ココアさんやリゼと出会う前、おじいちゃんが亡くなった直後のチノちゃんは、どんなだったのでしょうか。
きっと、いろいろと悩んでしまっていたのではないでしょうか。

そんな彼女が、珈琲を淹れられるようになるまでを描いてみます。



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Before The Breaktime(珈琲閑話)

ココアさんどころか、リゼさんもいなかった頃のことです。

おじいちゃんを亡くした私は、心にぽっかりと穴が開いたような気分でした。

広い家にはお父さんと私だけです。

がらんどうの深いあなぐらに、かりそめの宿を借りてるような気持ちです。

もともとずっと住んでいた家だというのに。

人が減ってくると、空気が変わるのです。

母がいなくなったとき、ほんの少し空気が変わって。

おじいちゃんもいなくなってからはがらりと変わりました。

今はこの家は、他人の家のようです。

父は、あまりしゃべりません。

それは私も同じですが。

無口な二人のいる家は、時の止まった空間みたいです。

しゃべらないのは私たちのせいなのに、まるで私たちが氷づけの標本にされちゃったような気がします。

 

※

 

ある日のお昼のことです。

私は、誰もいないラビットハウスで一人ぼんやりと時を過ごしていました。

その日は学校が早く終わり、することが何もなかったのです。

お店は開けていませんでした。

私もまだ幼すぎましたし、働き手がなかったのです。

父は夜のバーテンダーのお仕事で疲れ果てていて、日中は眠ってばかりいました。

私は喫茶店のテーブルの上に自由帖を広げて、何をするともなく落書きをしていました。

魔法の喫茶店の落書きです。

その喫茶店ではコーヒーを入れておまじないをすると、願いかなうのです。

私はコーヒーの絵を書きました。

次のページにおじいちゃんが現れる絵を描きました。

 

からん。からん。

 

その時です。

喫茶店の扉が開きました。

私は驚いて顔を向けました。

白髪の、おとなしそうな初老の男性が一人立っていました。

暑い初夏の日でした。

白い麻のワイシャツを着たその男性は、ハンカチで汗をぬぐいながら言いました。

 

「あれ。まだ開いていなかったのかな」

 

どうやら、勘違いして入ってきたようです。

おじいちゃんがお店に立っていたころの常連さんでしょうか。

私は、勇気を出して言いました。

 

「すいません。お店はやっていないんです」

「え? そうなのかい?」

 

男性は驚いたようでした。

 

「昔、何度か来たことがあったんだけど。辞めちゃったのかい?」

「えと、その……」

 

私は言いよどみます。

こういう場合どこまで説明していいのでしょう。

 

「おひげの爺さんがマスターだったよね? 彼の淹れる珈琲が好きだったんだけど」

 

おじいちゃんを誉めてくれたその一言が、私の心を動かしました。

私は、この男性に事実を話すことにしました。

 

「そのマスターは、私のおじいちゃんです。先日、亡くなってしまいました」

 

事実を口に出すと、まだ少し胸が痛みました。

しかし、不思議と、嫌な気持ちにはとらわれませんでした。

それはきっと、この男性の独特の雰囲気があったからだと思います。

男性は、とても柔らかで紳士的な物腰をしていました。

声のトーンには何かを労わるような慈しむような趣がありました。

それに白髪の丁寧に撫で付けられた髪がほんの少しおじいちゃんに似ていました。

男性は、ため息混じりに言いました。

 

「そうか。もう、お年だったもんねぇ……」

 

そして申し訳なさそうに微笑みました。

彼は、広いラビットハウスの店内を見回しました。

 

「もったいないね。この素敵なお店が閉店かぁ」

「あの。父が、夜はバーを営業しています」

「そうなんだね。それはよかった」

 

彼は微笑みながら眉をゆがめました。

 

「でも、僕はお酒は飲まないんだ。あの珈琲をもう一度、飲みたかった」

 

そして、私に向かって問いかけました。

 

「君は、珈琲の淹れ方を知っているかい?」

 

私は、首を振りました。

 

※

 

首を振った私に、その初老の男性は微笑みました。

どうやら、どんなときでも微笑むことが癖になっている様子です。

もしかしたらずっと、つらいことばかりに対面して生きてきた人なのかもしれません。

微笑んでいないと、自分が押しつぶされてしまう。

そんな雰囲気の微笑みでした。

 

「まだ小さいから、教えてくれなかったのかな。君のおじいさん……マスターの淹れる珈琲は、本当に美味しかったんだ」

 

懐かしむように遠い目をします。

きっと彼は、かつてこの店で飲んだ珈琲のことを思い出しているのでしょう。

私はちょっとうらやましくなりました。

そこには、私の知らないおじいちゃんがいるはずです。

私が、あまり目にする機会を持たなかった、働いているおじいちゃん。

私の表情を、悲しんでいるのと勘違いした彼が言いました。

 

「気に病むことはないと思う。きっとおじいちゃんは、君がもう少し大きくなってから珈琲の淹れ方を教えるつもりだったんだ。少し、天に召されるのが早すぎたんだよ」

 

その言葉から、彼の思いやりが伝わってきました。

私は思わず顔がほころんでいました。

すると男性が、私の頭を撫でました。

大きくて、がさがさとした手でした。

無骨だけど、暖かい手です。

私は、目を細めて問いかけました。

 

「あなたは、珈琲の淹れ方を知っていますか?」

「僕かい?」

「はい」

「まぁ、多少はね」

「あの。教えてください……」

 

そんなことが口をついて出るとは、自分でも思いませんでした。

無意識ですが、やはり、このお店をこのままにしておくことについて、寂しさがあったのかもしれません。

言葉にしてから、見知らぬ男性に唐突なお願いをしたことの恥ずかしさがこみ上げて私はうつむきました。

 

「あ、あの。忘れてください」

 

すると彼は、少し悩むそぶりをしました。

 

「それは、僕の役目ではないと思う。けれども、君には何か、《きっかけ》が必要かもしれないね」

「きっかけ?」

 

私の問いかけには答えずに、彼はカウンタースツールの向こうを指して言いました。

 

「僕は素人だけど、淹れ方の手順ぐらいは知っている。教えてあげるよ。ただし、君のおじいさんの道具を使うことを許してくれたらだけどね」

 

 

そう言って、不器用にウィンクしました。

 

※

 

私たちは、カウンターの裏側に回りこみました。

男性は手際よく水回りを確認し、キッチン棚に収められた珈琲サイフォンを取り出します。

 

「豆の缶は……ここかな」

 

棚の上におかれた大きな朱色の缶を取り、カウンターに。

それを開けると、中には黒い珈琲豆がたくさん詰まっていました。

 

「失礼だけど、マスターが亡くなったのは?」

「……今年の6月です」

「それなら、まだ使えるかな」

 

そのときまで、私は珈琲豆に消費期限があることすら知りませんでした。

 

「この豆を見ると思い出すよ。注文ごとにマスターはがりがりと豆をひいていたんだ、一杯ずつ、律儀にね。僕はその音を聞くのが好きだった」

 

そう言いながら、カウンターの隅に置かれた手挽きミルを手元に寄せます。

ミルの上蓋を開けたとき。

 

「おや」

 

男性は一言つぶやいて微笑みました。

そして、がりがりと豆を挽いていきます。

挽き終わると、ネルフィルターを濾過器に丁寧に取り付けます。

続いて、やかんで湯を沸かし、お湯を珈琲カップに注ぎました。

 

「??」

 

不思議な顔をした私に、男性は言いました。

 

「こうしてカップを暖めておくんだ」

「そ、そうなんですか」

 

知りませんでした。

 

「お気に入りのカップはあるのかい?」

「えと……私は、シンプルで白いものが好きです」

「いい趣味だね」

 

男性は、たくさんあるカップから、艶のある白磁のカップを選びます。

それにも同じようにお湯を注ぎました。

 

「僕は、茜三島のカップを使わせてもらったよ。お気に入りでね。三島紋の瀬戸物は紫が多いんだけど、これは少し茜色を帯びていて珍しいんだ。ここに来るときはいつもこれに淹れてもらっていた」

 

なるほど。

カップにも人それぞれの好みがあるのですね。

それから男性は、フラスコにもお湯を注ぎました。

アルコールランプをフラスコの下に設置して、手際よく火をつけます。

なんだか理科の実験をしているみたいです。

ロートに先ほどの濾過器を取り付けると、そこに挽いておいた珈琲豆の粉を入れました。

そして濾過器の先から垂れたチェーンを慎重に、フラスコのお湯へと沈めていきます。

チェーンに伝い、沸騰したお湯の泡が立ち上ります。

男性は、それを見届けてからロートを差し込みました。

お湯がロートのほうへと上がってくると、木でできたへらでかき混ぜました。

火を弱めてしばらく待ち、抽出がすむと火を消します。

すると珈琲がフラスコに落ちてきました。

 

「お湯が行ったりきたり。魔法みたいです」

 

私は思わずつぶやきました。

 

「さて、出来上がりだよ」

 

男性が、私と自分のカップに珈琲を注ぎます。

 

「こんな素人が勝手に淹れちゃって、マスターが怒らなきゃいいけどね」

 

そう言ってまた微笑みました。

 

「きっとおじいちゃんは、怒ったりしませんよ」

 

私は淹れたての珈琲に口をつけます。

それは暖かく、柔らかな味でした。

私は、カップを机に置き、男性を見上げました。

 

「あ、あのっ」

 

私の言い出そうとした言葉をさえぎって男性が微笑みました。

 

「僕にできることはここまでだよ」

「あ、そ、その……」

 

私は、言い出せない言葉を飲み込みます。

 

「大丈夫。君のお父さんに訊いてごらん。淹れ方を」

「え?」

「さっきミルを開けたときにね、使用感があった。きっと夜のバータイムで珈琲を出しているんじゃないかな」

「そ、それって」

「今でもこの店の珈琲は、ちゃんと受け継がれているってことさ」

 

心の中が暖かいもので満たされたような気がしました。

あの無口な父は、珈琲のことを忘れたのではなかったのだ。

私は、自然と頬がほころんでいくのを感じました。

実のところ、私は。

おじいちゃんが亡くなってから、夜のバータイムを始めて、お昼の喫茶店を閉めてしまった父に、疑問を感じていたのです。

それは、最初は小さなほころびでしたが、徐々に私の心の中で大きくなっていました。

父は、おじいちゃんが大切にしていた珈琲をもう忘れてしまったのだろうか。

私にはよくわからない、ちょっと怖い、お酒と夜の世界に浸りきってしまったのだろうか。

この思い出のたくさん詰まったラビットハウスを、私の知らないお店に変えてしまうのだろうか。

そんなことを最近はよく、考えていたのです。

けれども、そのほころびは今、すっかりと消えていきました。

 

「よかった……」

 

私は、ほっと息をつきました。

そして、温かい珈琲に再び口をつけました。

 

※

 

気がつくと、私はテーブルに体を持たせかけて眠っていたようでした。

 

「あ、あれ?」

 

あわてて起き上がり、辺りを見回します。

一時間ほど経ってしまったのでしょうか。

ラビットハウスの窓から、夕暮れの茜色がさしていました。

 

「あの人は……」

 

男性はどこにもいませんでした。

それどころか、珈琲カップも、ミルも、フラスコとロートも。

すべて元通り、棚の中に戻っています。

 

「ゆ、夢?」

 

夢なのでしょうか。

私は、狐につままれたような気持ちになって、カウンターの向こうへと歩きます。

 

「あっ」

 

棚に並べられたカップの中に先ほど男性が好きだといっていた、淡い茜色のカップがありました。

それは綺麗に磨かれて、棚の中に鎮座しています。

私は、このカップのことをこれまでよく知りませんでした。

それが実在するのだから、やはり夢ではなかったということなのでしょうか。

 

「なんだ、チノ。ここにいたのか」

 

父がやってきました。

蝶ネクタイを丁寧に結び、タイトなブラックベストを、白いシャツの上に着込んでいます。

バーテンダーの服装です。

そろそろ、夜のお仕事の準備をするのでしょう。

私は、ふと思い立って、父に訊いてみました。

 

「あの」

「なんだい?」

 

父が優しく微笑みました。

父の表情を無表情ではなく優しいと感じたの久しぶりでした。

 

「夜のお仕事のときも、珈琲を淹れていますか?」

「もちろんだよ」

 

父は、あっけらかんと答えました。

 

「お酒を出す時間なのに?」

「お酒だけがバーのすべてじゃないさ。酔い覚ましの珈琲が好きだという人だっている。それに」

 

父は、私の髪をぽんぽんとたたいて言いました。

 

「親父が残してくれた珈琲の技術。忘れちゃったら悲しいだろ?」

 

そのとき、私の心の中で何かが決壊しました。

私は知らず知らず涙を流していました。

驚いた表情の父に、大丈夫だよ、悲しいわけじゃないよ、と意思表示をして微笑み、お願いしました。

 

「私、珈琲を淹れてみたいです。私に、教えてください。珈琲の淹れ方を」

 

父も大泣きして喜んだのは言うまでもありません。

 

※

 

その日の夜。

お風呂上りに自室への階段を上っていると、小さな白い毛玉がふわふわと後ろをついてきました。

アンゴラ兎のティッピーでした。

階段の途中で足を止め振り向くと、少し距離を置いてティッピーが私を伺っていました。

 

「…………」

 

しばらく二人無言で見つめあいます。

この兎は、最近父が飼いだしたものでした。

おじいちゃんが亡くなってから一週間ほどが経った頃のことです。

珍しく日中に父がどこかへ出かけていったと思ったら、ペットショップで兎を買ってきたのです。

私は、父が籠に入った兎を嬉しげに見せてきたその日。

むしろ不快感を感じていました。

どうしてそんなことするんだろう。

私が、動物に懐かれないの、知ってるくせに。

何の嫌がらせなんだろう。

そんなことを考えてしまい、拗ねてぷいっと顔を背けたことをよく覚えています。

それ以来、私はこの家に兎なんていないかのように振舞っていました。

兎だって私を嫌っているし、私だって兎なんて相手にしない。

そんな風に考えていたのです。

けれども。

それも、私の勝手な思い込みかもしれません。

父はきっと、おじいちゃんがいなくなって寂しがっている私のために、兎を買ってくれたのでしょう。

動物が懐かない私に動物を買ってしまうなんて、不器用で気の回らない父らしい失敗ですが。

私が、喜ばないから、いつも不機嫌そうだから。

なおさら父も無口になっていったのかもしれません。

 

私は、階段の途中でしゃがみこみました。

目線が近くなると、ティッピーは、またじぃっと私を見つめています。

動物の心の中はわからないけれど。

ティッピーはティッピーで、私に対してどう接していいのか、戸惑っているようにも見えました。

勇気を出して、私はティッピーに言いました。

 

「お、おいで……」

 

自分でも情けなくなるぐらいの小さな声です。

それでも、ティッピーがぴくん、と反応しました。

 

「こ、こっちにおいで。抱きしめてあげます」

 

もう一度、勇気を出してそう言って、両手を広げます。

すると、ティッピーが。

てってってっと、器用に階段を跳ねて上り。

すっぽりと私の腕の中におさまりました。

ふわふわの毛が、すごく心地よいです。

 

「す、すごい。柔らかいです」

 

私は思わず頬ずりをします。

こんなの、初めてです。

 

「ティッピー。ごめんなさい。あなたも、私のことを測りかねていたのですね。私と同じように」

 

そう言って、ぎゅっと抱きしめます。

 

「これから、お友達です。この広い家の、3人家族です」

 

するとティッピーは、嬉しそうに目を細めました。

 

※※※

 

その日から、私の日々は、少しずつ賑やかになっていきました。

学校ではマヤさんメグさんというお友達ができました。

珈琲を淹れることに慣れてきた私にお昼の営業を父が任せてくれるようになりました。

リゼさん、という素敵なアルバイトのお姉さんもやってきました。

今なら、わかります。

それは父の粋な取り計らいだったんです。

私が独りぼっちにならないように、知り合いの方の娘さんを、雇ってくたれたのです。

今はココアさんもやってきて。

みんなで騒がしく、楽しい日々を過ごしています。

あ、そうそう。

これは誰にも内緒なんですけれど。

なんと、おじいちゃんとも再会できたんですよ。

ティッピーにおじいちゃんの魂が入り込んだんです。

この町は、素敵で不思議なことがいっぱいです!

 

でも……。

 

あの日、私に珈琲の淹れ方を教えてくれた男性とは、あれ以来会えていません。

私の心の扉が、ほんの少し開くきっかけをくれた人。

白髪の、優しいおじさん。

もう一度、会えたらお礼を言いたいのですが。

ラビットハウスのお昼の営業再開の日。

私はがんばってたくさんチラシを配りました。

どこかでチラシを見て、あの男性がやってきてくれないかな、と思ったからです。

結局、来てくれませんでしたが。

私は、お店の扉が開くごとに何度も手を止めて振り返りました。

本当に、何度も何度も。

あの初夏の日の出来事は、夢だったのでしょうか。

私は、疲弊した心で、幻を見ただけだったのでしょうか。

それは、よくわかりません。

真実や事実というものは、いつもどこか霞がかった向こう側にあるからです。

けれど、ここは奇跡がたくさん起こる、素敵な木組みの町ですから。

きっといつかまた会えると思うんです。

ひょっこりと、ある夏の日に。

あの人が私のお店にやってくるんです。

 

「やぁ、頑張ってるね。笑顔になれて本当によかったね」

 

微笑みながら、そんな優しい言葉をかけてくれたら。

私は、たくさんのお礼の言葉を伝えたいと思っています。

 

 

 

 

(完)

 


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