「……………」
ふわふわ浮かぶカケラたちは、キラキラ光る同朋と共に、この世界を彩っている。その音は何?聞こえる、その音は憧れの音だ。
ワクワク止まらない、足踏みしながら空––––––に手を伸ばす。ぐっと背伸びして目一杯身体を大きくしても届かない。けれど、手に触れたカケラの音は聞こえた気がした。
「いたいた!ほら、早く戻っておいで。みんな待ってるよ」
「うんっ」
呼ぶ声に引かれて戻る。どこへ?それはみんなの元へ。そこは落ち着く場所。一番落ち着く場所。音の溢れるこことは違う。あったかい人たちに囲まれて、幸せの音色は優しくて小さい。だからいっぱいの音で詰まっているこの場所とは違う。
ふと見上げた空––––––には何も映っていない。世界の始まりと終わりが一箇所にしかなくて、その全てが閉じている。本当に外に行けるのか。あるいは外なんてないのか。
「おっ、戻ってきたか。全く、心配したぞ!」
「あまり魅入られすぎると飛ばされてしまうからな、気をつけることだ」
「ごめんなさい…」
でもここにいる人たちはみんな知らない事を知っている。何度お願いしても教えてくれない。仲間はずれの気分だ。そんな気分に寂しくなった時は、がやがやカケラの騒がしい場所にふらっと出て行って、こうやって心配されるのがいつものこと。だからもう慣れっこだ。
「ねぇ、いつになったら外に連れて行ってくれるの?」
「大きくなったら、よ」
「もう十分大きいもん!だって、ずっと教えてくれないから……」
「それはな、みんなお前のことが大切だからだよ。外の世界はね、とっても危険なところなんだ。お前に危険な目にあって欲しくないから、みんなと同じくらい大きくなるまで外の世界には行けないって決めたんだ。………な、そうだろ?」
「うむ、その通りだ」
外の世界。夢に見たその場所はどんな所よりもずっと遠いところにある。その事実は知っていても、そのほかのこと全ては知らないし、教えてくれない。教えてくれないことは自分で見つけないといけないけれど、外の世界のことは見つけることができない。だってそれは外だから。ここは中で、外に出れなければ何も見つけられないし、見つけられなければ知ることもできない。
寂しくはない。けれど、時々つまらなくなる。それを寂しいと呼ぶなら確かに寂しいこともあったかもしれない。でもきっと、寂しかったことなんてない。
「………ねぇ、いつものやつ、見せて」
「ん?いつもの………あぁ、あれか。ほら、今やってやるからこっちに来い」
「へへ、ありがと!」
だって、ここにはみんながいる。それで十分な気がするから。
「さ、始めるぞ」
そう言って片手を空––––––に掲げて、流れてくる音に触れ、聞いたままの姿を全く違う旋律のものへと変える。例えば今日は、
「わああ!!ね、これすっごく可愛い!なんていうの!?」
「これはね………」
抱きしめると身体に収まるくらいの大きさの、濃い体毛に覆われた愛くるしい生き物––––––に旋律を導き、生み出してみせてくれた。
外の世界には行かせてくれなかったけれど、こうして色んなものを見せてくれる人たちだから、好きだった。
だから、いつもみたいに何も言わず、いつもとは違う場所に一人で行った時、初めて出会ってしまった––––––その時に、どうすればいいか分からなかった。教わったことのないことだから。知らなかったことだから。考えもしなかったことだから。
だから、きっと、外の世界に行くことができたんだ。
この、閉じられた世界––––––。
※
「………」
誰かの呼ぶ声が聞こえた。名前を呼んでいるのだろうか。聞き覚えがある声、聞いたことのある名前だ。
「………んっ」
「あ、起きた?ミルキィちゃん」
薄く目を開けると、ミルキィの視界に流れるような青い髪が見えた。ミルキィの知っている人物で、青い長髪の女性で、
「アンナさん?あれ、私………?」
「今起きたのよ。随分長い夢を見てたようね?」
その声にふと窓から外を見ると、陽は既に天高いらしく、商会の影は壁に移ることなくまっすぐ降りているようだ。どうやら昼過ぎまで寝ていたらしい。その事を長い夢と表現され、少し頰が熱くなるのを感じながら手櫛で髪を整えた。
「待ってて、今何か飲み物を淹れるから。………ヒルミィちゃんも飲む?」
「あ、はい!お願いします。………おはよ、ミルキィ」
「お、おはようヒルミィ」
先に起きていたらしいヒルミィは部屋の中央にある机に椅子をつけて本を読んでいる。そこから小さく手をひらひらと振っておはようの挨拶。
ミルキィも着替えて顔を洗って、と朝の準備を進めようと立ち上がろうとして、三人のいるこの部屋に、もう一人が足りないことに気がついた。
「………レィジさんはどこかに行ったんですか?」
「レィジくんなら朝、少し歩いてくるって言って出かけたよ。もうすぐ帰ってくるんじゃない?そう遠くへは行ってないはずだから」
「そ、そうですか」
昨日の今日、レィジだけでなく、ヒルミィもミルキィから伝えられたことの整理を付けるのに一晩明けて改めて時間が必要だったのだろう。
森の外の世界から来た、というのはそれだけ二人にとって大きな事実なのだから。
「………何かあった?」
作業しながらの背中越しにアンナがポツリと呟く声に、ミルキィはちらとヒルミィを盗み見る。ヒルミィの、本に落としたままの視線は、少ししてからミルキィへと移っていき、ふと目が合った。
何か絵本のようなものを読んでいたヒルミィの目には、憧れの火が強く燃えていた。視線を交わしたから分かる。そこには確かな決意があった。
––––––約束、したでしょ?
「っ!」
微笑みながら声を出さず口だけでそう伝えてくれたヒルミィにはっとする。
二人に話すと決めたのは自分なのだ。だから、今ミルキィにできることは、二人を信じて一緒に進むこと。
「いえ、何もありませんよ。ただ、ちょっと寂しかったから……」
「そっか。ミルキィちゃん、レィジくんがいないと寂しくなるんだ」
「ちっ、ちがっ!そういう意味では……!」
アンナがミルキィを揶揄うのにヒルミィも乗っかり、耳が熱くなるのを感じる。
––––––そう、こんなに暖かい。だから、みんながいればきっと私が来た外の世界へも行ける。
外の、世界………?
「あ………」
ニヤニヤする二人をやり過ごし、顔を洗うのに宿の外にある水場まで出てきてから、ふと頭に引っかかる言葉があった。
外の世界。その言葉を、ほんの少し前に聞いたような気がして。
「私、夢?…………見てた」
その日見た夢を、思い出す。
きらきら光るカケラが宙に舞っている場所で、大切な人に囲まれて、色んなことを教わって………そんな夢。
けれど、夢にしては頭の奥でその場所がはっきりと想像できる。夢で見ていないような場所まで。
「これは………私の、記憶?森の外の世界の記憶なの?」
水場の水面に映る自分の顔。不安げな表情の輪郭はぼんやりと歪んでいて、はっきりとした形を持たない。その瞳で、実際に見たことある景色を、夢で見たのだろうか。いや、思い出した、のだろうか。
「………思い出」
そう呟いてみると、妙にしっくりくる。
––––––ふと、オアシスシャトル〈ジュスト〉に入る前、〈擬森獣〉との戦いの後モーブルに言われた言葉を思い出した。
『忘れちゃならねぇのは、アレがお前の一部なんだとしたら………ミルキィ、お前はお前の知らない自分を、見つけられたってことじゃねぇのか?』
「私の知らない私を見つけられたってこと、なのかな」
夢で見た人たちは、みんな優しそうな表情で笑っていた。これが本当に思い出した記憶の一部分なら、なんだか嬉しい気がする。
ぱしゃり。
「んっ」
歪んだ輪郭を手で掬って壊して、水面に波を立てながら顔を洗う。冷たい水に一息に意識は覚醒し、そのはっきりした意識でもう一度夢について考えてみる。
「あの記憶。やっぱり、もし本当そうなら、森の中での記憶じゃないんだろうな……。だって、あんなに空がはっきり見えたし」
自分の言葉に、自然と首も動き、上を仰ぐと、ジュストの天を貫く大樹の傘の際から空が見えた。青い空が透き通る晴れの日だった。
「………二人のところに戻らないと」
水場の後片付けをし、放っておけばどこまでも行ってしまいしそうな思考に鞭打ってヒルミィとアンナの待つ室内へと足を向けた。夢の中で、
扉を開け、部屋に入って着替えを済ませると、ヒルミィが絵本を読んでいた机に、三人分の器に温かい飲み物が湯気をあげていた。見れば、ヒルミィの隣にアンナが座っている。
「ほら、ミルキィちゃん。冷める前に」
「ありがとうございます!」
いつものヒラヒラのついた貴族の娘の着るような服に身を包み、アンナの淹れてくれた飲み物で一息ついたことで生まれた静寂に、ミルキィか呟く。
「ね、ヒルミィ。それ、何を読んでるの?」
「………あ、これ?これはね、あたしとお兄ぃの好きな絵本でね、森の外の世界のことをお伽話みたいに描いてるの。誰も見たことはないから想像で語られているんだけどね、小さい頃からの愛読書でね、あたしの外の世界はこの絵本が作ってくれたの!」
「レィジさんも、読んでたんだ」
「うん!むしろあたしよりお兄ぃの方が好きなんだよ、この絵本!」
ね、見て見て!
そう言ってヒルミィが見せてくれた一ページには、こう記されてあった。
––––––もりのそとのせかいはとてもおおきい!だから、さみしくないようにひとびとはまとまって
分かりやすい言葉には、柔らかな筆致で白い髪の女の子と黒い髪の男の子が手をつなぎ、
「
その周りには木の類は一切描かれておらず、建物も木造のものはほとんどないようだ。
「そう、そうなの!きっと素敵な場所なんだよ、
「そうだね!きっと恐ろしい国王をやっつけるような優しくて立派な………」
「………ミルキィ、
「っ?」
絵を見ながら、自然と口をついて出たその言葉。恐ろしいと表現されたその単語。けれど、その言葉は絵本の中には出てこないものだった。
「………ミルキィちゃん、まだ眠気覚めてないんでしょ。ちょっと眠そうだよ?それとも………レィジくんがいなくて落ち着かないのかな?」
アンナが頬杖をつきながら二人の顔を覗き込むようにしてまたニヤニヤしだすのにヒルミィは少し遅れて乗っかり、それにミルキィも慌てて返す。取り繕ったようなぎこちなさでも、昨日ミルキィの秘密を話していないアンナの前ではありがたかった。
––––––今のは、私の記憶?絵本が呼び起こしてくれた………?
「ね、ヒルミィ」
ひと段落ついたところでヒルミィの名前を呼び、
「その絵本、あとで私に貸して欲しいんだけど………」
そう頼むと、ヒルミィはミルキィの考えを察したようで、快く受け入れてくれた。仮に分かっていなくても貸さない理由はないが、ヒルミィは少しだけ頷いて合図を出したのだ。心配するなと、そう言っているみたいに。
アンナをちらと見ると、特に気にした様子もなく何か書き物をしている。
その様子に内心でほっとすると、絵本で見た絵が脳裏で閃いた。
白い髪の少女と、黒い髪の少年。
それはまるで–––––。
––––––私と、レィジさんみたい。
そう思えば、浮かんでくるのがはじめてレィジに会った時の彼の剣幕だった。恐怖を顔に貼り付ける、ミルキィに迫った彼の表情。彼が会ったことのあるという
それでもまだ、レィジが会った
––––––私の記憶がない以上、やっぱり、レィジさんが会ったっていう身体が血で塗れた人は私だっていうのが「違う」って言えない。レィジさんが嘘を言っている訳はないだろうし。
そこまで、考えて。
ふ、と。
「あれ………?」
声にもならない息に近いそれと一緒にぽつりと落ちてきた記憶の雫は、ジャガールのシャトルで老夫婦に引き取られていた頃よく見ていた記憶だった。
その記憶で、ミルキィは。
何かに濡れた、ボロボロの服を着ていた。
「これって………」
思い出せない事実と、部分的な記憶。
その二つを足せば、レィジが会ったという
彼女は、自分が何者なのか分からない不安と共に。
その思考を、すっかり冷えた飲み物で飲み下した。
部屋で眠る三人の中で一番早くに目が覚めたレィジは、隣の部屋のアンナに声をかけ、朝のジュストへ繰り出した。整理すべきことがたくさんある。そのためには、宿から離れなければならない気がした。
朝といえど、各地のシャトルから人が集中するオアシスシャトルなだけあって、アリア商会のある壁際付近こそ人が少ないが、大樹の下に放射状に広がる街を取り囲むような円形の街は中々に賑わいを呈していた。大樹の近くには大きな商会やレンジャーズに関連した施設などが集中しているのに対し、円形の街には民家や商会以外の個人的な商店などといった娯楽的な建物などが集まっている。大樹の元へは、この円形の街をやり過ごさなければ着かない。
「………ふぅ」
壁際付近からその街までは歩いて十数分といったところだろう。その距離を、あえてゆっくり歩く。
「ミルキィは、森の外の世界から来た………これが本当だとしたら」
そう考えると、壊厳の半虎が消えた理由にも新しい考察をすることができる。森の外の世界から来たミルキィには、森の中の
しかし、ミルキィ自身がそれに触れたことはないし、覚えている素振りも見られない。だとすると、記憶にはないが、本能的な部分で行使した力だったと考えるのが自然。
「本能、か……」
そう言われて思い出すのは、半虎との戦い。レィジはあの時、何も描かずに導陣を使うことができた。単なる偶然にしては説明のつけようがない。
これも、本能によるものだとしたら––––––レィジにもまた、導陣とは異なる力があることになってしまう。
「––––––いや、あれは、紛れもなく導陣だった。だとしたら………」
考え得る可能性の中で、一つだけ、脳裏で閃いたものがあったが、それを口に出すのはどこか恐ろしいような気がして。それでも口を滑って出てきた言葉は、その瞬間から妙な実感をレィジに与えた。
「俺にも、俺が覚えていない俺がいて……その俺は、導陣に似た何かの力を持っていた––––––」
街の喧騒が遠のき、耳元よりも近い心のどこかでその言葉が何度も反響する。まるで、自分の中で自分が分裂してしまったみたいだ。はっきりと分かる己の存在の裏に、どれだけの初めてがあるというのだ。ともすれば、レィジが
––––––心地悪さに首を横に振って、若い芽の少ない踏みならされた土の道に踏み出す足を少し早めて強くする。
まだ、考えなければならないことがある。
「………〈果ての塔〉」
ミルキィが本当に森の外の世界から来たのだとすれば、〈花犬〉デルエル・メル・メリーを襲っていた男たちが口にしていたその塔の持つ意味も変わってくる。森の外に世界が続いているならば、それは〈果て〉ではなくなるからだ。だとすれば、その塔は何の〈果て〉に立つ塔なのか。
或いは。
「何かの比喩………なのか?〈統森営〉のシンボルは塔だ。何かを暗示しているのか?」
〈花犬〉に思い当たれば、不可解なことはもう一つ浮かんでくる。それは、かの男が森を操っていた––––––ように見えたことだ。ミルキィの出自を知る前には、血濡れの少女と〈花犬〉に関係があるのかと疑いもした。仮にそれが正しいとしたら、〈花犬〉まで森の外の世界から来た、という可能性が出てくる。
「………何が真実なんだ」
森の外には、世界がある。
憧れに信じ続けていたその
––––––けれど、一つだけ思い出したことがある。
「………憧れは、まだ俺を動かしてる。だから、大丈夫だ。何が真実でも、俺は森の外に行く。そのために、ここまで来た」
下を向きかけていた顔を上げて、彼はもう一度歩き出す。知らぬ世界にほんの少し揺るがされた憧れを、再び目に宿した彼は、もう手を離すものかと、さらに一歩足を踏み出した。
「………?」
そうして、長考の合間に行くべき方向を確認した彼は、いつのまにか円の街を縦断し、放射状の街の近くまで来ていたことに気がついた。けれど、その様子は昨日ビブリオに連れられ、ミルキィと共に目にしたものとは少しだけ違っていた。
はじめは太く長い列が放射状の街の一番大きな、大樹に通じる通りまで続いているだけだった。それが、周囲の人々を巻き込んで、レィジがその人の波に押されて列に混じらざるを得ない程まで広がっていったのだ。
「な、何が起きてるんだ」
あまりの人の多さに、流れに逆らう事が出来ず、キョロキョロと首を伸ばして辺りを見回そうとするも、その身動きすら厳しいほど詰め物のように人が集まっている。かろうじて見えた正面から大通りを覗くと、そこにあるものが見えた。
「あっ、つ………あれ、は………〈統森営〉の印の旗か」
大通りには、〈統森営〉を表す森と塔が図形となって描かれた、白地に赤い印の旗が並び立ち、まるで誰か何かを迎える列のようにまっすぐと配置されていた。
狭い視界を注視すると、旗の周りにはいつか変装したのとは違う、本物の聖歌隊が控えているようで、ざわつきの間から微かに歌声が聞こえてくる。幼さを感じさせない子供たちによる〈森捧歌〉だ。
「………っ。くそ、人が多すぎる」
しかし、それが何の列で何の集まりかは、まるで分からなかった。必死に目を凝らして辛うじて大通りと列の様子がちらと見えるだけでは無理もない。
それ以外に自分一人ではなす術なく、レィジは隣で同じように列に押されてきた同じくらいの年頃の少女に聞くことにした。
「失礼、君はこの列の………っ、あーと、この列の先に何があるか知っているか?」
列に押されながら途切れ途切れ発した声に、少女は驚きと共に振り返り、それが同年代の少年だと分かると少し安心したのかすんなりと答えてくれた。
「うん、知ってるよ!えっとね、さっきおじさんが言ってたんだけどね………あの人が帰ってくるんだって!」
人が来る、とは誰が来るのかとレィジが尋ねると、あの人だよ、とはにかみながらこう答えた。
「〈統森営〉の偉い人!ええと、たしか………〈
そう聞かされ、驚きを隠しきれずそれは本当か、と少女とのほんの少しの距離をさらに詰める。
「あたしはそうやって聞いたよ………って、あ!!来たみたい!!」
「………!!」
整理するまもなく、少女が言うところの〈
少女が言う通り、聖歌隊の歌う〈森捧歌〉の節も変わり、ただ立ててあっただけの旗が天高く掲げられ、大勢が一斉に歩き地面を踏む音が小さく聞こえてきた。
ヒルミィにも言われたが、〈統森営〉そのものが信仰する森すなわち神に深い信仰を持たないレィジでも、場の雰囲気に呑まれ長考からゆっくりと身を離すことも敵わずに流れ着いた列の先で、その光景には目を奪われた。
「………!」
周囲から、「〈賢狼〉様!〈賢狼〉様!」と声が聞こえた。そのどれもが高揚しているのが分かるほどの熱量で、列は支配された。それは等しく、二つ名を持つ信者が成した空間。〈賢狼〉という名の、森の信奉者。
「んー、見えないっ!」
少女が狭い空間がさらにぐっ、と詰められるのに押されながら苦しそうに声を出したのを聞いて、レィジは少女を庇うように身体で壁を作ってやった。
「あ、ありがと!えへへ、これで見えるかも!」
満面の笑みを浮かべる少女に脳裏にはレィジについてきてくれた妹を想起し、どうせ人混みで見えないならと、
「なぁ、ゼルギアスってのはどんなやつなんだ?」
「さん、をつけるんだよ!偉い人だから!えっとね………」
少女の声は喧騒に紛れて細かったが、しっかりと聞き取ったその内容はたどたどしく要領を得ず、唯一分かったのはゼルギアスが緊急の任に着き、それから帰還したらしい、ということ。
二つ名信者といえばレィジに思い当たるのは〈花犬〉デルエル・メル・メリー。彼が何をしていたのか、あるいは二つ名信者が何をしているのか、レィジは知らなかったが、果たしてゼルギアスの緊急の任とは––––––。
「あっ、ねぇねぇ!もうすぐそこにいるみたいっ!!」
「本当か」
少女がレィジの袖をくい、と引っ張り、狭い中でちょこん、と指をさした方向に目を向けてみると、統率された足音が近くなっているのに気づく。どうやら本当らしい。
レィジも、二つ名信者といえば情報の少ないデルエルについて何か分かることがあるかもしれないと可能な限り目線を遠く、通りの方へ向けた。
––––––刹那、その邂逅は訪れる。
「………?」
足音に、少女の声に、喧騒に、その全てに紛れているのに関わらず、妙にはっきりと聞こえる
鳴る、それは何の音。
「………っ!こ、れは」
妙に、視界が開けた。周りにいる尽く全ての人間を通り越し、その視界が捉えたのはたった一人の人物。
「………あ、れは」
レィジの発する声も、少女にも届いていない。否、少女の声がレィジに届いていないのだ。
あれは、レィジが見たのは、一人の男。
デルエルに勝る長身が纏っているのは、前面のひらけた、黒いローブ。その下は〈統森営〉の象徴である白を基調とした服。デルエルとは異なり、しっかりとした身体つきに、黒の長髪を頭の後ろで一つにまとめている。その男は、群衆など意に介さない。レィジの開けてしまった視界から、真っ直ぐに、その黒い瞳でレィジだけを見てくる。
ゼルギアスは、驚愕を貼り付けたその顔で、歩きながら恭しく一礼したあと、何かを話しているのか口を開く。その声は、レィジには届かないはずなのに、ずっと聞こえていた均整な
『––––––目覚めましたか、種子よ』
ゼルギアスの声に何も答えられず、ただ呆然と立ち尽くしているレィジを見て、ゼルギアスは目に失望を浮かべたように見えた。
『…………………早く思い出すのです。するべき事を、忘れてはならない。これは、あなたが選んだ道だ』
ゼルギアスはそれで終わりだと、レィジから視線を外して再び毅然とした調子で歩き出した。それと同時に、レィジの視界は少女を捉え、観衆を捉え、〈統森営〉の列を捉え、その喧騒を聞いた。
「………っ!はぁ……はぁ………」
「………って、聞いてた?ほら、もうゼルギアスさん行っちゃったよ」
「あ、ああ………」
何だ、あれは。
何が起こったんだ、今。
遠くへ––––––大樹へと向かうゼルギアスが率いる〈統森営〉の背中を眺めながら。
レィジは冷や汗が背中を伝うのを、感じた。
––––––俺は、一体。
「誰、なんだ………?」