合を入れても足りないくらい心ゆくまま休め」
「いや、だが………」
「なに、休むことも鍛錬のうちだ。ほら、ボサッとしてねぇで行くぞ。アンナは待たせると怖いからな」
ソワソワするレィジの肩を強引に抱き寄せ、頭一つ分身長の差がある二人は、そのまま宿まで肩を組んで戻っていったのだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「それでよ、そのガキ、何を武器にしていたと思う?
「そ、そうか………」
「それでな––––––」
ビブリオに延々と彼曰くの面白い話を聞かされ続けたレィジは、何だか先の鍛錬や手合わせよりも疲れる感じがしていた。
レィジたちがいたのは、宿から歩いて五分程度の
「ふぅ、やっと着いたな………って、ありゃあアンナじゃないか?珍しいな、こんな夜に一人で」
二人の少し先、暗がりの中にポツンとあるだけの木造の宿の壁に、大樹の方を向いて、背中を預ける、アンナの姿があった。アンナをその視界に認めてから、ビブリオの歩く足はほんの少しだけ早くなったような気がした。
「そういえば、気になっていたんだが」
「ん?どうした?さっきのガキの話か?」
「違う………モーブルやアンナ、ビブリオは、あー、その………同じ部屋に住んでるのか?」
おずおずと言ったようにビブリオを見上げる弟子の顔見ると。
ニィ、と口角を吊り上げ、何かを企んでいるかのようか顔つきになる。
「あーあ、気づいてしまったか………とうとうお前もそこに気づいてしまったのか………。ふ、俺とアンナとモーブルはな。毎日、同じ部屋で、過ごしてるぞ?まあ俺もモーブルも抜けがちなんだが………」
「………」
後半の部分が聞こえていないみたいに、レィジは訴えかけるようにビブリオを睨みつけ、一言。
「俺はそんな不調法者と一緒に旅をして、師事をしようとしていたなど、知りたく無かった………!!!」
溢れ出る怒気に、からかおうと企んだビブリオは柄にもなく慌て始める。
「いや、悪かった、ほら、お前らがいる部屋の隣は中に入ると三つに別れてるから!同じ部屋じゃないから!な?だから大丈夫だ、ほら落ち着けって………!」
––––––不調法者とかきょうび聞かないな。
とは、口に出さずに。
「本当か?」
「ああ、本当だ!誓って本当だ!何ならアンナにも聞こうか?おーい、アンナ!」
手を振りながら一人アンナの元に駆けて行ってしまったビブリオの背中を、衝撃と共に見つめながら、早歩きで二人の元へ。
ビブリオに声をかけられたアンナは、一瞬肩を震わせ、それから少し間を置いてから振り返る。
「ビブリオ、どうしたの?帰ってないと思ったら………って、レィジくんじゃない!心配したんだから!」
「えっ………」
ビブリオはすれ違いにレィジの元へ走っていくアンナを目で追いかけることもできず、誰もいなくなった宿の壁を見て間の抜けた声を上げた。
「俺はビブリオから………ああだめだ、衝撃が強すぎる」
レィジこそ、強烈な怒りを貼り付け、それでビブリオの名前を言うものだから、その迫力と言ったらない。アンナはレィジの目の前まで来ると、キッ、とビブリオを見つめる。
その頃には家の壁とのにらめっこもやめて、アンナの元へ歩きはじめていたビブリオが、またしても間の抜けた声を出すのは疑うべくもない。
「ビブリオ?怒らないからちゃんとあったことを話してみて?」
「俺は子供か!?いや、違うんだアンナ!その………俺たち、同居してないよな?」
焦っているというより混乱している彼は、脈絡もなくその言葉を発する。言ってから気づくのが、その不自然さで。
アンナの氷のような目がさらに凍てつくのを感じ、背中に嫌な汗がじんわりと滲む。
「それって、遠回しな告白?」
「いや、違う!違うっていうかその………!ほらレィジ!状況がややこしくなるから説明しろ!」
「ふん、俺は不調法者に聞く口は無い」
「いや、だったらアンナだってそうなるだろうが!………あ」
「へーぇ?私って不調法者だったんだ?」
「いや、その、レィジが………!」
「なるほど、それで勘違いを………安心して、レィジくん。コイツと一緒になんて、まだ考えられないから」
「えっ、まだ?」
「うるさい。………あ、そうだレィジくん。私はもう戻るけど、戻る前に一つだけいい?ミルキィちゃんには言ったんだけどね。明日、コイツについて行ってもらえるかしら。私はヒルミィちゃんを見ているから、レィジくんとミルキィちゃんに行ってもらいたいの。ヒルミィちゃんが起きたら、改めて、コイツに街を案内してもらってね。そうね………傭兵の仕事の延長だと思ってくれれば大丈夫よ」
「な、なぁ。それ俺聞いてないんだが」
「今言ったもの」
「………はぁ。わーったよ。ほらレィジ!そうと決まれば明日は俺について来い!それも立派な稽古だと思って、ちゃんと今日は寝るんだぞ!」
へぇ、稽古取ることにしたんだ。と意外そうに呟くアンナにたどたどしく応えるビブリオたちの背中に、一言声をかけておいた。
「––––––ありがとう」
その声に返事はなかったが、二人とも、一瞬だけ立ち止まったような気がした。
大樹の街は、来る人を拒まない。
その大樹は、どこまでも人に畏怖を着た憧憬を与えるのだ。
そしてまた、ここにも一人––––––いや、二人。大樹に魅せられ、憧れに心を咲かせる者たちがいた。
彼は初めて見る大きな空に想う。
彼女はきっと、穴の底の街の空気を吸って想う。
憧れは、そこにあったのだ。
––––––と。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
頬杖をついてベッドに寝る少女の緋色の髪を
そうしていると、心にそっとしまっていた事を思い出してしまいそうになる。
(アリア………)
ベッドのすぐ隣には窓がある。その窓ごしに、遥か天上から届く陽光が地面に跳ね返ってできた正午の香りが感じられるみたいだった。
この街に来てから得たモノである。
最初にモーブルがアンナの前に現れて、いきなり子ども三人を連れて来たときは天地がひっくり返るほど驚いたものだった。
(あのモーブルが傭兵を雇うなんて………それも、この子たちを)
アンナは、そしてビブリオは知っていた。
それでも傭兵を雇った彼の心中を想うと、アンナは胸が締め付けられるようだった。
––––––未だに、昔を思い出すと胸が痛くなる。
だからアンナは忘れようとしていた。変わろうと、無くしてしまおうとしていた。きっと彼女がそれを知ったら首を横に振るのだろうと分かっていても、アンナには忘れる以外できようもなかった。
(ほんと………私って、馬鹿ね)
くすり、と笑ったアンナは、組んでいた脚を組み替える。
その衣摺れの音に合わせるみたいに、ヒルミィの吐息が一回、二回と出て戻った。
「ヒルミィちゃん?」
「………おにぃ………いかない、で」
ヒルミィの髪から手を離そうとすると、
「………」
開きかけた口を閉じる。
その言葉は、兄が言うべきだ。
どこにも行かないと伝える代わりに、キツく、堅く、手を握った。
「ん………」
アンナが手を握ったのに反応するみたいに、そう声を漏らすヒルミィの震える
「………起きた?」
それが何だか不思議で、取り繕うみたいにそれだけを言う。組んだ脚を
「あれ………あたし、何して」
表情には出さなかったけれど、アンナは内心で目を見開いていた。
(怪我で………眠っていたと聞いたけれど)
「モーブルに頼まれたのよ。あなたと、あなたのお兄さんとお友達を預かっておいてくれって。私は、アンナよ。モーブルと同じ商会に所属している商人の端くれね」
「アンナ、さん………?」
覚醒したばかりには思えないくらい、はっきりとした口調だった。
状況を掴めずに首を傾けるヒルミィに、ええ、と頷く。
「お姉さんっ、て呼んでもいいのよ」
「あの、アンナさん………ここはどこですか?」
上体を起こして視線をフラフラとずらしながら、
「天を貫く大樹の街………って言ったら、どこだか分かるかな?」
「ジュストに着いたんですか!………って、モーブルさんの商会の方がいるところだから当然か………」
その時の少女の表情が、アンナは脳裏に焼き付いて離れない。
目を伏せてベッドの上で上体だけ起こした彼女は太ももに手を添えた。首だけ窓ごしに外を眺めて、両の眼が見つめるその先に何があるのだろうか。
「えぇ。それより、身体は大丈夫?だるくない?どこか痛いところは?」
ヒルミィが太ももに添えた手をそっと握って、アンナは覗き込むようにしてそう言った。
「は、はい………大丈夫そう、です。どうして寝ていたんだろう………って、そうだ!あたしって何日くらい寝てましたか?」
きっとヒルミィは、自分だけ寝過ごして、待たせてしまっていた二人を思ってそう言ったのだろう。
それが分かったから、アンナはヒルミィに笑いかける。
「そうね………ここに来てから二日ってところかしら。大丈夫よ、心配しないで。ミルキィちゃんもレィジくんも、待っててくれてるわ」
「そう、ですか………」
特に反応は示さなかったが、静かに俯く彼女を見ていると、安堵––––––というよりも待っていてくれる二人への喜びや感謝の方が強いように思える。
起きたばかりのヒルミィだったが、存外元気そうで、ただ疲れが溜まっていただけにも思えた。
「あ………」
「ん?どうしたの?」
何かに気付いたらしく、口の中で声にもつかない声を響かせる。
ヒルミィが手に取ったのは、枕元にそっと置いてあった〈森の羅針盤〉だった。
それがなければレンジャーズになれない––––––。
まるで、どこかの誰かが「ヒルミィとなるんだ」と言っているみたいだった。
「ふふ」
それに心がくすぐったくなって、吐息だけだったが、自然と
「それって………〈森の羅針盤〉?」
「はい。お兄ぃは答えてくれていたみたいです」
柔らかく微笑むヒルミィの横顔は、絵本の中の少女のように神秘的だった。そういう意味では、人間味のない、微笑をくり抜いて造った彫刻に
「そう。安心した?」
そんな彼女のことを見つめてしまったのを誤魔化すみたいに笑いかけ、アンナは髪を耳の後ろに払う。
「安心、というか………お兄ぃらしいなって」
〈森の羅針盤〉を、人形を手に取っているみたいな優しさで包み込み、膝の上に乗せる。〈森の羅針盤〉の木に刻まれた生きる為の機能としての無骨さとは吊り合わない手つきだった。
「………あたしにもしお姉ちゃんがいたら、アンナさんみたいな
〈森の羅針盤〉から手を離さず、アンナに顔を向けてはにかむヒルミィに、
「そう?じゃあ本当にお姉さんになっちゃおうかしら」
緋色の髪越しに、小さな頭を、さらさらと。
「んんっ………アンナさんったら。でも、アンナさんはアンナさんです。あたし、アンナさんのままがいいな」
「………そしたら、私は私のままでいましょう」
このアンナという女性は、終始、どこかヒルミィを
アンナのそれは、急にできた妹みたいな少女相手に、姉の風を吹かせたいだけのようにも思えた。
(私が………姉か)
なんだかしっくりこないな、と内心で苦笑していると、ヒルミィの手つきがゆっくりになった。
「あたし………お兄ぃとケンカしてるんです。お兄ぃはそのつもりはないかもしれないけど、あたしはそのつもり。今から少し前になるんですけど………」
おもむろに語り出したのは、アンナに聞いてもらいたいのももちろんあっただろうが、それ以上に、一人語りがしたいようで。
「お兄ぃが、お兄ぃの憧れてた世界を否定したんです。思えば、この羅針盤をもらう時も、『俺にはその資格がない』とか言ってたし………ほんとは人一倍外の世界に憧れてるはずなのに、それを否定しようとしてる。お兄ぃ、なんだが変なんです」
ヒルミィの脳裏に描かれるのは、ジャガールでの夜の日だった。
〈花犬〉や〈果ての塔〉と共に語られた、ヒルミィが聞きたくなかった––––––レィジも、言いたくないはずだった、その言葉。
「でも、あたしはそんなお兄ぃに怒ってるんじゃなくて………もっと早く気づけてあげられたんじゃないかって。あたしは、あたし自身に怒ってるんだと思います。でも、反射的に、お兄ぃに怒っちゃった」
乾いた笑いとともに、あたしってダメですね、と呟く。
––––––ヒルミィちゃんは、私よりもよほど………。
「ううん。ヒルミィちゃんはダメなんかじゃないよ。それは、レィジくんを心配してるからこその、気持ちでしょう?大切な気持ちなんだよ………人の事を想うのって、自分の事を考えるよりも難しいもの」
だからね––––––アンナは姉を装って。
「その気持ちに自信を持っていいのよ。兄妹だもの。時にはぶつかる事だってあるわ。それに、ね。ヒルミィちゃんが思ってる以上に、レィジくんも色々と考えてるのよ」
「え………?」
ヒルミィがアンナの言っていることを理解する前に、アンナは言葉を続けていた。
「心配しないで。レィジくんなら、大丈夫だから。なんたって、君のお兄ちゃんなんだよ?ほら、大丈夫!」
くしゃくしゃ………!
アンナにそうやってわしゃわしゃと頭を撫でられるのは、嫌じゃなかった。兄がいるヒルミィにとって––––––アンナという存在は、姉に近かったのだろう。ヒルミィからすれば出会って間も無いアンナにここまで心を開いてしまうのは、目覚めたすぐ後ということもあるだろうが、ヒルミィのどこかにくすぶっていた気持ちが起因している。
すなわち、「誰かに打ち明けたい」、と。
ミルキィともすぐに打ち解けた彼女は、ィージルが言っていた通り、人付き合いが上手いのかもしれない。
「えへへ………もっとやってください、アンナさん」
上目遣いに、気持ち良さそうに頰を緩める彼女は、昼下がりの仔猫だった。
ゴロゴロと喉を鳴らすイメージを脳裏に
「こうしてると………なんだか落ち着くわね」
ヒルミィに語りかけた訳ではない、自然と漏れた言葉に、ヒルミィが反応しようかしまいか悩んでいるのに気づくと、
「ごめんね、つい。………思い出しちゃうのよ。昔好きだった子の事と、その子の事を好きだった人をね」
「………」
その眼は、ヒルミィを見ていた。
けれど、その瞳はここではないどこか––––––あるいは、今ではないいつかを見つめていた。
穏やかなその口調に辿り着くまでに、どれほど彼女が思い悩み、選択し、諦めて、泣いてきたか………ヒルミィには想像もつかなかった。けれどその瞳の色は、故郷に残してきたィージルのそれによく似ていた。
その色は、過去を想い続けている人の色。
「いつか、話したげる。私とその子の昔話。私はきっと、誰かに話したかったんだと思う………それがヒルミィちゃんだったのは、運命のいたずらね。––––––これは私とヒルミィちゃんとの内緒よ?」
人差し指を立てて唇に当て、「しっ」のジェスチャーで片目を
ヒルミィには、それがどうしてかは分からなかったが、今言うべき言葉は分かる。
「はい………待ってます」
(運命のいたずら、か。それがいたずらだったら、私は多分運命を許せないだろうな………あの子と同じ、緋色の髪の女の子。モーブルに言ってもあの人は違うって言うんだろう)
それでも、アンナはどこかでそう思っていたのだ。モーブルがレィジたちに重ねたのは、自分たちの過去だけではないと。本人がそれに気づいていなくとも。
「ん………ありがと」
最後にもう一度、くしゃくしゃと頭を撫でてから暫くは、取り留めのない話をしていた。
好きな花の話。故郷の友人の話。これまでの旅の話。
そのどの話の間じゅう………ヒルミィは、〈森の羅針盤〉を膝の上から動かそうとは、しなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
朝宿を出て、夕方に帰ってくる。
一仕事終えたみたいな感覚だった。実際、アリア商会としてのビブリオの働きを横で見て、時に手伝ってきたのだから、
その帰り道。ジュストの街を一通り見て、「オアシスシャトル」というシャトルがどのような場所かを実感したミルキィとレィジは、浮き足立っていた。
「レィジさん、ビブリオさんっ。早く帰りましょう!ヒルミィとアンナさんが待ってますよ!」
急がなくても宿は逃げないが、ミルキィは、普通のペースで歩く二人をおいて、つったかと跳ねるように先に行ってしまう。
街から離れるにつれて人も少なくなり、見られるのはアリア商会のように街の外に建てられた商会の人間や、これから街へ行く者くらいだった。
三人もその例に漏れず、その商会へと戻っていく。
「いつもああなのか?」
「そうだな。あいつはいつも楽しそうにしている………何がそんなに楽しいのか」
そわそわしながら言うレィジも大概だと思ったが、そこには触れないでおく。
「んー。まぁ、女ってのはそういうもんだろ。本当に思ってることを簡単には悟らしちゃくれない。………ま、レィジは分かりやすいけどな」
「そうなのか………?」
ビブリオは、無自覚な弟子をいじっている自分が珍しくて、何となく襟足をガリガリと掻いた。
三人はそんな風にして、アリア商会までの道のりを辿っていった。
この街の生きる姿を見て、ミルキィは、早くヒルミィに会いたくなった。伝えたい事が山ほどある。
初めて見たお店、建物、人、動物、大樹、木の中の建物、商会の仕事。
そのどれも、ミルキィにとっては新しい。何かしなければ、どこかへ行かなければ、誰かに話さなければ。言い知れない使命感というか、焦りに、その足取りは加速していく。
「あっ、見えましたよ!」
ミルキィが指す方向には、見慣れた小さな宿がある。アリア商会である。
見えた、とだけ言うと、早く早くと聞こえてきそうに足踏みをして、二人が来るのを待っていた。
小走りでミルキィと合流した二人を連れて、ミルキィは宿の扉を開ける。
「ただいまです、アンナさん!」
「あっ、おかえりなさい、ミルキィちゃん。レィジくんと、ビブリオも」
「おお、ただいま」
「ただ………ふん」
「おいおい、ただいまくらいちゃんと言えよな〜」
「いや、だがな………」
玄関先で騒ぐ三人を、アンナと共に見つめるのは、もうすっかり調子を取り戻したヒルミィで––––––。
「おかえり、ミルキィ。………おかえり、お兄ぃ」
いつもの笑顔で迎えるヒルミィに、レィジやビブリオが何か反応するよりも早く、ミルキィは駆けだしていた。
「ヒルミィいいいいいいっ!!!よかったよおおおお!!心配したんだから………!」
「みゅっ!?」
アンナが座っている横から、ベッドに飛び込んで、ヒルミィに抱きつくミルキィ。
ヒルミィの胸に顔を埋め、すりすりと頰ずりするミルキィは、久しぶりにヒルミィが元気なところを見れたのが嬉しくて、放っておけば何分でもそうしていそうだった。
「ヒルミィいいい!!」
「ひゃっ、ちょっ、ミルキィっ。やめっ………ひゃん!」
「こら、ミルキィちゃん。ストップ」
「ふみゅ!?………アンナさん、痛い!」
「痛い、じゃなくて………そろそろ離してあげなさい」
でも、と言うミルキィに、アンナが身体を指すジェスチャーをする。
首を傾げながら、自分と、ヒルミィの身体を見たミルキィは………。
「ううう………」
大胆にはだけた服に気がつき、涙目になって腕を抱いていた。
「やれやれ………嬉しいのは分かるけど、ほどほどにね」
「はわ………」
耳まで赤くなったミルキィが、ちら、と扉に目を向けると。
「いいかレィジ。こうだ、こう!………違う!お前のその体重移動じゃ剣の速さを乗せられない!」
「ぐっ………それと玄関から部屋への入り方と何が関係あるんだ!?」
「些細なところにそういうのは現れるんだよっ!」
レィジは、いつの間にか始まっていたビブリオの洗礼を浴びていた。
それに何となくむすっ、としたミルキィは、服を正しながら、アンナに礼を言う。
「いいのよ、お礼なんて。よし、それじゃあ私は、あそこではしゃいでるヤツとこれから話すことがあるから………またね、二人とも」
「はいっ、アンナさん!」
「ありがとうございました」
一番に返したヒルミィに少し驚きつつも、改めて頭を下げたミルキィ。
にっ、とはにかんで手を振って、アンナはかつかつと歩いて行ってしまった。
「ほらビブリオ。まず先にやる事があるでしょ?行くわよ」
「あ?そんなの後にし………いや悪かった今すぐ行くからそんな目で見ないでくれ。じゃあレィジ、分かったな?明日までにできるようにしておけよ!」
「はっ、はぁ………」
「じゃあね、レィジくん。また明日ね」
結局、騒がしいのはミルキィだけじゃなく、ビブリオも同じだろうと嘆息するレィジを後に、アリア商会の二人は去っていく。
––––––バタン。
「………」
「………」
「………」
扉が閉まると、急に静かになる。
なんとはなしに気まずさを覚え、手持ち無沙汰に髪などをいじりながら、しきりに妹とミルキィを気にするレィジ。
(………今しか、ないよね)
ぐっ、と拳を握ると、いつか会ったあの人が見てくれている気になる。
口を開いたのは、ミルキィだった。
「あのね、二人に話があるんだ」
「話?」
「うん、そう。大事な話だから、真剣に聞いて欲しいの。今、話さなきゃいけないことだから」
普段しないような口調で、ベッドに座るヒルミィと、玄関の近くにいるレィジを交互に見つめる。
その様子にただならぬモノを感じたヒルミィは、自然、生唾を飲み込んだ。前もって聞いていたレィジですら、顔が強張っている。
座って、と促すミルキィに背中を押され、さっきまでアンナがいた椅子にレィジが座る。その正面にミルキィが、ベッドにヒルミィが座るという構図で、その話は始まった。
どこか、別の世界にいるみたいだった。
––––––なんだか落ち着かない。もう決心はついているのに。
口を開いても、乾いた唇に声は跳ね返って、なかなか言い出せないミルキィの手を、そっと、暖かい感触が包む。
「………ヒルミィ」
「大丈夫だよ、ミルキィ。ゆっくりでいいから」
ミルキィの感じている不安を打ち消すように、ヒルミィは頷く。
それに同意するみたいに、レィジもゆっくりと、確かに頷いてくれた。
(二人が、そばで支えていてくれる………二人なら、きっと大丈夫だよね)
きっ、と目の色を変えて、ミルキィはその口を開いた。
今度は声を伴って語られたその内容。
それは、レィジにとってヒルミィにとって、あるいは、何よりも衝撃的な一言になった。
けれどそれは、同時に、二人を救う言葉になった。
––––––今思えば、ここで全てを思い出していなくて本当によかった。もし、この時、全てを思い出していたら、きっと、このことを伝えられなかっただろうし、何よりも、二人と一緒に旅を続けていなかっただろうと思う。
でも、一番残酷なのは。
私が、それを、覚えていなかったことだ。
––––––ミルキィは、ずっとずっと後になって、この時のことを思い出して、そう気づいたのだ。
何も覚えていなかったことの、残酷さに。
それを思い出してしまったことの、宿命に。
だからミルキィは、今言うのだ。
今だから、このことを口にする。
「私………私、ね。
シンと、時が止まってしまったみたいだった。風が止まり、舞い上がった草の切れ端が止まり、空を羽ばたく小鳥が止まり、人が止まり、営みが止まり、そして、思考が止まる。
ミルキィの言った言葉の意味が分からず、ただ呆然とすることしかできない二人に、ミルキィは続ける。
「森の外の世界の人間。私は、この森の外から来たの………急にこんな事を言って、驚かせてごめんね。でも、これは本当の事なの。私が思い出せたのはここまでだけど、確かに、そこは森の外の世界だった。どんな場所かも、どうして、どうやってここに来たのかも思い出せなかったんだけど」
ポツリポツリと紡がれる一文字一文字一言一言の意味がだんだん溶けてくると、レィジも、ヒルミィも、ミルキィに摑みかかるくらいの勢いで驚愕していた。
「なっ、ミルキィ。それは本当なのか!?記憶が混在しているだけじゃないのか!?一時的な思い違いで………」
「ミルキィ、それってほんとのことなの!?いつ思い出したの!?」
二人同時にまくし立てられ、どちらが何を言っているのか完全には把握できなかったが、そこだけは分かった。
「うん、本当の事だよ。ちゃんと、思い出したから。だから………だからね、二人にお願いがあるの。これは私の勝手なお願い。でも、二人に叶えて欲しい」
自分たちの様子とは裏腹に冷静なミルキィに落ち着きを取り戻した二人は、そんなことを言うミルキィの言葉を、静かに待った。
まだ飲み込みきれていなかったが、それだけは聴き逃すまい、と。
「私を………森の外の世界に、連れて行って欲しいの」
今にも泣き出しそうな表情で、やっと言い出したようなその言葉。
拳は震え、肩には力が入り、視線は下を向き。
そんなミルキィに、レィジとヒルミィは思わず顔を合わせてしまった。そのレィジの瞳を見て、場違いにも、ヒルミィはアンナの言っていたことを理解し、すぐに安心する。その、憧れに燃えた翡翠の瞳を、見た時に。
レィジはそこまで考えは及ばなかったが、久しぶりにまじまじと見つめる妹の顔を見て、心の中で何かがリンっ、と鳴るのを感じた。
「ミルキィ。顔を上げて、聞いてくれ。俺は、空を見て思ったんだ。この世界の、まだ誰も見たことのないところまで行ってみたいって。憧れた場所に手を伸ばして、いつか掴み取りたいって。星みたいに、掴めないものなのかもしれないって思い始めてたんだ。俺は何も知らなかったから、どのくらい走ればいいかも分からなかった。でもな、ミルキィ。ミルキィがその道を照らしてくれたんだ。ミルキィが外の世界から来たなんて………俺は信じられない。それは荒唐無稽な話だからじゃない。こんなにも近くに憧れてた場所への手がかりがあることへの、興奮だ。だって、星は泣いても、降ってはこないだろ?でも違ったんだ。星は、降っていたんだ。ミルキィがそれを証明してくれた」
レィジの声は、弾んでいた。夢を語る少年の声は、踊っていた。
(レィジさん………)
それがなんだか、とっても嬉しくて、今度は嬉し涙で目が痛くなる。なんとか涙は流すまいと目尻をすぼめるミルキィは、跳ねる声を聞いて思う。
–––––今話して、よかった。
「俺は今誓う。俺は、ヒルミィと、ミルキィと、この三人で………いつか外の世界へ行く。これだけは憧れじゃない。これは夢じゃない。憧れも夢も、星と似てるからな。だからこれは、誓いだ。約束だ。俺は、お前たちと外の世界へ行く」
ヒルミィには、力強く言うレィジの横顔は、ちょっとだけ懐かしく思えた。
「お兄ぃ………あのね。あたし、勘違いしてた。お兄ぃが憧れを忘れちゃったんじゃないかって。あたしは、どうしてそんな風に憧れを忘れちゃったのか、気づいてあげられなかったあたしに怒って、お兄ぃに当たっちゃった」
恥ずかしそうに打ち明けていくヒルミィを––––––レィジをしっかりと見つめるヒルミィを見て、ミルキィは心でひっかかっていたものが取れた気がした。
「ごめんね、お兄ぃ………あたし、一番大事なこと忘れてたよ。お兄ぃは、自分の憧れを何よりも大切にする人だっ、て。グラーヴェでのことも、あたしを思ってのことだったんでしょ?だから、ごめんね」
「………気にしなくていい。俺も、早計だった」
「うんっ」
兄妹の間には、それだけで十分だった。それだけの会話で、もっともっと大切なものを交わせるのだから。
だからヒルミィは、次はミルキィに返事をしなければならない。
「ミルキィ、あたしもお兄ぃと同じだよ!あたしは、お兄ぃとミルキィと、あたしの信じた世界を見に行く!ミルキィの故郷に行くんだ!だからね」
ミルキィは、俯いていた顔を上げた。
レィジは、ミルキィの好きなあの優しい笑顔で。
ヒルミィは、ミルキィの好きなあの明るい笑顔で。
「一緒に行こう」
ス–––––ッ、と視界が明瞭になっていくのを感じた。
ああ、こんなにも、二人は。
すぐには返すことができず、嬉しくて、苦しくて、息が詰まりそうで、言葉が見つからなくて。
そんな感情たちを一言で表せる言葉を、二人はミルキィに与えてくれた。
(………私、これでよかったんだよね)
それに対する答えは、もう無くても大丈夫。
だって、こんなにも暖かい!
「約束、だよっ!」
椅子から飛び出して、ヒルミィを抱きしめ、そのままレィジを抱き寄せたミルキィの抱擁を。
この時だけは、誰も止めなかった。
to be continued………