市民会館の前に、一台の黒塗りの車が停車した。降りてきたのは、切嗣とセイバー。
時刻は午前十一時半過ぎ。概ね言峰綺礼が指定した時間通りである。というのも、妙な行動があれば聖杯――――つまりアイリスフィールに――自分は一切執着しないと言峰は手紙に記したからだ。聖杯の破壊。それは願いを叶えるべくこの戦争に参加した衛宮切嗣にとっては無視できることではない。
そのため切嗣は彼の意思に反して正面から市民会館へ向かうということをせねばならないのだ。そして、それを見張るのは。
「…………アストラ」
セイバーは思わずその名を口にした。
立ちふさがるように物陰から現れたのは、ダークスーツに身を包んだアストラだ。
切嗣とセイバーは足を止め、片や切嗣は言峰綺礼の姿を目線だけで探した。セイバーはアストラの顔を見て僅かな罪悪感をその目に滲ませるも、すぐにアイリスフィールを攫った敵として彼を見据える。
「さて、僕たちはどうすればいい」
切嗣がそう問うと、アストラは付いて来るように言うと左に向き直り、その先の地下駐車場へと歩き出した。
リズムの違う革靴の足音が三人分。アストラは背後のセイバーを警戒しつつ、セイバーはアストラの一挙一動を注視しつつ、切嗣は周囲にトラップがないかと必死に目を凝らしていた。
「アイリは無事なのか」
だが、地下駐車場へ徒歩で入るとなるとそこそこ距離は長い。居ても立ってもいられなくなったのか切嗣がそう聞いた。
アストラは彼女は英霊の吸収で衰弱している、と言った。
「その様子だと、あの男からいろいろと聞いたみたいだね」
わざと伏せていたのかなどと、分かりきったことを聞くアストラではない。切嗣が自分を戦力として以上には信用していないのは分かっていた。
それも協力している動機が"戦争が終わるまでの支援"という、利害の一致でしかなかったからだ。そのため、彼の"不死"を踏まえてランサー戦においては最も効率的な手段を取ったのだ。
もちろん殺されたことに不満はある。だが、切嗣の取った行動はわからないことも無い、彼らは"不死"ではないのだから。
アストラは切嗣に言った。お前は本当に切り捨てることで生まれる世界平和を望むのかと。
「……ああ。そのためなら僕はどんな汚い手段だろうが使う。味方を後ろから撃つことになってもね」
そう口にする切嗣の目には、彼の記憶が映っていた。過去に殺した者への思いが。
アストラは察した。この男は"世界平和"という理想を掲げる割には、ただの人間らしい精神をした男だったのだと。一重に言うなら、彼は自然にそう願うほど純粋すぎた。不幸を言うなら、彼には人を殺す才能があったことだろう。
精神と理想が乖離した存在であったという点では、衛宮切嗣と言峰綺礼は似た者同士なのかもしれない。
それを受けたアストラは言う。言峰綺礼はお前を、幸せをわざわざ切り捨てたお前を恨んでいると。
「アイリは本当に無事なのか」
恨んでいる。私怨に依るとなれば妻に危害が及んでいる可能性は高い。そう考えた切嗣は無意識に、高圧的な調子でそう発言していた。もしそうでなければ、と言った様子を含ませて。
だがそれをアストラは否定した。言峰はお前に話があると。
「…………聖杯ならそこにあるだろう。アーチャーたちと戦えとでも言うのかい?」
眉をひそめて言う切嗣。それをアストラは更に否定した。
そして、彼らの足はいつしか地下駐車場の入り口の中に入る。入り口から差し込む日光が頼りの、薄暗い空間だ。
目的地に辿り着いたアストラは一言、セイバーは残るようにと言いながら切嗣に奥の非常階段を指した。
「セイバー、後は任せたぞ」
無言で去るかと思われた切嗣は、意外にもセイバーに一言をかけた。彼がそう態度を変えたのも、より確実な勝ちにこだわった結果だろうか。
歩き去る切嗣を見送りながら、セイバーの体は光に包まれた。
「――はい、切嗣」
それも一瞬。瞬く間に水泡のごとく光は宙に消え去れば、甲冑を着につけ黄金の聖剣を握るセイバーが姿を表した。
聖剣の輝きは凄まじく、暗い立体駐車場が彼女の周りだけ野外のように明るい。
剣を消そうとも、実の間合いを相手には知られている。そして『風王結界』を開放することによる技もだ。ならば、刀身を隠す意味はない。
彼女のように、鎧をその身に。彼女の魂のように黄金の光はない。が、緑の燐光を散らせながら鎧と剣。そして盾は現れた。『上級騎士の鎧』と、『アストラの直剣』だ。
一度は壊れたこの鎧。かろうじて直されたとはいえ、胸から上だけでも肩当てが砕け、その割れた兜は顔が半分見えているといった具合だ。しかしこれでも『楔の原版』をその強化に用いた鎧。その強度は落ちているとはいえ、並外れたものであることに変わりはない。
盾に選んだ『紋章の盾』は単純に聖剣の魔力の余波対策。剣に選んだ『アストラの直剣』は、砕けた大剣の代用として一番取り回しに慣れた物だからだ。
「アストラ。謝らせてください」
互いに剣を握ったところで、セイバーが口を切った。
「あの時は、本当に申し訳ありませんでした」
そう言い、頭を下げるセイバー。剣をこちらに向けないそれは、あまりにも無防備な姿であった。だが、彼女が見えたその隙を突きはしない。――――足元にある『おれはやった』という文字が気がかりだったが。
とにかく"アストラ"は彼女の言葉に剣を向けずに答えた。サーヴァントは令呪に逆らえない以上、気に病む必要はないと。
そう告げれば、セイバーは見るからに納得がいかないといった顔をした。
「ならばなぜ、言峰綺礼へとついたのですか」
なぜアイリスフィールを攫ったのかという意味を込めて彼女は言う。
それに対してアストラは告げた。言峰綺礼と衛宮切嗣を引き合わせるためだと。きっと、これが言峰綺礼という男の人生を救う最後の機会だと。
「しかしあの男は聖杯を奪い合う敵だ!」
言峰には聖杯にかける願いなどない。そうやって得る願いなどではないからだ。
衛宮切嗣と話し、戦い、そして答えを得るのだ。
「万能の願望機で叶えるべきではない願いなど、いったいどんな願いというのですか」
言峰綺礼は幸福を幸福と感じれず、不幸を幸福と感じる男だ。魂の変形ともいうべきものは叶えてしまえば人が変わってしまう。
それを解決するには、自ら答えを掴むしかないのだ。そのあってはならない欲求にも勝る、感情を抱いた相手との何かによって。
「だからアイリスフィールを攫い、切嗣と戦わせようというのか!」
セイバーは語気を強めた。だが、アストラはそれに動じずに言う。
世界平和がどのような形で成されるのかは分からない。だがアストラが思いつく世界平和といえば最低でも悪人と呼べるものが全て死んだ世界だ。潜在的な悪人、例え善人として在ろうとした者すらも。
でなければ、一切争いのない世界平和などアストラには作れない。維持するとなれば人の心を変える事も含まれるだろう。
そんな不可能な願いを叶えるという聖杯。それによる世界平和。そこで言峰が生きられるか考えれば、"言峰綺礼"で無くならない限りありえないのだ。
「ですが……」
セイバーにもアストラがやろうとしていることは、一人の男を救おうとしているのだと分かる。だが、その手段をアイリスフィールを攫うなど選ばないところに賛同できないのだ。
アストラ自身もそれを理解している。自分のやり方は彼女からしたらただ敵のやり口と考えである。しかし、あの二人がここで死ぬとは思えない男である以上は譲れることではない。
お互いに、お互いが譲らないと知っている。そして退かせることができないとも、その場合の解決法とも言うべきものを。
「貴方を倒し、切嗣の加勢に行きます」
セイバーはアストラに聖剣を向けた。それに彼も応え、剣を構える。構えると互いに目つきが変わった。剣を振り、切り裂くべき相手を見る瞳に。
セイバーの構えは、腰を落として剣先を下に向けた構え。アストラは胸の前で盾を、腰のあたりで剣を構えた。
「衛宮切嗣」
中の物をどけた、だだっぴろい大道具部屋。そこに踏み込んできた黒い男の名を呼んだ。相手はこちらを冷たい目で見つめ、様子を伺っている。
言峰は続けた。黒鍵と呼ばれる柄から細長い刃を魔力で編み、足元のアイリスフィールに向けて。
「急な呼び出しですまなかったな。だが、こちらも人質が生きているうちにすませたい」
拉致される以前彼女の顔は蒼白と言ってもいい状態であったのだが、今では赤みがさしてむしろ幾分かマシになったようにも見える。これも治癒の魔術に長け、自身も凌ぐと時臣に言わしめた言峰の手腕と言えよう。
「私が問いたいのは一つだ」
眉を潜め、声を低くし、落ち着いた口調で彼は言う。
「お前にとって世界平和とはこの女を捨てるほどのものなのか。妻を捨て、子供を置いてきた家を裏切るほどのものか」
握りしめた黒鍵の柄が、妙な音を立てようとも言峰は力を一切緩めなかった。歯を食いしばる代わりにしたのだ。
だが、それを聞いても切嗣は応えない。言峰の黒い瞳をじっと見つめた。
彼がこの戦争に参加したのは願いを叶えるためであるが、アインツベルンは切嗣に聖杯を取らせて彼らが使うことを勝利としている。切嗣に願いを叶える権利はなく、世界平和を実現した結果も分からぬのに娘をそこに残して裏切ろうとしている。言うまでもなく大きな賭けだ。
「衛宮切嗣。聞かせてもらおう、お前の願いは今の幸せを捨ててまで願うことなのか。妻も子供も何もかもを、なぜ世界平和などという夢想のために全てを殺せる」
絞りたしたその問いに、衛宮切嗣は答えない。それが更に苛立ちを煽った。
そして切嗣の黒いガラスの瞳を睨みつければ、自分との違いを思い知らされた。写真で見れば自分と同じ深淵の目。だが、実際に見るとその目は、煤と泥に汚れただけのガラス球であった。それはまるで少年のような。
言峰は怒りで奥歯を噛み締めた。この男は顔も知らない誰かのために、一番大切な人を切り捨てるのだという確信が湧いたのだ。
「答えろ! なぜだ衛宮切嗣!!」
もう限界だ。血走った目で、唾を飛ばしながら言峰は叫んだ。
黒鍵の刃は一層鋭く大きくなり、アイリスフィールの喉元まで伸びる。彼女の珠の肌から、露のように一滴の血が滲んだ。
「分かった」
すると、切嗣は明らかに態度を変えた。こちらを警戒するものから、歩み寄るものへと。
「……僕の経歴については調べてるんだろう。だったら、アリマゴ島の事件のことも」
その問いに、言峰は無言で肯定した。
「あの事件の時、僕は薬で死徒になってしまった娘(こ)から逃げたんだ。気立ての良い優しい娘で、賢くて。すぐに自分がどうなるか理解して、そのナイフで殺してくれって縋ってきた娘から」
そして、何も知らない人々が多く死んだ。自分が逃げたせいで。大切な人一人殺せなかったせいで、何百という人が死んだ。
だからこそ、自分は大切な人であろうとも少数を犠牲にして多くの人を助けるのだと。
しかし、それを耳にした言峰は困惑した。彼が真っ先に想像したのは、自分ならどうするか。幼きころより聖堂教会を知っている言峰は間違いなく殺すだろう、聖職者として、代行者として。普通の少年なら不可能なことを成すだろう。
だが、切嗣の話を聞いて彼を襲ったは、"その光景を見たかった"という信じたくもない欲求だった。
「私は……」
怒りが後悔で塗りつぶされた。握りしめた拳からは力が抜け、呼吸もやや浅くなる。
しかし、熱と引き換えに落ち着きを取り戻した言峰は口を開いた。
「私も妻がいた。病弱と言っていい、そう長くは生きられん女だ」
脳裏によぎるはアルビノの白い髪とその匂い。そしてこちらを見つめる黄金色の瞳。
思い出すだけで■■に胸が締め付けられた。
「妻を取れば、子を持てば私にも幸せというものが分かるのではないかと思った。
だが、そううまくは行かなかった。最後まで幸せを感じることができなかった」
むしろ、殺したいと思った。
「お前は違うのだろう。ならばそれを捨てるな」
衛宮切嗣の世界平和がエゴだというのなら、言峰の持つ切嗣への憎しみも十二分にエゴの産物だ。
だからこその平行線。言峰は切嗣の信念を曲げることはできず、切嗣は言峰の怒りを止めることはできぬのだ。言峰はそう悟った。
「武器を取れ、とでも言うんだろう。言われなくとも」
まるで考えを読んだように切嗣はそう言い、キャリコを言峰に向ける。
言峰はそれに応じた。空いていた手にも黒鍵を持ち、袖の中の腕にぎっしりと刻印されている令呪を用いて大剣のような刃を編んだ。
彼の目は代行者の目に戻っていた。感情も冷静さを保ちつつ怒っているというベストの状態だ。
そして、アイリスフィールに向けていた黒鍵を切嗣に向けた。
瞬間、"背後から"の銃弾が言峰の胸を貫いた。
「がぁっ……!」
彼の胸から出た銃弾は黒鍵の刃を砕くと、方向を変えて床へと埋まった。
首だけ振り返ると、言峰が目にしたのは舞台側から侵入して来たもう一人の敵、久宇舞弥。
「悪いね、何もかも真っ赤な嘘だ」
口から血を漏らしながらも踏み出した言峰は、憤怒の表情で切嗣を睨んだ。が、そんな彼に容赦なく衛宮切嗣は引き金を引いた。