欠け落ちた翼、咲き誇る戦花   作:氷蜩

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今回からしばらく視点がミルキィに変わります。今後も何度か視点の変化がありますが、その都度前書きさせていただきます。


第十三話 透明で冷たい吐息

目を瞑っていると、思い出した。いつかの日の情景が、まぶたの裏で広がっていく。夢の中だけでしか知らない、一度しか見たことのない、けれどそれ以上の事を、それ以上の感情を、知っていて、持っているいつかの景色。あそこがどこか分からなかったけれど、一つだけ確かなのは、あそこが森の外の世界だろう事。なぜって、それは、宵に紛れて見上げるこのジュストの空の黒さは、夢で見た空の形容のできない黒さとは全く異なっていたから。

商会の隣に無造作に置かれていた丸太の表面を払って、ミルキィはそこに腰掛けた。少し低かったのか、丸太に座ってから膝の上に両肘をついて、手のひらに顎を乗せた。首を斜めに傾ければ、正面に臨むジュストの大樹と、それが抱える街並み、大樹が覆い隠しきれなかった夜の空を一度に眺める事ができた。そうしていると、小さな丸太の上でうずくまる小さな自分と対照的な光景に、眠れなかった意識はなおさらにはっきりしていった。

 

「………」

 

どのくらいの時間が経ったかの検討はつかない。きっと今晩はほとんど眠れないだろう事ははっきりと分かったけれど。

まだ、思い出す事を恐れているのではない。レィジがくれた言葉は、確かにミルキィの中で形を持って、彼女に向き合う力を与えている。ヒルミィと交わした視線でも、ヒルミィはその眼で語っていた。だから、二人と一緒にいれば、もう怖がる必要などない。

眠れなかったのは、懐かしかった、から。

 

「………眠れないの、ミルキィ?」

「ヒルミィ。まだ、起きてたの?」

 

真夜中に商会をそっと出たミルキィに声をかけたのは、ジャガールの夜と同じパントリーの防寒具を纏ったヒルミィだった。彼女も、ミルキィと同じで眠れなかったのか、その眼は冴えているように見える。

 

「うん。なんだか、眠れなくって。あたし、やっとレンジャーズになると思うと……胸が高鳴っちゃって」

えへへ、と苦笑したミルキィは、片腕を抱きながら、首をちょこん、と傾け、「隣、座るよ」と一言。

その柔らかさに薄く笑みがこぼれ、ミルキィは頬杖をついていた態勢を直し、屈めていた足を伸ばして姿勢を調整した。ヒルミィも同じようにしたのは、やはり丸太の高さのせいだろう。

 

「レンジャーズになる、って()()()()()()()()お兄ぃと決めたのに………まだ胸が高鳴ってるや」

「………そっか」

 

ヒルミィの放った、ジャガールの夜に、という言葉にいささか疑問を覚えた。確か、二人がレンジャーズになろうと決めたのは二人の元々いたシャトルでのことではなかったか。ヒルミィの憧れを作ったのも、そこで読んだ絵本だったはず。明らかな矛盾だったが、暗がりの中見たヒルミィの眼は冴えているように見えたし、何より言いぶりに迷いがなかった。ヒルミィのなかではそれが真実なのだろう。

 

––––––そう、結論づけて、それ以上は考えなかったんだ。

 

「私は………なんだろ。なんか、さっきまでは、前もこんな風に夜に一人で空を見てたような気がして、それで懐かしくなって………眠れなくなっちゃったよ」

 

でも、隣にヒルミィがいる。

 

「記憶………まだまだ時間かかりそう?今朝は少し思い出してたみたいだけど」

 

だから、この夜は一人じゃない。

 

「うん………まだまだみたい。結局、朝のやつもあれだけだったから。絵本も、まだ読めてないし」

「じゃあ、読めたらまた何か思い出すかもしれないね。そしたら、あたしに聞かせてね」

「うん……もちろん」

微笑み合う二人は、それから、あはは、と抑えきれなくなったみたいに小さく声を出して笑った。そして、また二人は視線を前に送る。

 

「でも、こうやって見てるとなんだか小さく見えてくるよね」

「小さく?」

「うん。あたしはまだ全然ジュストの中を知らないけど、夜にこうやって見てるとすっごい小さく見える気がする」

 

ヒルミィは、見て、と指をさして街を示した。その指先の広さは、ここで座っていては分からない。

「じゃあ、明日はきっとびっくりするね。だって、まだ大樹の向こう側には行ってないし、ここからは見えない場所はもっと広いかもしれないし」

「あー!なんだか想像したらもっと興奮してきちゃったー!ミルキィ、もうちょっと話しててもいい?」

「うん!私も、もう少し話していたい」

 

二人隣り合って座って、語り合って見つめた大樹の街。

明日は、その運命が始まる事になった、レィジとヒルミィの夢のための目標が叶う日。

 

だから今夜は、眠れそうにない。

 

 

 

 

 

 

その日もまた、夢を見た。

二人で語った宵の静けさが遠のいていき、ここに残ったのが胸を締め付ける高揚感だけになった頃、商会の中に戻り、意識がぼやけていった。気がつけばミルキィもヒルミィも眠りについていて、そんな中で見た夢だった。

今度の夢で見たのは、あの黒い空の見える懐かしい場所ではなかった。それよりもずっと心には引っかかっているけれど、決して懐かしいという感情ではひとくくりにできない、そんな場所のような気がした。一つだけ確かなのは、あの黒い空と同じ。そこが森の中の世界ではないということ。そこでは黒い空はおろか、空すらも見えない冷たくて痛い狭い暗闇だったけれど、森の外の世界の記憶だった。

そう、ミルキィには、それが()()だとはっきりと分かっていた。夢を見ながら、ある種自分の記憶の中の自分の姿を俯瞰しているような状態に思えた。

その時だけ、覗き見ている時だけは意識ははっきりしていたのに、目が覚めて夢から身体がすっ、と抜けていくと、夢を見ていた時の感覚というのが、丸ごと全てどこかに行ってしまったみたいだ。彼女にはもう、水が指と指の間からするりするりと抜け落ちていくように、掴むことのできない記憶になっていた。

それでも、彼女が夢を見ている間。

ミルキィは、()()()()()()()()()()と、それが誘った鎖によって縛られていた過去に改めて向き合って、大切なことを思い出した。

 

それは、そう。

 

彼女自身の、命の在り処を。

 

 

 

 

 

 

 

ぷかぷかと何もない空間に浮かんでいた意識が、徐々に形を持ち始め、気がつけばそれが自分の身体を作っていく。覚醒の予兆がミルキィの中に走った。

「ん……」

それから半ば目覚めたミルキィは、部屋の中央から聞こえてくる二つの声をとらえる。

 

「アンナさん………どうしてあたしにそんな」

「私ね、ヒルミィちゃん。今でも思い出すの。アリアといた日々、彼女が死んでから、私たちが歩んできた道を。私、生きる事に必死で、大切な事を忘れていたの。それを思い出させてくれたのが、ヒルミィちゃんとレィジくん、そしてミルキィちゃんなの。ううん、忘れていたんじゃない。半分諦めてたのね。それを、もう一度考えさせてくれたのが、ヒルミィちゃん達なの。だから、言っておきたくて、ね」

「………そう、ですか」

 

微かに耳に届いてきた会話の内容を、完全に噛み砕くことは出来そうになかったが、微睡みに脚を入れたままの彼女の意識で分かったのは、二人が交わした言葉が意味を持ってお互いの中で存在するようになる頃には、きっと何かが変わっているんだろう、ということ。それがちょうど、ミルキィが夢で見た黒い空と懐かしい人達と交わし合った言葉に似た音で聞こえてきたから––––––夢に近い微睡みの中にいたから、そう思うこともできたのだろう。

 

「う………ヒルミィ、おはよ。アンナさんも。おはようごさいます」

 

瞼をこすりながら顔を上げたミルキィを、二人はそっと微笑んで迎える。何の変わりもない朝。けれど、今日の朝はいつもとは全く異なる朝だ。

 

「––––––ミルキィ寝坊だよ、あたしなんてすっかり準備できてるもん!」

ヒルミィは、ミルキィの声を聞くと、何事も無かったかのように取り繕って、いつも通りえっへん、と胸を張った。そのヒルミィの言う通り、彼女は既によそ行きの服へと着替えており、アンナと共に椅子をつけている机の上には、ヒルミィがいつも持っているパントリーの本が置かれていた。そして、その机の中央には、二人の夢を導く〈森の羅針盤〉だ。なるほど、確かに今すぐに出発すると言われても問題ない装いだ。

「あはは……ヒルミィちゃん、すっごい早起きでね。まだビブリオもこっちに来てないから、慌てなくていいよ。あ、でもレィジくんはヒルミィちゃんよりも早く起きて剣を振りに外に行ったわね」

アンナも、それまでの雰囲気をミルキィに悟らせないようにしているのか、普段の調子でヒルミィに続いた。

寝起き、という事もあり、ミルキィはつい一瞬前に見た二人の様子を、それから気に留めることはなかった。

「うう……私が一番遅かったですね」

一息に意識の枠外に向かった二人の様子。ミルキィも、変わったそぶりを見せることなく起き上がる。軽く涙目になりながら、二人に顔を洗ってくると告げ、すっかりいつもの調子の足取りを取る身体で、商会の外の水汲み場へと脚を運ぶ。

外に行った、というアンナの言葉が気になり、ちらっ、と視線を送ると、遠くの方でレィジが一定の周期で身体を動かしているのが見えた。遠くからでは息遣いや額の汗まで分からなかったが、その気迫は何だか伝わってきた。

 

「レィジさんったら」

 

その姿が視界の端に映った一瞬を、朝のひんやり冷えた水が覆い被さって遮る。それを何度か繰り返してから、ミルキィはふと振り返った。何かの視線を感じて、何かの気配が蠢いて、そのどれにも当てはまらない、ミルキィの彼女の知らない彼女の部分が反応して、としか表現できなかった。しかし、振り返っても何があるわけでもなく、ただ大樹が聳え立っているだけだった。

 

「………なに、これ」

 

けれど、振り返らなければという使命感や、何もないのにそう感じた違和感は決して拭えることなく、より強くなるばかり。胸の内側がぐちゃぐちゃになってからビリビリに裂けてしまいそうなくらいの嫌悪感が、ミルキィの中からふつふつと浮かび上がってきた。形の無いその感覚が、ミルキィの内側が媒介になって何かに変わろうとしているみたいな、そんな嫌悪感だった。

 

「う…………」

 

経験したことない自らの異変に、大樹の方へ向けていた身体をもう一度反転させて、ミルキィは手と顔が掬う水の孕む冷たさで赤くなって痛くなるくらいまで、何度も何度も水を叩きつけた。取り憑かれたようにその行為を繰り返しているうちに、その嫌悪感は次第に遠のいていき、手のひらの感触を思い出す頃には、もう無くなっていた。

 

ぽた、ぽた。

「はぁ………はぁ………」

 

ミルキィは突然の異変に困惑しつつも、この顔を見た二人に余計な心配を掛けたくない思いで、顔の赤みが引くように、顔を拭くのに持ってきていた布で顔を包み込む。

視界が黒に途切れると、いつの間に鼓動が早くなっているのに気がついた。それに気づいたところでどうしようもない。見えない物に引き起こされた感情なら、それが引くのもまた見えない物の影響でなければならない。だからきっと、しばらくの間はこの違和感に襲われた一瞬が脳裏から剥がれることはないのだろう。

 

「………戻ろう」

 

そう呟けば、きっとこの違和感も薄れるだろうと、そんな根拠のない主張だけ並べても、ミルキィに押し寄せた違和感は、決して潰えることはない。深呼吸を何度かすると、乱れていた呼吸も何とか収まり、二重の意味でしゃっきりとなった意識で、その場を後にする。

大樹に背を向けて、歩き出した途端に––––––。

 

「––––––」

何かの音が、聞こえた気がしても、違和感に隠れて、振り返れなかった。

 

 

 

ミルキィが部屋に戻って、いつものひらひらのついた上下一体の服に着替えていると、そのうちにレィジが帰ってきた。昨晩と同じようにレィジに身体を拭く布を渡し、それからやる事も見つからずベッドに腰掛けて視線は行ったり来たりしていた。

 

「どうしたの?ミルキィ?」

その彼女の様子に疑問を覚えたのか、アンナとの話を終えた後、一人パントリーの本に向き合っていたヒルミィが、ミルキィの隣までやって来て首を傾げる。咄嗟に「ううん、何でもないの」と出来てしまった自分を少し恨みながら、適当な理由をどうしようかと内心慌てて、

「だ、だってこれから大樹に行くし、モーブルさんからも話があるみたいだし、き、緊張しちゃって」

上ずりかけた声を、上手くいつもの調子で出せたミルキィは、ぎこちなく見えないように笑ってみせた。

「そっか。まぁ、あたしとお兄ぃは前から決めてた事だからね、もう心の準備もばっちりだよ」

ミルキィに親指を立ててジェスチャーしてみせたヒルミィは、同意を求めるようにレィジに視線を送る。レィジは自分の作業をするのに下を向いていたようだが、会話は聞こえていたらしく、ちらと顔を向けてヒルミィと同じサインを送っていた。

「……ね?」

「うん………そうだね。ヒルミィたちがいつも通りだもん!私もいつも通り………」

 

にしようかな、と呟きかけたところで、ちょうどガチャリ、という音が室内に響いた。やけに大きく聞こえたような気がして振り向くと、ビブリオがぽりぽりと襟足をかきながら入ってきた。その腰には、普段はしていない、小物を入れる袋が提がっている。ビブリオの余所行きの姿といったところだろう。

「準備は………できてるみてぇだな。お前ら、そろそろ行くぞ。まあ行くって言っても歩いて行くだけだがな。俺は二、三日向こうにいるがお前らは用が済んだらすぐ戻るだろ?だったらそんなに荷物はいらんさ。ほら、俺は外で待ってるから」

そう言うとビブリオはアンナに軽く目配せしてから、その部屋の出口から出て行ってしまった。ビブリオの言う通り、ミルキィ達はそう何日もここを離れることはない。今が早朝という事を考えれば、なおのこと、長期間離れる可能性は少ないだろう。

 

「あぁ、分かった」

レィジがそう言ってビブリオの背中に答えるのにヒルミィと二人して追いかけてから、急に静かになった室内で、ミルキィ達三人は何となく互いに顔を見合わせた。

そうして(こぼ)れたのは、ミルキィが、レィジが、いつのまにか出来るようになっていた自然な笑み。表に出た感情のくすぐったさに、ミルキィは目線をレィジとヒルミィからズラした。こんな風に三人で居ると、今朝感じた違和感も何も––––––レィジが言ってくれたように、ヒルミィが届けてくれたように––––––怖くはなかった。

 

「どうする?三人とも。ビブリオも行っちゃったし、もう出よっか?」

アンナが席を立ちながら頰に流れてきた青の長髪を耳の後ろに掛け、三人を見渡すように言うと、一番にヒルミィが手を挙げた。

 

「はい!あたしも、それでいいと思う!みんな準備もできてるし………ね?」

「うん、もちろん」

「あぁ」

三者三様に頷くと、アンナは小さく息を吐いてから、パン、と両手を叩いてみせた。

「それじゃあ決まりね。気をつけて行ってきてね。羅針盤、忘れないようにね。あと………」

ベッドから立ち、身支度を終えて立ち上がり、パントリーの本を持ち、ミルキィとレィジとヒルミィがそれぞれに扉を出ようと準備する間、アンナはあれとこれと、三人を心配する声を上げていた。

アンナの普段見ないその様子に三人揃って苦笑一つ、先に声を出したのはレィジだった。

 

「アンナ、ありがとう。俺たちなら大丈夫だ。帰ったら、〈森の羅針盤〉の裏に刻まれたレンジャーズの証を見せよう」

––––––〈森の羅針盤〉を持ち、その裏にベースキャンプの人間にレンジャーズ()る紋様が刻まれていれば、それはレンジャーズの証左になる。

 

「うん!ありがとう、アンナさん!それじゃあ、行ってくるね!」

レィジに続き、ヒルミィも勢いよく答え、二人は外へ出るために扉に手を掛けた。ミルキィも、遅れまいと後を追うように二、三歩駆けてから、ぱっ、とアンナを振り返る。

 

「アンナさん!行ってきますっ!」

ミルキィが振り返ると、それに合わせてレィジとヒルミィも振り返り、三人の視線がアンナに集まる。アンナは、ほんの少しだけ眉を上げてから戻し、やがて目尻を細めてその青と同じく、流れるような笑顔を三人に向けていた。

 

「うん。いってらっしゃい、みんな」

 

それを聞き届け、ミルキィたちは扉の向こうへ––––––。

「ミルキィちゃん、待って。最後に一つだけ」

レィジとヒルミィが外に出て、ビブリオの所まで小走りに行くのを目の端で捉えてから、扉が閉まる直前に、肩がちょこん、と(つつ)かれた。何かと思って振り返ると、アンナがそう言ってミルキィの呼び止めていた。

「は、はい。何ですか?」

アンナの顔は、一瞬前の表情に比べて少し真剣味を帯びており、何事かと身構えるミルキィに、アンナは息を一つ吐いて、

「あ、ごめんね。大した事じゃないんだけだね………ミルキィちゃん。いつも通りが楽ならそれが一番いいけれど、無理していつも通りを演じるなら、少しくらいいつもと違う自分になってみてもいいと、私は思うよ」

「え………」

「じゃあね。行ってらっしゃい」

「あっ、は、はい!いってきます……?」

 

アンナの別れ際の言葉が唐突で何が言いたいのか直ぐには掴めず、曖昧な返事を返すだけになってしまった。ミルキィがそれを咀嚼し終わる前に扉は閉まり、アンナの姿も、置いてきた言葉も見えなくなってしまった。

 

「おーい!ミルキィーっ!はーやーくーっ!」

ぼうっ、としていると、後ろの方からヒルミィの声が響いてきた。その声にはっと我に返り、慌てて走り出したミルキィを、レィジとヒルミィとビブリオは待ってくれている。

 

「いつもと違う自分………」

アンナのその言葉の真意は掴めず、思考が流れるままに意味が分かるまでは、待ってはくれなかったけれど。

レィジたちに追いついて、急に走って乱れた息を整え、四人で大樹までの道のりを出発し、そしてその日の昼過ぎにモーブルと合流するまで、アンナの言葉はずっとミルキィの中で形を持たずに残っていた。

 

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