ついに幻獣を屠ったかのように思われたが––––––森の奥から現れた、まさしく真の
この獣は一体何なのか。あの瘴気は、レィジが見た黒い塊と何か関係があるのだろうか。
「行くぜ、半虎………!王の生き様を見せてみろ!」
だが、それは今のレィジの前には些事も同然だった。
ダーミルから聞いていた半虎の情報には、個体の大きさは無かったのかといえば、確かにあった。しかし、そこにこのような巨大な獣の情報は無い。それにも関わらず、レィジは幻獣は目の前の獣だと確信した。そこに理由はない。この獣こそが幻獣、壊厳の半虎であると直感が告げていた––––––。
––––––戦え!戦えッ!
全身を巡る血液が踊るように熱く沸騰していた。眼光をギラつかせ、ただ一意に王と視線を交わす。
これがレィジの世界が開くための扉。
「大きすぎるが………そういうのは嫌いじゃない––––––ッ!!!」
「ロオオオオオッ!!!」
––––––見せてみろ、貴様の生き様!
レィジをしっかりと捉えながら、王はそれに応える。決して
ダッ––––––!
未だ効果の切れていない風脚の力で一気に間合いを詰めたレィジの十数倍の体躯の半虎、その大きな脚の間合いは四、五メートルといったところか。
その間合いに入った瞬間、レィジはフックを構え、半虎の少し隣の木に向かって縄を発射する。その縄が木に刺さったと同時に、縄を吸引する事で、レィジごと移動することができるのだ。
––––––これがフックによる移動。機動力のあるこの移動によって、レィジは半虎の顔の真横から対峙する。
引き伸ばされた時間の中では、僅か一、二秒の滞空時間がその何倍にも感じられる。
「風の導陣、具象の導陣、
斬閥は、不可視の刀を出現させ、それを振るう事で斬撃を飛ばして攻撃できるという導陣。その導陣を、フックに付加したのだ!
「ダーミルに剣を習っておいて正解だったな………!」
元々、
––––––が!
このフックには、もう一つの機構がある。三角形の持ち手が外れ、直方体の金属の中に手が入るようになる。手を入れ、縄を出し、すぐに固定すると、無骨な直方体は、一瞬にして
ダーミルがレィジのために仕入れたこのフックは、剣としても使うことができる。その剣の刃渡りは一メートルに届かない程度、半虎にはとても届かない––––––いや、否。
「おおおおおおッ!!」
斬閥の効果で、斬撃は飛ぶ。
落下するまでの間で、レィジは半虎へ数十の剣閃を撃っ–––––、
「グゴォッ!」
––––––笑止千万!その程度か小僧!
「ああ………ッ!?」
レィジが剣を振りかぶる、そのコンマ秒の間に、半虎は残像すら残さず、微動だにせずレィジを蹴り飛ばす。
いや、その挙動が速すぎてレィジの目が追うことができなかったのだ。
剣を構えたはずなのに、気がつけば木を背に、身体の骨を何本も犠牲にして、地面に血を吐いて倒れている。右から木にぶつかったことで、右の腰につけていたもう一つのフックが外れ、転がっていく………だがレィジは、構えた獲物だけは手放さなかった。
全身を襲ったあまりに重い衝撃に、心臓が
「か、おぇ……はっ」
剣を持った手が痙攣している。
レィジが当たったことで揺れた木の葉がパラパラと目の前を舞うのがぼんやりと見えた。
微睡みかけた思考の中で、
「さっき………どう、やって、
歩くのにいちいち考えないように、剣の斬撃を飛ばすことだけを考えて、導陣については勝手に口が動いていた。図形も起句もなく、だが導陣は実際に発動した。
「だっ、たら………!!」
諦めてはいない。
レィジは世界を見ると決めた。ならば––––––この程度で諦めるわけにはいかない。
「––––––」
–––––ほう?
その間、王はただ待っていた。
次の一手も全力でねじ伏せるために、ただ待っていた。
––––––震える唇が、その言葉を紡ぐ。
「治癒の導陣………
そして、少年は奇跡を起こす。
「ふっ………どうやら俺はまだ戦えるみたいだ、なッ!」
レィジの身体を、翡翠色の光が覆う。陽炎のように淡く途切れたその光は、確かに癒療の光。
やはり今、レィジは導陣を発動できている。
最後の一言と共に踏み出したレィジは、十メートルほど離れたところに落ちるフックへと疾駆する。
「オオオオッ!!」
––––––面白いッ!
「そうは問屋が卸さない」と、まるでそう言っているみたいに、フックとレィジの間に足を踏み出す。偽半虎ならば数秒とかからないで到達できるこの距離を、王は––––––、
ズドォ!
「おおッ!!」
すぐさま剣から元のフックへ形態を戻し、真上に射出した縄で枝を掴んで、半虎から距離を取った。
位置関係が逆転した今なら、半虎のがら空きの背中を狙うこともできる。足を踏み出した王は、重心が傾き、一秒未満の僅かな間だが、挙動ができないはずだ。
「せええええっッ!」
フックで木の枝に完全に戻る前に剣に戻し、勢いを殺さずにそのまま枝まで到達したレィジは、水の中で壁を蹴ってターンするみたいに弾丸を紛うスピードで枝を蹴る。それはまさしく弾丸。王に迫るは、秒を刻む。
「––––––!!!」
–––––––甘い!!重心がずれているなら、重心ごと移動すればいいではないか!
王は、踏み出した足の勢いそのままに身体を捻り、鞭のようにしなる尻尾レィジへと叩きつける。
「何………ッ、くそッ!!」
鋼のように硬い王の尻尾と、レィジの剣がぶつかる。まるで剣で打ち合っているかのように手応えのある剣筋を再現した尻尾は、剣と交えたあと、返す刀でレィジの身体を狙う!
「させるか––––––ッ!」
これも返す刀、尻尾を剣で防いだレィジ。その剣戟は、レィジが落下しながら熾烈に交わされる。
尻尾が左にくれば、剣を右から振るい、突き刺してくれば、それを剣先で薙ぎ払う。
打てば当たり、当てれば打たれる。
十数メートル上空から落下する間に響いた、尻尾と剣の当たる硬質な高い音が幾重にも重なって、織りなす攻撃の一つ一つが流れるように次の攻撃へ続くその様はもはや人間業ではない。それこそ、人間を超越した存在のようだった。
「おおおおおッッ!!」
「グルオオオオァァァァァ!」
王と剣とが魂をぶつけ合う死線。
共鳴する鼓動。ただひたすらに、もてる全力で相手を上回らんと、
たった数秒の一幕は永遠に伸ばされ、二つの
レィジに、このとき思考と呼べるものはない。そこにあるのは、
王もまた、何かを考えている訳では無かった。慢心すら支配して、挑むのは目の前の敵と認めたこの存在。
––––––決着はついた。
「おお………なっ、えっ?」
左から胴体を薙ぐように飛来した尻尾を、神速の剣で打ち払って躱そうとしたレィジは––––––水の含んだ粘土から急激に水が抜けていくみたいに。頭に血が上ったときのように。一瞬にして大量の血液を失って失神手前の貧血を起こしたみたいに………五体満足の状態から、一切の力が入らなくなってしまった。
––––––ズ、ゥルァァ!!
王の尻尾は、当然のようにレィジの左腹部を直撃する。それは凄まじいもので、瞬きをする間に、レィジは窪地の森の地面に飛ばされていた。大地の怒号が如き地響きとともに辺りに砂埃が舞う中、徐々に晴れていく土色の煙の奥で、首の皮一枚意識を繋げたレィジがあった。
剣は手を離れ、折れた枝が下から右の脇腹と左腕を貫く。固い石の上に当たった右腕は、青白くなって折れていた。
「ろ、ぉ………ぇっ」
熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。
痛みは痛みを
––––––熱い。
「ルルル………」
–––––––この
王は表情を無くす。目の前の敵は、命を落とすのだ。
ゆっくり。ゆっくりと踏み出した足が、レィジの数メートル手前で跳ね、斜め上から、倒れこむ彼を鋭い牙の中へ、噛み殺そうと飛びかかる。
––––––ああ。死ぬんだな。
––––––これで終わり、か。
––––––こんな終わり方は。
嫌、だな………。
走馬灯の類は一切なかった。ただレィジの脳裏にあったのは、未知の広がる世界のことだけだった。
頰を伝う雫は血か或いは。
レィジが目を瞑り、静かに死を待つその間………どれだけ待っても、王の牙は迫らない。
おかしい。あの王ならば、既に俺は死んでいる。
「ぅ……あぁ?」
薄らと、目を開けて見た景色は、とても、レィジが今までみたどの光景を以ってしても説明が出来るものではなかった。
王の姿が無い。
いや、正確に言えば。
砂の塔が崩れるみたいに、金色の粒子をパラパラと零しながら、頭から身体が消えていっているのだ。
その現象を、理解する術は、無い。
「お、おい………どういうこっ––––––!?」
絶対零度がその空間を襲った。
頭から消えていった王の姿が、煌めく金色の粒子を瞬かせている、その向こう。
一人ぶんの人影があった。所々鮮血に濡れた真っ白い髪の毛を無造作に肩まで伸ばし、ボロボロの服を一枚だけ着た
いつからいたのか、王を消したのか、関係がないのか、現実ではないのか、幻なのか、なんなのか。目の前の少女はなんなのか。
「………」
その少女は無言で俯いたまま、口をもごもごと動かしているようだった。俯いた影が時折揺らめくのが見える。
微々たるものだが、分からないほどではない。抱いている両手が時折思い出したかのように震えている。その震えに従って、血や泥で黒ずんだ足につう、と血が流れ落ちる。
「………」
レィジは自分が恐怖しているのがはっきりと分かった。気づかぬうちに身を縮め、落としてしまったフックを手探りで求めている。
レィジの焦りに反して、その少女はトン、トン、トンと素足でレィジを目指して歩いている。
「………!お、俺を………知っているのか?」
「………」
レィジの声が届く頃になっても、少女は一切動じず、同じ姿勢を貫いている。
血濡れの髪に、汚れた身体。それらに似つかわしくない綺麗なブラウンの瞳。光のない瞳が、レィジを見つめる––––––その深い闇に魂ごと全部吸い込まれてしまいそうになる。
トン、トン、トン。
少女はついに、レィジを見下ろす位置まで辿り着いた。
「く………!」
「………」
近くで見るほどに、より異様さが目立つ。やつれた顔は
そのまま光の届かない瞳がレィジを冷たく見つめて、どれくらいたったろうか。
唐突に、少女は口を開く。
「みつけた」
「………っ?」
霞みのような不安げな声。
微睡みの中のような拡張された時間。
衝撃に身を奪われ記憶から無くなっていた身体の熱が急に元に戻ってくるにつれ、少女のことと、レィジが感じた––––––溶け出した思いを忘れていく。
––––––ああ、なんだったのだろう。少女に眼の奥を覗かれたとき、眼の裏で閃いた、花園で舞う想いの欠片の煌びやかな姿は。
それ以上思考が働くことはなく、耐え難い眠気に誘われて、半ば気を失うように、レィジは
その向こうの、少女を置いて。
矛盾の広がる花園で手を取って歩いたあの日。あの時見た麦わら帽も、手を通して感じあった熱も、流麗に流れる真白の髪も。激流のように頭の中を流れていく。チカチカ光る、赤、青、黄の粒たちが、風で舞い踊る。春先の花びらのようだった。
想い出は遥か遠く、いつのことだったか。けれど、それは正しく、少年と少女の記憶の中で生き続ける。
涙の雨が頰を叩く、その度に少女は
離れないで、一緒にいて。
そう願った少女の想いで。
少年は今ここにいる。
「………レィジ?よかった、目覚めたのね!」
ダーミルの家のノエの寝室で、レィジの手を握りながらノエは静かに喜んでいた。
赤く腫らした目の先では、夢の中にいるみたいにおぼろげなレィジが横たわっている。
「よかった、本当によかった……帰ってきてくれて、ありがとう」
柔和に微笑んだ彼女は、レィジの右手を両手で、まるで祈るように包み込んで
「おかえりっ、レィジ!」
涙は流れなかった。その涙を流すのはもっと別の時でなければならないのだ。
きっと、レィジはそれにはにかんで応えてくれるだろうと思っていた。いや、信じていた––––––それが二人だったから。
けれど。
「………なるほど、道理で」
「え?」
彼はノエの手を払って上体を起こし、自分の身体が
「あっ、危ないよレィジ!まだ目覚めたばっかりなんだよっ」
「ふん、紛い物如きが種子を求めるとは。その所業変わらないな、愚者の神が」
壁に手をついて歩きながら口の中で呟く彼に感じたのは、畏れだった。
ヒルミィが聴いた声。ノエが見る彼。その二人は、同一人物のようだった。
「待って、待ってよレィジ!私の声が聞こえないのっ!?」
扉に手をかけ、押し出そうとした彼の身体は。
「れ、ぇ………」
王と戦った時と同じように、力が抜けていき、すっと、レィジに戻る。
「レィジ!?だ、大丈夫っ?」
「レィジ………」
あまりに無防備に寝るレィジの顔を見ていると、とても一瞬前の雰囲気は想像できない。あのレィジと今のレィジを同一人物に考えるのは、さすがに無理があった。
目に深くかかった黒い髪の毛を手ですくって撫でると、心地好さそうな寝息が聞こえた。
「………」
ノエは、自分の気持ちが信じられなかった。
愛おしい––––––その前にやってきた、
それを掻き消すように。
否、それを、搔き消したいように。
「ん……」
寝息を立てるレィジの唇に。
ぴとっ、と。
彼女の唇が上から重なる。跳ねる鼓動の裏で、ノエは、接吻を続ける。
どうしても。
自分が抱いた感情を、罪悪感と劣等感で忘れたかった。
その次の日。よく晴れたいい日だった。その日は、レィジやヒルミィ、他のシャトルの人々にとって等しく与えられたいい日だった。
「まず何より、君たちが無事で………っ!もう、私は………!」
二人やノエが学ぶ学舎の、アルフの使う部屋の中で、三人は話していた。アルフは、あの日以来はじめて会う二人の無事な姿に涙無くしては相対せなかったのだ。
「もう、先生ったら。………でも、ありがとうございます先生。今まで、私たちを教えてくれて」
ヒルミィがアルフに顔を拭く布を渡してから、素直に頭を下げる。
それにならって、レィジも深々と下げた。
「いっ、いいんだよ二人とも………!私は、ただ、二人が無事で嬉しかったんだ。一ヶ月も行方不明だったから、もう心配して心配して!一週間前、レィジとヒルミィが帰ってきたってハンスさんがシャトル中を走り回って報告した日は………もうなんと言ったらいいか!」––––––ハンスというのはグラーヴェの衛兵である。
「………やめてくれ、先生。いつも見ない姿はその、困る」
言葉通り、号泣するアルフに対応しあぐねている。
そんなレィジを、心の底からの安堵の目で見つめてから、ヒルミィと一緒に抱きしめる。
「おかえり。レィジ、ヒルミィ。さぁ、最後の授業を始めるよ」
「むごっ」
「むぐぅ」
アルフの胸板に圧迫されて言葉の出ない二人を慌てて解放すると、部屋の奥から三十センチ四方の木箱を出してきた。
「さ、二人とも第二節だ」
三人だけの部屋の中で響く唄声は、その唄に特別な力が
二人とアルフのでは、歌詞が違うが、歌の内容やリズムは同じだった。〈森捧歌〉は、年齢によって唄う節が異なるのだ。
「………我らが主、我らが生命よ。古より
「我らが………」
「主よ………」
唄が終わり、アルフが付け足した言葉を二人は声を合わせて繰り返す。手を正面で重ね合わせて、祈りのポーズをとり、そのまま数秒の黙祷を捧げ、祈祷は終わった。
「じゃあ、〈森の羅針盤〉を渡すよ。準備はいいかい?」
アルフが唄わせたのは、〈森の羅針盤〉という全てを森に依存した道具をこれから渡すからであった。祈祷を捧げ、レィジとヒルミィに森の加護をと願ったのだ。
これを受け取れば、レィジは憧れを掴む、その扉を開けることができる。
––––––だが。
「ちょっと待ってくれないか先生。………それは、受け取れない」
返ってきた答えは、予想だにしないものだったのだ。
「どっ、どうしてだいレィジ!?君とヒルミィは確かに幻獣の首を持って返ってきたじゃないか!いくら気を失ってヒルミィに担がれて帰ってきたからと言って、恥じる事はないんだ!君は、君たちはとても素晴らしい事をしたんだよ!」
––––––レィジには、血濡れの少女に瞳を覗かれてからの記憶が無かった。
周りの人間、なによりヒルミィがそう言っているのだ。きっとそうなのだろう。幻獣の首は、レィジの隣で、捩じ切られ潰されながらも、確かに死骸があったことから、説明がつくが。
レィジしか知らぬ事実。
あれは、幻獣などではなく、もっと別の何かであるということ。
つまりレィジは、幻獣の首を持って帰って来ていないのだ。
「俺は………その器じゃ、ないんだ」
拳を握りしめ、唇を噛んで発せられた言葉。レィジ自身が最もやりきれなさを感じていることは間違いない。
「器じゃないって、レィジ、君はこうして帰って来たんだ!それが何よりの証明だよ!」
必死に説得しようと試みるアルフだったが、あの王の前に跪き、死んでいたはずのレィジにはそれも崩れ落ち………。
パァン!
「えっ………」
何が起こったか分からないレィジは、刺すような頰の痛みと、怒ったように睨みつけるヒルミィの姿を見てはじてて、頰を叩かれたと知った。
「お兄ぃ、さっきからどうしたの!?なんで断るのっ………お兄ぃは幻獣を倒して無事に帰って来たんだよ!?………夢を諦めるなんて、お兄ぃじゃない!」
ああ、ヒルミィは知らないのだと、レィジははっきり思い知らされた。
けれど。そんな妹の言葉でハッとさせられた。
「あたしは、お兄ぃに羅針盤を受け取って欲しいの!お兄ぃと一緒に森の外を見に行くんだから!………だから!」
「だから、そんなにしょぼくれてないでいつもみたいにかっこつけて受け取っておけばいいんだよっ!!!」
最後の方は泣きながらになったヒルミィの懇願。
––––––そうだった。俺は、自分だけのために戦っていたわけではなかったのだ。一緒に、ヒルミィも戦っていた。ヒルミィの夢と共に戦っていたのだ。だったら、今は沈まない。悔しさや謎や恐怖を探すのは、この広い世界の中でやればいい!
「ありがとうヒルミィ。………それと一応言っておくが、かっこつけているわけじゃない」
肩をすくめて、そう誤魔化すレィジは、完全にいつも通りのレィジだった。
その様子に泣き笑いしながら、
「うそだー!あたしの知ってるお兄ぃは、俺は神など信じていないっ、とか言ってかっこつけてる!」
妙にうまい兄の真似とともに、わんやわんやと騒ぐ。
「くっ、惜しいなヒルミィ。信じていないのは森の神であって神という概念は受け入れている!」
腕組みをしてヒルミィに向き合ったレィジは、顔を作って宣言する。
「あー!そういうの、きべん?って言うってお父さんがお兄ぃのいないところで笑ってたよ!」
「なんっ………ィージルめ、謀ったな」
「あの………元気になったなら何よりなんだけど、〈森の羅針盤〉は」
「あっ」
「あっ」
〈森の羅針盤〉は、少し歪な円形をしている。周囲に木の根のレリーフが施してあり、見た目ではただの羅針盤に見える。だが、異なるのは、円の中心に空いた二つの穴だ。その穴へある導陣を使用すると、周囲に生えた根にそれがしっかりと行き渡っていくのだ。その根が染まった色の濃淡で、対象の場所までの距離が分かるという仕組みだ。
「なぁ、ヒルミィ」
「んー?なぁに?」
アルフから羅針盤を授かった二人は、学舎を後にして、シャトルの中央広場へと向かっている。先日、そこに飾られた幻獣の首が八つから九つになった。言わずもがな、偽半虎のものだ。二人はそれを見に行くらしかった。
中央広場までの道程でシャトルの人々に度々掴まっては半虎との戦いの話をし、を何度か繰り返したころ、藪から棒にレィジが口を開いたのだ。
「ヒルミィは、森の外には何があると思う?」
「あたし?あたしは………森の外は綺麗だと思う。浮橋の花園よりもずぅっと広くて綺麗なお花が広がる、オアシスシャトルよりも大きい平原!地平線、見渡す限り森のない美しい世界!季節ごとに表情を変える山や川や湖!あと気持ちいい太陽と、叫びたくなるような星空。あたしは、森の外の世界はとってもすてきだと思う」
夢物語に少女が語るその世界。未だ誰も見たことのない世界の果て。
「覚えてるか?小さい頃に読んだ絵本。森の外には、美しく気高い神々のすむ場所があって、そのさらに外には天使の唄声が響く空がある。神々のすむ場所では、
子供の頃に読む御伽噺を、レィジは信じていた。いや、むしろその御伽噺の世界がレィジを導いていたのだ。
「うん、覚えてる。お兄ぃ、まだあの絵本大事そうに持ってるよね」
「………あぁ。たとえ馬鹿にされても絶対に捨てない。あの絵本が俺の夢だからな」
「それがどうしたの?改まって」
「いや、何でもない。羅針盤を受け取ったら、なんだか憧れを話したくなったんだ」
そっか、と微笑するヒルミィが、タタッとステップを踏みながら、先に歩いて行ってしまう。
その後を追いながら。
「あ、あれじゃない?お兄ぃ、見て!」
「………本当だ」
そこには、一つ一つを荘厳に飾り立てた九つの獣の首があった。初めの一つから八つ目まては既に白骨化しているが、その圧倒的な威圧感は未だに無くなっていない。
「あ、ねぇ見て!ここに名前が書いてある………レィジ・クロイツ、ヒルミィ・クロイツ、だって」
「………あぁ」
「どうしたの?」
「いや、なんか、信じられなくてな」
「だよね………あたしも信じられない」
確かに、半虎の引きつったおどろおどろしい首が十字架に括り付けてあり、その下に二人の名前の書かれた銀のプレートがかけてある。他の首も同じで、討伐者の名前が銀のプレートに書かれている。それに加えて、「壊厳の半虎」ともあった。八つの首全てにそうあることから、歴代レンジャーズはみな半虎を倒してきたのだと分かる。
––––––そして、二人の下には。
「………なあ、ヒルミィ。首をここに打ったのは誰なんだ?」
「ハンスさんだって。ハンスさん、七代目レンジャーズで、あたしたちと同じように半虎を倒してきたって言ってたんだけど………この首、
「な………」
今まで見たことのない半虎の首だと、ヒルミィはそう解釈しているようだが、レィジだけは違った。
『レィジ・クロイツ
ヒルミィ・クロイツ
–––不明–––』
そう書かれた銀のプレートを、まじまじと見つめながら。
ヒルミィは幻獣討伐に疑いがない。自分たちの名前には注意が向いたが、名前の少し下のその文字には気がつかなかったのだ。
はっきりと彫ってある、不明の二文字。この首を十字架に刺したのが元レンジャーズ、つまり半虎と実際に対面したことのある人間ならばなおさら。
やはり、あれは壊厳の半虎ではない何かだ。では、瘴気と黒い塊には何か関係があるのだろうか。レィジはあると考えていた。半虎の瘴気と黒い塊とでは、あまりに見た目が似通っているのだ。
そう考え始めた途端、悪寒が走るのを感じた。
奇怪なことは偽半虎だけではない。むしろ奇妙なのは、少女と王の消滅、そして傷のないこの身体なのだ。突如として現れた獣の王、歴代レンジャーズが屠ってきた壊厳の半虎が塵芥に成り果て消え去った。その後現れた
さらに、レィジの身体だけではなく、ヒルミィの負った傷さえ無くなっていた。ヒルミィ自身、その傷の行方を知らないことは、不可解さに拍車をかけている。
では、その少女と面識は?もちろんない。
だが、記憶に引っかかるところがある。時折疑問だったのだ。ノエとよく訪れる浮橋の花園で脳裏を掠める幼い時の思い出。自分と同じ年頃の少女と手を繋ぎながら歩いた花園。レィジはグラーヴェに連れてこられてすぐにノエと知り合ったし、実際幼少期には花園を何度も訪れている。けれど、その記憶というのが、やはり引っかかるのだ。その中で自分は、ノエの翡翠色の髪とはまるで異なる真白色の長い髪の少女と、星空の下で歩いていたような気がするのだ。
その記憶は、あまりに現実の情報と異なっている。その記憶が夢だとして、ではなぜ、少女と目が合った時初めに思った事が恐怖や驚きではなく––––––懐かしいという、ものだったのか。
白い髪の少女はあの血塗れの少女なのか。星空とはどこで見た景色なのか。
レィジとヒルミィの負った傷は、いったい誰が治したのか。否、あるいは、誰かが治したのか。
深まっていくばかりの疑問に押し潰されまいと唇を噛んで自制するレィジは、ヒルミィの手前この心理状態を悟られたくなかった。妹の前では––––––あの時の傷とは遥か無縁となったいつも通りの妹の前では––––––いつも通りの格好つけた兄でいるべきなのだ。
「ほらお兄ぃ、早く帰ろ!」
「あぁ、今行く」
––––––絵本が囁く。
外のせかいを夢見た男の子は、女の子と二人で一緒に旅に出ました。誰も知らない外のせかい。全てが嘘みたいなこのせかいから旅立って、強く願った外のせかいへ、カミサマのいる外のせかいへ。黒い男の子と、白い女の子は、二人で一つの子ども。二人だから、こわくない!二人だから、大丈夫!さあ、みんな飛び立とう!
––––––絵本が囁く。
「目をそらすな」
耳元で、小さく囁く。