欠け落ちた翼、咲き誇る戦花   作:氷蜩

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第十一話 溶けた記憶は、森を越え

ゼルギアス・ウル・ユーリ。

〈賢狼〉の二つ名を持つ森の信者は、レィジを見ていなかった。レィジの中の、レィジではない何かに宛てて言葉を––––––()を、送っていた。彼の言葉を理解することはできない。否、理解することができないというよりも、その記憶が無いということならば、知らないと言った方が良かろう。

いずれにせよ、少女の説明ではゼルギアスのことは何も分からなかった。レィジに今できることは、あれだけの人間を集めるその男がどんな人物なのかを知る、それだけだった。

 

「ほら、ここがおじさんのお店だよ!」

 

少女に手を引かれ、言われるがままついてきたのが、少女曰く「おじさんのお店」。少女はその「おじさん」に今日ゼルギアスが来るらしいことを教えてもらったという。

 

––––––手がかりがあるかもしれない。

 

早鐘を打つ鼓動を悟られないように呼吸を整えながら、少女が開ける扉に入っていく。外の空気をそのまま屋内に閉じ込めたみたいな土と、木や薬剤、動物の皮の入り混じった独特な匂いの漂う店の中には客らしき人影は見えない。その代わりに、見るからに精緻な作りの靴が陳列していた。両側面に靴を並べる棚、中央にに五人程が囲んで座れる机と椅子。少女の歩みに合わせて進み始めると、奥で作業をしているのか、窓から差し込む光に押された影が揺らめいている。

 

「あっ、おじさん!!ね、おじさんの話ホントだったよ!」

少女がレィジの手を握ったままやおら駆け出すものだから、たたらを踏んだレィジは少女の声に作業する手を止め、ゆっくりと立ち上がった影が店の壁一面に映るのにぽかんと口を開けたままになってしまった。

「おお、帰ったのか。珍しいな、お前が連れと一緒なんて」

「うん!そこで会ったの!」

 

「おじさん」は、レィジをひと回りもふた回りも大きくしたような体躯の、禿頭の大男だった。靴の作業をするのに適しているのか、白地で肩口までの服を纏っており、腰には道具類が入った袋を提げていた。

「坊主、コイツに振り回されて大変だっただろ。どれ、飲み物でも入れてやる。そこに座って待ってろ」

耳の中で響く重低音が、作業道具を置いて、奥へと消える。

 

「………なるほど、こういうヤツもいるのか」

「おじさん、怖くないの?」

レィジの感想に、少女はちょこん、と首を傾げて尋ねてくる。

それどころではない、といえばその一言に尽きる。とはいえ、レンジャーズを志す者なら見た目だけで気後れしてはならないと、いつか教わった。

「キミは怖がってないだろ?なら俺も怖がる必要はない」

「えへへ、そっか」

素直な感想に、少女はにっこりと笑って、()()()()に言われた通り、机へと向かった。

円形の机、子供にしては大きいその机に、少女はわざわざレィジの隣に座って足をパタパタと前後に振りながらご機嫌だ。

内心ではゼルギアスの言葉が深くて遠い場所を握って離さないことに苦痛を覚えながらも、少女のそんな様子を見ていると少しだけ落ち着くことができた。

 

「すっかり懐かれちまったな」

がはは、と豪快に笑いながら、大男はレィジたちの対面にどっかりと座って、口の端からつう、と赤に光る筋を垂らしながらごくごくと自分用の飲み物をあおった。

レィジも、大男に差し出された小さめの器を傾け、唇を湿らせる。

どう切り出したものか、と目を細めて少女を見つめるおじさんを眺めていると、レィジのその様子におじさんは首を傾げた。

 

「おう坊主。何か言いたげな顔してるな?ほれ、言ってみろや………おっと、こいつを嫁に欲しいなんてのたまったらどうなるか分かってるな?」

がはは、と盛大に笑いながら膝を叩いたのは、レィジへの彼なりの気遣いだったのだろう。レィジは彼の飾らない様子に苦笑して、それならいっそと単刀直入に切り出す。

「俺はあなたに聞きたいことがあるんだ。その………〈賢狼〉ゼルギアス・ウル・ユーリとは何者なんだ?」

 

ゼルギアスの名を出すと、はじめこそ意外そうに眉を傾けたが、それを赤色をした穀物を発酵させた酔いのかかる飲み物と一緒に飲み込んで、腕を組んで唸る。それはどこか、〈花犬〉のことを聞いた時のモーブルの反応に似通ったような苦さに見えた。

 

「あぁ、なるほど。二人であの凱旋を見てきたって訳か。そうだなぁ………俺がヤツについて知ってることは一般に出回ってる情報以上はねぇんだけどな………それでもよけりゃ話してやる」

おじさんの重たい声に、ぴくっ!と少女が反応し、レィジの裾をくいっ、くいっ、と引っ張りながら、「あたしも話したのに!」と訴えているのに申し訳なく思いながら、

「ありがとう、教えてくれ」

レィジにしてはどこか柔らかく返答した。

レィジほどの年齢の子供が二つ名信者のことを知らずとも違和感はない。その組織の構造を知らないのだ、と、そう受け取られるからだ。少女のように、幼い子供が二つ名信者にある種の憧れを抱く事もそう珍しい事ではない。この森の世界において、全ての人間が自らの魂を奉ずる信仰の対象は––––––レィジのように信仰心を示さない者も多くいるが、理念的に––––––森にある。〈統森営〉が人々にとって特別な組織である事は、その〈統森営〉が森の信仰を統括しているからだ。

そういう意味では、当然おじさんはレィジの思惑など知るはずがないが、レィジがゼルギアスについて尋ねること自体には不自然さを感じることはない。

そんな理由もあって、おじさんは、そうさなぁと言いながら顎に生えた無精髭をひと撫でして、すんなりとその口を開けた。

 

「先ず、ヤツの二つ名がどうして〈賢狼〉なのか、だ。お前、〈花犬〉の事は聞いたことあるか?」

「デルエル・メル・メリーのことは知っている。狂信者、と聞いた」

「狂信者か、がはは!誰から聞いたかは知らんがいい趣味をしてるな。そう、その狂信者だ」

指を立て、いいか、と机の対面から上半身を乗り出しレィジに身体を寄せた。その間も、少女はレィジの裾を離さなかったが、おじさんの話を聞くのは好きらしく、目をキラキラさせていた。

「〈花犬〉はその信仰心を狂わせ、常軌を逸した信仰をいいように利用されてる。〈賢狼〉はその反対、といえばだいたいの想像はつくだろ?」

おじさんは机に肘を置いた右手の人差し指と親指をくるっ、と入れ替える動きをしてみせた。

反対、狂いを奉ずる〈花犬〉と〈賢狼〉が。

 

『この森に祝福された私の力で制裁を与えると心得ておけ!!!』

身体中を自身の血液と体液で汚し、目を見開いて頰を震わせ、血走った瞳でレィジに舌を這わせた狂信者の声が、レィジの脳裏で木霊した。

 

「ゼルギアスは、デルエルよりも深く森へ信仰を捧げている。それでいながら、〈統森営〉にただ従っているわけじゃない。あくまで身体を捧げる対象は、あの男にとっては森だ。〈統森営〉はその意味でヤツを御しきれていないんだよ。二つ名信者つっても、〈統森営〉には下ってる。だが、ヤツは違う。ヤツは自分自身と、数人の部下から実質的に別な組織を作ったって噂だ。今回の帰還も、動いたのがゼルギアスである以上、〈統森営〉はほとんど関与してねぇんだろうな。だが、あくまで噂だ。〈統森営〉からの説明は、ゼルギアスはあの大樹の中にある〈統森営〉の母体に身を置いてるってモンだ。特例扱いには変わりないが、真実がどっちかは分からん。はっきり言えるのは、他の二つ名信者とは訳が違うってことだけだな」

 

おじさんの言葉が意味の纏まりとなって刻み込まれていく。()をレィジに聞かせた、あの黒い瞳が送る視線が、脳裏でぐわんぐわんと反響していたデルエルの甲高い声を掻き消した。思い出せと、そう言ったあの瞳を。

なるほど、ゼルギアスがそれだけの存在なら、ジュストに帰還する際のあの凱旋の様子にも頷ける。その森に捧げた心と、組織に収まりきらない孤高さ。人を集める所以はそんなところだろうか。

『早く思い出すのです。するべき事を、忘れてはならない。これは、あなたが選んだ道だ』

 

そんな彼が、なぜレィジにそう伝えたのか。或いは、なぜレィジを知っていたのか。

––––––否。

なぜ、レィジの知らぬレィジの事を、知っていたのか。

 

おじさんから聞く話では、そのどの疑問にも結論を出すことはできない。おじさんは、その後も話を続けており、そこで、唯一レィジが少女から得た、ゼルギアスが緊急の任についたということに関する情報に触れた。それは〈花犬〉が起こした不祥事の後始末を〈賢狼〉自らが出向いて片付けに行ったらしく、その帰りを––––––〈賢狼〉を–––––––ひと目見ようと多くの人が集まったという内容だった。

 

デルエル、不祥事と聞けば、レィジに思い出せるのはあの枯雪の降っていたグラーヴェでの一幕だ。数人の男に襲われ、森に身体を打ち付けられていたにも関わらず、それを森の一体化と唱えて興奮に目を染めていたデルエルが、そのあと何をしていたのかをレィジは知らない。ただ、デルエルが乗ってきていた馬が無くなっていたためどこかに行ったのだろうとは思っていた。状況から考えて、その後のデルエルをゼルギアスが尋ねたというのが妥当だろう。

奇妙な巡り合わせに、しかしレィジの疑問を解決するに足る結論は出すことはできない。だが、手がかりはある。その、共通点が。

 

「おう、坊主。またこいつと遊んでくれや。こいつも坊主に会いたいだろうしな!」

「レィジくん、またね!約束だよ!」

 

ジュストにいる間は顔を出してやろうと、ぴょんぴょん跳ねながら満面の笑みで手を振る少女と、腕組みをしてもう何度も聞いたがはは、の声を出すおじさんに手を挙げ、すっかり昼も回った時間になって、レィジはアリア商会への帰路についた。

ゼルギアスの凱旋の列があったとは思えないほど、どこに消えたのか、あれほどの人がいた円形の街の出口付近にはいつも通りの光景が戻っていた。もしや別の手がかりが見つかるかもしれないと帰路につく前に一人で向かった大通りには、芸人からなる旅団に人だかりができているくらいでゼルギアスに関する何らかの情報は得られそうになかった。

しかし、何も収穫がなかった訳ではない。

レィジ一人では整理をつけきれなかっただろう、おじさんの話を冷静に聞いて、改めてゼルギアスから届けられた()を思い出すうちに、デルエル・メル・メリーとゼルギアス・ウル・ユーリとの共通点が分かってきた。そして、それがレィジの今得ることのできる最大の手がかりだと言うことも。

 

––––––俺の知らない、俺。

 

〈花犬〉は知っていた。レィジ・クロイツという名を。

〈賢狼〉は知っている。レィジ・クロイツにある別の存在を。

少年は知らない。〈花犬〉のことも、〈賢狼〉のことも。

二つ名を持つ、対極の存在である二人が知っているレィジ・クロイツが、憧れに胸を躍らせた少年のレィジ・クロイツではないだろう、ということが、今のレィジに知り得るたった一つだった。

 

 

大樹は、高く。天蓋を貫くように伸びている。森よりも高く、そこで空を見ている。大樹が見ている空の景色を見たいと願ったのは、誰だったか。

大樹は憧れに走る者を拒むことはない。人々に与えるあらゆる感情を以って、大樹はそこに立っている。

その大樹を前に、憧れがそこにあったのだと想いを託したのは––––––。

 

 

さて、それは誰のことだっただろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レィジの足は早かった。何も急ぐ必要はどこにもない。強いてあるとすれば、アンナに少し出てくると言ったきり、随分長い時間が経ってしまったことくらいだが、それくらいで焦ることもない。どうして急いでいるのか分からなかった。理由などないのかもしれなかったが、きっとヒルミィたちを待たせてしまっているから急いでいるのだと思うことにして、人の間をすり抜けていく。

 

そして気がつけば、眼前には見慣れた商会がある。あの扉を開けて入ればいつもの面々と顔を合わせることになる。

 

「………それがどうしたというんだ」

 

普段ならそんなこと意識すらしないだろう。だが今はなぜか些細なところまで思考の手は伸びていった。

だからだろうか、商会からは少し離れた、レィジが剣の鍛錬をしている壁際の一画に人影を見ることができた。商会とは距離があり、気づいたのも偶然のその人影をよく見てみると記憶に引っかかる白い髪がちょこちょこと動いているのが分かる。足早に任せてその距離はだんだんと縮まっていき、いつしか商会への道から歩みは外れていた。そのおかげか、人影があごにちょこん、と手を当てて不安げに長髪を揺らしているのに気づく。

 

「………あっ、レィジさん!」

 

レィジが目と鼻の先まで近づいたところで、レィジに背を向けていた人影––––––ミルキィは、足音が近づいてくるのに気づいたのか、ぱっと振り向く。それがレィジだと分かると嬉しそうにレィジの名前を呼んだ。

 

「………ミルキィ、こんなところでどうしたんだ?」

「えっ、あっ、その………べっ、別にレィジさんを待ってた訳じゃないんですけど!その、たまたまです!たまたま外の空気を吸いたくなったんです!」

 

反射的な反応には嘘をつけなかったミルキィが、冷静さを取り戻し、その耳を真っ赤に染めながらふんすっ、と捲し立てるのにレィジは襟足をかく。こんな反応には、あまり慣れていない。

待っていてくれたんだな、でかかった言葉はそっとしまって、素直につぶやく。

 

「ありがとう」

「ん?どうかしましたか?」

その声が常からそれほど大きくないレィジの声よりもずっと細かったからか、小首を傾げるミルキィに早口になってなんでもないと言葉を濁し、向き合ったままの二人はそわそわしながら裾を引っ張ったりしている。

 

数秒の間続いたその時間は、ミルキィの声で掻き消された。

 

「あの、レィジさん。今朝ヒルミィが絵本を読んでいたんですけど、その絵本ってレィジさんのものなんですよね?」

絵本、と言われればレィジに心当たりがあるのは一つしかない。

レィジの憧れを育てた、あの絵本のことだろう。

「あぁ、そうだ。絵本がどうかしたか?」

なんとなく聞き返してから、ミルキィが絵本のことを持ち出した理由が分かったような気がした。それは、今のレィジにとっても似たようなものだったから。

「いえ、その大したことではないんですけど……レィジさんから、絵本のお話が聞きたくて。レィジさんが羅針盤と一緒に持ってくるほど大切にしている本のことを」

声音は落ち着いていた。一晩ぶりに会話した レィジの様子は、ミルキィから見て自然に見えたからだろう。

––––––ミルキィは、ゼルギアスとのことを知るはずがないのだから。

 

「あの………その前に、戻りましょうか?レィジさん、散歩して疲れたと思うし」

うん、それがいいです!行きましょう!

 

––––––とミルキィはどこか楽しそうに、レィジの手を掴んで商会までの道を歩き始める。

「………っ」

レィジを待っていたことを指摘されるのは恥ずかしいのに、手を握るのは違うのかと、握られたレィジの方はぎこちない足取りで、ミルキィに先導されるがまま商会の中に入り、二人して部屋の中で机を囲んで対面になって椅子に座った。そわそわしながら座ったレィジだったが、レィジたちの部屋に入ってから、そこにヒルミィの姿がないことに気づく。

 

「なぁ、ミルキィ。ヒルミィはどこに行ったんだ?」

「ヒルミィなら、アンナさんと出かけました。なんでも今、芸人の旅団がジュストに滞在しているらしくて。二人はそれを観に行きましたよ。私はここでレィジさんを待ってたので行きませんでし、たが………!!」

ヒルミィのことを思い出しながら話していたからか、聞かれていないことまで答えてしまってから自分が何を言ったのか気づいたミルキィは、次第に目をうるうるさせ始めた。

 

そこまで恥ずかしがることもないだろうと、

「やっぱり待っててくれたのか。ありがとうミルキィ」

素直に感謝したはずなのだが––––––、

「き、今日のレィジさんはなんか変です!いつもならもっと、こう……ミルキィも行けばよかったのにとか言ってます!」

全く似ていないレィジの声真似と一緒に()と言われてしまった。

「へ、変とはなんだ……俺でも礼くらいは………」

面と向かって変だと言われて少し傷ついた様子で口を細くしてぶつぶつと言い出したレィジに、ミルキィは慌てた様子で手をわしゃわしゃと動かしながら「べ、別に変な意味で言ったんじゃないですよ!?」と弁解した。

「変な意味じゃなく変とはなんなんだ……?」

 

そんないつもの様子が可笑しくて、レィジは薄く笑みを浮かべながら考える仕草を取ってみせた。ミルキィはそれを見て、からかわれていたと気づいたらしい。

「……っ!!とにかく、です!ヒルミィは今出かけていていません!」

はじめの発言をなかったことにしたいのか、そこからやり直したミルキィをまたからかってみたくもなったが、今度は本気で怒られるだろうと、やめておいた。

 

そんなやりとりを経て、レィジは自分でも気づかないうちに落ち着きを取り戻していた。

息を整える間にミルキィが用意してくれた二人分の飲み物で口を湿らせ、商会の離れでミルキィが口にした絵本について思い出していた。憧れを描いてくれた一つの物語のことを。

 

少しでも自分の手がかりになりそうなことはなんでも知りたい。

 

きっとミルキィはそう思っているのだろう。レィジが、そうであるように。

 

「レィジさん、じゃあ………」

「あぁ。十分休ませてもらったからな。絵本のことについて聞きたいんだったな。何が聞きたいんだ?」

なんだかどこかで聞いたことのあるようなやりとりだな、と今朝会った少女とおじさんのことを思い出しながら、ミルキィの言葉を待つ。

 

「ヒルミィが読んでいるのをちょっとだけ、読ませてもらったんです。その、そしたら………」

ミルキィは両手を組んで股の間から椅子の端を掴み、言いにくそうに身をよじる。ただ、今度はレィジに背中を押されることなく、自分から言葉を送る。

「––––––そしたら、私少し思い出したかもしれないんです、外の世界のこと。あの絵本を見ていたら、その、気づかない間にヒルミィもアンナさんも知らない言葉を使っていて」

「………知らない言葉、というのは?」

「………レィジさん、ちょっと絵本を貸してもらえますか?ヒルミィがベッドの上に置いていったみたいなんですけど」

 

ミルキィが後ろにあるベッドを振り返りながら指差すのにレィジが頷くのを見て、とててっ、とベッドまで駆け寄ったミルキィは、たしかにあの見慣れた絵本を持ってきていた。何度も読み返した絵本だ。

 

「………ここです。男の子と女の子が国の話をしている場面なんですけど」

笑いあい、絵本の中に描かれた街を指差す二人。隣の吹き出しで語り部が、その街のことを()()と説明している。

空想だと思っていたレィジの憧れの場所。ミルキィの言葉は、妙にはっきりしていた。創作の言葉のはずなのに。

「あぁ」

口の中が乾いてくる。飲んだばかりだ。

「私、これを見て………国王、と言ったんですけど、二人とも知らなかったみたいで」

何度も読み返した絵本だ。その中に出てきた言葉とそうでないものの区別はつく。

そのレィジでも、()()()()が何か分からない。()()()()が分からないだけではなく、レィジは、ミルキィが()()という時と自分が言う時の僅かな差異に気がついた。それはまるで、実際に知っている者とそうでない者の違いのようで––––––。

「………その絵本には、その言葉は出てこない。俺が知っている他の外の世界に関する物語にも、出てこないな」

 

レィジがそう言うと、どこかがっかりしたように眉を下げたミルキィは、開いていた絵本のページを閉じる。

パタン、その音だけがいやに大きく聞こえる。

 

「やっぱり私、この絵本を読んで思い出したみたいですね………外の世界のこと。国があって、国王がいて………ありがとうございます。この本をよく読んでいるレィジさんなら知ってるかも、って思ったんですけど。変ですね、私。自分のことを知りたかったはずなのに、思い出すほど私が誰なのか分からなくなって––––––少し、怖いんです」

ダメですね、と微笑するミルキィの瞳が揺れている。そこに映るものも、その奥の(ざわ)めきも、分かる気がした。それは、レィジも知っているものだから。二つ名を冠した信者に言われた、自分ではない自分に覚える恐怖と似ているから。

 

「怖がることは、ない」

「………?」

大丈夫だ、と。それは誰に向けた言葉なのか。

「知らない自分を知っていくのは、確かに怖いことだ。今の自分が壊れていくみたいだからな。でも、そんなことくらいじゃ壊れない。ミルキィにはヒルミィがいる。そして、二人と俺で一緒に外の世界に行く。今はそれでいいんじゃないか?もし何か思い出してまた怖くなったら誰かに話せばいい。きっと楽になる。––––––話くらい、いつでも聞いてやるから」

 

なんだか頰が熱いような気がしたけれど、震える睫毛を隠すように俯いているミルキィの頰も朱が混じった色をしていたので気づかないふりをした。それより、ミルキィが前髪をくしくしといじりながらぽしょりと呟いた「ありがとうございます、レィジさん」の言葉を聞いて、素直になるのも悪くないかと思い直す。なんてミルキィに伝えたら、また変だと言われてしまうのだろうか。

 

「えへへ……レィジさん、また絵本読んでもいいですか?その時は、レィジさんも一緒にいてくれると、嬉しいんですけど」

軽口のやりとりを気にしたわけではないが、上目遣いにぽつりと呟くミルキィがいじらしく思えて、ついて出たのはいつもの調子の言葉だった。

「ふん……またいつでも貸してやる」

「あ、ありがとうございます!」

ミルキィがレィジの絵本を大事そうに胸にぎゅっと抱きしめているのを見ると、初めてこの本を貰った時の自分を思い出す。それからもう随分と遠くまでやってきたものだ、と窓越しにちらと映るジュストの穴の土壁を見て今己が立っている場所をはっきりと意識した。森の外へ、その憧れを叶えられるのは、レンジャーズだけ。そのレンジャーズになる瞬間は、すぐそこまで迫っているのだ。

 

「あの……ところで、 レィジさん」

ミルキィに声を掛けられ、ぼんやりと窓を眺めながら思考の渦に呑まれかけていたレィジは、半ば慌てて返した。

 

「どうした?」

 

––––––だから、ここに来るまでの回想が長続きしなかったのは、ミルキィが口を開いたからだと、レィジは思った。けれど、それは錯覚にすぎなくて。

 

「この絵本って、いつから持ってるんですか?」

 

––––––いつからって、それは今まさに考えて………。

 

「いや、………まぁ、気づいたら持ってたな。小さい頃に貰ったから覚えてないんだろう」

「へぇ、そんなに小さな––––––」

 

ミルキィの声も、自分のものも途中から耳に入らなくなっていた。それよりも、もっと重要なことがあったから、全意識がそれに集中する。

すなわち。

 

 

––––––俺は、()()()()()()

ミルキィに問われた、その瞬間、まさに思い返していたではないか。絵本を貰った時のことを。しかし、レィジは自分の記憶をいくら辿っても、どこからやってきたかについて心当たりのある言葉すら浮かばない。ただ分かるのは、レィジとヒルミィが兄妹で、ともにどこかの誰かに拾われ、育てられたということだけ。それがどこで、誰なのか、一切の記憶は欠如している。それこそ、溶けてなくなってしまったみたいだ。

 

一つずつ、思い出す。

ヒルミィと、森の羅針盤を携え、モーブルの馬車に乗ってここまで来た。その途中でミルキィと出会い、こうしてジュストの地を踏んでいる。

そう、ならば、その前は?俺はミルキィに、モーブルに会う前、俺たちは、俺とヒルミィは、その前はどこにいた?

––––––どうして、思い出せない?

 

 

「………レィジさん?大丈夫ですか?顔が真っ青になってますけど………やっぱり、疲れてるんじゃ」

「………っ!あ、あぁ、すまない、大丈夫だ。ちょっとした貧血だ」

そのレィジの様子だけでは安心しきれなかったのか、ミルキィはレィジをベッドに座らせ、温かい飲み物を取ってくると言って商会の中の厨房へと向かった。

 

「………クソっ。どうなってるんだ、これは。俺は………どうなったんだよ」

どうも、ゼルギアスの()を聞いてから自分の存在に違和感を覚え始めた。レィジの知らないレィジがいるらしいことや、自分の出自さえ分からなくなってしまった記憶の欠損が違和感の正体ではないということははっきり分かる。

この違和感の正体は、言葉にするなら、心の中の奥底にあるレィジの核とそれを覆うこの身体との間に生じている齟齬だろう。

その齟齬は、やがて変質してそのままの形を残したまま中身だけを恐怖に変えてレィジを襲う。だからミルキィが恐れる理由もよく分かる。食い違った意識の差は、広がるごとに心を蝕んでいくと知ったから。

 

ミルキィには、知っていく恐怖が。

レィジには、知らなくなっていく恐怖が。

 

森の中では、それが消えることはない。

 

 

––––––森の外へ、行かぬ限り。

 

 

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