九頭竜 八一の前に現れたのは将棋界の修羅。溢れ出す殺気は対局している訳でもないというのに八一の身を震え上がらせるのに十分のものであった。それまで感じていた苛立ちを吹き飛ばす程に今の八一は呆気にとられてしまっている。
「い、戦部二冠、どうしてここに…………」
戸惑う八一に晴明は何を言っているんだといった雰囲気を出しながらニヤリと笑って答える。
「どうしても何もさっき言ったばかりだろ? 殺し合おう(指そう)ってな」
既に指す気に満々な晴明、そんな晴明にどうして良いのかわからず混乱する八一。意思疎通が上手くいっていない二人を見かねてか珠代が申し訳無さそうな顔をしながら提案を出す。
「取り敢えず九頭竜先生言うのはどうかと思うんですけど、お宅に上がらせていただけませんか?」
「あ、あぁ、それもそうですね。どうぞ……」
こうして九頭竜八一の自宅へと入った晴明と珠代。そんな二人が見たものは………。
「うわぁ~、せんぱいの部屋みたい」
「おい、ちょっと待て。いくら俺でもここまで汚くないぞ」
二人の目に広がったのは散らかり放題の部屋。足の踏み場もない程に辺りを埋め尽くすのは紙だ。それも書かれている物を見ればそれが棋譜であることが直ぐにわかる。そんな部屋の中心に置かれているのは足付きの将棋盤。その近くにおかれているノートPCが映しているのは過去の名人の戦いの記録。端から見て将棋の勉強にどっぷりと集中していることが窺える。
そんな部屋を見た上での二人の感想がそれであった。晴明の部屋に入り浸っている珠代からしたら見慣れた光景であり、それを片付けるのもまた彼女の役目であった。そして晴明は自分はそこまで散らかしていないと抗議するが奥さん?こと珠代からしたら大差は無いのだとか。
そんなわけで不服を感じる晴明と見慣れた光景にどこかホッとする珠代。八一は精神的に追い詰められすぎていて客人を持て成すことすら気付かず、二人が来たことに関して聞こうとしていた。彼からしたら正直今は誰にも会いたくない。自身は今、まさに瀬戸際なのだと理解している。負ければ竜王のタイトルを奪われる。そうなったら自分はどうなってしまうのかわからない。それが怖いからこそ彼は必死になって勝とうとしているのだ。寝る暇なんて無い。少しでも名人を研究して絶対に勝たなくてはと脅迫に似た感情に支配されている。
故に今の八一は幽鬼そのものであった。それは誰が見ても明らかであり顔色の悪い。そんな八一を見て晴明と珠代はは顔を見合わせる。
「せんぱい、私はこっちのほうやっておくんでお願いしますね。あ、九頭竜先生、勝手に冷蔵庫の中を使わせてもらいます。勿論抗議は認めません」
「あいよ、もとよりこっちもそのつもりだったしな。それよりお前こそ変なもん作るんじゃねぇぞ。もし食わせて体調壊しましたとかなったら洒落にならん」
「あ、ひっどい。この間ジンジンから野菜炒めのお墨付きをもらいましたよ~だ。そんなこというせんぱいには作ってあげませんよ」
「それでいらないって言うとお前は拗ねるだろうが。わかった、精々美味いもんたのむよ」
「さすがせんぱい、良くわかってるじゃないですか。えへへ、頑張って作りますね。せんぱいのために」
「いや、俺はついでだろ………」
八一そっけのけで行われる会話に八一が何とも言えない顔で声をかける。
「あ、あの~………」
「ん、あぁすまん。本題を話さなきゃな。珠代はさっさといってこい」
「はぁい」
八一に声をかけられた晴明はこほんと軽く咳払いをした後に珠代を台所へと向かわせると改めて八一へと向き合う。自分で話の腰を折ってしまっている辺りが場の雰囲気を壊しているからなのか、若干殺気が薄れていた。
「でだ、竜王。何で俺がここに来たのかといえば………正直気に食わないから来た」
「気に食わないってそれは一体?」
殺気が薄れようとそれでも凄まじいことにはかわりない。だからこそ、殺気を発する目で見られた八一は若干怯えつつも睨み返した。晴明が何を言いたいのかはわからない。だが、何かしらはあるのだろう。それも今の八一を否定するような言い回しだ。故に八一の言葉にも険が籠もる。
八一の表情を見て晴明はニヤリと笑みを深める。
「良い面だ。今にも食ってかかりそうな狂犬みたいな面をしてる。悪くねぇ殺気だ」
「今の俺には時間が無いことわかってますよね」
晴明の態度に更に苛立ちを隠せない八一は険悪な雰囲気を醸しだし、そんな八一を見ながら晴明は更に殺気を強める。
「だから色々やってるってのは見りゃわかる。だから戦争しに(指しに)きたんじゃねぇか。奨励会員じゃ役不足だって言ったんだろ。だったら俺ならそうじゃねぇだろ。なぁ、竜王」
そういう晴明の目は既に臨戦態勢。ギラギラと殺気輝く瞳に睨まれた八一は背筋から震え上がる。
つい先程空 銀子相手に研究会など無駄だと言って追い出したばかりだ。それを見ていたのだろう。故に出た言葉なのはわかったのだが、正直銀子とは桁が違う。片や奨励会員、片や二冠のタイトルホルダー。しかもA級棋士でその実力は名人に勝るとも言われている存在であり、実は名人の弟子であるということも一部の人達から知られている。まさに研究会をするにうってつけであった。まぁ、名人とは棋風が違いすぎて研究と言う意味ではあまり参考にならないのだが。
だが今の八一は藁にも縋る状態だ。こうして少しでも研究する機会があるのなら八一は躊躇うことなどなかった。
「いいでしょう、指しましょうか」
「いいねぇ、そうこなくっちゃな」
これが何局目の対局か八一は分からない程に精神を乱されていた。
「おいおい、どうした。こんなもんなのか、竜王ってのは」
対面する晴明に煽られるが今の八一はそれどころではない。何処を指しても返り討ちに遭い、どんなに策を仕掛けても予想外の方向から崩される。どんなに足掻いても叩き潰され続ければ落ち込んでいるメンタルなど更に低下することはいうに及ばず。煽りに対し反論する気力も無いほどに打ちのめされ絶句する八一。
実際にした対局回数はまだ4回程しかない。その全ては晴明の圧勝で終わっている。晴明からしたら軽くで時間も一時間と少しというところ。だが濃密な時間を過ごす八一からしたらどれくらい時間が経ったのかも判断出来ないらしく、顔色が更に悪くなったような気がする。
そんな八一を見て晴明は軽く溜息を吐く。落胆が少し込められたそれは八一の精神を更に抉った。
「ほれ、もう一局いくぞ」
気軽にそう声をかける晴明。そんな晴明に促される八一は耐えきれずに晴明に叫んだ。
「一体何がしたいんですか! こんなのただ俺を嬲るだけじゃないですか! 何がしたいんですか貴方は!!」
追い詰められた八一は体裁も何もないままに叫ぶ。そんな八一に晴明は軽く後頭部を掻くと面倒臭そうな顔をしつつ答える。
「逆に聞くが、お前さんは何を考えて指してるんだ? まさか何も考えていないなんて事はねぇだろ。大方名人と比較でもしてるんだろうがな」
「それは!……まぁ、否定しませんけど。でも俺には今ソレが必要なんです!」
「気持ちはわからなくはねぇがそれは俺に失礼だろ」
そう言われ黙る八一。言っていることはもっともなのだが、そもそも晴明はそんなことなど思っていない。対局した感想は悪くはないがその程度。肝心な部分がわかっていないからこそ苛立ちを感じていた。だからこそ、さらに指す。
再度対局する二人。静かな室内に響くのは駒が動く際に鳴らす音のみ。パチパチと静かに鳴る中、晴明は本来であればマナー違反であるお喋りに興じることにした。
「お前さんは今回の名人との対局、どう感じた?」
その質問に八一は顔を顰めながら答える。
「正直怖くて仕方ないです。まるで自分のこれまでの全てを否定されたみたいな感じがして………」
「そうか」
返事を返しながら駒を動かす晴明。その表情は変わらず八一の心情を慮ることもない。
「どうしてお前が俺にこうして手も足も出ないかわかるか?」
「それは貴方が強いから……」
「それは理由にならねぇよ。名人と戦ってるんだからな」
「ぐぅ……なら何で……」
互いに駒を動かしながらでの会話。晴明は盤上を見たまま静かに話し、八一は盤上と会話の二つに混乱しそうになるを堪えながら駒を動かす。
盤上はやはり晴明の有利。まだ王手までは見えないがいずれは詰みとなるだろう。それがわかる八一は何とかしようと躍起になる。このままでは負ける。勝ち負けに関係ないはずなのにそれに敏感になってしまっている。負けてはいけないと自身が脅迫観念で責められる。
鬼気迫る表情で苦しそうに指す八一に晴明は呆れながら話しかける。
「逆に俺からしたら何でそこまで追い詰められてるのかわからんよ」
「何でって、負けたらもう俺は竜王じゃなくなる。そうしたらもう!」
晴明に言われて八一は怒る。負けたらもう自分は竜王ではなくなる。そうなってしまったら自分に価値なんてもうないと八一は思う。竜王でなくなれば八一はただのC級棋士。プロではあるがそれでも下の方に過ぎない。
と、そんなふうに考えている八一に晴明は尚呆れた。
「別にいいだろ、タイトルなんて」
「はぁ?」
晴明の言葉に八一は理解出来ない様子を見せる。それはそうだ。何せプロ棋士にとってタイトルとは目指すべき終着点の一つ、見ての通り冠にして最高の誉れ。誰もが夢見て喉から手が出る程欲しいものだ。それをどうでも良いと抜かす晴明は普通じゃない。
そう考えている八一に晴明は苦笑する。
「俺からしたらタイトルなんてオマケにすぎない。あんなもんは戦った結果についてくるだけのもんだよ。それに価値なんてない」
晴明にとってタイトルなんてそんなものでしかない。戦争を楽しんで結果勝てばタイトルがついてきた。それこそ食玩のおもちゃくらいの意味しか無い。何せ彼にとって戦争(将棋)こそが本命でそれを楽しむことこそが本懐なのだから。
反論しようとする八一に晴明は駒を動かすことでそれを制する。
「最初の問についてだが、感性なんて人それぞれだ。誰もが否定しようが自分がそれを貫いてるんならそれでいいんだよ。あの人は別にお前さんを否定したわけじゃない。そう感じるってことはお前さんが勝手にそう思ってるだけだ。自分自身でブレてたらそりゃ勝てるわけもないだろ」
真っ直ぐ見られながらそう言われた八一は呼吸をするのを忘れそうになった。晴明のその視線はまったくブレないその精神をそのまま表しているようであった。
「次の問、何故勝てないのか? それこそ答えは単純だ。お前さんは将棋を何で指してるんだ?」
「え、それは………」
その問に八一は直ぐに答えることが出来なかった。何故自分は将棋を指しているのか、その原点回帰の答えが直ぐに出なかった。
「その答えが一番重要なのさ。まぁ、その答えは本来自分で気付くもんだし当たり前のもんなんだが………今は時間がたりないな。だからこの後答え合わせをしてやるよ」
晴明はそう語ると八一を見つめる。その目は殺気でギラギラと怪しく輝いていた。
「だがその前に落とし前とケリはつけないとな。だからまぁ、その腑抜けを正すためにも………お前は『根切り』だ」
「ッ!?」
そして八一は宣言通り『根切り』されその盤上にて全滅した。
王手を詰まれた光景を見て唖然としている八一に晴明はのんびりとした様子で八一に先程言った答えを口にした。
「んじゃ答え合わせだ。答えは…………楽しんでいるかだ」
「楽しんでいるか?」
晴明は当たり前のように答える。
「何で将棋を指すかなんて楽しいからに決まってるだろ。こんなに楽しい戦争はそうはない。だからだよ。今のお前さんは勝たなきゃって追い詰められてガチガチになりすぎだ。楽しい将棋で苦しんでりゃ意味なんてねぇだろ」
「それは………そうですね」
言われてみればすんなりと入ってくる言葉に八一は内心驚いていた。さっきまであった焦りが何故か霧散していくからだ。
「だから俺にとってタイトルなんてもんは楽しんだ後のオマケなんだよ。タイトルが欲しいから指してるんじゃない。楽しみたいから指してるんだ。その結果の勝ち負けなんてもんはどうでもいい。楽しけりゃそれでいいのさ」
随分と刹那的で楽観的で快楽的な思考に八一は苦笑してしまう。あぁ、この人はそういう人なんだと。他の棋士とはまったく違う精神の懐の広さに感心してしまう。
「それにな、確かに対局中棋士は孤独だっていう。周りからしたら誰からも助けを得られないとか言われてる。でも俺からしたらそんなもんは違う。こんなに楽しい愉しい戦争を独り占めできるんだぞ?楽しまなきゃ損だろ」
「は、ははは。そりゃ勝てないわけですね。そこまで楽しんでる人に勝てるわけない」
「言っとくがあの人も似たようなもんだぞ。俺もあの人も楽しみたいだけなんだよ」
その答えに互いに噴き出すように笑ってしまう。それまで張り詰めていた雰囲気が霧散しほのぼのとしたものへと変わった。なんだか悩んでいるのが馬鹿馬鹿しいと。前向きに考えれば竜王になる前に戻るだけなのだと考えれば気も楽になるものだと。
そう考えることが出来た八一に晴明は笑いながら言った。
「竜王、楽しめばいいんだよ。将棋を楽しめ、戦争を、殺し合いを、命の削り合いを全身全霊で楽しめ。それだけでいいんだよ」
「そこまで物騒じゃないですけどね。でもわかりました」
「んじゃもう一局いくか。今度はもっと歯ごたえを感じさせてくれよ」
そして再び対局しようとするふたりだがそれに待ったをかける声が響いた。
「その前にご飯です。ちゃんと食べてから指しましょう。その前に九頭竜先生は銀子先生にちゃんと謝って下さいね」
晴明の嫁………珠代によってご飯を食べることになった。味について晴明から文句が幾つか出たがそれでも欠食していた八一にとってそれはごちそうであり夢中になって食べていたという。