前回から間が空いてしまいました。
投稿の期間を保つのが一番いいと思うのですが、どうしても都合が合わなくなってしまいました。これからは投稿のペースは大幅に落ちてしまうのですが、この物語は最後まで書き上げます!
次にもう一度、これまでのような投稿速度に戻るまでには少しお時間をいただきますが、これからもよりよい話を書けるように努力していきます!
「ヒルミィ––––––ッ!!!!」
ヒルミィの姿を目で追いながら、私は一瞬が永遠に拡張していくのを感じた。
比喩などではなく、私以外の世界
「え………?」
私の声が森にずっと反響しているみたいに耳の奥でぐわんぐわんと回っている。どうかしてしまったのだろうか、おかしくなったのか、それともこれは〈擬森獣〉のせいなのか。
私には、この時の私には、何が起こっているのか理解することはできなかった。
そのまま
ふわふわしている。
今私は上を向いているのか下を向いているのか、右か左か。いや、それはささいな問題というものだろう。
遠くの方で間延びする光が見えているだけのこの闇の中で、私は自分でも心当たりがないものに
『––––––』
どこかから声がする。
『––––––』
声はやがて、枯れていった。鉄の味が
意識だけになって暗闇を漂う私の、脳裏というのも不自然だが、無意識の部分で、ある光景が閃いた。
真昼の空の下。木で組まれた斬首台の上で首をたれて、そこに集まった人々を見つめる瞳。隣で
その時感じた絶望。いや、絶望というのは違ったはずだ。もっと何か、失望めいた気色を多く
やがて男が叫んだ。神の裁きを忌まわしき異教徒に、と。
ぼうっとした頭では、意識し、理解するだけの時間もなく。
そこでその光景は途切れる。
たったそれだけの抽象的な映像だったのに、私の、元の場所に置いてきた身体は震えていた。
『………か?』
「––––––?」
私は私を抱きしめるように腕を掻き抱き、恐怖からひたすらに目をそらす。
けれど、ここに来たときから聞こえていたその声は、その怠慢を許さなかった。
『思い出したか?ミルキィ』
「あ………」
つう、と頰に伝うものを感じる。
声が何を言っているのかが分かるようになると、
ああ、どうして忘れていたのだろう。こんな大事なことを、どうして。
「
そう言うと、声は苦笑いした。いや、姿が見えていないから本当に苦笑しているかは分からなかったけれど、私には、いつか見たその人の顔で肩をすくめているのが分かった。
『久しぶりだな、ヒルミィ。でも俺は、レィジではない。君の心の中に俺がいる以上、君の知るレィジではなく………思い出した君なら、もう言わなくても分かるはずだがな』
的を得ない声の物言いに、私ははっきりと頷くことができた。
「ねぇ、私––––––どうしたらいいの」
するとすぐには答えてくれなかったが、私のよく知る優しい声は、やっぱり、答えをくれるのだ。
『ミルキィの好きなようにやればいい。あの中で大切なものを見つけたのなら、それを守るだけの力が君にはある。君は罪を犯したわけじゃない。この世界が、君を、我らが神を、拒絶していただけなんだ。だから君はあの中で、君が為すべき事をきっと見つける』
さあ、行っておいで。
声は、
「………ねぇ、レィジさん」
最後に一つだけけ聞いていい?
私も声には出さなかったが彼に伝わっているはずだと、信じて聞くと、声は首を傾げてくれた。
「私に、それをするだけの資格があるのかな」
『君は、やらなければならないんだ。これは俺の勝手な意思で、神の意思には背くことだけど。でも君には、それをするだけの力と、勇気がある。だから君は、やらなければならない………でも一人じゃないだろう?だからきっと為せるさ』
それだけ言うと、声は、もう時間切れだと、私の背中を暗闇の中の一点の光へと押してくれた。
別れの挨拶はせずとも、きっとまたいつか会えると分かっていた。私はされるがままに光の方へ進んでいく。
ああ、でも。
私があの中に戻ったとき、私は、彼と彼女に話せるだろうか。
––––––偽りのこの世界の真実を。
静観さは森を支配し、
「………っはぁ!?」
そんな中で、ミルキィは、一瞬の貧血から目を覚ましたかのような
「ヒルミィっ!?大丈––––––っ!?」
結論から言えば、ヒルミィは無事だった。
まるで昼寝でもしているみたいに森の地面に横たわる彼女の背中に手を回すと、不思議なくらい暖かかった。微睡みに溺れた暖かさ。抱きかかえてもはっきりと無事が分かる。何の問題なく、鼓動も安定している。
幻獣は?咆哮は?レィジは?
一息に舞い込んできた情報量に戸惑い、ヒルミィを抱きかかえながら辺りを見回してみると、右奥の林からモーブルが歩いてくるのが見えた。その手には土煙に汚れ、首元を血で濡らしたレィジが抱えられている。
「モーブルさん、レィジさんは………!?」
「––––––ひどい怪我だが、命には問題はない。ヒルミィも大丈夫そうか?そしたら、荷台に戻れ」
簡潔にそれだけ言うと、幻獣が消えたことには一点も触れずに、馬車へと歩いていく。しばらく動けないでいたミルキィも、モーブルが隣に来て、馬車へと催促すると、何はともあれと動かずにはいられない。
「あっ、あの………幻獣は、どうしたんですか?」
荷台にヒルミィとレィジを下ろし、麻袋の間の柔らかい部分を枕にして寝かせてやってからヒルミィはモーブルにそう聞いてみた––––––のだが、モーブルは目を見開いてミルキィを振り返ると、心底意外そうに呟くのだ。
「覚えていないのか?」
「えっ………と。はい。何が起こったのか分からなくて」
「––––––早く荷台に乗れ。少し揺れるから、レィジを抱えておいてやれ」
早口にまくし立てるモーブルは、なんだかいつもと様子が異なり、いっそう何が起こったのか不可解に思うミルキィ。彼女も、レィジを抱えるという命を授かり、一旦はそのことを置いておき、おっかなびっくりと土煙に汚れた身体を掬い上げる。
(見た目よりも、ゴツゴツしてる………男の子なんだな、レィジさん。でも、あんなに激しく飛ばされたのに、
レィジの身体がいかに丈夫といえど、あの速度で飛ばされれば、無傷では済まないはずだ。それを、レィジは骨の一つも折らずにこうして帰って来た。そのことに喜んでいいものか、不自然がったほうがいいものか判別つかないでいると、車輪が木の根で盛り上がった地面を乗り越え、大きく荷台が揺れた。
「きゃっ」
「すまない、揺れると声をかけておけばよかったな」
「いっ、いえ、大丈夫です!」
今まで来た道を戻るモーブルの馬車の上で、会話の生まれない気まずさが自然に
「本当に、覚えていないか?あの時、ミルキィ、お前が何をしたのか。お前のしたことで、いったい何が起こったのか」
「えっ………私が、幻獣を?」
モーブルが言っていることをそのままに解釈すれば。つまり、ミルキィが〈擬森獣〉を消した直接の原因ということになる。ミルキィは、それが信じられなかった訳ではない。ただ、
「お前がヒルミィの名前を叫んだ後だ。幻獣は、まるで砂の山が崩れていくみたいにきらきら光る粒子になって消えていったんだよ。ヒルミィは幻獣が消えたあと倒れて、お前はしばらくほうっとしてたってワケだ」
どうも信じられないがな、と最後に続けて、モーブルは御者台越しに嘆息する。
その溜息をどう取ったか、ミルキィはそれきり何も言い出せなくなってしまった。
考えることはいくつもある。ミルキィがあの暗闇から帰って来たことで、思い出したことがあるのだ。それが、この幻獣の消滅に関係していると、ミルキィだけが分かっていた。
「勘違いしているようだがな」
それだけ言ったモーブルが、どう言おうか考えあぐねているうちに、ミルキィは意外さに呆気を取られていた。
モーブルは、ミルキィが幻獣を消した––––––と考えるのが一番自然というだけだが––––––のを目撃した。それなのに、ミルキィを恐れるどころか、むしろその逆。
「忘れたか?俺は覚えてるぞ。お前が、どうして俺の元へ来たのか」
「………!」
馬の
「確かに、アレが本当にお前のやったことなら驚きはするが、それにいちいち動揺してちゃあ商人は務まらないってモンだ。忘れちゃならねぇのは、アレがお前の一部なんだとしたら………ミルキィ、お前はお前の知らない自分を、見つけられたってことじゃねぇのか?」
モーブルが話す声と、車輪が道を行く音、レィジとヒルミィの息遣い。散漫する音への感覚とは裏腹に、ミルキィの意識はモーブルの声に縫い付けられていた。
「だったら、恐れることはない。自分を知るのは勇気がいることだが、その先にお前の求めた生きる理由ってヤツがあるんだ」
「………モーブルさん」
言い返す言葉も見つからず、そっぽを向いて名前だけで返答すると、いつもみたいな
「ありがとうございます、モーブルさん」
それに対するモーブルの返答は、少し上ずった鼻息だけだった。
––––––馬車は、幻獣との戦闘があった場所から速やかに離れると、元来た道を戻っていく。
「どうしてジュストから離れていくんですか?」
話してなかったか?と素で聞き返す声に荷台越しで肯定する。
「〈擬森獣〉は〈統森営〉が手をこまねく幻獣だ。あの騒ぎを聞いてジュストから様子見の兵がやってきてもおかしくない。そこで、幻獣が現れた方向から行商人の馬車が悠々と走ってきたら………わかるな?」
「疑われて………理由を聞かれても、アレは見ていないと分からない、ってことですね」
独り言のように呟いたミルキィに首を縦に振ってから、モーブルは手綱を弾いた。
「面倒ごとを避けるのも商人の知恵って訳だ。遠回りする事になる、予定していた時間よりも数時間ズレるだろうが………旅にトラブルは付き物だからな」
もう一月と整えていないのか、伸びてボサボサになったレィジの髪を手で
(もし、私がレィジさんと会ったことがあるのは事実だっ、て言ってら………レィジさんはどう思うんだろう。だって、レィジさんが会ったっていう私、らしいって人についてはまだ思い出せないままなんだもん)
ハの字に曲がった眉が、手づかみで見上げる空には、ただ、森に遮られた曇天があるだけだった。
(こんなに曇っていたっけ)
いつしかミルキィは、馬車が動くにつれて移り変わっていく森の景色に翻弄され、頭の中を支配されていた。何とは無しに、レィジの髪を撫でながら、荷台の外を見つめているうちに、何かが変わらないものだろうか、と。
花畑で会った少年も、自分がどこから来たのかも、自分に何が為せるのかも。
全て知ってしまってから、知らなければよかったと思う。
『自分を知るのは勇気がいることだ』
そんなモーブルの言葉が揺らす硬貨に催眠術にかけられたみたいに、身体は船を漕いでいき––––––。
––––––。
「おい、起きろミルキィ」
「はっ!?」
いつのまにか寝ていたらしいミルキィは、口の端から
「あたた………」
首がぐわん!と激しく前後し、
「やっと起きたか………レィジもヒルミィも見たがっていたが、このまま二人を待ってる訳にもいかないからな。ミルキィ、お前が伝えてやれ」
「………?」
ほら、見ろと御者台から指を指すモーブルに従って、レィジを膝の上に乗せながら首を荷台の脇からのぞかせる。
「わああ………!!」
ミルキィが見たのは、ジュストがそう言われている
その様は、〈統森営〉が
緩やかな坂の先には、目が霞むほど巨大な一本の木。その木は天高く伸び、まさに、天蓋を貫くが如し 。ただ大きいだけでなく、その木の周りには、巨大な穴が空いているのだ。そこで気がつくのが、
「………!!!」
首だけ出して見ていたのが、いつからから身を乗り出して夢中になる––––––ジュストを見るミルキィの後ろで、支えを失ったレィジの身体が麻袋の間に倒れるのも忘れて。
「ジュストは、あの大樹を中心に、大穴の底に広がるオアシスシャトルだ。大樹の中をくり抜いて、いくつもの施設を作っている。下は主に居住区ってところだな。俺たちの商会もそこにある。林冠である大樹の梢が大穴に蓋をしている。その蓋の隙間から………見えるか?空だ」
「だっ、大樹って!大樹って………どのくらいの大きさなんですか!?」
「そうだな………実際にジュストに入りゃ、分かりやすいんじゃないか?」
「オアシス、シャトル………」
呟きには裏腹に、彼女の心は、晴れてくれなかった。
「ん………」
レィジの寝息が霞んだのを聞いて、その隣で木組みの椅子に座っていたミルキィが跳ね起きた。
「レィジさん!?目覚めたんですかっ」
「うむっ!?」
感情のままにレィジに抱きついたミルキィ。そのミルキィの、決して小さいとは言いがたく、むしろほどほどの大きさにして心地よい柔らかさの二つの丘に顔を包まれたレィジは、目覚めの微睡みを投げ捨て、むごむごと
「ぐもむっ!?」
ミルキィ!?
––––––と言っているのだろう。
「レィジさん、良かった………って、ええ!?」
レィジがどこかへ行ってしまわぬように掻き抱いていたミルキィは、遅まきながらその状況に気づく。同時に、レィジの吐く息で蒸れてほんわりと暖かくなった––––––どことは言わないが––––––
「ひゃあっ!?」
「ごッ」
頰を朱色に染めて、胸を押さえながらレィジをベッドに突き放したミルキィは、恨むようにレィジを横目で見ながら身体を捻っている。
「………変態」
「えっ、冤罪だろ………」
寝起きからずいぶんな扱いを受けげんなりと抗議するレィジに、乙女心のまま飛び跳ねたミルキィが何度も謝ったのは言うに及ばず。
落ち着いたところで、倒れていた木組みの椅子をレィジのベッドに付けて、こほん、と咳払いをする。
「レィジさん、良かったです」
「………あ、ああ。ありがとう」
そこからやり直すのか、と思わなかった訳ではないが、乙女としてはアレを無かったことにしなければならないのだ。逆に少年としては無かったことにはできないのだが。
「それでですね、レィジさん––––––」
上半身を起こしてミルキィと向き合うレィジに、掻い摘んで今までのことを語った。
幻獣のことは伏せておきたかったが、言わなければ先にも進まず、ミルキィ自身が消してしまった––––––のではないかという疑惑––––––ことは省きながら
そうして、ジュストに入り、レィジとヒルミィをここに寝かせたところまで話し終えると、レィジはしばらくの間俯いてしまった。
「………少し、外の空気を浴びてくる」
起き上がりながら言ったレィジのふらつく身体を支えながら、「ダメですよ、まだ目覚めたばかりなんですから………私も一緒に行きます」
レィジの方が頭一つ分大きい身長に、肩の下から腕を回し、身体を支える。ミルキィは必死にレィジを支えているのだが、完全に密着しているため、少年にはなかなか刺激が強かった。
「みっ、ミルキィ。支えてくれるのはありがたいんだが、近くないか」
「何を言ってるんですか?こうしないと支えられないですよ。ほら、行きますよ」
「あ、ああ………」
半ば強引に押し込められ、二人はたどたどしい足取りで外へ出て行く。
三人がいたのは、モーブルが用意したジュストでの宿だった。ジュストに商会を持つ彼は、その商会の一室を三人の宿にあてがったのだ。商会と言ってもモーブルを含め三人だけのごく小さな商会。商会の建物自体はジャガールでレィジたちが泊まった宿くらいなもので、質素な造りだった。
「気をつけてくださいね、そこに段差がありますから………よっ、と」
「………ここが、ジュストなんだよな?」
「はい、そうですけど………」
「大樹とやらはどこなんだ?」
宿があるのは、ジュストの大穴、その壁沿いだった。ジュストに入るにはミルキィが見た橋を渡るか、その橋の横にある、穴の壁の部分を削って螺旋状の坂にした下の道を行くかのふた通りの方法がある。
「ふふ………レィジさん、あれを見てくださいっ」
肩を組みながらさらに身体を寄せて遠くを指差すミルキィから出来る限り身体を離して、言われた通りの方向に視線を投げる。
「………!!」
「ねっ、すごいでしょ!?」
年頃の少女相応にはしゃぐミルキィの指差した場所にあったもの。それこそが、天を貫く大樹。この街の異名そのものだった。ミルキィがジュストに入る前に見た時は、巨大な穴から悠然と生え出る一本の巨木だったのが、こうして穴の底のオアシスシャトルジュスト内部から見上げるとまた違った印象を受ける。
「………こいつぁ、勘違いするヤツがいてもおかしくないな」
「………?」
レィジのつぶやきは、至近距離のミルキィにも聞こえないくらい、口の中で終始したものだった。けれど、それだけ大樹には森の神を信じていないレィジをしてそう言わせる、威圧感や被支配感、圧倒的な存在感があった。
大樹を見上げながら、二人してどこへ行くともなく街が見える方へ––––––大樹がある方へ––––––近づくほどに、分かってくる。木というよりも壁に近い、いやむしろ壁なのではないかと思わせる大樹。遠くにあるはずなのに、目の前に立ちはだかっているかのような存在感を覚える。それほど近くに寄ってもいないのに、ゴツゴツとした木の肌がはっきりと分かった。それを追いかけながら、目が霞み、首が痛くなるくらい途方も無い高さの大樹を見上げると、それまで正面の大樹しか見ていなかったレィジに
「空だ………ミルキィ、空だ」
「はい、でもジャガールでも隙間から少し見えていましたよ?」
「いや、お前は分かっていない………アレを、俺たちが今まで見ていたモノを、空というのなら、俺たちは鳥籠の中に囚われていた事を認めなければならない」
「………?」
空だ、と言ったレィジの、乾いた瞳が見つめる先にあるもの。森の上に永遠に広がる青の天蓋を、大穴の部分だけぽっかりと森が途切れている事で、見ることができるもの––––––つまり、空である。大樹ありしと言えど、大穴全てに蓋をできるほどはなく、大穴の真上の天蓋はちょうど、リングのようになっている。それゆえに、大樹から離れるほどに、空ははっきりと見えるのだ。
目がジンジンと痛むくらい明るく蒼い、初めて見る空の模様。
「………俺は、そのために生きてきたんだ」
「空だ」と。「ただの空だ」と捉えたミルキィが小さくなるほどに愕然と空を見上げ続けるレィジを前に、彼女は一言も発することができなかった。
そうしてしばらく、せりあがる壁と
––––––やがて、数分が経ったかというころに時間は動き出す。
「ミルキィ、ありがとう。………ヒルミィのところに戻ろう」
「んっしょっ………はい、分かりました!」
「………っ」
ずっと立ち止まっていた事もあり、歩き出すには支えが甘くなっていたのを、控えめな掛け声で直す。そんな
頰が熱くなるのから顔を背けながら、憧れに再会した彼は、ミルキィの横顔を盗み見る。
「さ、早く戻りましょう。ヒルミィが待ってます!」
目に届きそうな真白の前髪、下がった目尻、薄赤くなった頰、楽しそうな口元、陶器みたいな肌。
–––––その彼女から語られた、幻獣の喪失。
(そんな芸当ができる人間を、俺は一人しか知らない)
「えへへ」と何が楽しいのか吐息を漏らすレィジのよく知る表情。その奥に、あの時見た死人のような感情が渦巻いているのだろうか。
『見つけた』
「うっ………」
「どうしました?」
「だっ、大丈夫。むせただけだ………ん、んっ」
「じゃあ、戻ったら水でも飲みましょう」
血塗れの少女がレィジに言ったその一言が脳裏で閃き、それが引き連れてくるみたいに嘔吐感が反り上がってくる。ミルキィに支えてもらっている今、吐き出すわけにもいかず、何とか誤魔化しきる。
(ミルキィは………)
こうして、いつか見たみたいな華のような笑顔の少女は。
(本当に、あの血濡れの少女なんだろうか)
歩きながら何度かレィジを支え直していくミルキィと、身体がぴったりとくっついているはずだが、思考の波に足を取られた彼の頰は冷たくなっていた。堂々巡りをする一つの問いに答えを与えるかに見えた出来事を、この目で確かめる事は叶わなかったが。忘れかけていた憧れを、こうして取り戻す事ができたのを頼りに、宿の扉のところにある段差をゆっくり
「あ、君たちがレィジくんと………ヒルミィちゃん?どこに行ってたのかと思えば外に出てたのね」
宿の扉を開けると、突然そう言われて、現実に引き戻されたレィジと、焦ってレィジの肩を落としそうになるミルキィに話しかけたのは、一人の女性。紺色の長髪に、透き通った水の色をした瞳、長身でスタイルのいいその女性は、ヒルミィのベッドに椅子をつけて
「えっと………私、ミルキィです」
「ほんとう!?ゴメンねっ、ミルキィちゃん………!モーブルったら君たちの名前と護衛さんって事だけ言って自分はちゃっちゃとどっか行っちゃうんだもん」
未だ話の掴めない二人は、宿に入ってすぐ、扉のすぐ前でじっと立っている事しかできず。それを見て、分け隔てない軽やかな笑みを浮かべ、女性は立ち上がる。
「………驚かせちゃったよね。私は、モーブルから聞いてると思うけど、この商会のメンバーの一人。アンナ・フレイヤよ。よろしくね、レィジくん、ミルキィちゃん。私のことは、お姉さんっ、て呼んでもいいのよ?」
ふふっ、と勝気に髪をかきあげるアンナを前に、
「ほら、ミルキィちゃんも座って、レィジくんはもう少し寝ててね」
大人の抱擁力と言うのか、二人に駆け寄ったアンナは、後ろからズイズイと押してレィジをベッドに寝かせ、ミルキィを自分が座っていた椅子に座らせる。そうして自分は三人に向かい合うと、今までの砕けた調子から一変し、ピリッとした雰囲気を
「
じゃあ、またあとでね。
悪戯めかして笑ったアンナは、腰を少し曲げて
「………」
「………」
まさしく嵐のような女性だった、アンナとの邂逅によって二人に気まずい沈黙が流れる。モーブルからは、彼が商会を持っていることは聞いていたが、その構成員までは聞いていなかった。ジュストに来たばかりだというのに––––––あんなことがあったばかりだというのに––––––いきなり、住む世界が変わってしまったような感覚であることだろう。
ベッドの上で手探りに何かを探すレィジに、話しかけようか話しかけまいか迷っているうちに、レィジの方から焦燥が伝わった。
「ミルキィ、〈森の羅針盤〉はどこだ?どこにある」
「〈森の羅針盤〉ですか?それなら、レィジさんのフックとヒルミィの本と杖と一緒に、向こうの
指をさしながらそう言うミルキィは、気まずさからかあるいは他のところからか、そわそわしているように見えた。不思議に思いつつも、〈森の羅針盤〉がある事が分かったレィジは、一度ベッドから降りかけて––––––やめた。
「あー、っと………〈森の羅針盤〉を取ってくれないか?」
「………?はい、もちろん大丈夫ですよ」
小首を傾げながらも、快く
「なあ、ミルキィ。モーブルからアンナの話は聞いていたか?俺とヒルミィが倒れている間に」
気まずい空気がちょうど晴れたと、レィジはアンナについて言及した。そこでミルキィは、そのための羅針盤だったのだろうと納得する。
「いえ、聞いていませんでした。あれで、適当なところがありますからね、モーブルさん………。私もてっきり、私が合流する前にレィジさんたちが聞いていたのかと思ってました」
「そうか………ったく、あいつは」
二人して苦笑すると、固かった空気も砕け、柔らかくなる。
「よっ、と………でもあれですよね。アンナさん、かっこよかったなぁ」
〈森の羅針盤〉を手にしたミルキィが、アンナがしたみたいにくるっ、とターンする。
「………
口をすぼめて声を似せ––––––たつもりで––––––髪を払ったミルキィに、思わず吹き出してしまった。
「お前、それでアンナのつもりか………全然似てないな」
「嘘っ!?すごい似てると思ったのに………!これで私もかっこい女性になれると思ったのにっ」
むうう………と口を尖らせたミルキィが渡す〈森の羅針盤〉を受け取りながら、「そういう冷静さってのは、心から滲み出てくるもんなんだよ」
「まるで知ってるような口調ですね?私ヒルミィから聞きましたよ?………レィジさん、お化けが怖いって!」
水を得た魚のようにニヤニヤしながらレィジを小突くミルキィに、「うっ」と眉をハの字に曲げる。
「いや、だからそこまでいったらもはや魔物であってだな………」
「心から滲み出てくる………なんでしたっけ?」
「くっ………〈森の羅針盤〉!ありがとうな」
小言を言い合った二人は、いつしか、つい先ほどまでの気まずい空気も忘れていた。会話もひとしお終わると、レィジは羅針盤を片手に身体を起こし、ベッドから立ち上がろうとする。
「あっ、支えますよレィジさん」
「いや、大丈夫だ。今度は、大丈夫なんだ」
「でも………」
言いながら、ミルキィは、ふらつく足で立ち上がる彼を見つめていた。まるで、そうしなければならない何かの事情があるみたいに、身体に鞭打つ彼の姿を。
立ち上がったレィジは、ベッドに手をつきながら、隣で寝息を立てるヒルミィの方に身体を向けた。ゆっくりとした足取りで向かう彼は、〈森の羅針盤〉を枕元に置いてやりながら、語りかけるように口を開いた。
「ヒルミィ––––––やっとここまで来たぞ。ここから始まるんだ。俺たちの旅は、ここから」
いつしか忘れていた憧れ。
それを取り戻したレィジが、ヒルミィへ羅針盤を手渡す。
それはまるで、あの時のことを謝っているみたいだった。レィジが憧れを疑った、あの時のことを。
「––––––レィジさん」
だから、ミルキィも言わねばならない。
「あの、えっと………その」
「どうした、ミルキィ?」
だからミルキィも、今ここで、レィジに言わなければならないのだ。
けれど、いざレィジに面と向き合ってその言葉を口にしようとすると、心が揺らいでしまう。心の中では形にしていたその言葉を、ミルキィは口の中で失いかけてしまう。
(こ、こんど言えば………)
「やっ、やっぱり今度でいいで––––––」
「今言った方が楽だと思うぞ?何か、言いたいことがあったんだろう?」
「………っ!」
全て見透かされていたような気がしたけれど、レィジの穏やかな表情も一緒だとそれもそんなに悪い気はしなかった。
––––––だから。
––––––だから私は、今ここにいる。
すうっ、と息を吸って。ゆっくり息を吸って。私はレィジさんの瞳を覗く。懐かしいその瞳を。
「レィジさん。………ヒルミィが起きたら、二人に大事な話があります」