第一話は、戦闘中の塹壕が舞台のお話です。
俺とヴィンセントは塹壕の中にいた。
血の匂いでムッとするこの塹壕は今にも崩れてしまいそうだ。
息苦しい。
だが、息苦しさは煩わしさに直結しない。
もう慣れてしまったからだ。
血の匂いにも、このような危機にも。
折り重なって倒れている肉体の群れの向こう側で、もぞもぞとうごめくものがあった。
ほかにも生きている奴がいるのだろう。
だが確認するすべはない。
今はただやり過ごさなければ。
この状態をやり過ごさなくてはならない。
口をついて古い歌が出た。
日本にいたころ数度だけ聴いた歌。
タイトルも忘れてしまったが、「何もかも上手くいく」と英語で繰り返すだけの歌。
つまらない歌だ。
だが、この状況には似あっている。
本当に、上手くいくといいが。
隣を見ると、ヴィンセントがごつい髭面をくしゃくしゃにつぶして笑っていた。
「歌っているのか? 異世界人はお気楽だな」
俺は苦笑した。
日本からの転生者である俺からしたらお前らの方が異世界人だ。
だが、ここにおいては、俺のような転生者の方が少数だ。
彼ら大多数から見れば異質なのは俺の方だろう。
と、その時。
塹壕の上空を赤い光が覆った。
炎の上位魔法だ。
矢のように鋭い火の玉が頭上を飛び越えていく。
それは我々のいる塹壕を狙ったものではなかった。
もっと後方の市街地を狙ったものだ。
今頃市街地は焼け野原だろう。
まぁほとんどの住民は町を捨てて逃げた後だが。
焼いたところで何の意味もない。
俺は目を閉じた。
そしてそのまま眠ってしまった。
数時間が過ぎただろうか。
折り重なった肉体の向こう側でもぞもぞと動いていた音はもう聞こえない。
息だえたのだろう。
俺は胸の前で小さく十字を切った。
キリスト教徒ではないが、カトリック系の私学で育った。
癖になっているらしい。
「相変わらずの余裕だな」
ぼそぼそとしたつぶやき声。
隣のヴィンセントはまだ生きていた。
「余裕ってわけじゃないさ。ただ、こういう何かをしなくちゃ精神の均衡が保てないんだ。俺のような日本人は弱いんでね。お前らみたいにタフじゃない」
「タフじゃない、か」
ヴィンセントがため息をついた。
いや。
ため息ではない。
抜けるようなこの吐息。
胸か肩に深い傷を負っているのか。
息が苦しいのだろう。
長くないかもしれないな。
そう思ってから、失礼な想像をした、と俺は思った。
ヴィンセントが、先ほどよりも弱々しい声で続けた。
声は徐々に弱くなっていた。
「俺はな、お前はタフだと思うよ」
「そうか?」
俺は言葉を返した。
会話に付き合ってやろうと思った。
この男はやがて死ぬだろう。
俺は異世界人など大嫌いだが。
最後の瞬間ぐらい優しくしてやるのも悪くはない。
それに、この男。
ヴィンセントはまだマシだった。
人型だが、頭骨に角を持ち、異様に発達した鋭い人差し指の爪を持つ種族「グシェラ」。
彼らは往々にして粗野で横柄であるはずだが、彼には人情味があった。
蔑まれ、家畜のように扱われている俺のような異世界転生者にも話しかけ、食料を与えてくれたりした。
簡潔に言えば「いいやつ」だった。
それはおそらく、この男が苦労人だからだろう。
ヴィンセントは、彼らの種族を特徴づけている優れた人差し指がなかった。
以前の戦闘で失ってしまったらしい。
そこには、骨ごと切り落とされたような痕があるだけだった。
「壊疽してしまって切るしかなかったんだ」
以前彼は、野営陣地で配給のスープを飲みながらそう言った。
「こんなことになっちまうと、もうだめだ。転落さ。使い物にならない。その結果が、こうして前線兵だ」
この国……エイスラントは、長い間の戦争状態に突入している。
東のグルスカ、南のラヴェルクという二つの国に囲まれ、いつも国境線を脅かされている。
時代が悪かったのだ。
魔力も何もない俺のような日本からの転生者は、この国においては捨て駒と同じだ。
右も左もわからず村道を歩いていると役人がやってきてひっとらえ、ほとんどが強制的に徴兵される。
拒否することはできない。
金を稼ぐすべも何もないのだ。
過酷な肉体労働や戦闘に投入されて死ぬまで、一応食事とベッドが配給される。
それだけでも満足しなければならないのだ。
一方で上級の種族に生まれたものは、その身体能力や知性に応じて立場や仕事が与えられる。
完全なるカースト制だ。
しかし、この国の制度は過酷だ。
ヴィンセントのように、上級種族に生まれた場合でも身体的ハンデを負った時には……容赦なく突き落とされる。
彼は指を失ってからは前線を転々として生きてきたらしい。
そして今、死のうとしている。
そんなことをぼんやりと考えていると。
聞き覚えのあるメロディが耳を撫でた。
この曲は……。
俺は音の方向を見た。
すぐ隣。
ヴィンセントが歌っていた。
なぜだ?
どうして?
それは、英語で歌われた、地球の歌じゃないか。
俺がついさっき口ずさんだ、「すべてはうまくいく」と繰り返す歌だ。
そんな馬鹿な。
俺はさっきほんの一部を口ずさんだだけだ。
なのにヴィンセントは、俺よりも正確に、すべてのメロディを歌っている。
呆然とした俺に向かって、ヴィンセントが不器用なウィンクをした。
「懐かしい。いい歌だ。お前とは趣味が合いそうだよ」
「どうして。地球の歌を知っているんだ?」
「どうしてって? 俺も地球人だからさ。生まれはメキシコだが。異世界転生者なんだ」
俺は首を振った。
何を言っているんだ。
頭がおかしくなってしまったのか?
死と直面して。
そんな俺の考えを見透かしたようにヴィンセントが苦笑した。
「嘘じゃない。この頭の角は、手術して埋め込んだだけの偽物だ」
「そんな、まさか」
「指だってそうだ。『グシェラ』になりきるために、切り落としたのさ。元の地球人らしい指を。2本とも」
ほら、見ろよ。
そう呟いて、彼は二つの手のひらを広げる。
そこには人差し指がない。
ないものの元の姿を想像することはできない。
それが、鋭い爪を持っていようとも持っていなかろうとも。
俺が答えられないでいると、彼の大きな手が俺の手を包んだ。
暖かかった。
まだ血の気は引いていない。
「理由は簡単だ。この世界では、異世界転生者は迫害を受けているからな。俺は、一緒に転生した友人を二人も目の前で亡くした。一人は無意味に鞭打たれて。もう一人は、慣れない土地の疫病に苦しんで。俺は逃げ出したのさ。西の森に潜んで、そこで違法滞在している連中に混じった」
聞いたことがある。
この戦乱に紛れて、本来の階級制から逃れた連中が森やら砂漠やらの僻地に群れなして潜んでいると。
「そこで金を稼いで手術したのさ。上級種族に擬態する手術をね。でも、結果はこれだ」
そこで彼はまたため息をついた。
今度は本当のため息だった。
「騙されたんだ。金を巻き上げられて。指のない「グシェラ」は、たとえ「グシェラ」と認識されても無意味だ。こうして前線行きだった」
俺はどういう表情をすればよいのかわからなかった。
こちらが答えないでいると、向こうもそれ以上話さなかった。
苦しいのだろう。
時折、沈黙にとぎれとぎれのかすれた息が混じった。
また数刻が過ぎた。
いや、ほんの数分かもしれない。
時間の感覚はマヒしている。
ヴィンセントの声が聞こえた。
「まだそこに、いるか?」
「あぁ。いるよ」
俺は答えた。
「お前、何か、夢はあったか?」
「夢?」
俺は少し考えた。
特に見当たらなかった。
日本にいた時、俺はただの高校生だった。
引きこもりに近い状態で、毎日のようにネットゲームに熱中していた。
PIXIVで漫画を読むのも好きだった。
コンビニの弁当も嫌いではなかった。
十分に満足していた。
特段の夢なんてなかった。
この異世界に転生してしまって、もうどれぐらい経っただろう。
あの現実社会の日常こそが、むしろまるで夢のようだ。
「俺は、夢があったよ」
ヴィンセントが独り言のように言った。
「どこかさ。青い海が見たいんだ。真夏の日焼けするような暑い日に。いい女を連れて。いい車に乗って。そんでさ、愛しあんだよ。思いっきりさ。白い砂の上で」
俺の脳裏に、地球のどこか、行ったことのないリゾート地の情景が浮かんだ。
不思議なものだった。
もう何年も前にインターネットで見ただけであるはずのそんな光景が、圧倒的なノスタルジアを伴って映し出された。
静かな青い海。
さざ波の音が、耳を心地よくくすぐった。
「いいな。素敵な夢だ」
俺はつぶやいた。
ヴィンセントは答えなかった。
それから先、ヴィンセントが俺に何かを語り掛けることはなかった。
俺は一人ぼっちになってしまったような気分を味わった。
むしろ、塹壕の中は狭いぐらいに人で満ちていたというのに。
物言わぬ、人だったものの群れの中で、俺はとうとう孤独になってしまった。
もしもここから出られたら。
青い海を見に行きたかった。
(完)