相も変わらず会場は駒が置かれる音のみが鳴り響き静かな闘争は続いていく。その中には様々な策略があり葛藤があり苦悩あり絶望がある。人それぞれに醸し出すその場はある意味異界かもしれない。普通の世界にはない異様な緊張感、それがこの空間を支配していた。
そしてその空間に支配されている中で指し合うこの二人もまた、様々な感情を出している。
八一のもう一人の弟子である夜叉神 天衣は若干の苛立ちを滲ませつつ対局相手である鹿路庭 珠代を睨み付け、珠代はいつもと変わらないようで若干不敵な笑みを浮かべたままである。
「随分と臆病なのね。全然攻めてこないじゃない」
天衣はそう言いながら駒を指す。対局が始まって序盤、互いに自陣を固めつつ相手の攻めに対して迎撃準備を整える段階。彼女は自分がもっとも得意とする戦法を取った。
プロの対局と違いこのマイナビはトーナメント戦である。故に対戦相手の情報はあまり入らない。だからこそ、対局に当たっては自分の得意とする戦い方で指すのが一番通用する手である。
それに彼女は自分の戦術にかなりの自信を持っていた。彼女の父がアマチュアでありながらプロとまったく引けを取らないほどの強さを誇ったのはその戦術があったからである。それを受け継ぎ父の強さを証明しようというのが彼女の決意であり、それは師匠である八一の理解もあってより洗練されたものへとなっている。
故に師である八一をもってして『受け将棋の天才』と言われている彼女はまず負ける気などしなかった。
それがこれまでの対局では当然であり、自分を窮地に追いやる相手などいなかった。だが、今回ばかりはそうではない。何故なら今までに無い展開になっているからだ。
受け将棋とは文字通り相手の攻めを受けそれを裁き、その隙を突いて相手を攻撃する謂わばカウンターを得意とする戦法である。まずは相手の出方を見て、それに対応する迎撃を準備、そして思惑通りの攻撃が来た途端に迎撃し、その空いた場所から攻め入るものだ。将棋のルールの最大目標が相手の王を仕留めることである以上少しばかり回り道をしているように思えるが、それ故に厄介。この戦術をとる相手はそう多くない。何せ時間に追われる棋士達ではあまり好まれる戦術ではないからだ。
だから相手からしたら焦る。自分が攻めていると思ったら逆襲されて一気に雪崩れ込まれるのだから。
だが今回の相手に限ってはそうならない。序盤はいつも通りだった。なのに中盤になっても相手が攻めてこないのだ。流石の彼女もこれには苛立ちを覚えずにはいられない。まるで此方を小馬鹿にしているかのように戦局に変化を起こさないのだ。
まだ相手の出方を伺っているというなら良い。だがそれは駒の動かし方でわかるのだ。これはそういうものではない。まるで此方を煽るかのように、わざと攻め入らない。それが分ってしまうから天衣は苛立ちを隠せないのである。
天衣にそう言われた珠代はと言えば、まったくその表情は変わらなかった。綺麗と可愛いを併せ持った笑みを浮かべながら朗らかに答える。
「まだ余裕だからね。もう少しかけてもいいかな」
その言葉に天衣は内心かなり怒りを燃やした。まったく動じない余裕を見せられ、そして明らかに格下に見られている。それが更に彼女を怒らせた。それもお嬢様らしい品性をぶっ壊す程に。
「おばさん、もしかして嘗めてるの?」
青筋を浮かべつつある天衣に対し、珠代は変わらず不敵に微笑んでみせる。まるで分っていますという母性的なものを感じさせた。
「別に嘗めて何てないですよ。寧ろこの程度で怒っちゃうなんて、お子様ですね」
ビキリっと何かが罅は入る音がしたような気がした。それは隣で対局している人達も感じたらしい。天衣の顔を見た途端に顔を真っ青にして急いで逸らした。
それほどの怒気を蒔き散らす天衣はより駒を動かすことが雑になる。
(そこまで馬鹿にしてるとはね………上等よ、ぶっ潰してあげるわ!)
そして彼女にしては珍しく攻勢に出る。受けの姿勢を崩さない程度だが戦力を攻撃に向けた。
それを見た珠代は変わらずに微笑む。こんな怒気に溢れた空間で微笑んでいるというのはそれだけで異常にしか見えない。だが彼女にとってこんなものは『ぬるま湯』であった。
「自分を見てくれないからって癇癪を起こすだけじゃ駄目ですよ」
そして珠代は駒を動かす。それは攻めるのではなく守りにはいるような動き。端から見たら天衣の攻めに対して防御を固めているように見えるだろう。だが天衣にはそのように感じなかったらしい。その発言の割に攻める姿勢を見せない。更に防御を固める姿勢がやる気が無いように感じられた。要は相手にされていないと思ったのだろう。更に憤怒する天衣。駒を握り潰さんと戦ばかりに力を入れて掴む。
「そういう自分はどうなのよ。此方にまったく仕掛けてこないじゃない」
そこで珠代はふふっと笑う。そして天衣の堪忍袋の緒を引きちぎった。
「だって今仕掛けたら可哀想じゃないですか」
これにはもう駄目だった。それまで働いていた僅かな冷静な部分が全部吹っ飛んでしまった。挑発なのは分りきっている。相手が自分と同じくらい強いのかも大体は把握したつもりだ。だがそれでも…………我慢できる程天衣の精神は成熟していなかった。
もう言葉を発する事は無い。ただ駒を盤に叩き付けるように指す。その動きは彼女本来の戦術とは違いどちらかと言えば師匠である八一や姉弟子である雛鶴 あいのような攻めに近いだろう。怒りの炎は全てを燃やすかの如く、烈火の勢いを持って相手の陣地を攻めていく。
その過剰なまでの攻撃に対し珠代はクスクスと笑う。まるで子供のように無邪気であり、正直見惚れる程に可愛らしい笑みを浮かべる。
「躍起になって可愛いですね。それはそれでいいですけど、そんなんじゃ駄目ですよ」
そう答えながら彼女もまた駒を指す。そして怒りで顔が真っ赤から真っ白に変わりつつある天衣に語り始めた。
「貴女のことはそれなりに知っています。九頭竜先生の二番弟子、その才能は一番弟子である雛鶴 あいさんに勝るとも劣らない程のもので、正直天才としか言い様がありません」
素直な賛辞。それは彼女の本音である。彼女から見ても目の前の少女は天才だと断言できる。自分よりも圧倒的に才能に優れているだろう。普通に考えれば自分の方が圧倒的に不利だとも。
だが………彼女はそんな程度では退かない。彼女が目指すのは最愛の人の隣。そこはこの世界でも有数の危険地帯。将棋という戦争に狂った人の隣であり、神に匹敵する狂人の隣。彼と並び立つには強くなるしかない。そこには確かに才能が必要だろう。きっと彼と出会わなければその才能とやらを恨んでいたかも知れない。だからこそ、彼女はこう言えるのだ。彼と出会ったからこそ学んだ当たり前で大切なことを。
「でも強くなるのに才能だけが大切な訳じゃないんです。大切なのは………」
珠代はそこで一息入れると駒を動かした。
「将棋が大好きかってことです。大好きだからこそ頑張れる、ただそれだけでいいんです」
そう語るのは将棋が好きなただの女性………。
「そしてそれを大好きなせんぱいと一緒にできる。それが一番大切で、そしてせんぱいに褒めてもらえたらそれはもう最高で………えへへへへ」
失礼、将棋が好きでそれ以上に恋する乙女でした。
珠代は幸せそうに笑いつつも駒を進めていく。そこでやっと天衣は気付いた。
「ッ!? いつの間に!」
自分が攻めていたはずなのに、角が一気に自陣に切り込んできたのだ。しかもそこは自分が攻めるために駒を差し向けたために防御が手薄になっているところであった。
いつの間にこんな展開になっていたのか、天衣は必死に考え始める。そんな彼女に珠代は不敵に微笑んだ。
「恋する女の子は強いんです。相手の事をいつも考えるから自然と相手が考えることも分ってきます。それは観察眼が鍛えられるということ」
「どういうことよ」
「それはやがて相手の考えを察することに近づいていきます。今だと貴女の焦りとか、ですかね」
その言葉に天衣はゾクリと背筋が凍り付くような恐怖を感じた。
「そ、そんなの」
「まぁ、そう思いますよね。私だって全部は無理ですよ。でも単純なことなら分ります。貴女の戦術が受け将棋………カウンターだってことは調べればすぐ分りましたしね。棋譜見させてもらいましたよ」
朗らかに笑う珠代に天衣は怖い顔で睨む。だがその顔は恐怖を押し込めるのに精一杯のようだ。
「そしてカウンターなら待ち受けている場所さえ注意していれば反撃は受けない。どこで迎撃するのか貴女の考えを予想すれば大方見当はつきます。なら後はそうならないようにすれば良いだけです」
その後は見ての通り、痺れを切らした天衣が攻勢にしかけ、その揺らぎを付いて珠代が逆にカウンターを決めたわけである。
「ボクシングでカウンターの対処法は決まってるんです。相手に打たせないようにするか、もしくは打たせるように誘って逆にカウンターで迎え撃つか。受け将棋でもそれはかわりませんよ」
ここで珠代の頬に朱がさした。照れているようにも見える。
「相手に振り向いてもらいたいなら攻めるのは当然ですが、此方からも誘わないといけません。そのバランスが大切なんです。受けてばかりじゃ呆れられてしまいますからね」
対局は終盤になり、珠代は最後の一手を決める。
「だから言ったんですよ。恋する乙女は強いんです。王手!」
可愛らしい声で王手を決める珠代は嬉しそうに笑い、負けた天衣は悔し泣きしかけつつ珠代を睨み付けていた。
「次は絶対に負けないから」
「だったらもっと女の子を磨いてきて下さい。恋は女の子を輝かせてくれますから」
こうして珠代と天衣の対局は珠代の勝利で終わった。
「な、言っただろ。アイツはこっちの考えを読んできて迎撃して来るんだよ。それも棋譜を読んでの戦略的なもんじゃなくて、相手の表情、仕草、目の動きとかでな。あの受け将棋の女の子の考えを読んだ上で受けを無効化し、逆に攻めさせてカウンターを決め込むとか鬼か。まぁ、確かに有効な手ではあるが」
モニターにてその対局を見ていた晴明が八一にそう語ると、彼は色々と考えさせられるようで腕を組んで考えていた。
「滅茶苦茶恐ろしくないですか、それ。ちなみに戦部二冠ならこの対局をどう指します?」
「俺ならそうだな………カウンターをするように誘ってから釣ってその後から一気に角や龍で爆撃、その後銀と桂馬で攻め込みつつ退路を狭めてからの香で狙撃……かな」
そう語る晴明はそれなりかな、何て言いながら扉の方に目を向けた。
「そろそろだな」
そしてその言葉に応えるかのように扉が開くと彼女は心底嬉しそうに笑顔で晴明に元に駆けてきた。
「せ~んぱい、ご褒美下さい! 出来ればキスとか希望です! あ、でもぎゅっと抱きしめてもらうのもそれはそれで………えへへへへへ」
「これがなけりゃ締まるんだがなぁ」
そう呟きながら晴明は珠代を捕まえて控え室から出て行くのであった。