「お兄ぃ!?今までどこ行ってたの!?ちょっとっていうから散歩かなって思ったら………一時間半も帰ってこなかったじゃない!」
「あ、ああ………悪いな、ヒルミィ。ところで、モーブルはどこか知らないか?」
「………モーブルさんなら部屋にいるよ。あと、ほんと、心配………したんだからね」
ぷいっ、とそっぽを向いたまま、部屋の隅にあるベッドに行ってしまったヒルミィの背中を、鈍く痛む目で見つめながら、背中越しに小声でありがとうと伝えておく。
それに反応したのかしていないのか、はぁ、とため息を吐くヒルミィのもとを後にして、部屋にいるというモーブルに会いに行った。
あれから、広場を脱出したレィジは、馬がいなくなっている事を確かめ、本当に彼はあの傷のままどこかへ行ってしまったのだと悟った。
すぐに帰る気にもなれず、ジャガールを一周して遠回りで宿まで帰ると、二人の部屋でヒルミィが腕組みをして待っており………という
「しかし、あいつは一体なんだったんだ」
ジャガールを歩きながらずっとそのことばかり考え込んでいた。森の木を操る、〈統森営〉の教徒。
この符号が何を意味しているのだろうか。
––––––或いは、彼はいつか見た血濡れの少女と何か関係があったりするのだろうか。
憶測が憶測を呼ぶが、憶測である以上決定打には至らない。そこで、モーブルならば何か知っているのではないかと思い当たったのだ。
「へぇ………森の神を愛する狂信者、か」
モーブルに広場でのことを全て伝えると、苦い声で
この時点で、彼は何か知っていると確信したレィジは、さらに問いかける。すると、最初はお茶を濁すつもりだったらしいモーブルが根負けして、肩を
「お前が会った信者は、〈花犬〉と呼ばれている人物だ。有名なやつだ。レンジャーズになるんなら、知っておかなきゃいけない男だな、やつはレンジャーズを特に嫌う」
「………会ったことがあるのか」
そう聞くと、心底嫌そうな顔で頷いていた。
「昔、一悶着あってな。デルエル・メル・メリー。やつの名だ。〈花犬〉のメリーといえば名の通った信者なんだよ。二つ名があるのは〈統森営〉でも四人だけだからな」
「そんな人物が、何故あそこまで狂人なんだ?」
狂人、と聞くと苦笑しながら、モーブルは首を横に振った。
「あまりに森への信仰が強すぎるんだ、やつは。だからああして二つ名をつけられ、辺境地域へ飛ばされているんだ。まぁ、本人はそうと気づいちゃいないみたいだが」
そこまで話すと、茶を淹れるからまっていろ、とモーブルは席を立ちながら聞いてきた。
「いや、大丈夫だ。喉は乾いていない」
一瞬色の抜けた顔になったモーブルは、問答無用でお茶の用意をし始める。
「そうか?こういう時ははいって返事しておけばいいんだよ………聞いてるようで、答えは一つだけだからな」
「………頓狂な問答だことだな」
「そういうのを
ほらよ、とコップに緑色の液体を注いで、レィジの前にコトン、と置いた。
自分のぶんのカップは手に持ったまま椅子に座り、口を濡らしてから閑話休題、と話を再開する。
「さて、〈花犬〉の件だな。どうしてレィジの名前が分かったのかについてだが」
熱々のお茶で舌を火傷しかけたレィジは、話半分で喉に熱い液体が流れていく感覚に浸っていた。
「はっきり言って、俺にも分からない」
「えっ?」
もったいぶって言うものだから、てっきり分かっているものだと踏んでいたレィジは、含んでいたお茶を吹き出しそうになる。
いや、やつには謎めいた部分が多いからな、と言い訳のように話題を変えたモーブルは、いずれにせよとレィジを指差した。
「名前が割れた事は何かと面倒になるだろう。十分に注意しておけ」
レィジが分かった、と言う前に、俺は下に行ってくるからお茶を飲んだら部屋に戻れよと、強引に部屋を出て行ってしまった。
もう少し話を聞いていたかったが………ただ、男に関しては情報を得られた。
「デルエル・メル・メリー………〈花犬〉、か」
その名前と二つ名が、レィジの脳裏でグルグルと回り続けていた。
まるで、運命がそうさせているように二人を引き合わせて。
きっと、彼とはもう一度会うことになるのだろう。
レィジは、こう思っていた。
––––––それも、最悪な形で、再び合うのだろう、と。
「世界の終わり、か」
確かに、この〈枯雪〉という現象を森が引き起こす天候の一つだと分からない頃ならば、世界が終わってしまうと恐れるのも無理はない、とレィジは納得していた。
昼間、〈枯雪〉が降れば降るほど、つまり積もれば積もるほど、灰色めく世界というのがはっきりしてきた。ジャガールに来るまでは、ヒルミィが言うように、なんとなく灰色のような雰囲気があるだけだったのが、ここ最近、ジャガールに来てからはさながら本当に世界の色が灰色で染まってしまったかのような感触があった。
だから夜も深くなってくればまた違った印象になってくる。月明かりを木々が遮るこの世界の暗さに、〈枯雪〉の影響が重なり、まさしく別世界みたいだった。
「デルエル・メル・メリー、〈花犬〉………グラーヴェにいたままだったら二つ名の教徒の事だって知らなかったかもしれないのか」
脳裏で閃く、狂った男の笑い声。
その度に、頭の奥がキリキリと締め付けられるような
デルエルの言う通りならば、レィジの顔は平均––––––何を以って平均としているのか分からないが––––––に比べて
レィジは妙に気にかかっていた。
「どうしてあいつは俺の名前を………森を操る力………
思考が流れてくるままにつぶやきながら、レィジは短刀を握りしめ、仮想の敵を相手に鍛錬していた。
汗が飛び散るくらいに激しく動くレィジの挙動に合わせて、〈枯雪〉がひらりと舞っていく。
ブン––––––ッ!!
レィジが短刀を振り抜く度に、
「………ふぅ。短刀
ダーミルに師事していたのは主にフックでの戦い方。短刀の方は、基礎こそ教わりはすれ、本格的な鍛錬は自己流だった。
夜には、こうして外に出て剣の鍛錬をするのがレィジの日課になっていた。モーブルにその剣運びを見られた時には、お前らしいとからかわれたものだが、レィジはその理由はまだわかっていない。モーブルの言葉にヒルミィも同意していたのを見ると、どうやらレィジの剣運びは客観的に、レィジらしいようだ。
「シ––––––ッ!」
胸の位置から突きの一撃、腕が伸びきったところでぴったりと止まる。簡単そうに見えるが、その急停止を支えているのは確かな筋力に他ならない。並々の訓練では身につかないものだ。
「………?」
首筋から汗を垂らし、頰を上気させ肩を上下に揺らすレィジの背後で、積もった葉が靴に踏まれるパリパリとした音が流れてきた。
兄妹にもなると、歩き方一つで誰だか
「どうした、ヒルミィ?」
肩を回しながら鍛錬のあとの身体慣らしをするレィジが振り返ると、案の定ヒルミィだった。
ヒルミィ愛用のネグリジェを下に着ているのだろうが、夜の寒さのためにパントリーの防寒具を上に
「今日の分は終わり?」
「ああ。こう、もう少し鋭さに乗せた重さが欲しいんだよな」
短刀をぶんぶん振りながら口をすぼめる兄に妹は呆れたように、
「もう、ほどほどにしてね。あの時みたいに筋肉が切れた!なんて言われたら……………今回はほんと、怪我はできないんだよ?」
肩をすくめながら苦い顔で言うヒルミィに、申し訳なさそうに短刀をしまいながら、レィジは言い訳めいた口調でボソボソと呟く。
「いや、だかな。俺の剣の腕が高まるのは二人にとって力になるだろ?」
「それでも、身体が一番大事なの!」
もぉ、と頰を膨らませて怒る妹は、不思議と
悪い、気をつけるよと苦笑いしながら、ヒルミィに向き合ってそういえば、と。
「何か用事があってきたんじゃないのか?」
すると、再び頰を膨らませたヒルミィは、
「理由がなきゃ、ダメなの?」
うっ、と。妹にそう言われると兄としては弱い。
「いつもみたいにお兄ぃがこうして剣を振り回してる時に、私一人で寝るのもなんだから来てあげたんだよ」
高圧的に言ってはいるが、その物言いは、きっと寂しかったのだろう。
年頃、と言ってもヒルミィはまだ十二歳だ。旅先の一人の夜が物寂しくて当然である。特に、グラーヴェではあまり降らない〈枯雪〉が続き、精神的に疲れが溜まっているのだ。ヒルミィにとって一番近近い存在は兄であるレィジなのだ。心細い時、頼れるのはレィジだけ。
「………そうか。少し、歩こうか」
「うん………っ」
そういえば、こうして二人だけでゆっくりとした時間を過ごすのは久しぶりだな、とヒルミィは何となく考えてた。
二人は、レンジャーズになるための鍛錬で忙しく、いざ幻獣を倒した後も、レィジは寝込んでいたこともあり、ここ最近はこうして二人でゆっくり話す機会も少なかったのだ。
「なあ、ヒルミィは」
暗闇のジャガールを二人並んで歩く。それだけなのに、ヒルミィはなんとはなしにふわふわした気持ちになった。
そこで言葉を切ったレィジは、首をかしげるヒルミィを見ても、少しの間言葉を紡げずにいた––––––まるで、何かを言うのを
やがて言う決心がついたのか、一息おいてから、空を見上げる––––––木の向こうに広がっている空に、想いを
「ヒルミィは、この世界の森を抜けた先に何があると思う」
予想外の問い。一瞬何を聞かれているのか分からなかったヒルミィが、その意味を
––––––その答えは、既にグラーヴェを出る前に話しているし、レィジも情景に自信を持っていたはずだ。けれど、今のレィジは、何かを信じられなくなっているような感じがした。
「何って………前にも言った通りだよ。森の外の世界はとってもすてきだと思ってる」
「………ああ、知っている。俺も、あの絵本みたいな世界が本当にあると信じている」
レィジはヒルミィの答えを知っていた。分かっていた。
それでも、もう一度聞いたのは、きっとレィジ自身で何か話をするために、自分が間違っていないことを確認したかったからだ。
その答えを聞いたレィジは、震える声で呟いた。知っている、知っているんだ––––––そう、苦しそうに。
そのまま数分間、二人で歩いているだけだったが、ヒルミィがはじめに思っていたような少しの高揚感は消え去り、どことない気まずさが流れていた。
それを消すように、レィジは続ける。
「〈果ての塔〉、って知ってるか?」
それは、レィジが聞いたデルエルを襲った男たちの目的の場所。
「はての………?ううん、聞いたことないよ」
そして、その答えもレィジはある程度予想できた。きっと知らないのだろうと、レィジは分かっていた。
「今日の昼間、少し宿を開けただろ?」
––––––かいつまんで、広場であったことをヒルミィに話したレィジは、本題だが、と話す速度を遅める。
「その〈果ての塔〉については、モーブルは教えてくれなかったんだよ。そもそも、おかしいと思ったんだ。この世界の外側には、きっと素晴らしい世界が広がっている………なら、
「う………ぁ」
力強くまくし立てるレィジに気後れし、声ともつかない声を出すしか、ヒルミィにはできなかった。
「で、でも………もし何もないとか、この世界の先はまだ誰も見つけてないとかで、その果ての情報をそのデルエルさん?が握ってるんだとしたら………」
すがるようにおずおずと言うヒルミィを、だが、レィジは言いくるめることのできてしまう考えをもう持っていた。
「それでも、
ジャガールの夜は、どことなく他のシャトルよりも暗い気がした。松明の火で照らされているオレンジに染まった地面すら、いつも見るよりも数段色濃く見える。
「う、うん………でもあの時は」
その時、レィジとヒルミィに、いつかィージルと交わした何気ない会話が回顧された。
『ィージル、前から気になっていたんだ』
このころのレィジはまだ今のような
『おしえておとうさん!』
そのレィジの二歳年下のヒルミィは少女というより幼女に近い年頃で、そのことを聞いた日はレィジがダーミルに師事し始めてからまだ日の浅い頃だった。
『あれは………お前ら自身で知ることだよ』
その時のィージルは、今思い出してみれば何かを言うまいとしているようだった。レィジは、記憶が蘇れば蘇れば蘇れるほど、どこか引っかかるそのィージルの態度に、考えたくもない
「そうだ、ィージルは、
レィジがそこまで語ると、ヒルミィもレィジが何を言わんとしているのかだいたい察しがついてきたようで、聞きたくないと首を振っていた。
だが、それはレィジたちがレンジャーズを続ける以上––––––憧れに生きる以上––––––ついて離れないことだから。
「この世界の終わりに、俺たちが思っているような、夢見ているような世界があるんだろうか」
う、と息を漏らしたヒルミィにこれを言うべきか言うまいか、鍛錬の時にもずっと頭を巡っていた。けれど、いずれは真実にたどり着くのだ。もしレィジの仮定が正しいのだとしても、間違っているのが一番望ましい結果だが、レィジたちはレンジャーズとして生きることを決めたのだから受け入れなければならない。
その真実が是であれ非であれ、予期しているかいないかでは、直面したあとの考え方に大きく差が生まれる。
だから、伝えることにしたのだ。
「この世界に––––––続きはあるんだろうか?」
ジャガールの中に人が全くいない訳ではないし、まだ人が
レィジはヒルミィの反応を見てから早慶だったか、と後悔すら覚え………暗闇で光る淡い松明の光に足元を照らされたヒルミィは歩みを止め、そのままずっと、時間を忘れるくらいずっと、森の天井を見上げるしかできなかった––––––。